2-10:トカゲ、あるいは小さな爬虫類-b

 有限会社シュれでぃんガーは浜町商店街のすぐ近くの路地にちんまりドンといった感じでありました。店舗の規模自体は十坪にも満たないでしょう。ちんまりしています。しかし、店の外にまであふれ出す見覚えあるぱみゅ気はとても無視できない独特の存在感を放ち、昔ながらの商店の居並ぶ中でもその佇まいは堂々たるものでした。いわゆるアパレル・服飾関係のお店です。エメラルドグリーンの壁紙の店内にほとんどすし詰め状に洋服やアクセサリーの商品類が詰め込まれています。その隙間で、見覚えある緑の黒髪がせわしなくゆらゆらと揺れていました。暗い宇宙柄のワンピースの袖から覗く細い、生白い手首。
 彼女、幾つなんでしょう。
 結婚しているのです。私の苗字を見て、自分ももっとかっこいい苗字の人と結婚すれば良かったと、確かに。吉田ミズホの吉田は、旦那さんの姓なのでしょう。そして旧姓は錫原。少しばかり、少なくともこの街では、珍しいと言える苗字です。
 ミズホ氏が顔を上げ、私に気がつきました。少し怪訝な顔をした後合点がいったような、花開くような笑顔を見せました。私なんか一度出くわしただけの女です。それなのにこんな笑顔を見せる彼女はきっと心底いい人なのだと、あの日も思った記憶があります。ミズホ氏はたたんでいたTシャツを置いて、私のほうへ出てきてくれます。私の口からは当たり障りのなさそうな言葉がつらつらと飛び出ました。

「こんにちは、その節はどうも。近くまで来たもので、遊びに来てみました」
「あんたの気に入りそうなものはなさそうだけどね、うちの店」
「貴女に聞きたいこともあって」
「なに?」

 彼女は無邪気に笑顔を閃かせました。本当に無邪気に。

「錫原慶二さんのことを、貴女のお兄さんのことを教えて下さい」

 あまりに単刀直入に、私は切り出しました。人の心の内に土足で踏み込む行為。今回は明朗妄執のヤクザさんではなく、まだあどけなさを残すうら若き女性です。けれど良心の痛みというものは、私にとってあまねくうすぼんやりとしたものでした。そのときの彼女の表情をなんと表現したらいいのでしょう。確かに凍り付いたのです。でも、「凍り付いた」という言葉の与える少々ネガティブすぎる印象には少しそぐわないような。驚いてはいるのだけど、ほぼ赤の他人の私の口から兄の名前が出てきたにしてはそこまで驚いていないような。諦観のような。待望のような。

「…どうして?」
「私が知りたいからです。私が、私だけのために知りたいからです。この世に起こり得る出来事のほんの一つとして。私が、私が…」
「…なに?」
「わかっていたときも確かあったのに、今はわからない。だから、ぜんぶ知らないといけません。それしかありません」

 あの日貴女に出会ったのは私のための運命です。そして貴女のほんの通過点、幾年後にはその痛みすら思い出さなくなる些細な出来事です。




 どうしてはやく大人になりたいの。
「そんなこと言ったっけか?言ったかな。それこそ言ったろ?自分のやり方で生きていくって、大人にしかできないことなんだ」
 それってそんなに重要なことなの。
「白状すると重要だよ。俺みたいな境遇だと。お前だってそうだろ」
 なんで。
「…あと数年もすれば、お前も俺と同じように考えるようになる。境遇は違うけど、状況は同じだ、俺たちは」
 あんたと同じなんてやだよ。
「可愛くねえこと言いやがるこのクソ餓鬼」
 いやだようざったい。
「傷つくなー。でも、本当だ。一緒なんだ俺たちは。貧乏くじって言い直そうか。一緒だぞ俺たちは。でも心配するな。問題は、この状況をどう見て、どうするかだ。俺たちが責任を負うべきなのは、そこしかない。だから安心しろ」
 同じはやだよ。
「まだ言うかこいつ」

 (同じなものか。同じなものか。同じなものか。同じなわけがない)





 往路もすれ違う車すらなく、黙ってしまえばタイヤが路面をこする音が車内にまで届く。それほど悪路でもないのに、車がおんぼろなせいか数メートル置きに大げさなほど跳ねる。跳ねるたびにガシャガシャ言う後部座席が気になった。前回簀巻きにされて転がされた部分だが、いったい普段は何を乗せているのか。左方の切り立った湾に迫り来る夕闇も相まってなんだかぞっとしない。間違いなく居心地の悪い空気に満ち満ちているがどうしようもなかった。間に合わせの会話を繋げるような気分にはとてもなれなかったし、もとよりそんなものが渕屋相手に心地よく繋がらないことは先刻承知済みだ。ハンドルを握る渕屋を盗み見る。エキゾチックな彫りが深い影を落として表情すら計り知れないが、歪んだ唇だけでも全力で不機嫌が発散されている。
 なら余計不機嫌にしてやったって高がしれている、と俺は考えた。

「あれで“生きてる”?」
「…」

 渕屋はこちらをちらりとも見ない。ただ鬱陶しそうに、額にうねりかかる鼠色の髪を掻きあげる。よし、まだいける、と俺は判断した。

「あんな瀕死の状態に留め置くために…とても脚の一本賭ける価値があるなんて思えないが」
「同感だけど、逆に考えろよ。一個の死にゆく人間を、人間として遜色なく機能させるのにどうして脚の一本なんかで事足りると思えるんだよ」

 潰れたソフトのパッケージからタバコを一本引き出した渕屋は、唇を歪めたまま「火、つけてくんないの」とほざく。目は一瞬だけ俺を睨むように見た。同感と言うわりには大した目つきである。髪よりわずかに色味の薄い灰色の目は日本人じゃなかなかお目にかかれない色味だが、どう見てもヨーロッパあたりの血が混ざっている渕屋の顔立ちなら特段違和感はない。まず、人間としてあり得ない色じゃない。呉のごく薄い褐色の目。光を受けて色味を失い、濁る渦の中にわずかな黄色みだけを残す虹彩。
 渕屋はまだ呉が目の中にさえ人間味を宿していた頃を知っている。
 睨まれた一瞬、なぜかふとそんな直感めいたものが浮かんで、それはなんの確証もないまま確信に変わった。

「あの男の死を願う人間はごまんといる。同じように、あの男が生きているだけでいいと願う人間もたくさんいる。いいか、“生きているだけで”だ。“元気に生きていてほしい”じゃない」
「金か?」
「あらあら察しがいいなお役所さん」

 また俺の職業倫理の雲行きが怪しくなってきたのでノーコメント。

「青年実業家で、投資家で、あらゆる慈善事業の主催者で、そんでもって実家はヤクザの総本山。すごすぎだろ。みんなそう思うさ。片方ならいいんだよ。でもヤツは両方だ。お綺麗なところもどす黒いところもどっちも自分の好きにできる。それだけの力がある。パイプがある。なにより能力があった。大げさじゃなくヤツの挙動ひとつで、瞬き一つで損得が動く。それで、あのザマだ」
「…どういうことだ」
「ヤツはもう永遠に瞬きをしない。でも、死んだわけじゃない。結果的に、見島は平穏をもたらした。日向と日陰、どちらにも」





「義理の兄なの」

 ミズホ氏はアイスコーヒーに刺さったストローを意味もなく弄んでいます。てっきりキャラメルマキアートだのなんだのを好むのかと思っていたので、素っ気ないグラスを持って席に着いた彼女を見たときは少し驚いてしまいました。ちょうど仕事を上がる時間だという彼女を待って、私たちは最近できた喫茶店チェーンへやってきました。向かいに座った彼女は、私のような女に兄のことを話すのになんの抵抗もないようです。ややあって、唇を湿らせた彼女は「血は半分しか繋がってない」と付け足しました。

「あたしは後妻の子だから。歳だって離れすぎてるでしょ。確か10以上は…。もちろん一緒に住んだことなんかないし、そもそも会ったことだって数えるくらい。パパは勘当したって言ってたし。…まあ嘘じゃないかって思うけどね」
「なぜです?」
「パパは子供に甘いの。勘当なんか、できっこないって」

 それはあなたが女の子で、しかも歳をとってからの子供だったからそう感じるのでは?とは思ったものの、黙っていました。さすがの私もこの状況で水を差すような真似はしません。

「だから知ってることなんてほとんどないの。兄の話をするとパパは不機嫌になるし。普段は兄がいるってことも忘れてる。それでも、兄が五年前今の…眠ったきりになったときのことは覚えてる」

 図書館で絞り込んだ五年前の事故事件記事の中のひとつ、旧埠頭での崩落事故の中に、彼女の珍しい旧姓と同じ苗字を見つけたのでした。錫原慶二さん(33)が意識不明の重体。それなりに大きな記事だったのは、彼の肩書きが慈善事業をいくつも抱えた会社社長だったからでしょうか。それにしても会社社長がヤクザの息子だなんてなんだかとってもスキャンダラス…ああそれで、勘当したといっているのかしら。でも、そういう職業上の繋がりがあるのなら、某ヤクザさんとも繋がってくるかもしれないではないですか。これがまさに藁にもすがるというものです。

「あの事故って、本当に事故だったんでしょうか?」
「あはは!知らないよそんなの、なんかドラマみたい、アハ!」

 思いの外つぼってしまったようで、彼女はむせかえりながらコーヒーに手をつけました。細く真っ白な喉を鳴らしてコーヒーを飲み込むと、笑いの残滓が残ったままの中途半端な表情で話すのを再開します。

「パパは事故だって言ってる。あたしはそう言われたらそうだって信じる。でも見た。五年前のあの朝、あたしはまだ高校生で、自分の部屋で髪の毛をこう、結んでた。校則があったからさ…。まだ兄があんな状態になってるなんて知る由もなかった。そしたらなんだか、騒々しくなったわけじゃないんだけど、下の…あたしの部屋は二階にあって…下の空気が変わったなって思って…こっそり覗いた。なんとなく、誰にも階下を覗いてることがばれないように、こっそり。パパの背中が見えた。玄関に誰かが座ってた。座ってるのは車いすだって気付いた。車いすに座ってるのはあの義足のヤクザだった」

 思わず息を飲みそうになったのをこらえるのに必死でした。きっと高校生の彼女と同じように、同じ理由で、私はその鋭い息をこっそりと隠しました。彼女は気付かず、「そのときにはもう彼の右足はなかった」と付け加えました。

「彼はこのくらいの…ケースを床に置いてパパへ差し出した。それであたしは彼が何しにきたのか予想をつけたの、おそらく仕事に使う何か…お金でもそうじゃなくてもそういったなにかをパパに渡しにきたんだってね。そこでホントに遅刻しそうな時間になっちゃって、あたしは引き上げたんだけど」

 彼女が言葉を切り、私はもうほとんど呼吸をつめていました。いたいけな乙女の思い出を聞き掘り出すことで、私は捕まえなくてはならない真実に触れかけていました。待ちかねたその真実の鱗の目に見えるほどの質感に、私の喉奥は興奮でほとんどのたうっていました。五年前、見島氏が錫原の家を訪れた理由は、おそらく。ケースの中身は、つまり。

「あとになって知った。兄が事故にあったこと。一緒に暮らしたことも兄弟らしいことも会話もほとんどしたことない兄だけど、バカな妄想をした」

 ミズホ氏はほとんど飲み干したアイスコーヒーの中身をざくざくとつつき、溶け出す氷がごくごく薄いコーヒー色の水に浸っています。

「もしかして、あの朝。あんな朝早くに、あんな安っぽい車いすでたった一人でやってきたあの人は、なにかの落とし前をつけにきたんじゃないかって。だって、ヤクザだもん。なにか、人の親であるパパにとってとんでもないことの…」

 ミズホ氏が氷をつつくのをやめ、ふと私の目を真正面から見つめました。その吟味するような目の色に、私はなんとか平静を取り戻します。冷静になってみると、その目は私を吟味するというよりも、もっと漠然とした答えを探しているようなそんな目で、私の心臓をよくわからない痛みがちくりと刺しました。

「…なんて、他の噂よりもバカっぽい妄想だよね」





「見島とあの男がどういう繋がりなのか、どんな思い入れがあるのかなんて知らねえよ。興味もない。理解できないものを無理に理解することない、頭おかしいんじゃねえのって思ってるぶんには自由だろ、お互いに」
「ずいぶん殺伐とした自由だな」
「悪くないだろ」

 左側に切り立つ崖、右側眼下に暗い海の人気のない道を思いの外安全運転で行きながら、渕屋はやはり唇をゆがめる。悪くないというわりにはこの上なく不機嫌そうに。もはや不機嫌でないことのほうが珍しいし、ともすれば嫌いじゃないもののほうが少ないのではないか。

「…だから五年前、呉を使った」
「なに?」
「……そうじゃなくても使わざるを得なかったけど」

 いまいち要領を得ない。俺は渕屋にならってタバコに火をつける。渕屋が唇に挟んだままのタバコは、ちっとも短くならないし光りもしない。
 車内に幾度めかの沈黙が落ちる。弓削のことを考えていた。弓削の求める真実の一端に今触れているわけだが、これをそのまま彼女にもたらしてはたして彼女は本当に救われるのかという疑念が芽生え始めていた。時間の流れを失いもう五年も瀕死のままで居続ける男と、自分の脚を切り落としてまでその状態に留め置く男。どんな繋がりが、どんな思い入れがあるのかなんてそれこそ知る由もないが、それはいわゆる非常にプライベートで、デリケートな問題じゃないのか。実際に脚を切り落とした渕屋さえ知らないと言うのだから、それは間違いなく。そんな部分にずかずか踏み込んで知った女を、はたして無事なまま済ますものだろうか。ただでさえ、弓削はデリカシーに欠けるというかモラルに欠けるというか、人の繊細な心を理解しない向きがあるというのに…。

「呉は偽善者だ」
「…ん?」

 それは唐突な罵倒に、俺はいったん思考を打ち切ってやはり首を傾げた。それがある程度つきあいの長い気安さからくるいわゆるコミュニケーションのひとつのような罵倒なのか、心底からの罵倒なのか、相変わらず横顔しか見せない渕屋の表情からは全く読みとれない。それで奇妙なふうになってしまった車内の空気をごまかすように肩を竦めたりするから、らしくなさにいよいよ居心地が悪くなる。

「アイツは“いつだって誰にとってもイイヤツ”でいたいんだ。それこそ人類の良心の体現者でいたいんだ。自分がイイヤツだってそう思ってなきゃ救われないから、イイヤツなんだ。結構なポリシーじゃねえの。別にいいんだよ。よく言うじゃん、やらぬ善よりやる偽善って。偽善者が増えたところで誰も困らない。むしろ万々歳だろ?アイツが“イイヤツ”だから、アンタは今ちゃんと生きてそこに座ってる」

 俺が身体を紛失したあの夜、赤の他人の呉がそこそこ身体を張ってくれたおかげで俺は今健やかに生きている。それは重々承知済みだし、重々感謝している。どうやら渕屋にとって“偽善者”という言葉は別段罵倒というわけでもないらしい。と思いきや、危なげなくハンドルを握る彼は既に苦虫を噛み潰したような顔に戻っている。

「でも、偽善も行きすぎて自分の身を省みなくなってくると話は別だろ。考えても見ろよ。死にかけてる他人を自分の命と引き替えに救ったとしても、見殺しにしたとしても、失われる命は一つ。損害のトータルは変わらない。地獄なんか信じてるとまた話が違ってくるのかもしれないけどな、シンプルな話そういうことだろ」

 渕屋のくわえたタバコから、低温のまま燻された黒い灰が座席下の闇へ落ちていった。それで思い出したようにタバコを吸い込み、細く細く煙を吐き出す渕屋は幾分声のトーンを下げる。

「…呉はあんなだから、“イイヤツ”でいるのに思う存分自分を省みないでいられるってわけ。さぞキモチイイだろうよ。尻拭いすんのは俺だ。アンタのときだって」

 俺が尻拭いしてやっただろ、と渕屋は唸った。

「…アンタのときみたいに、アイツの身体には魂がないから他人の魂だって入れられる。アンタのときはたまたま無事に済んだけど、それって基本的にどんだけ無謀かわかる?」
「いや、」

 というかあの夜はすべてが無謀すぎて。

「血液型もなにもわからない他人の臓器を無理矢理移植するのと同じだって言ったら」

 絶句した。あの夜簀巻きの俺を運ぶこの車の中で、渕屋は呉の体を気にしていた。呉の言葉、魂は時間に対応するための「臓器」。そんなことを呉はああも飄々とやってのけたのか。というか、もしうまくいかなかったら俺のほうだって危なかったんじゃないか、その理屈だと。まあ文字通りおんぶにだっこで尻拭いまでされた俺が何か言えた義理ではないが。

「五年前、錫原慶二はあの病院ですでに瀕死の状態だった。見島の脚を切り落としてソッコーで魂を入れられればそれがいいが、まさかあの病院だってそこまでお人好しじゃない。誰だって責任は取りたくない。後の処理とか細かい手順も考えると、見島の脚は俺の店で切り落とさなきゃなんなかった。何かしらの不幸が起こって、どこでもない場所で失われたことに。そうなると問題が出てくる。病院から俺の店までどうやって錫原慶二の瀕死の魂を運ぶのか?大気に触れさせることなく。なにかに、入れなきゃな」

 どうしようもなく短くなったタバコを灰皿に軽く押しつける渕屋の声は、今や囁くようだった。俺の手にしたタバコが、ほとんど吸われないまま短くなっていく。

「ただじゃ済まないってわかってた。他人の、それも死にかけの魂。そんなもん入れたらただじゃ済まないってわかってた。だからやらせた、呉に。呉は断らないってわかってた。“イイヤツ”のアイツは俺の役に立ちたがるって。あのころの俺はうんざりしてた。俺には理解できない理屈で俺を巻き込んで“イイヤツ”の自己満足に浸っていたがるアイツに。痛い目見ればいいと思った。“イイヤツ”ごっこで痛い目を。それが意趣返しになると思ってた……痛い目だって?どうしてそんなことが思えたのか、自分がバカすぎてイヤになる」

 暗い絶壁の道に久しぶりの対向車が来て、ヘッドライトが強烈にこちらを照らす。車内が強烈に白む。渕屋の横顔も、シートも、俺の手の短いタバコも、ハンドルを握る白んだ手も。「呉は何と引き替えに、魂のない身体で自由に生きてると思う?」と呟いた渕屋の顔に浮かんだ奇妙な笑顔は、もしかすると自嘲だったのかもしれない。

「この世のすべての苦痛を足したところで、アイツが毎晩受けてる苦痛のほんのひとさじにもならないのに」




 蹴破られるようにしてドアが開き、アリエルが入ってきた。わかりやすく眉間に深い皺を刻んでいる。ほとんど抱きかかえるようにされているのは呉だ。ぐったりと力無く、アリエルの腕からのけぞった首がゆらゆら揺れる様を見て一瞬とうとう死ねたのかと思った。とうとう。死ぬわけがない。かすかに肩が上下している。嗚呼、勿論死ぬわけがない。アリエルは猛然とこちらへ向かってきて、食いしばったままの歯の隙間から声を絞り出そうとした。そうすることでなんとか声を低く、できれば笑顔を心がけようとしているようだった。こめかみに今にもはちきれそうな青筋が立っている。

「渕屋、悪ガキも大概にしとけよ。テメエこうなるのわかっててやりやがったな、そういう顔してやがる、クソが。なあ、渕屋、冗談じゃ済まねえぞ、なあ」

 どうなるかなんて確信はなかったが、ただでは済むまいと思っていたのは確かだ。死んだように弱々しい呼吸を辛うじて繋げ、めまぐるしく繰り返す老いと再生に生き萎びる細胞のもたらす地獄の苦しみを受ける呉を見下ろしても、良心の痛みよりざまあみろという諦観のほうがまだ大きい。本当に肉体のほうが傷つくのは久々だろ。懐かしかったり、するんじゃねえの。そんな思いのほうが大きい。とはいえ爆発寸前のアリエルを鎮めるために一応事実は告げる。

「マジになんなくても、死にゃしねえだろ」

 その瞬間額に衝撃が走り、視界が激しく明滅した。どうやら鎮めるどころか着火してしまったらしい。頭突きを受けてよろめく俺をアリエルが片手で襟首掴んで吊し上げる。もう片方の腕には呉を抱えているのに、馬鹿力が。

「死ななきゃなにしてもいいって話ならコイツは殺してもいいって話になるだろうが!!!…アタマ冷やせよ、テメエの人間性の問題だろ」
「アリエル…」
「黙っとけ!!」

 ガサガサに掠れた老人の声でつぶやいた呉を、アリエルは一喝して黙らせた。もとより黙らせなくともとてもそれ以上は喋れないようで、呉はそのまま唇を干からびさせていく。けれど垣間見た。呉は笑っていた。怒れるアリエルを窘めたいのか、この場の険悪な空気をただ笑って誤魔化したいのか。そうだよ。人間性の問題だろうが。けれどそんなものはそれこそ死活問題じゃない。だってそうだろう。確かにどこからどう見ても人間である限り、人間性を問題にするのはほんの戯れに過ぎない。
 人間性を問題にするのは、人間の括りからあぶれそうになってるものだけだ。
 人間性を求めて人間離れしていくなら、それほどばかげた話はない。

「渕屋、時間がない。切り落としてる最中に千ヶ谷にここを突き止められてみろ、2分と保たないぞお前、保証する、僕が」

 診療台のあるビニルカーテン奥から、場違いに明朗な声がした。笑い声までオマケする彼を、狂気じみていると表現すれば世間は賛同してくれるのだろうか。アリエルの手を振り払い、息をついた。ひとつ、ふたつ。カーテンを開ける。生まれて初めて寝かされたシーツに横たわるかのように、なんの不穏も兆候もないなめらかな表情でその男は目を閉じている。

「5分は粘るよ、千ヶ谷相手なら」
「いいや、2分だ」

 俺の軽口に、軽口か本気か戯れ言かもわからない声音で返して、見島は片目を開けた。

「情けを掛けられた上でね。安心してくれ、そうなったらちゃんと千ヶ谷のことは始末してやる。脚の失い損だからな…」

 ホントに、やってらんねえ。嘘だ。願ってもない。願ってもないけど。診療台に横たわる男を見下ろした。トカゲのしっぽでできたなら、きっと人間の脚でだって。その予想が確信と事実に変わるのだから、俺にとっても願ってもない、願ってもないことだけれど。診療台の上で今や両目を開いた男を見下ろした。ここにはないものに妄執している人間特有の、なにもない中空に焦点を合わせた目をしている。地球上どこを探したって、なんの思惑にもしがらみにも囚われない肉体はない。そう思い知るたびに、相対するのはいつも人間と人間であることにほとほと嫌気が差し始める。妄執の片棒なんて、よほどのことがないと担げないだろう。

「麻酔なんてないけど。たった一回しかないチャンス、条件はあの小さな爬虫類とできるだけ揃えておきたいだろ」

 そして自分がもっともそんな人間らしいと思い知るたびに。純然なひとつの感情だけを持ち得る人間はいない。愛情には嫉妬と羨望が、憎悪には畏怖と寂寞が、いつも数滴から数リットルほど平気な顔をして混ざっている。

「どのくらい保つ」
「さあ。頑張って五年。アンタから切り落とした右脚がどうしようもなく腐り落ちるまでには。そしたら、どうすんの?アンタ。今度は左脚をやらせるわけ?」

 だから俺にそんな台詞を吐かせたのは合理性を追求する心だけじゃない。無邪気な残酷さだけじゃない。嫌気からくる意地の悪さだけじゃない。
 なにもない中空を見つめていた男はふと俺を見て目を細めた。どうでもいい子供に気まぐれに気がついて、口先だけで容易く宥め賺して言うことを聞かせようとする、そんな目だった。

「いい子だから、さっさとやるんだ、クソ餓鬼」





 しらべはアマリリス。いえなんとなく、そんな気がしただけですの。開け放した窓辺に置かれたベッドも、存分にはためくカーテンも、お約束のように強烈な陽光に照らされて白んでいます。この世に白以外の色で意味をなすものなどあるのかと思うほどに。
 
 ベッドに横たわる男の人は、この世界のなによりも生白い顔をしています。右脚があるべき場所は、ごく自然な斜線を描いて無を描いている。

「」

 彼がなにごとかつぶやきました。かすれているし、声は小さいし、そもそも人に聞き取ってもらうことを想定した声ではないので何を言っているのか判然としません。
 では、もう一度。

「これでうまくいくかな」

 すべての努力が正しく実るなら、神様なんて要りませんね。人間である必要もないでしょう。でも遍く正しく実ることが重要ではないものなんですのよほほほ。満たしたいものによっては、正しくないほうがずっといいことだってあるのです。だって、人間なんだもの。生まれたはしから原罪を背負っているような人間風情。でも幸いなことに哀れで愚かな生き物ほどカワイイものですし、正しい者にも正しくない者にも同じように太陽は注ぐのです。

「うまくいかなかったら、どうだっていうの」

 聞こえたかどうかなんてわかりません。これも自己満足のうち、自己満足って軽んじられる傾向がありますけれど自己満足のない人生にいったい何を望めるというのでしょう。自分さえ騙しきれば途方もない人生だって生きていくのは容易いのです。
 右脚のない男の人は白んだ世界で微睡むように目を閉じました。生まれてはじめてすべてが満たされた子供のように。叶わなくたってどうぞ悲しみにくれないで。私が祝福してしんぜよう。あなたは異次元の悪神によって祝福され、この上なく満たされています。




 車内は再び静寂に満たされていた。先ほどようやく一台現れた対向車さえ、黒い車体を影のように滑らせ音もなくすれ違っていった。渕屋はしゃべりすぎたと思っているらしい。時折鼻を鳴らす他はもううんともすんとも言わない。これ以上機嫌が悪くなられてもいいことは一つもないので、そろそろほうっておく。命短しタバコも灰芥と燃え尽きて、俺は想像した。

 もしも自分だったら。

 もしも、自分の身体の一部を失うことで、誰かの命を失うことを阻止できたら。
 その誰かが自分にとって“何者”だったら、俺は見島のように躊躇いなく身体を差し出すだろうか。
 死から救った。死んではいない。ただ死の瞬間を永遠に先伸ばしにしているだけ。しかもその永遠は彼にとっては一瞬だ。実際彼は死に瀕している。見島が躊躇いなく切り落とした自らの脚に彼の魂を閉じ込め続けている限り。死に瀕し、生き返ることはなく、ただ死ぬことだけがない。それも時間の流れに浸かっている我々から見てというだけの話だ。

 それは究極のエゴではないか。
 「生きているだけでいい」と。
 それはおぞましいほどのエゴだ。

 俺は想像した。渕屋は見島たちに呉を会わせたがらない。会えば面倒なことになるからと。呉が魂もなく常人さながらにハツラツとしているその理由を知りたがる、時間を失うことで辛うじて死を免れている男がより“生きている”状態へ近づけるように。

 本当にそうか?

 「生きているだけでいい」と、そんなおぞましいほどのエゴを抱えた人間が、果たしてその人が再び以前のように起き上がり生き返ることに頓着するだろうか。生きているだけでいいなら、それはまったく問題ではないのではないか。むしろ問題なのは、どうやってできるだけ長く今の状態を保たせるかであって、右脚のタイムリミットが迫る今、今度は左脚を、左脚がダメになれば右腕を、順に切り落としでもするつもりなのか。それとも探しているのか。もっと、何かいい方法を***。
 それはなんとなくだった。なんとなく視界に違和感を覚えて、俺は想像を打ち切った。顔をあげてなおざりにあたりを確認する。相変わらず暗いばかりで人気のない前方も、相変わらず黙り込んだままハンドルを握る渕屋も、なにも変わったところはない。中断した思案にまた耽りかけて、ふとルームミラー越しに後方を見た。闇に沈むやたら広い後部座席とわずかに見えるリアウィンドウ。その向こうの外で、何かが海波の照り返す月光を跳ね返して光った。黒い車体。さっきすれ違っていった対向車じゃないのか。似ているだけの車か。運転しているのはどんな奴だ。戻ってきたのか。なんのために***。ルームミラーの中の黒い車体がぐっと大きくなった。一気に距離を詰めてきたのだ。いきおい運転手の姿もはっきりする。座っていてもわかるガタイの良さ、撫でつけたたてがみのような髪の毛***さっき渕屋の店で彼を吊るし上げていたヤクザだ。

「渕屋、***っ!!!」

 あげかけた声は衝撃と破壊音にかき消された。静寂を切り裂く破壊音。巨人の手に身体を掴まれて無茶苦茶に揺さぶられるような衝撃。
後ろから追突されたのだ。前に吹っ飛びそうになるのをダッシュボードに突っ張って耐える。耐え切って後ろを確認すると、先ほどよりは距離をとってしかし付かず離れずついてきている。もう一度突っ込んで来る気か。

「クッソいってぇ!!」
「オイ、たぶんもう一発来るぞ」

 ハンドルに額から突っ込んだ渕屋が唸りながら顔を上げ、脇見運転ここに極まれりといった大胆さで身体ごと振り返る。恐らく追突車の運転手を認めた顰め面から一瞬表情が消え、「千ヶ谷、」と吐息にも満たない声を漏らした。
 黒い車が再びスピードを上げる。マジで来やがった。追突される瞬間、渕屋は車体を思いっきり左側へ寄せる。狭い道、完全には避けきれず一度めよりは軽い衝撃と音が走る。恐らく右のテールランプ辺りにかすったのだろう。バランスを崩した車体はがりがりと左手の岩肌に接触してつんのめる。と言っても右手は絶壁の奈落の海だ。断然マシである。

「バッカじゃねえのアイツ!!」

 渕屋はシンプルに悪態をついた。全くもって同意である。車に車なんかぶつけたら事故ってしまうだろうと言ってやりたい。

「停まってほしいんじゃないのか」
「だろうね!」
「停まってやんないのか」
「アンタさっきの、吊るし上げられてたの見たよな?停まるわけないだろ」
「殺す度胸なんかないって」
「この状況でそれ言う?心境の変化があったとしか***ッッう!!」

 三たび衝撃が走り、それは最も大きな衝撃で、もともとベコベコのワンボックスはさらにくちゃくちゃになりながら半ば横倒しになった。がりがりという音、バウンドするたびに走る衝撃、ちょっとヤバいんじゃないかという痛み、痛み、痛み…大丈夫、海に落ちるよりはマシなはず、マシなはず…肺を叩き潰されるような痛みに声を出すことも呼吸すらままならず、そのまま意識はぐぅっと暗く沈みこんでいく…。

 左側のタイヤのみで崖へ寄りかかるように半ば横転したワンボックスカーのとなりへ、何事もなく停車した黒塗りの車から男が一人降り立った。ベコベコに凹んだワンボックスの窓を割り、運転席のドアを開ける。うめき声を上げる運転手をなんなく引きずり出し、見下ろすその目からはどんな思惑も受け取れず、ただ冷たさだけがある。
 月明かりの下で、引きずり出された男は額から血を流し、どんな表情もせず見下ろす男を見返していた。見下ろす男が口を開く。

「後悔したことはあるか?」

 見返す男が返す。

「…だとして、一ミリも関係ない。俺が後悔したことあるかどうかと、アンタの後悔とは。それがわかんねえ犬畜生以下の単細胞だから、アンタはまた後悔することになる。そして***」

 見下ろす男は表情のひとつも動かさない。

「そのとき俺はアンタに殺されるんだろうな」
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