■
『もしもし平池さん?まあまあ今日はそっちから会いにきたり電話してきたり、槍降っちゃうねこりゃ』
「…」
『どうせ渕屋に頼まれて*とか言うんでしょ?これからもどんどんかけてきていいからねっ、俺たちお友達だからさ*』
「…」
『…なーんて。もしかしてだけどさあ、平池さんじゃないっしょ、アンタ。だーーあれだ?』
「…弓削です。私のこと、覚えておいでで?」
『お姉さんこそ、やっっっと俺のこと思い出してくれたんだ?』
「…ええ」
『ていうかこれ、平池さんの携帯だよね?こんな時間に一緒にいて携帯貸りちゃう仲って、やっぱりお姉さん平池さんとそういう関係なの?』
「違うわ」
『即答て。笑うんだけど。じゃあ俺にもワンチャンあるねお姉さん』
「勝手に借りたんです。だから手短に話さないと…」
『わーお、そっち?そっちか*そういうことやっちゃうタイプか*お姉さん。そういう女の子、俺大好き』
「…」
『ごめん、ごめんなさい、もうこの話やめるから』
「私、どうして貴方のこと忘れてられたのか…あの日、あの喫茶店に平池さんといた貴方と会話だってしてるのに。名前だって…」
『ごめんね、大した名じゃなくて』
「名前に大したもどうしたもないでしょう」
『あるよ。例えば、忌み名とか。あるいは、呪いだったりして。“呉”っていろんな意味があるけど*例えばどういう意味があるか知ってる?』
「…知らないわ」
『そりゃよかった。…忘れてた件については気にしないでよ。ここだけの話、俺って“そういう人”にとっては認識し辛かったり、意識に残り辛かったりするみたい。人間を見分けるときに、自然と魂も一緒に見分けられるようなヒトにとっては』
「…魂?」
『すっとぼけちゃって*…お姉さん、何者なんだろうね?な*んて言ってみたり』
「…」
『うはははは!…あー、どうやって俺のこと思い出したのかは興味あるな』
「…図書館で、貴方によく似た男の人に会って。でもすぐには思い出せなくて。…顔とか雰囲気ではなく、ただ強いて言えば目だけ似てる人で…。それに、どことなく海のイメージがあったんです」
『…海?』
「波打ち際じゃなくて、深く暗い、暗い、闇の底のような、そんな未開の深海の―――」
『やめて』
「…貴方が興味があるって言ったんじゃなくて?」
『…ごめん、アンタの声って…。…いや、ていうか似てなんかないよ。ていうかてゆーかやっぱりアイツに会ったんだ。そっかあそれでね…』
「どういうご関係なんです?」
『内緒。なに?気になっちゃう?はあ*お姉さんのタイプってああいうジジくさい感じか*。取らないでよ?俺の生命線だから、あのヒト。ハッ』
「…それは魂の話と関係あるので?」
『それも内緒。プライベートな話はもっと仲良くなってからじゃなきゃ』
「…」
『ところで渕屋は?平池さんと一緒だったでしょ』
「いえ、平池さんは一人です。今、治療を受けてるわ」
『治療?え、なになにどしたの』
「ええ、車で事故にあったとか…全然趣味じゃなさそうな車ですけど。そのうえお医者様には酔っ払って階段から落ちたなんて話してます。ベタベタです。あやしさしかないわ。でも、松山の学校前の階段から落ちればあれくらいの怪我をする可能性もなきにしもあらず…」
『渕屋は?いないんだ?』
「ええ」
『…あーわかった、さてさて…』
■
■
マスクから覗く目が見るたびに呆れかえっているのが胸を刺す。無理もない、でもまさか怪我した本当の理由をペラペラ話すわけにはいかないだろう。あちらにはもちろんあるだろうがこちらにも社会的立場というものがあるのだ。俺のような職業はことさらそういうのに厳しい。とはいえとっさにうまい言い訳が思いつくものでもない。口下手じゃなけりゃとっくに解決してる問題はそれなりにある。そうしてひねり出したのが「酔っ払って階段から落ちた」だった。わかってる。ベタだ。ベタな上に判断ミスだ。端的に言えばしくっている。階段から落ちるほど前後不覚に酔っ払う、それはそれで社会的立場を危うくするのに十分な失態だろうが。コンプライアンスからはギリギリ逸脱している。その証拠に、救急外来の担当女医先生の目はごく冷ややかであった。
「じゃ、ここも消毒しちゃいますね〜痛かったら言ってください」
「いっ……ッ!!」
「ハイ我慢してくださいね〜」
対応も冷ややかだし、心なしか消毒液を含ませた脱脂綿を押し付ける手も乱雑だし。いや気のせいかも、こんなものかもしれないけど。
俺の名前は平池誠一、遅ればせながら。逆風満帆の公務員。なぜこうして治療されているかというと、身体を紛失するというあやしさ全開のキッカケとツテで知り合ったロン毛の男と一緒に魂のない男(※呉ではない)が収容されているあやしさ全開の病院(?)からベコベコのワンボックスで帰る途中、そのロン毛の男となんらか以上の因縁があるヤクザの男にやたら高級そうな車で追突されたんだ。3回も。念入りに。もともとベコベコのワンボックスは半ばひっくり返りかけたところをなんとか持ちこたえはしたが、さらにくちゃくちゃになりフロントガラスにもヒビが入った。それは俺の肋骨にも。ついでに身体を支えていた左手は脱臼した。その他諸々の打撲と擦り傷の痛みも合わさって俺は一瞬完全に気絶した。したものの、すぐさま渕屋に往復ビンタで文字どおり叩き起こされた。
(怪我人を叩くんじゃない)
「静かに。気絶したふりしとけ」
ふりもなにも気絶していたのを叩き起こされたんだが。という反論は口を塞がれていたために言葉にはならなかった。渕屋はまたぶつけたのか、額から血を流している。なんとなく身体全体がゆっくりと不規則に揺らぎ、目の焦点が合っていない。おいおいこれ、大丈夫か。脳震盪とか起こしてるんじゃないのか。
「呉には言うな」
この期に及んでそれか。流血も派手派手しくふらふらで、それでいて渕屋のこの呉に対する頑なさはなんなのだ。それから大人しくしてほしくて口を塞ぐのはともかく鼻まで塞いだら息ができなくなっちゃうだろ。そう訴えようと身じろいで呻けばさらに塞ぐ手に力を込めてくる。悪かった、今のは俺が悪かった、喋り出しそうに見えたよな。
「警察に言うのは…まあ言ったら困るのは最終的にはアンタだから、勝手だけど?呉には言うなよ」
ヤバい、マジで息が、続かないというに。渕屋はますます塞ぐ手に力を込める。殺す気か。
「誓え」
オイ、そういうことか、脅されてんのかこれ。この期に及んで。とりあえず今は呼吸が死活問題なのでなおざりに頷いておく。誓えるか誓えないかなんてあとで考えればよい。このまま窒息死してしまえばそもそも問題にする余地もないし、そもそも生殺与奪権を握られる覚えはない。要らぬ力技を使ったせいかますます出血し、すっかり凄惨な形相となった渕屋はやっと手を離した。勢い込んで息を吸うも、このときの俺は知る由もないがまあ肋骨にヒビが入っているわけで、あまりの激痛にもんどりうってシートに沈み込むことになる。息ができないことに変わりはなかった。
渕屋はと言うと、まさに朦朧といった様相で微動だにしなかった。よほど強く頭を打ったのか、だらだら血を垂れ流す額の傷の他にもどこか致命的なダメージを受けているのか。月光を逆光に、彫り深な目元が影と流血で陰惨に翳っていて恐ろしいことこの上ない。そのままひっくり返ってもおかしくないような真っ青な顔色に気が付いて肝が冷えた。
「おい、平気か?」
「…黙ってろって。……死んだフリでもしとけば」
肝が冷えて心配してみればこの反応である。それで舌打ちまでされた日には***げんなりしたところで突如、再び破壊音が襲来した。破壊音ということはもちろん衝撃もあり、大した衝撃ではなかったが肋骨には致命的に響きちょっと耐えられないような痛みに俺の意識はまたフッと浮く。儚い意識で渕屋の背後の窓ガラスが割られたのをなんとか理解する。そこから入ってきた手が恐ろしく手慣れた動作で運転席のドアを解錠するところまでは理解できた。
「やってらんねえ」
どこか超然とした小声で渕屋が呟いた。それを最後に、俺の意識は再び途絶える。
次に意識が繋がったとき、運転席のドアは開け放たれ、渕屋の姿はなかった。あれだけ無茶苦茶しておきながらほとんどノーダメージだった黒塗りの車さえも、見える限り跡形もない。俺は一人、すわスクラップ寸前という車内に取り残されていた。山道で、やけにぶらぶらする腕を携え一人。まだ朦朧とはしていたが、していたからこそか、この異様な状況に助けを呼ぶ選択肢は早々に揉み消す。この状況をどう説明しろというのか。ヤクザに事故らされたと言えというのか、という心境であった。再三言うが俺にも社会的立場というものがある。
かなりの時間を掛けようやく車外へ這い出し、呻き声やら悲鳴やら恥ずかしげもなく上げながら傾いた車体を真っ直ぐになおした。それからくちゃくちゃになった渕屋の車を運転し、なんとかやたら見晴らしのいいオーシャンビューの山道を降りたものの、脱臼した腕の痛みがそこで限界に達したためにやっとどうしたかといえば弓削を呼んだのだった。弓削はヤクザの脚探しというクレイジー極まりない案件について「平池さんくらいしか頼れる人がいない」と言ったが、俺だってこんな状況で余計な詮索も心配もせずに頼みを聞いてくれそうなヤツは弓削くらいしかいないのだ。今になって考えてみると、まあものすごくウザいことになるだろうが呉なんかも助けてくれそうな気がする。ともあれ、つまり、普通の神経をしていたらこんな状況では警察なりなんなりとっとと通報しろというだろう。俺だってそうしたい。しかしそのときの俺は朦朧としたうえに渕屋の意味深な一言と明らかにヤのつく職業人の存在と社会的立場の三つ巴に板挾みどころかもみくちゃにされていた。それで弓削を呼んだ。クレイジーな女を。どういう選択だと自分でも思う。まあ、いろいろ並べ立てはしたものの、一個の生命、危機に瀕したときに見たくなる顔はそういうものだって話も多少は絡んでいるかもしれなくもないかもしれない。
タクシーでやってきた弓削は顔を見るなり「まあ、病院へ行かなくては」と言った。わりと良識的な発言に安堵と謎の感動を覚えたものだった。ともかく状況を、ヤクザやら渕屋のくだりはボカしつつ伝えると、なおも「病院へ行かなくては」と言う。事故(事故)のことが公になるのは色々と面倒なので避けたいのだと言うと「お医者様に正直に話す必要がどこにあるんです?」と返された。それでこそ弓削さゆりという女だ。さらに謎の感動を深めてしまった。どうかしている。
というのがさっきまでの話。そうして病院でレントゲンを撮られ腕を固定され鎮痛剤を打たれ貼られやっと判断力が戻ってきた俺は、ひとしきりこの状況と自分の判断能力に戦慄いた。本当にどうかしている。そうして今、冷ややかに額の擦り傷を消毒されながら考えている。
警察に言うべきか呉に言うべきか。
どう考えても渕屋はあのライオン顔の男に強制召喚されたのだ。端的に言えば拉致である。それもかなり手段を選ばない強制召喚である。ヤクザに連れて行かれて何をされるもんだか小市民の貧相な想像力では想像もつかないが、何が起こったとして知っていて何もしないのでは後味が悪すぎる。精神衛生上良くない。小憎たらしくはあるが命の恩人だし。道徳倫理的にも職業倫理的にも問題がある。市民の皆様のために在るのが市役所職員公務員である。そうは言ってみたところで俺個人に何ができるかという話なのだが。残念ながら俺はクラーク・ケントでもピーター・パーカーでもない。フランク・キャッスルではもっとない。法の秩序はできるだけ守っていたいし守られていたい。けれどそこを守れば自分が守られないだろうというのが世知辛いところである。なにしろただでさえスキャンダラスな事故(事故)の現場保全をしなかったばかりかもう嘘までついている。これはかなりまずい。そうじゃなくても、おそらく、おそらくだが渕屋が俺に執拗に黙れ・気絶したふりをしろと言ったのはあの男さんサイドとの面倒からの逃げ道を俺に与えるためだろう。つまりそういう面倒までついてくるのだ。最終的に困るのはアンタ、というのはそういうことだろう。
だが当の渕屋はどうするんだ。
誤解じゃなければものすごい面倒に直面しているのは他でもない渕屋だろう。
なにより彼は結構な怪我をしていたはずだ。
放っておいていいはずがない。けれど俺じゃどうしようもない。情報も少ない。カードが無い。堂々巡りだ。
おそらく、そのどちらも持っているのは呉なのだ。
誓えと言われた、呉には言わないと。どうにも世間一般の良識からは一歩も五十歩も外れているやつらである。なにか退っ引きならない事情があり、渕屋の脅しを無視してまで呉に告げ口したほうが後味悪い結果になることは十分あり得る。そこはこう、うまく聴き出しながら、こちらの情報も小出しにしながら、玉虫色の対応でなんとか判断しながら…。いや、やはりこの際もろもろは(懲戒免職からキナ臭い匂いのする因縁および闇討ちまで)覚悟して警察に言ったほうがよほど…。
「はい、終わりました」
「あ、ああ、どうも」
女医先生が冷ややかに全ての器具を投げ捨て、俺は我に返った。投げ捨ててって。少なくともそのくらいには荒っぽい投げやりな動作に見えるのは多分ひとえに俺がひとりでどんどん後ろめたくなっているからだろう。ここまでくるとカルテを渡す看護師ですら冷ややかに見えるから不思議である。
「固定してるんで、くれぐれも動かさないでくださいね。左腕」
「はあ」
「それからできるだけ安静にして、アバラ」
「了解」
「お酒は厳禁です」
「ハハハ…」
「冗談じゃないですよ、お大事に」
笑って笑いを誘ってみたらハッキリと睨まれてしまった。本当にしくった。何故酔っ払って〜などと言ってしまったのか…。後悔に溢れかえりながら診察室を出る。ギプスで固定された左腕。胸はコルセットで絞められているので、いきおい姿勢がすこぶるよくなってしまう。息を吸うとまだ鋭い痛みが、しかしだいぶかすかに胸を刺した。
さて、どうするか。
待合室で荷物を預かってくれているはずの弓削の姿を探す。時間もまあ遅いので、まったくひと気の無い待合室。蛍光灯の寒々しい灯りがなんとなく、時間を失い死に瀕し続ける男の肌色を思い起こさせる。ひと気がないのでそう探さなければならないはずもないのだが、弓削の姿は見つからない。不意に嫌な予感が走った。あの弓削だ。ヤクザとわかっていながら取引まで平気で結んでくるような女だ。嫌な予感が次第に確信となる。ひと気のない長椅子に弓削に預けたはずの荷物が置かれているのを見つけた。片腕で(そうする他ないのだが)掴み上げ開きっぱなしの中をバサバサぶち撒けて確認する。さすがに無くなっているものはないが。さすがに。思い立って携帯の発信履歴を確認した。…ほら、ビンゴだ。いや、嫌なビンゴだけどさ。
「…なんて女だ」
今更思い出しでもしたのか、あのにやけ面を。やめてくれよ本当に。いや、なんで俺は本当に、弓削を呼んだのか…。長く深いため息をついて長椅子に座り込むと、身体の節々が痛んだ。身に覚えのない呉への発信履歴に、めまいすら覚えた。
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悪神グルーンをご存知の方は少ないかもしれませんね。神様もとい宗教に縁薄い現代日本に生きていれば、まず耳にすることのない名前でしょう。「日本には八百万の神様がいる」というのが「神様」という概念全体に関しての最もポピュラーな認識じゃございませんこと?それこそ学問の神様だとかトイレの神様だとか、エンタの神様だとか…なんてったって八百万ですもの、そういうものまで懇切丁寧にカウントしていかないと八百万なんて届きっこないわ。ひょっとすると我らが観光地方都市県は、全国に比してキリスト教の浸透した土地ですから、そちらの唯一神様またはその御子様のほうの認知度もそれなりかもしれません。我らが観光地方都市県は遠い昔、この国が国力を上げて引きこもっていた時代にも、この内海を外へと開きありとあらゆる魑魅魍魎を招き入れチャンプルーしまくっていたのですから。そう、魑魅魍魎を招き入れ。
悪神グルーンをご存知の方は少ないかもしれませんね。でも、最後の怪奇小説作家ハワード・P・ラヴクラフトが産みだし遺した架空の神話体系を知らない方はいないでしょう。悪神グルーンは、そう彼は、その架空の神話の架空の神性とされているんですもの。つまり架空の物語の架空の登場人物と変わりありませんわ。たとえば白雪姫の猟師だとか、ほら男爵物語のほら男爵だとか。けれどほら男爵というのはモデルが実在するのですよね。ミュンヒハウゼン男爵は、精神医学用語の元ネタにもなった実在の人物のはずです。
ならば悪神グルーンのモデルが実在したとして、なんの不思議がありましょうか?
常軌を逸した邪悪さ故に海底深くの神殿に封じられた月桂冠の君。夜毎人間の夢を魂を引き寄せ支配しこの世全ての苦しみを合わせても足りない拷問を手遊びに与える邪神。そうしてものにした人間の魂を、永遠に海底に閉じ込めるとされる悪神。
問題なのは、いったいどんなモデルが実在していたらそんな恐ろしい神様のイメージが出来上がるのかというところです。
「しっかし酷いねこれ。まあもともとボロッボロだったけどさ…窓は割れまくってるし後ろはこれ、しっちゃかめっちゃかじゃん!渕屋くん買い替えなきゃだな!渕屋くん新車!!」
「次、三叉路ですけど」
「うん。あー、左ね」
図書館で出会った自称神様・悪神様・もとい高次元生命体様のあの人と同じ目をした彼は、運転席と助手席の隙間へ身体をねじ込んで後部座席を確認していました。ヘーゼルというのかアンバーというのか、ともかくそういう明るい褐色にさらに強い黄色みがかった瞳の色をしています。一度気になってしまえば、なぜこれまで気にしないでいられたのかと思うような、そんな珍しい色味です。他人同士でそんな珍しい瞳の色を共有するなんてことありえるのでしょうか、もしかして彼と彼とは血縁関係にあったり?図書館の神様はいかにも年齢不詳国籍不明な紳士でしたが、助手席で片時も落ち着いていない彼***明朗妄執のヤクザさんの尋ね人であっているのなら***呉氏は、二十代前半から半ばくらいに見えます。親子と言うには年の差が足りなさそう(少なくとも外見年齢的には)、しかし兄弟というにはもっと納得しがたい、叔父と甥とか?…いやいやそもそも神様と血縁関係だなんて、そんなまさか。
「あとはしばらく道なりだから」
「わかりました」
「思ったより運転上手だね〜」
「光栄です」
私が今ウン年ぶりに運転しているのは、先ほどバキバキに怪我した平池さんが満身創痍で運転してきたあやしさ満載のワンボックスカーです。すでに何回か擦ってますが呉氏からはお褒めにあずかっております、まあもともとこれだけくちゃくちゃべこべこの車、多少追加で擦ったところで擦ったうちに入らないと考えればパーフェクトな運転ができてると言って差し支えないんじゃないですか?ちなみに呉氏をあの二重スリットの邸宅、渕屋さん宅まで迎えに行ったときに運転席をお譲りしようかと思ったのですが、「ムリムリ!もう何十年って運転してないよ〜」と取り付く島もありませんでした。そう言われてしまうと運転してない歴数年の私ごときではとても太刀打ちできません。…何十年って、だからそもそも二十歳過ぎ程度にしか見えないんですけど、もしかしてものすごく若作りとか?
「あのヤクザのお兄さんと取引してるんでしょ〜お姉さん」
「ええ、まあ、」
彼もなかなか単刀直入に突っ込んでくるスタイルのようです。こちとらウン年ぶりの運転中ですので、彼の言葉には意識の半分程度を割くのが精一杯です。
「あの人の右脚を探し出すか、俺を連れてくるか。そう言われたんだっけ?」
「…ええ」
「それでめでたく俺を見つけたわけだ」
「…なぜそんなに詳しいんです?」
「うふふふ。お姉さんも会ったじゃん、知り合いがあんなのだもんそりゃあいろいろ知ってるよ*…まあ渕屋には内緒ね、一生懸命秘密にしてるみたいだから」
渕屋って、あのヨーロピアンな顔立ちでぐるぐるのスーパーロングの彼でしたっけ。ていうか、この話ぶりだとどう考えても呉氏と渕屋氏はお知り合いじゃないですか。あの場に、私が見島氏と黒い交際を取り付けてる場に渕屋氏はいたじゃないですか。やはりどうにも、私はヤクザな手のひらの上で転がされていたということでしょうか。それとも渕屋氏は渕屋氏で呉氏の存在を見島氏らに隠し立てしていたとか?だとしたらやっぱり、呉氏を見島氏に引き渡した場合なにかVシネ的ドラマチックな展開が起こってしまったりするんでしょうか。
「じゃあお姉さんによってヤクザへ差し出されちゃうわけだ、俺って。怖いよ*あ、そこ左」
「あの、これ、どこへ向かってるんです?」
けれど差し出すなんてとんでもないのです。むしろ私のほうが言われるがまま運転しているわけで、どこへ向かってるのかなんて私には皆目検討もつきません。平池さんなんかが知ればいよいよ愛想を尽かされるかもしれませんが、私って所詮この程度の女です。知りたい。何かを知らなきゃいけないのです。何のために。…何のために?
結果的に満身創痍の平池さんをうっちゃってきてしまったことに若干の罪悪感を感じないこともないですが、満身創痍の部分に関しては他ならぬお医者さまに任せてあるので何も心配することはないでしょう。私なんかいたって肘関節のひとつも戻せやしませんもの。ミズホ氏との別れ際に平池さんから連絡を受けて、タクシーで行ったら行ったで少し離れた場所で降りてこいだなんていったいどんなサプライズが?と思ったものです。待ち受けていたのはどこからどう見ても満身創痍の平池さんとぐっしゃぐしゃのこのワンボックスカーでした。それはそれはサープラーイズ!でした。こんな気持ちになったのは幼い頃に拾ってきた子猫を死なせて以来です。なぜだかよくわからない言い訳を並べ立て尻込みする平池さんを診察室へ押し込めて、ふっと息をついたとき、私は彼の荷物を持ってひとり待合室に佇んでいたのでした。
魔が差したとしか言いようがありません。
連絡を受ける直前、ミズホ氏のもたらした真実の鱗に半ば興奮気味であった私は、この一週間でそれなりに情報量を増した手帳を確認していました。そうして脚探しのほうに傾き、蔑ろになっていた尋ね人の写真をなんとなくまじまじと目にしたのです。
暗い海の匂いが頭の中に広がりました。
西日を受けて凝り渦巻く黄色の虹彩を鮮明に思い出しました。がら空きの書架の落とす影。「かんらんしゎ」の文字。「お久しぶりです」。
それで魔が差したのです。
良心の痛みは遍く薄ぼんやりしたものです。
「俺は助けに行くんだよ。友達を」
薄ぼんやりした良心にも響くものがあって、私はちらりと彼のほうを見ました。彼は助手席のシートに真横に座り、一瞬たりとも目を離すことなく私を見つめています。その目の色は翳り、薄い褐色をしています。それは瞳の色素が薄いのだ、で納得できる色合いですが、なんだろう、光の反射の加減が普通じゃないのかしら、虹彩の縞の部分がそぞろ渦巻き始めそうなおどろおどろしさがあるのです。
「お姉さんは答え合わせに行く。そうでしょ?」
「答え合わせ…これまさか見島さんのところへ向かってるんですか」
「だいじょーぶだいじょーぶ!事務所とかじゃないから!向こうのホームど真ん中じゃないから!勝機は、まあゼロじゃないよ*まあ若干こっちのほうがアウェイかも知んないけど*で、俺なんかはまさにアンタに売られるかも知んないけど*」
さすがにヤのつく自由業の方の本拠地に乗り込むのは避けたいですよね、市職員と言ってもそういうのはもっとこう…ともかく管轄が違いますし、世間体なんてものがわりとしちうるさい勤め先なんですよね私なんて大したものじゃないんですけれど。ともかくいけしゃあしゃあとフワフワでヨワヨワなプランを尻すぼみに吐く彼にそんなことを言われると私の薄ぼんやりした良心も痛みます。痛んだところで怪我人に預けられた荷物の中から勝手に携帯を拝借した挙句置き去りにする程度の良心ですが。
「…平池さんの数少ないお友達である貴方を売らないで済むように、貴方が答え合わせしてくれません?」
「なにさ」
「そういう職業の方って誠意を見せるのに切り落とした指を先方へ贈ったりするじゃないですか、その指ってその後、どうするんですかね?」
「素朴な疑問だね?素朴であるがゆえに物騒になっちゃった疑問だね?」
「私、そういう人と関わり合いになるので一応勉強したんですよ、Vシネとか観て」
「Vシネ」
遅刻したお詫びにって奢ってもらっちゃったり、大したことない粗相のお詫びに桐箱の菓子折りが郵送されてきたり、嬉しいけど逆にこちらが少し申し訳なくなってしまうような贖罪ってありますよね。指詰めなんてその最たるものじゃありませんこと?仮に丁重にガーゼなんかに包まれた指を受け取ったとして、どうするのが正しい作法なんでしょう。少年時代からのトロフィーが陳列された棚に戦利品よろしく並べるべき?それとも果敢にも猛獣に打ち勝ったインディアンのごとくアクセサリーに仕立てその指に纏わるスピリチュアルな加護を畏敬をもって期待すべき?それともやっぱり丁重に埋葬するとか…本体はまだ生きているのに?
「…なに言いたいのか想像つくけど、ま、お姉さんの考えで合ってると思うよ。…つーか俺ヤーさんじゃないんだけど。答え合わせて」
内祝いは貰った額の半分とか渡すのは大安の日とか、そういう作法と常識がどんな世界にも存在するものなんですね。答え合わせは十分です。もし間違っててもそもそも大した問題じゃありません。ホントにいざってときには彼もいますし。
『さてさてさてお嬢さん、ご覧のとおり僕には右脚が無い。嘆かわしいことにね、行方知れずなんだ。もう五年ばかりはね』
『五年も僕のことを放っておくような脚』
「うそつき」
時に嘘はお好きですか?ええ私は好きですよ。なんだかとってもいじましいもの。便利ですしね。まあさすがに息するように吐かれると、なんだこのやろーってなりますけどもね。問題はいけしゃあしゃあとそういうことを吐ける人間が、いったいどういうつもりでいるのかということです。
■
■
埠頭。
海波はわずかばかりの月明かりに煌めき凪いでいる。倉庫街は暗くひと気はない、ように見える。停まっているのはたった一台のクーパー。運転席のドアに寄りかかる男が一人、窓は開け放たれている。
「カステラのさあ、ザラメ、あるだろ?底のほうにいっぱいくっ付いてる。アレが無いカステラもあるって知ってたか?」
…なんのはなしだ。
「だからカステラの話だよ。俺アレが好きなんだけど、こないだ貰って食ったカステラには付いてなかったんだよなあ。別にカステラだから絶対付いてるってもんじゃないらしい。アレがなきゃカステラとは言えねえ、みたいなもんじゃないらしい。付いてるカステラもあるっちゃある、くらいのもんらしい。先にザラメが付いてるカステラに出会っちゃってたもんだからさあ、無いとガッカリなんだよなあ」
カステラなんか食わないからな、知らなかった。
「甘いもの嫌いだったか?好きだっただろ」
…手がベタベタするのが許せないだろあんなもん。
「箸でも使っとけよ」
最近のはちゃんとフォークが付いてる。
「食ってんじゃねえか。最近」
先方に出されたら食うしかないだろ。
「…」
なに。
「ガキのくせして擦れっ枯らしみてえだったやつがそういうことできるようになったんだってカンドーしてた」
…。
「脚の怪我はどうだ?」
…アンタのためじゃない。
「ほう。じゃ、なんのためなんだ?なんにせよまずいだろうなあウチの**いいや、錫原会系の将来有望株が俺なんか庇ったように見えちゃあなあ」
アンタにとってまずいんだろ。
「お前にとってもだぞ」
人を殴りたいなんて思ったことないんじゃなかったのか。
「…」
それに“ウチの”で合ってる。そうだろ。
「…親子の縁なんてね、何度切っても切っても仕方がないんだ」
自分以外は全員他人だ。特別な何かなんてものは無い。切れにくい縁も切れやすい縁も無い。切る気があるかないかだ。
「今日はよく喋るなあ」
アンタは知らないかもしれないが、僕は饒舌なほうなんだ。
「…いつでもやりたいようにやれるわけじゃない。お前ならわかってると思ってたんだが…それこそガキの頃から」
…特別な何かなんて無い。
「…行くよ。疲れた。潮時だろうな。さっさと済ませてくる。けど話せて良かった。ほら、鍵、この車の」
…。
「…運転して帰る奴が要るだろ?」
(特別な何かなんて無い。同じなわけがない。同じなわけがない。ふざけるな。同じなわけがない。同じなものか、この***)
■
■
それはまるで時間が停滞しているような部屋だった。
壁紙からカーテン、シーツに至るまで、室内の調度は生成りめいたベージュでまとめられていて、部屋の印象を清潔で柔らかなものにしようとしたのだという努力が窺える。しかしそもそも遮光性の高いカーテンが日光の侵入を阻むので、太陽が最も高い時間帯でさえ全てがくすんだねずみ色にしか見えない。死んだ内臓組織と同じ色だ。
暗いベッドを見下ろして、男は一人立っている。
金属の右脚で真っ直ぐに身体を支え、男は一人立っている。目はベッドで眠る男を捉えている。もう五年ものあいだ死に瀕し、不自然に時を留めたままの男を捉えている。一切乱れることのない瀕死の呼吸を耳にしながら、目はその呼吸の主を捉えている。もう五年ものあいだ。脚を失ってから、ずっと。
「僕はやりたいようにやらなかったことなんてない」
囁き声は空に吸い込まれ、舞う細かな埃と大差ない価値のものとなった。男は膝を折りしゃがみ込む。いくら猛烈に訓練しているとは言えど、こういう動きばかりはその金属の右脚のためにぎこちないものになる。気にする素振りもなく男はしゃがみ込み、暗いベッドの下から留め金付きのケースを引きずり出す。贈り物を紐解くように留め金を外されていくケース。楽器ケースに似たそれは大きく、ちょうど男のその義足のように、成人男性の膝下くらいの大きさなら優に収まりそうなほどの***。
「ずっと。アンタが嫌いだった」
それはまるで時間が停滞しているような部屋だった。死んだ内臓組織と同じ色をした部屋だった。そして今は、似つかわしく甘やかな腐臭に満ちている。