1-06:中華昼飯処好渇堂-b

 夜毎みる夢。
 夜中に目覚めると、ベッドから50センチ浮いていた。
 なんとも言えない浮遊感。眠りについた時より高めの視界。夢うつつの違和感。とりあえず寝返りを打とうと横を向くと、視界の隅のほうに少しヒゲの伸びた自分が寝ていた。さすがにギョッとする。絶句。意味がわからない。寝ぼけた頭でしばし呆然とし、それから自分がベッドではなく、ベッドの上に寝ている自分の数センチ上空に寝ていることを理解したのだった。
――これは…あれだ、幽体離脱ってやつだ。
 元来の性格と夢うつつの鈍い頭のおかげと言っていいのか、俺はこのオカルトな体験に大して取り乱しも盛り上がりもしなかった。『幽体離脱』という単語に思い当たることで、軽くアハ体験をすませた程度である。そのまま再び寝入る体制に入った。それにしたって夢の中で眠ろうとしているという、いわゆる夢中夢とも言えるわりとややこしい事態なのだが、眠い頭はそんなこと一ミリも気にかけない。加えて俺は寝付きと寝相だけは他人に誇れるレベルで良い。すぐに寝入ってしまう。
 実際、翌朝目覚めたときには俺はちゃんとベッドの上で一人に戻っていたし、そもそも夜中の出来事もおぼろげにしか覚えていなかった。ちょっと面白い夢だったかな、程度。
 ただ、その後もたびたびそんな夢を見るようになり、そして翌朝には決まって一睡もできた心地がしないのだった。



「まあまあ、立ち話もなんだから」

 今時ナンパでだって使われない超絶古典的キャッチ台詞にホイホイついていく成人男性ってどうかと思うよな。まあ俺のことなんだけど。そんなだから尻餅で魂抜けるし挙げ句身体盗まれるんだよって言ってやりたくもなる。まあ俺のことなんだけど。
 それで俺は先のちゃら男くんと向き合って座っている、インザ『中華昼飯処好渇堂』。磨き抜かれたテーブルはそれでもなお厨房からの油でぺとぺとし、奥のテーブルでは先ほど俺を置いて入っていったスーツオヤジ軍団がとりあえずビールで乾杯をしている。予想通り天井の角に据え付けられたテレビ。その真下の席である俺たちの周りにはあまり人がいない。おそらくそのテレビを見るのにかなり見上げなくてはならないためだろう。真下の席なんかどう頑張っても画面を観ることなどかなわない。唯一得られる音声に耳をそばだてると、ちょうど試合が終了したところで、もともとあった点差が9回裏でますます広がって試合終了したらしい。成人男性の死体のニュースは聞こえてこない。

「すごい〜俺、幽霊と相席しちゃってるよ。フェイスブックで拡散しちゃおっかな〜、いやいや、しないって、フェイスブックなんかやってないから安心してよ。ていうか写んないか、写真、写んないよね?」

 馴れ馴れしく騒々しくまくし立てるちゃら男くんの前には水。俺の前には無い。席についたときこれまた想像通りの老婦人、この店のおかみさんがついでくれたものだが、人の良さそうなばあちゃんに華麗にシカトキメられるのはかなりこう心にクる体験だった。ばあちゃんが去った直後ちゃら男くんにプークスクスされたのでさらに心がささくれた。飲めないからいいが。だんだんわかってきたことだが、この身体はモノをつかもうとすればすり抜ける。とはいえ、壁をすり抜けられるかと言えばそうではない。中途半端にめりこんだところでそれ以上は進めなくなる。幽体だからといってできることが増えるかと言えばそうでもないらしい。むしろ逆だ、不便が増している。そして先の入り口での一悶着。なぜだか俺は、この店に『入れない』と思った。

「それはだって、よく言うじゃん。『そういうモノ』って、『招かれなきゃ入れない』の」

 テーブルに肘をつき、身を乗り出して俺の顔を覗き込んだちゃら男くんがそう言った。意味深な台詞。相変わらずニヤニヤした彼の表情は、どこかこちらを面白がって煽る風でもある。
 俺だって本当ならこんなちゃら男くんについてこうなんて思わないさ。
 『まあまあ立ち話もなんだから』、まさかナンパは無いにしたって男だって危ない、ホイホイついて行ったらマージンの気になる高額な絵なんかを売りつけられるかも。もしくは最後に恐いお兄さんたちがぞろぞろ出てくる楽しいお店に連れていかれるかもしれない。しかし状況が状況だろう。なにか知ってるふうな意味深な台詞のオンパレード。あまつさえ写真映りまで気にするようなこの態度。なにより、この危機的で孤独で正直打開策も見えないような状況で、誰もが俺を視界に映さず身体をすり抜けていく状況で、彼だけが俺を見いだし腕を掴んだ。
 これでついて行かなかったら嘘だろう。藁どころかおがくずにだってすがりたい。もしも彼が親切で善良な人間なら身体を探すのを手伝ってくれるかもしれないし、という下心も確かにある。すでにかなり煽られ気味なので『善良な人間』という線は消えつつあるんだけど。しかしなにより、このオカルティックな状況に詳しげな人間に出会ったのだ、まずはやはり、これだけは確認しておかないと。ずばり。

「俺ってやっぱり死んでるんすかね?」
「え?そんなん知らないけど。だって俺死んだこととかないし」

 迷える子羊(幽体)こと俺の魂の疑問(言い得て妙)はちゃら男くんによってばっさり切り捨てられた。がっくし。なんだよ使えねえなと一瞬でも思ってしまったのは心がささくれているからなので許して欲しい。

「むしろ俺のほうこそ聞きたいんだけど〜?やっぱお兄さん死んでんの?だって身体ないじゃん、幽霊だよね?死んでるんだよね?どうして死んじゃったの?これからどうなるの?成仏の予定は?」

 にやにやにや。そのものすごく煽られてる気分になるニヤつき顔をやめてくれないか。しかし呆れた、詳しいどころか、これではまるで野次馬ではないか。しかもコイツ、俺が死んでるものと決めてかかってきやがる。そう見えるかもしれないけど、客観的に第一印象は(もし見えるのならば)幽霊かもしれないけど、俺は死んでない。俺が死んでないことを裏付ける状況証拠は何一つ無いけれど、身体が持ち去られ行方不明の今、俺が死んでいるという状況証拠(有り体に言えば死体)もないので俺は死んでない。死んでないったら死んでない。おうちにつくまでがえんそくですとはよく言ったもので、人間、成仏するまでが人生である。

「俺は死んでない」
「いやいや、どうみても幽霊じゃん?」
「ちょっと魂が身体から脱出してるだけだ、死んではない」
「いやいや、死んでる人はね、みなさんそうおっしゃるんですよ」
「みなさんて、俺みたいなのって結構いんの?」
「それも知らないけど?今のはネタ的に言わなきゃかなーってだけで。幽霊とか見たことないよ〜」

 前例があるなら話が早いと前のめりになるも、またもばっさり切り捨てられる。期待させるのもいい加減にして欲しい。

「じゃあわかんねえだろ。やっぱ死んでないだろが」
「えぇ〜本当かな〜?身体ないのに〜?ぜったい幽霊だと思うけどな〜やっぱ幽霊って自覚ないもんなんだね、コワ〜イ!」

 にやにやにや。コイツ本気で言ってんのかただ煽りたいだけなのかわかんねえな、イライラしてきた。早くもホイホイついてきたことを後悔しかける。そんな俺の空気を察したのか、ちゃら男くんはムッと不満げな顔をした。よくもまあ表情豊かなことで。それは結構なことだが、わずかに混み合い始めた店内はそれなりに活気づいている。俺はともかく、周りの人々からすればコイツ一人でかなり楽しそうなアブナい野郎なんじゃないか?と思い当たり、そう思うと多少は気が晴れた。

「つーか感謝してよね。お兄さん、あのまま一人で入っちゃってたら、今度は出られなくなるところだったんだから」
「は?」
「当然じゃん、『入り方』わかんなかったでしょ?じゃあその逆もおんなじに決まってんじゃん。死んでないにしたって、その身体でここから出られなくなったらもう完全に地縛霊としか言いようがないよね〜」

 うまいこと言ったとばかりにはじける笑顔のちゃら男くん。よくもゾッとすることをさらりと言うものである。ふと、あの扉が閉じたときの言いようのないむなしさがぶり返し、俺は思わず顔をひきつらせた。

「言ったでしょ。要は『招かれないと』出入りできないんだって、だって『そういうモノ』だから。そのへんって結構ガバガバみたいだけど。まあ、店の外から『いらっしゃい』なんて言ってくれる人、いる〜?いないよね〜?」

 入るときはともかく。
 確かに、先ほど店に入ろうとしたときは店のばあちゃんがオヤジ軍団ひとりひとりに『いらっしゃい』と声をかけていた。なるほど入るほうはタイミングさえ合えば容易いのか。確かにガバガバである。しかし外から『いらっしゃい』なんて声をかける店員はいない。いったん入ってしまうと、あとからどう出ようとしても。

「だあいじょうぶだって。帰りはちゃんと俺が一緒に『出て』あげるから、ね」

 やられた。
 忌々しくもウインクしてみせるちゃら男くんに、そんな思いが脳裏をよぎった。つまりもう『入って』しまった俺は、唯一俺の存在を把握できるちゃら男くんにおとなしく追随するほかないということである。中座しようにも店を出ることは叶わない。それこそ『誰か』が先に外へ出て『招いて』くれなければ。最後に恐いお兄さんたちがぞろぞろ出てくる店よりよほどタチが悪いではないか。恐いお兄さんたちならば、押しのけてむりくり突破脱出できれば万に一つくらいは可能性がある。ちゃら男くんはにやにや心底楽しそうに俺を眺めている。手をつけられないままのグラスは、中身と室温の温度差で汗をかき、テーブルの表面をしとどに濡らしている。

 どういうつもりだ、この男は。

 腹を決めなければならないと思った。決めざるをえないというほうが正しい。裏を返せばこのオカルティックな状況にやたら詳しいちゃら男くんは少なくとも、店を出るまではつき合ってくれるということである。ならひとつくらいこの状況を打開できるようなネタをもたらしてくれないと困る。なにせわからないことが多すぎて、ちゃら男くんの登場で解決するどころかますます増えているのが現状だ。とりあえず解決が叶いそうな疑問から潰していかなければ。

「…なんでお前は俺のことが見えるんだ」
「わっすごい、幽霊っぽい、すっげ言ってみたいその台詞!」
「…」
「まあまあ、そんな顔しないでよ恐いよ」

 いちいち思いついた軽口言わないと気が済まないタイプかコイツ。人生楽しそうだが軽口たたかれるほうとしてはたまったものではない。そもそも幽霊じゃないというに。

「それは俺がいわゆる『見える人』だからだよ〜」

 数分前、『幽霊とか見たことない』とかほざいた舌の根が乾かないうちにこの台詞。二枚舌もここまでくると見事なものである。

「いや、いやいや嘘なんかついてないって!幽霊は見たことないけど、『そういうモノ』なら見たことあるもん、たくさん!魂とか?」
「一緒だろが」
「魂と幽霊は違うでしょ、やだな〜お兄さん」

 そんな『またまたぁ』みたいな感じで言われてもなんのことだかさっぱりわかんないんだけど。まあいいや、そのへんはとても一朝一夕では理解できそうにない。そもそも果敢にも理解を試みているこの話題全般が、自分の存在がこんな状況でなかったらそれこそ半信半疑おもしろ半分、明日には忘れている姿勢でしか聞かないような話だ。

「じゃあ、俺の身体にすり抜けないで触れるのは…」
「ああ、それはね、これこれ、ダダーン!」

 ちゃら男くんはまるで子供がよくできた宿題でも見せびらかすかのように、テーブルの下に仕舞っていたほうの手を出した。ひらひらと揺らめかすその右手には、黒い手袋をはめている。もっとよくよく見れば、それはティッシュ箱様のボール箱に大量に入ってたたき売りされている、手からはずす時あたりがタルカムパウダーで真っ白になるタイプの、まあ有り体に言えば使い捨てのゴム手袋にしか見えない。それを見せびらかされたところで「で?」としか言いようがないのが正直なところだ。おじさんわかんないけど、たぶんだけど、ファッションとして成立しているとも思えない。

「これをはめてるとね、『そういうモノ』にちゃんと触れるんです、すごいでしょお?あんまりすごいんでガメ…借りてきたとこにお兄さんがいたから、ちょうどいいやって」

 さりげなく軽犯罪行為を自白したちゃら男くんは、ゴム手袋の右手を掲げてどこまでもドヤ顔である。あまつさえ「えいっ」なんて言いながら俺の鎖骨のあたりを小突いてくるのでイラつきの積み重ねで昇天しそうになった。あぶない、こんなくだらないことで昇天してたまるか、笑えないだろこの状況で。小突くだけ小突き、スッと逃げようとした手を捕まえた。確かにすり抜けることなく、手の中に留めることができる。薄いラテックスの心許ない感覚、その向こうに皮膚の感触だとか、体温だとかは残念ながら感じない。しかしすでに『すり抜ける』ことが当たり前として染み着き始めていた身としては、その実体ある感覚は至極心強いもののように感じられる。ラテックスの感触の黒い手のひらをたどり手首の裾のところを越えると、指先はあっけなくちゃら男くんの手首をすり抜けた。

「つまり?この手袋ならなんかそういう…非科学的なものに触れることができると」
「ま、だいたい、そういうことでいっか。…つーか自分で自分のこと非科学的なものって言っちゃうの?お兄さんマジ尖ってんね?」
「…」
「痛ぇっ!!」

 おもむろに、目の前の黒い手のひらを殴りつけた。結構な強さで。結構な大きさの声で叫んだちゃら男くんに、わずかなりと店内の視線が集まる。その視線にヘラリと笑みを返し、逃れるように小さくなりながら「痛っ、いっ、いぅ」と大げさにうめくちゃら男くん。スッ。

「なにすんのマジで!いったいんだけど、ねえ、お兄さん!」
「確認確認。なるほど、便利な手袋だな」
「そんなんやさしく触れば、つーか最初は優しく触ってたじゃん!すげー叫んじゃったよ、絶対アブナいヤツだと思われたし」

 いや、そのへんは一人で店に入って注文もせずに満喫してる時点でもうアウトだろ、たぶん。

「アンタ十中八九死んでるんだから!みんなに見えてないんだから!自覚して!」
「だから死んでないって言ってるだろ」
「ったく、根拠もなしによく言う」

 根拠というほどのものではないが。俺は喫煙所のくだりからこれまでの経緯を洗いざらい白状した。このちゃら男くんとの出会いが俺のそう遠くない未来に吉と出るか凶と出るか、それはまったくわからないけど、出し惜しみするものでもないというか、状況ではないと思ったからだ。それこそちゃら男くんでも藁でもおがくすでも、おなもみでもすがりたい。おなもみってなんだっけ?
 話を聞き終えたちゃら男くんは、予想外にしばし黙り込んだ。何かそのオカルティックな知識か、よもや琴線にでも触れることがあったのだろうか。いや、さんざん煽らればっさり切り捨てられているのでもはや期待はしないけど。飲まれもしないグラスが、汗もかききって透き通っている。注文しないばかりか水も飲まないこの一人客を、せわしく働いている店のばあちゃんはどう思っているのか。やがて顔を上げたちゃら男くんは、平素のニヤニヤ顔を大復活させていた。

「それじゃ死んでも死にきれないね、尻餅て」

 そこかよ。まあそこだよな。不名誉きわまりないし納得からほど遠いポイント。

「まあ、最重要事項は身体探さなきゃってことだよね。こういうのって自分の死体見つけて『死んでる』って納得しなきゃ成仏できないのがセオリーだし?」
「だから死んでないって」
「死んでないならなおのこと早く探さなきゃじゃね?どうなっちゃうんだろ〜?こわ〜い気になるな〜見てみたいな〜。ね、お兄さん、身体探すの手伝ってあげよっか?」

 ちゃら男くんがぐいと身体を乗り出す。心底面白そうにニヤつきながら。なーにが『手伝ってあげよっか』だ。野次馬の匂いがぷんぷんする。むしろ野次馬臭しかしない。そりゃこのまま一人でさまよったってどうにもならないのだが(この店から出ることすらままならないのだが)、こうもおもしろがり野次馬がりを露骨にされると眉根も寄る。寄りまくる。

「そんな顔しないでって。だってお兄さん部屋の出入りだって一人じゃできないじゃん。お兄さんのこと見えて話せて触れる俺がいなきゃ、困ると思うけどな〜。その三人組っていうか、死体見つけたら通報してあげるし、俺」
「そう、野次馬丸出しで言われるとうなずき辛いんだよ」
「やだな親切100パーセントだって!まあ、仕方ないじゃん。誰だって自分が死んだらどうなるのかは、できれば死ぬ前に知りたいじゃん?」

 とうとう露呈したそのクソ自分本位な本音によほどもう一度殴ってやろうと思ったが、「未知との遭遇〜」なんていいながら人差し指を差し出してくるのに心底呆れ果ててそんな気も失せた。それを言うならE.T.だろうが。合わせた人差し指の先にゴム手袋のつるつるした感触。その先にあるはずの体温は感じ取れない。I'll be right here.そうだ。俺はまだここに居る。
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GFD