1-07:身体を探しに行こう・改

 やはり夜毎みる夢。
 目覚めると、またもやベッドの上で眠る自分の数センチ上空に浮いていた。またこの夢か。もしかしたら夢ではないのではないか?とは微塵も考えない。夢としか考えようがないだろう、この状況は。
 近頃は、ほとんど毎晩繰り返され最早慣れ切ってしまって、普段ベッドの上でするように、何もない空中に手をついて起き上がり床の上に降り立った。とはいえ裸足の足に感じるはずのフローリングの感触はどうも心もとない。立っている、というよりも「このへんが床の高さ」という感覚で浮いているというほうが近い気がする。
 ベッドの上で寝ているほうの自分を見下ろす。髭の伸びた寝顔は心なしか青ざめている気がする。が、そもそも辺りが薄暗いのでなんとも言えない。自分の顔の造作に不満があるわけではないが、それはかのビーグル犬公が言っていたように「配られたカードで勝負するっきゃない」からであって、わざわざ幽体離脱を利用してまで眺めたいほど好きでもない。見ているのは首だ。首の後ろから伸びる、弱い光ともやでできたケーブルのようなものだ。それはベッドで眠る俺のうなじからニョキニョキと伸び、眠る俺を見下ろす方の俺のうなじへと繋がっていた。それは暗闇でようやく見えるほどにかすかな光で、カーテンをすり抜けた月光に負けてところどころ不明瞭になっている。自分のうなじをまさぐると確かに髪とは違う何かが生えていた。付け根をつまむと、背骨を通る神経を直に掴まれるような、ヤバそうな痺れが駆け抜けた。
――幽体離脱のセオリーでいけば、これは切れたらヤバいやつだな。
 そう思ったあたりまでで、もうその夜の記憶は曖昧なのだ。



 「だあいじょうぶだって」という約束どおり、ちゃら男くんは俺をきちんとエスコートした。結局水すら手をつけずに席を立ったちゃら男くん(と俺)だが、店のばあちゃんは嫌な顔一つせず、それどころか「また顔見せてね」と親しげにちゃら男くんの腕に触れる。どうやら知り合いらしい。ちゃら男くんがばあちゃんとなにやら盛り上がっているあいだ、俺は店の表口、入ってきたその戸口に向かい合った。横着な酔っぱらいがきちんと締め切らず、わずかに開いているソレ。身体を横にすれば、そのままで出ることも叶うだろう。平素なら。けれど無理だ。ひどい圧力と怖気が、俺という存在を拒絶している。実体ある存在が当たり前に受け入れられるこの世のルールが、俺というよくわからないイレギュラーを受け入れるのを拒絶している。言い表すならそんな感じがした。

「『どうぞ』、お兄さん」

 いつのまに会話を終えたのか、戸口の隙間を押し広げ、先に敷居をまたいだちゃら男くんがその黒い右手を伸ばしてくる。そのどこかまじないめいた台詞を理解した瞬間か、それとも手が差し出された瞬間か、定かではないしその両方かもしれないが、あっけなく圧力は消え、俺はなんの感慨もなく店の外へと踏み出した。
 すっかり夜の帳が降り、つまり一応歓楽街の端くれであるこの路地は明るい時分と比べようもなくやにわににぎやかになっていた。道行く赤ら顔たちは、ちょうど一次会が終わって二次会の店を探しているのだろう。そんな時刻らしい。二次会は一次会の店より狭苦しくてチェーン店には無い空気の緩さのある店がいい。それでこういう路地は時間を追うごとに人口密度を増していくことになる。海まで切り立った斜面に無理矢理規格以上の都市を詰め込んだようなこの街ならなおさらだ。加えててんでばらばらにネオンや照明看板のたぐいに照らされて、狭い路地はもはやにぎやかさの洪水となっていた。いきおい、俺の身体もよっぱらいたちに容赦なくすり抜けられていく。

「なんかウケるね、ソレ」
「もう慣れてきた。なかなか悪くないんじゃないか?人混みのうっとおしさもないし」
「お兄さんヨユーだね、もう身体要らないんじゃない?」

 いるわボケ。特になんの打ち合わせもなくアーケード街のほうへ歩き出すちゃら男くんを追いかけながら、脳裏をよぎったのは今朝の痴話喧嘩にもならないようなやり取りだ。例の『恋人未満』とのやり取りである。もともと揚げ足取りばかりするような仲だから尚更だ。下手にでて相手を喜ばすおべっかよりも、揚げ足取りのほうがするりと出てくる。だからあんな言葉が出てくる。だからあんな言葉も出てこない。そして柄にもなく満ちてしまったあの居心地の悪い空気を払拭するには、つまり、もう一度彼女に話しかけるためには、身体がいる。

「なに、急に黙っちゃってさあ。心細くなっちゃった?」

 これで言い得て妙なのだからとっさに返せない。相変わらずのにやにや顔にむくむくと湧く腹立たしさでそれが紛れるのだけが救いだ。

「だあいじょうぶだって。身体、見つかるって。成仏できるって」

 おい最後なんつった。ちょっとふつーにイイ子なこと言ったかと思えばすぐこれだ。にやにやにや。ホントになぜここまで煽られなければならないのか。この調子を天然でやっているのなら、これまでの人生さぞハードモードであったことだろう。

「…その失礼な感じ素でやってんの?」
「え〜さっき急に殴ってきたの誰よ、そっちのが失礼でしょうが。でもいいじゃん、だってどうせアンタが成仏するまでの刹那的なつき合いだもん、お互い気ィつかうことなくね?」
「お前、手、出せ」
「やだよ絶対殴るじゃんなんで殴るのやだよ!」

 殴らない殴らない、となだめすかし、恐る恐る差し出された手を力の限り握りしめた。「痛っってぇ!!はなして、はなして!」と仰け反り「うそつき!大人のすることじゃねえよ!」とピーターパンも真っ青な言い分をわめき散らすちゃら男くんのなれなれしさに圧倒されて忘れがちだが、初対面なのだ。初対面の人間の死を願うことこそ大人っていうか人のすることではない。

「ホントにいい加減にしろよな。あんまり殴るなら帰るよ俺」
「帰れよ」
「ええ〜、困らないお兄さん?」
「なんとかなるだろ」
「ウソウソ、帰らない帰らない、早く行きましょうぜおやびん、俺が第一発見者になってあげる」

 死んだらどうなるのかはできれば死ぬ前に知りたいと彼は言った。そうだろうか。そんなものは死ぬときに知ればいい。そんなものを生きているうちから知ってしまったら、生きていくのに邪魔になる。そう思うのは俺だけなのだろうか。

「つってもまあ、手がかりも打開策もないけど?どうしよっか。その“三人組”が良識人だって信じて、病院でも行ってみる?案外運んでくれたのかもしれないよ?ニュースになってるかも」
「調べてくれよ、スマホとかで」
「俺ピッチしかもってないもん」

 その現代っ子って見た目で?といぶかしんでいると、「俺携帯代とか払ってもらってるんだけどさ〜ゲームに課金しすぎ〜って没収されちった。小学生かよって、金なんか腐るほど持ってるくせによ〜」とかなんとかなんだかアブナいパラサイトのにおいがしたので深くはつっこまないことにする。端的に言えばツバメでもやってんのかって言動である。

「運ばれるならそこの市民病院しかないでしょ、わざわざ調べることないって、どーせ虱潰しに行くしかないんだよ?」
「はあ。使えねえな」
「うははは!理不尽。ん〜じゃあさ、ソレ、たどって行ってみる?」

 ソレ、とちゃら男くんが指さしたのは俺、もとい俺の後方のなにかのようだった。追って振り返るも、ネオンの明滅に照らされなおも明滅を繰り返す路地にひしめくのは酔っぱらいばかりでめぼしいものは何もない。もうひとつため息をつこうとして、ふと視界の隅に違和感を覚えた。たとえば軽い飛蚊症の白い光の粒をむなしく追うような。たとえばそういった、見えるはずのないものが見えてしまうような。ひとつ違和感を覚えればあとはもう芋蔓式だ。導かれるように首の後ろへ手をやって、そのまま固まった。「ん?なに?」とちゃら男くんが目を輝かせているが正直知ったことではない。それどころじゃない。

 何か生えている、俺のうなじから。

 髪ではない。襟足は何の変哲もなく刈り上げられているから、こんなふうに触れようがない。髪よりもっと太い何かだ、とは思うものの、それに触れる感触は水をつかむように心許ないのだ。判然としないそれを指先で慎重につまむと、背骨の奥までヤバそうな痺れが走った。おそるおそる、たぐり寄せるように、それをつかんだままの手を身体の正面へ回し降ろす。いっぱいいっぱいの視界の端で、ちゃら男くんがにやにやしている
 果たして手の中にあったのは、夢と同じ、か細い光と靄でできた光のケーブルのようなものだった。淡い燐光を放つそれは、街のネオンが強く瞬くたびに光に負けて見えなくなる。明るい場所では見えないのだ。どおりで喫煙所では気付かなかった、あれは動転していたせいもあるかもしれないが。しかし触れていれば、依然としてそこにあるというのは心許ない感触だけで十分にわかる。それはどこまでも長く、たっぷりと余裕を持って長く、建物や曲がり角へも綺麗に沿って長く、俺の背後の遙か彼方へ伸びて行っているのだ。

「お兄さんさあ、もしかしてまだ死んでないんじゃない?」

 ちゃら男くんが口を開く。だから死んでないって言ってるだろって。ついさっきまでそれは、そのほとんどを願望が占めていた台詞だったけど。

「それ、身体とつながってるでしょ。こういう場合そういうセオリーだよね〜。それがどっかで切れてなきゃまだ、」

 生きてる。
 さっきまであんなにケンシロウよろしく死んだことにしたがってたちゃら男くんがここへきて盛大に手のひらを返す。ていうかやっぱお前にはコレも見えるのか。ていうか。

「ホントは心当たりあったりして〜?こうやって幽体離脱チックになっちゃうことに」
「いや、だって、こんなことが起こるなんて思わないだろフツー…」
「起こるでしょ。そのくらいフツーにありえるって」

 煮え切らない俺に、ちゃら男くんはそれこそフツーのトーンで言い切った。なんでお前がそんなこと言い切れるんだ。俺を見るちゃら男くんの目はネオンと俺の命綱の明滅を受けてちらちらと輝いている。とりわけ光が強くなるたびに、その瞳はぞっとするほど白んで色を失う。さながら俺の、実体のない命綱のように。わずかばかりの黄色みだけが、虹彩の中で濁って渦巻いている。まるで人間離れした、

 お前はだいたい、何者なんだ。

 昨日まで生きてきた人生の中で、お前のような人間に出会ったことは一度もない。昨日までの人生で培われた価値観に、今の俺も、お前も当てはまらない。ありえない、おそろしい、風前の灯火のようなこの状況に現れて、ニヤニヤと期待と不安をまき散らし、あげく「そのくらいフツーにありえる」と言い放つ。そうやって根拠のない安堵をちらつかせる様は、まるで悪魔的ではないか。でも、そうだろうか、と頭の片隅で思う俺もいる。それはどこかすがるようでもある。すがっていることを茶化しごまかしながら、すがっているようでもある。俺が藁でもおなもみでもすがりたい気持ちの何パーセントぶんくらいには、こいつにもそんなものを感じないでもない。それこそ、気のせいかもしれないけど。
 酔っぱらいのひしめく路地で、しばらく俺たちは無言だった。もっとも周りからはちゃら男くんが一人立ち止まりうつむいているように見えるのだろうけど、似たような体勢でそれからゲエゲエやり出すような酔っぱらいが一人や二人ではないので誰も気にしない。むしろ若干避けていく。今、俺の手の中で明滅し、街にあふれる光に確かにコンマ数パーセントかは貢献し、そして彼の虹彩を不気味に明滅させているものは、ひとつの生命の終わりかあるいは悪足掻きの神秘の光だ。

「…ていうか、お兄さんやっと気付いたね!そのうなじのヒモ」
「…あ?」
「いや〜だって、お兄さんは自分の後ろだからわかんないかもしんないけど、俺はさあ、ね?つーかそもそもソレが目に入ってあれ?この人?って思ったんだもん。で、お兄さんはいつ気付くのかな〜って思って黙ってたんだけど、全然気付かないからさ」
「…」
「てへ」
「…手、出せよお前、おら、手」
「ヤダヤダ、っとに勘弁して下さいよホント、殴るんでしょ?さすがにわかってんだけどマジで、殴るんでしょ?」

 当たり前だ。
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GFD