1-09:暗夜行路-b
 とりあえず当面の方針として、このうなじから伸びるぼんわり光るケーブルを辿って行かない手はないだろう、という結論で落ち着いた。夢(だと思っていた毎夜の出来事)と照らし合わせてみても、このケーブルの先には身体があるはずであると。そう言われてみると俄然そんな気がしてくる。
 
「今の今まで気づきもしてなかったくせに。んなもん首から生やしといて」

 ブウブウ音がしそうな顔でちゃら男くんが水を差す。「もうこれ脱いどこっかな」と、古びたゴム手袋を嵌めた両手をかばい合うように擦り合わせている。この野郎は要らないことしか言わないし、そのくせ早めに申告してほしかった事柄に至ってはニヤニヤ見ていただけ、というのが判明したので少々懲らしめてやった。これで懲らしめてやらなかったらいつ懲らしめるというのか。学生かプー太郎かアブナいパラサイトか知らないがいい大人なら報連相くらいちゃんとしていただきたい。

「でも良かったじゃ〜ん。あとはこれ辿ってけばいいんだもん。太さから言ってそんなに離れてないんじゃね。もう見つかったも同然でしょ」

 そしてちゃら男くんのほうも「このぼんわりした光るケーブルは身体と魂を繋いでいる」説に関しては、なんらか以上の確信を持っているようなのだった。いや、またテキトー言ってるだけかもしんないけど。もう信じねえ。
 本当に何者なんだろうか、コイツ。
 改めて疑念が持ち上がる。何故、俗に言う幽霊状態で誰の目にも映らない俺を見ることができるのか、見える人だからだとかほざいてたけど。何故、あらゆるものをすり抜け干渉できないものに触れることができる手袋なんて到底一般常識とは無縁そうなものを便利グッズ的なノリで所持しているのか。普通じゃない。明らかに普通ではない。そもそもこの流動する現代社会においては赤の他人に気を留めて声を掛けることすらごく稀少な事象だろう。それをここまで首をつっこんで、その後の言動もうっすら悪魔的だったり。そして今も俺がごちゃごちゃ考えているうちに率先して光のケーブルを追い歩き出しているなんて、普通じゃない。明らかに普通ではない、んだけど。

「うーん、やっぱり市民病院のほうに行ってるね〜。やっぱり案外病院に運んでくれてんじゃない?世の中そんな悪い人ばっかじゃないって、うは」

 何故か俄然やる気を出し、跳ねる勢いで先を歩くちゃら男くんに遅れない程度には急いで歩いた。路地からアーケードに入り通り抜け、路面電車を追うようにして淵欠通りに出る。ぼんわり光るケーブルは、そのどの壁にも地面にも、すれ違う通行人にも触れ合わないよう絶妙な高さに浮かんでいるのだった。俺本体はバカスカ無遠慮に通り抜けられまくってるのに。なにより、こんなに長く伸びるものだったのかと半ば心配になるも、それはピンと張ることすら一度もなく、むしろたわむ余裕すらもってたっぷりと伸び続いているのだ。
 この街はそのほとんどを斜面が占め、海の際のわずかしか平地が無い。必然的に街で一番大きな淵欠通りは海沿いを走り、駅だの大型エンターテイメント施設だのアーケード街だのはそれに侍るように行儀良く建ち並び、入りきらなかった住宅街やらなんやらは少しずつ斜面の方へ押し出され今や頂上に迫る勢いである。目指す市民病院も海のすぐそばに建っていた。一等地に建っているだけあってかなり大きな総合病院で、海を阻む、聳える壁のように仰々しい。斜面の上からなら一目瞭然、ここら繁華街のような平地でもある程度近づいてしまえばどこからでも見える。夜もすっかり深まった今、見える窓は全て黄色くつぶつぶと光っている。

「ていうかお兄さんさあ、せっかく身体に戻れても抜け癖ついてたりして。もう心当たりある?もしかして」
「…」
「あれ?シカトかよ」
「お前、名前は?」

 立ち止まり、こちらを振り返ったちゃら男くんは、露骨に「なんでそんなこと聞くの?ボク驚いてます」という顔をしていた。ですよね、という気持ちと、白々しい、という気持ちが半々。別に名前が聞きたいわけじゃない。それこそナンパじゃないんだから。この非日常過ぎると言わざるを得ない状況が少々解決の兆しを見せたことで、余裕のできた頭はスルーしていた疑念を膨らませ始める。お前は何者なんだ、この状況はなんなんだ、お前は一体どういうつもりなんだ、もっと、わかりやすい答えを持っているんじゃないか?そんな感じのことをいい加減明らかにしてほしくて、まあうまく言葉にはできなくてそんな問いかけになってしまったのだけど。
 汲み取れないことはないはずだ。汲み取る意思があるかは別としても。

「はぇ…なに?お兄さん、俺に興味津々な感じ?やぁだぁ〜」
「…」
「…いやいやいや、なに?俺、今更疑われちゃってる感じなの?ウソでしょ?」

 疑うってそんなつもりじゃないし、そもそも何をだ。弁解じみた問いが口を突きそうになったが、そのまま喋らせてみるのもいいかと思い直す。どうせ要らないことばかりべらべら喋ってしまう男だ。思いがけないことも喋ってくれるなら万々歳だ。

「もしかしてお兄さんの魂抜けちゃったの、俺のせいだと思ってる?俺が実は人間じゃなくって、お兄さんの魂抜いちゃったって?」

 なるほどそういった可能性もあるのか、と純粋に感心した。確かにちゃら男くんがそういったことのできる非常識的な存在で、俺の魂が抜けてしまうよう小細工したあと偶然を装ってあの中華飯屋で声をかけたのだとしたら世話はない。尻餅ごときで仮死状態という不名誉極まりない状況への説明もつく。同時に、これまでそういう可能性を考えなかった自分の愚かさにも思い至った。ちゃら男くんの表情からはその真偽は窺い知れない。常通りニヤニヤしているばかりだ。ただ、当初は半身をひねって振り返っただけだった体勢は今や完全に向き直り、どうにもこちらに乗り出し気味にすらなっている。

「でもさ〜疑うにしてもちょっと遅くない?ここまで一緒に来ちゃって、そのうなじのヤツも俺に先に気づかれちゃってさ〜。俺がホントに悪いヤツだったらお兄さん、今頃どうなってるんのよ?」

 図星を突かれた。わざわざ数歩こちらへ引き返して来たちゃら男くんが、視線を合わせるためにニヤニヤしたままこちらを睨め上げてくる。ニヤニヤニヤニヤ、相変わらずのその態度には苛立つが、それだけだ。コイツは信じてはいけないなという確証も、信じてもいいかなという油断も得られない。決めかねて耐えかね、視線をずらす。ピアスが無数に打ち込まれた耳が目に入る。耳たぶに二つ、カフが一つ、それから軟骨の隆起の影の見えにくいところに一つ歪なデザインのピアスが打ち込まれているのが気になった。ピアス自体の色が暗いし、そもそも影になっているので何を模しているのかわからない。いよいよ目をこらそうとしたところでちゃら男くんは一つため息をつき、いきおいぱらぱらと雪崩れてきた髪でその耳は覆い隠されてしまった。

「真面目だねお兄さん。俺のこと信じなくてもいいよ、会ったばっかでそんなの期待しねぇし、どうせすぐお別れだしね。でもさ、そんな疑わないでよ。信じなくていいから。どうせほんのちょっとの付き合いなんだからさ〜軽〜く考えてよ」
「…」
「俺ヒマだから付き合ってるだけだし、マジで。その証拠っていうか、悪いことも手助けもしてないでしょお?見てるだけじゃん、プラマイゼロじゃん」
「手助けしないのと腹立つ態度で若干マイナス寄りだけどな」
「オーケーわかった、今からなるべく手助けする。隣人を助けよだもんね、人類皆兄弟だもんね、くあーめんどくせ!」
「もう帰れよお前」
「ウソですってばおやびん」

 「ここまで来といてそんな殺生な」なんて言いながら再び歩き始めたちゃら男くんはもうこの話を終わりにするつもりらしかった。ちゃら男くんの言い分はもっともな気もするが、丸め込まれた感も否めない。考えてみればそれも仕方ない。なにしろ俺にはカードが少ない。こうして魂が身体を抜け出てしまうことなんて夢ならまだしも現実にはあり得ない、と昨日までは思っていた。対して向こうはそんなのは普通にありえると言う。その認識差からしても知っていること、持てるカードの数の差が圧倒的なのは明らかだ。配られたカードで、持っているカードで勝負するっきゃない。それでダメならそれこそ運命としか言いようがない。既に半分死にかけているも同然なのだから。

「…俺の名前は『くれ』だよ」
「…あ?」
「三国志の『呉』って、あの字で『くれ』って読むんだよ。お兄さん、考え込んじゃって可哀想だから名前くらい名乗ってやるよ」
「それはどうも…」
「まあ偽名かもしんないけどね〜ウソウソ!また疑わないでよめんどくさいから!」

 だいたいわかってきた。やっぱりこの男は思いついた軽口は口に出さないと気が済まない性分らしい。お前のその性分のほうがめんどくさいわ、と思う。ああ、めんどくさいめんどくさい、やめやめ。元来、俺だって真面目に考え込む性質じゃない。ことなかれ、それが無理ならなるようになれ主義なのだ。そう、なるようにしかならない、最期にはね。
 とはいえ名乗られてしまったからには名乗ったほうがいいのかと、そこだけ考えあぐねていると、ちゃら男くん−−もとい呉が振り返り、釘を刺すようにニヤけた。

「あ、お兄さんは名乗らなくていいからね。身体が無いときに、信用できない人に名乗るのはやっぱ危ねぇし、抵抗あるよね?」

 …なんだその悪魔じみた忠告は。本気で言ってんのか?冗談か?そもそもどういうことだ?…やっぱりどういうつもりなんだこの男は?

「うわあ〜マジで真面目なんだねお兄さん、すぐ考え込む。気楽に行こうよ、ほら、もう着くし」

 促されて見上げると海を阻む壁のような建物が眼前に迫っていた。夜も深いにも関わらずほとんど窓から黄色い明かりが漏れ、忙しない活気が染み出してくる。ふと、首の後ろに嫌な予感が走った。気のせいかもしれないし、前を行く呉の手が一瞬、光のケーブルに触れたからかもしれなかった。



「きな臭くなってまいりましたね〜」

 市民病院の正門脇に立って、呉はニヤニヤとつぶやいた。ニヤニヤしながら俺の方を窺って、きゅっと口をつむる。正しい。それで正しい。なんらかの歓迎されないトラブルが発生した状況下において、すぐさま気の利いた改善策を思いつかないならとりあえず歯は見せてはいけない。とりあえず唇は引き結んで、神妙な顔つきで周囲の空気に同調しておくに限る。
 二人の予想(という名の希望的観測)なら、俺の行方不明で意識不明の身体は件の三人組によって病院にでも搬送されているはずであった。俺(魂)の首から生え身体と繋がっているはずの光のケーブルはそれを裏付けるように市民病院のほうへ伸びていたのだし、最早確信していたと言っていい。そうして俺と呉は光のケーブルを辿って辿って市民病院までやって来たのだ。
 果たして光のケーブルは、病院の中へ突入することなく、外塀の外へ逸れて暗く狭い路地に吸い込まれているのだった。

「なーんか、俺の予想ってことごとく当たんねえな〜もう黙ってよっかな」
「そうしてくれ」
「ちょっとね、ちょっとだけなら黙れるけど」

 病院に着きさえすれば解決するとすっかり思い込んでいたものだから、混乱すらしている。どういうことだ。いや、どうもこうも病院内には身体はない、ということだろう。そしてこの狭い路地を抜けた先の方が、身体がある可能性はすこぶる高いと。そうとなると少し、まさにきな臭くなってしまわないか。だってこの先って、海だぞ海。しかも整備されていない、半ば放置されたある意味無法地帯のほうの海岸だ。

「ここでさらに希望的観測をするなら〜、身体だけ歩いてどっか行っちゃった説〜な〜んて」
「…そんなこともあり得るか?」
「いや、無いね。あるわけないじゃん信じないでよもお。例外は無いことは無いけどまず99割無いね。ほぼ100割だね。ガチありえない」
「…」

 珍しくキリっとした顔なのに頭悪そうなこと言ってるな〜とは胸中に留めた。ともかくあり得ないというのは痛いほど(痛々しいほど)理解できた。考えてみればそれはそうで当たり前だ。俺の実感として意識アイデンティティはここに存在しているのに、身体のほうも意思を持って歩いちゃったりしているとなるともう、ちょっとわけがわからない。キャパを超えてしまう。
 きな臭い。きな臭すぎる。やっぱり普通に怪しいんじゃねえかあの三人組。世の中そんな悪い人ばっかじゃないって言ったの誰だよ、ホントに、どこにあるんだ、俺の身体――戻れるのか?

「ま、やっぱりコレ、辿ってくしか無いよね…」
「…」
「お兄さん平気?顔色悪くね?まあ身体無いけど」
「…」
「いって!…よし、じゃあ行こうぜ」

 よくも笑えない冗談をかますものだ。素早くその手にビンタすると、呉は追撃から逃れるようにひょこひょことまた先を歩き出す。光のケーブルに触れないギリギリを撫で、臆せず辿って行く後ろ姿をしばし見つめる。まあ、他人事だからなあ。当事者の俺こそ、率先してこの光の行き着く先を見極めなければならないだろう。いかに怖かろうが。この生きているのか死んでいるのか、恐ろしい試験結果を待っているような心地、耐え難い心地、それでも自分の、魂の行き着く先を見極めなくてはならない。それは逃れられない。最期には、誰も。

 正門を素通りし、外塀に沿って細く暗く路地を進む。夜も深まり、光のケーブルは十分に光ってはいるのだが、辺りを照らすことはなく数歩先を進む呉の後ろ姿すら心もとない。そもそも病院が馬鹿でかいので、外塀に沿って行くだけでもかなりの距離があり、大通りの喧騒はあっという間に彼方へ消え去って行く。聞こえるのは、伸び放題になった雑草を呉が踏みつける音と、次第に大きくなる夜の海の音ばかりだ。

「しっかしもっと照らしてくんねーかな、コレ、せっかく光ってんのに。お兄さん、ちょっと力んだりしたら光強くなったりしない?」
「するかよ」
「試してみればいいのに〜こんな機会そうそう無いのに〜」

 相変わらず無駄口軽口を叩く呉は尻ポケットから小さな携帯――もといピッチを取り出して前方を照らそうと試みたようだった。しかしすぐに「げ、メールきてる」とポチポチやりだす。アホらしくなって光のケーブルに視線を落とした。今のところ変わりなく、たっぷりと光り伸び続けている。間違っても切れたりする様子はない。海の匂いがどんどん濃くなる。ごおごお言う波の音が、まるでこちらに襲いかかってくるような錯覚に陥る。
 そうしてようやく外塀の終わりが見えてきた。終わりと言っても、光のケーブルも外塀も沿って曲がっているようなのでまたしばらく塀伝いに歩くのだろうか。

「あそこ曲がったらコレ、切れてたりして。ブチッて」
「やめろ」
「ごめんごめん」

 本当に恐ろしいほど思いやりのない男だなコイツ、覚えとけよ。果たして角を曲がった先には変わらず光のケーブルが続いていて、俺はほっと息をついた。そこまで思い詰めさせた呉にいい加減腹が立ったが、どうせ考えなしに口に出してるだけだと思うと怒る気にもならない。ただどっと疲れる。
 光のケーブルはそれから少しずつ病院の外塀を離れ、整備されていない海辺の方へとどんどん突き進んで行った。砂利の多い砂浜かと思えば中途半端に埋め立てられ、打ち捨てられた廃墟のような小型船が着けていたり、とにかくごちゃごちゃと荒れかえっている。たまに建っている掘っ建て小屋未満の建物は全て劣化した窓ガラスが割れていて、普段から近寄るものなどないのだというのが窺える。俺だって生まれてこのかたこの街に住んでいるが、こんなところには立ち入ったことがなかった。用もないし、それに、こういうところには近づくなと子供が言われて育つ場所そのものだからだ。
 ふと人の気配がした気がして、俺は俯きがちになっていた首を巡らせた。呉も海の方へ目を凝らしているが、なにかあるようには見えない。気のせいか、はたまた呉の気配か、なにしろ闇が濃い所為でなにもかもざわめいて見える。

「お兄さん、こっち」

 不意に呉が俺の腕を掴み、「静かに」のジェスチャーをしたまま目を凝らしていた方へと歩き出した。静かに、と言われても魂だけのこっちは騒いだって問題ないと思うんだけど。問題あるほうの呉はお前はアサシンか何かかと問いたくなるほど完璧に気配を殺し、あばら家の一つの陰にしゃがみ込む。倣って、そんな必要はないのかもしれないが陰にしゃがみ込んだ俺に、呉は口をピタリと噤んだまま、視線だけで向こうを見るように促した。
 そこは埋め立てられたのかほんの小さく拓けた場所になっていて、船が着けられるようになっている。実際、遠目暗目には見えづらい、暗い色のモーターボートが一艘つけられているのだった。そして陸地の方にはいかにも怪しいスモークを貼った黒のミニバンが停まっている。なんて嫌な予感しかしないんだ、と俺は思ったが、さらに最悪なことに、俺のうなじから伸びた光のケーブルはどう見ても、そのバンの中へ繋がっているのだった。
 …マジかよ。
 きな臭いどころではない。事件性の薫りしかしない。何が起こってるんだ。何に巻き込まれてくれちゃってるんだ俺の身体!なにしてくれてんだあの三人組は!思わず狼狽して振り返ると、真剣な顔でピッチを弄くっている呉と目があった。

「おい、あれどういう!」
「しっ、声でけえよ」
「いや俺の声はデカくたっていいだろ、聞こえないんだから」
「あっ、そっか〜」

 へらりと笑う呉に笑ってる場合かという多少の苛立ちと呆れを感じたが、それにより幾分平静さを取り戻したのも事実だ。素直に感謝しておこう、心の中だけで。呉はピッチをしまい、わずかに身を乗り出してボートとバンを確認した。

「お兄さん、どう考えてもやべえことに巻き込まれてんじゃん、何やってんの〜」
「俺だって聞きたいよ…」
「自分の身体、こんなこんな揺さぶって〜?どうしよっか、警察――やべ、人だ」

 さっと引っ込んだ呉に代わり、俺は堂々と身を乗り出した。モーターボートから男が一人出てくる。船から降りたタイミングで、黒いバンの助手席のドアも開いた。身体を拉致っていったのはやけに多国籍な三人組だったが、そのうちの二人なのかどうか、この距離と暗さではどうも判然としない。二人は何か二言三言交わすと、連れ立って後部座席の方へと回る。助手席から降りた男がドアに手をかける。思わず緊張した。別に、なんなら二人のすぐ隣に並んで観察したっていいのに、逆に隠れたい心地にすらなった。
 男が車内にほとんど身体を差し入れ、やっとで引きずりだしたものは――ぐるぐる巻きに簀巻きにされた俺の身体だったのだ。

「簀・巻・き…!初めて見た俺、簀巻きにされた人ナマで…!」
「笑えねえよ…笑えねえだろ…これ繋がってるし…マジか…」

 光のケーブルは間違いなく、ぐるぐる巻きの簀巻きに繋がっている。今にも笑い死にそうな呉を殴る気にもならない。これがホントの心神喪失状態。

「どう考えても人身売買の現場を見ている…」
「お兄さんの身体、売れそうだもんね〜やだ!ヤラしい意味じゃないわよ!成人男性の諸々のパーツ!世界中でモテモテよ!」
「マジで…船に載せられようとしている…」
「船?待って船はヤバイ」

 呉が今一度身を乗り出した。何がヤバいのか、これ以上のヤバい事態はちょっとよして欲しい。怪しい男達は簀巻き俺を船に載せようとしているが、いかんせん少人数なのが災いしてかなり難航しているのが窺える。

「ヤバイってなによ」
「水は色々とヤバイんだって。それにモーターボートってことはそのまま船乗り継いでかなり遠くまで行っちゃうかもでしょ、警察なんか行ってたらその間にブチッですぜおやびん、船は阻止しないと…」
「ならどうすんだ」
「お兄さん、ポルターガイストでも起こせない?」

 ドッと疲労感と絶望感に襲われた。そんなもの起こせるわけないし、それは呉だってわかり切っているだろう。つまりどうしようもないということだ。幽霊状態の俺は何もできないし、ならば呉が果敢に怪しいメンズに立ち向かってくれたとしても3対1だ。売られる成人男性が一人増えるだけに違いない。そもそもそんな頑張りをこの男に期待できそうにない。まったくもって期待できない。「じゃあやっぱお兄さんが成仏するとこ見さしてもらおっかな」くらい言い出しそうである。そんなことを言い出すかはさておき、頑張りを期待できないという点についてはまあ仕方ないと思う。自分に置き換えてみれば、今日出会っただけの男のために命なんか張ってやる筋合いはないという話だ。至極納得できる。そんな俺の思案を察したのか、呉は以外にも殊勝な態度で釈明をしだしたのだった。

「いや、なるだけ役に立つって言った手前役に立ちたいんだけどさ、ダメなんだよ。俺はダメなんだこういうのは」
「まあ腕っぷし強そうには見えないけど」
「いやそういうわけじゃないけどさ?とにかくこういうのは俺じゃダメなんだよね。まあ、だからさ、お兄さん――」


「身体、貸してあげよっか?」


 向こうでは怪しいメンズ二人があまりにもたもたしているので、しびれを切らしたのか運転席からも男が降りてきて加勢をはじめた。気になって仕方がないその動向への興味を、俺は一瞬ごっそり奪われた。

「は?」
「だから、俺の身体貸してあげる。そんであいつらに特攻したらいいじゃん?不意打ちすりゃなんとかなるって」
「…?は?ちょっと待って言ってる意味がぜんぜんわからない」
「時間ねえよ、はやく決めて。決めたら名前教えて、早く」
「決めてって…名前?いや、そんなことして平気なわけ…?」
「平気だって、保証するって、信じてよ俺のこと、ここまで着いてきちゃったんだからさ、頑張るってば、ほら早く!」

 思考がまったく追いつかない。つまり、俺が呉の身体を借りてあの三人に殴り込むという解釈で問題ないんだろうか。いやそこまでして殴り込みたくないの?結局殴り込んでるのは自分の身体なんだよって、いまいち腑に落ちないけど。他にも俺だって腕っぷしに自信はねえよとか、信じろって、さっき信じなくていいって言っただろとか色んなことが同時に脳内を巡りなに一つまともに考えられない。しかし、三人にグレードアップした怪しいメンズは今にも簀巻き俺をボートに載せてしまいそうであり、せかしてくる呉の目には何とも表現しがたい説得力と強さがあり、簀巻き俺とこの俺の間には確かに魂を繋ぐ光があり、未練が、今朝の不安げな表情が鮮明に脳裏をよぎる。それは、未練という言葉ではとても足りないと思ったはずだ。そう思ったはずだ。そうだ。死にたくない。微塵も、死にたくない。時間がない。

「お兄さん、早く」
「…平池誠一」
「よし、平池さん。“入っていいよ”」

 その瞬間、俺は呉の目を見た。月明かりのせいか、虹彩の部分が明るく光ってほとんど黄色に見える。あの色だ。明滅するネオンのもとで、かすかに濁って渦巻いていた色。そう認識した途端強い目眩のような視界のブレに襲われて、あぶない、呉の方へ倒れてしまう、と、俺は遮二無二手を突き出した。
 そして気づけば何やら狭苦しい、妙な空間にいた。身体はギチギチでほとんど自由がなく、視界の下半分まで真っ暗で見上げるようにしなければ外が窺えない。そのやっとで窺える半分の視界もボヤけにボヤけまくってとても良好とは言い難い。とはいえ、さっきまで呉と隠れていたあばら家の陰であるのは間違いない、と辛うじて判別できる。

「さて」

 呉の声だ。だがぐわんぐわんと妙に響く。それに近い。どこで喋ってんだ。視界がすっくと持ち上がる。立ち上がったらしい。ゴム手袋の両手がゆっくり組み合わされる。関節をならしているらしい。らしいらしいって、身体の動きが他人事だ。水の中で勝手に四肢がたゆたい動いていくような…。それにしては意思のある動きだ。誰か、他の人の意思が。…呉の意思が?

「平池さん、俺ちょっと頑張るから。おとなしく応援しててよね」

 ぼやぼやした意識の中で、俺は確かに自分の口が呉の声でそう言うのを聞いた。身体が勝手に走り出す。ここは呉の中だ。確かに俺が呉の中に入っているのだ。しかしこれは少し、だいぶ、想像と違いすぎるだろう。
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