大贖罪計画
 エルネスト・ピアソラの中に神がいなくなって久しい。

 ともかく、いやに近い星空の下で目覚めたピアソラは考えた。
 このご時世、つまり高級車と言えば空を飛ぶのが当然だったり、異言語をほとんどタイムラグなしに、本人の声で、喋った調子そのままで翻訳するデバイスがハンバーガー二つ程度の価格で流通していたりするこのご時世、神の威光は当然衰えたかもしれない。人類は長い年月をかけ、知恵を振り絞って、神に頼らずとも問題を解決する手段を生み出してきた。人類が神から親ばなれして久しい。問題を解決する手段として、頭の良い誰かの新理を国や企業が製品化するほうが一般的になったのはそれこそ大昔の話で、神に駄々をこねる、もとい祈る行為はもう長いこと最後の手段だ。
 でも、神を信じるってそういうことじゃないぜ。いやに瞬きすぎる星々をしぱしぱする目で眺めながら、ピアソラはなおも考える。
 そんな大層なことじゃないんだ、そんな神の実在・非実在を問うような、小難しい話じゃないんだ…神を信じるっていうのは、なんというか絆のようなものだ…何か偶然にも良いことがあったときとか、長年愛用してきた持ち物を捨てるときだとか、新たな出会いに挑むときだとか…そういうときに、直接感謝を捧げるべきものとは別に、何かもうひとつ、いつも決まって同じものに感謝を捧げていれば…神を信じるっていうのは俺にとってそういうことだ、俺の良心のごくごく気軽な拠り所、保険みたいなものだ、神が実在するかしないかなんて俺にとっては少しも問題じゃない、本当に気軽に、そこがみんなの良心が集う場所だと信じていられればいいんだ…。
 そこまで考えたあと、ピアソラの頭はようやく自身の置かれた状況のほうへ回り始めた。いやに近いと思っていた星空は、本当に近い。寝そべった状態で伸ばした手がつっかえる。ぎりぎり座り込むことはできる高さかもしれないが、そのために起き上がったところでピアソラの華奢とは言えない身体はつっかえてしまうだろう。ピアソラがいるのは暗く狭い球体の中だった。いやに瞬きすぎると思っていた星々は、この球体を形作っている5ミリメートルほどのキューブ群の継ぎ目、隙間から差し込む外光だ。ピアソラを卵の殻のように包み込んだ球体は、滑らかに転がって移動している。球体の回転に合わせてピアソラがもみくちゃにされないのは、球体の底だけ常に二重底になっているからだ。くそ。ピアソラは口の中で悪態をついた。かすかに痛む側頭部に触れると、髪の毛の下の頭皮が腫れ上がっているのがわかる。またこれか。
 ピアソラは滑らかに流動する丸い壁を叩き、声を上げた。

「リトル・キュー、出してくれ。完全に目が覚めた。もう自分で歩ける」

 “彼”の乗り心地はあまりよろしくないのだ。暗くて狭くて丸いところに押し込められて、地面を這う不気味な振動を尻に押しつけられるのは精神衛生にだって良くはない。小一時間もいれば気が狂う。一寸の間の後、球体の全面から“落ち着いた成人男性風(テノール)”に合成された人工音声で返答があった。

『エルネスト・ピアソラ。あと14メートル弱でローバーへ到着する。5秒強待って欲しい。理由として第一に、現在遂行中のタスクは“エルネスト・ピアソラをローバーまで搬送すること”だが、ローバーまで12メートル弱ある現時点であなたを降ろすとタスク完了条件を十分に満たせない恐れがある。第二に、あなたを降ろすためにロータリーモードを解除し、あなたとともに8メートル強移動するために再度ロータリーモードに移行するよりは、このまま搬送しきってしまうほうがエネルギー効率の面で勝っている。あなたを降ろしたあとモノリスモードに移行しあなたに運んでもらえばエネルギー効率の面はクリアできるかもしれないが、第三にあなたは負傷している。ではローバーに到着したので展開する。タスクは無事遂行された、ご協力感謝する』
「ああ、そう、どうもね」

 いちいち口を挟みたいところは山とあったが、杓子定規の人工知能に言うだけ馬鹿を見る。挟んだ口にまた正確でとんちんかんな長ったらしい「意見」が帰ってきて、それに我慢ならずに口を挟んで…泥沼だ。ピアソラはこっそりとため息をついた。ため息にまで言及されたらたまらない。
 宣言通り停止した球体は、砂嵐が晴れるように展開し、展開したはしから今度は直方体へと変形していく。ピアソラはまぶしさに目を細めた。エメラルドブルーの底抜けに高い空。本物だ。もちろん手は届かない。空を仰ぐピアソラの隣で、搬送任務を終えたリトル・キュー――植物保存活動用補助AIを搭載した屋外探索活動用モノリス――はニュートラル状態、全長120センチほどのモノリス型となって直立した。

『ドクター・アラランタ、エルネスト・ピアソラを無事に搬送した』
「ご苦労ご苦労、悪いね、いや助かったよミスター・リトル・キューガーデン」

 モノリスが呼びかけた先には、薄汚れた白い車体のローバーを背にして白衣の男が立っていた。白衣はローバーとそっくり同じ色合いに薄汚れているので、ほとんど背景と同化している。大きな黄緑のフレームのメガネをかけたやせっぽっちのドクターは、とびきり機嫌がいいときに見せる胡散臭い笑顔でピアソラを覗き込んだ。

「お目覚めかなお嬢さん?」
『ドクター・アラランタ、周知の事実かと思われるがエルネスト・ピアソラは生物学的分類の上でオス、つまり男性であり、公式の発言から推察される性自認もまた男性である。“お嬢さん”は通常年少から妙齢の女性を指す二人称であり、エルネスト・ピアソラに呼びかける二人称としては適切とは――』

 「お嬢さんじゃねえよ」とたった一言喉を突きかけたピアソラの文句は、リトル・キューの「意見」に取って代わられた。



 エルネスト・ピアソラの中に神がいなくなって久しい。この馬鹿馬鹿しい大計画が始まって以来だから、もう数年になる。つまり、脳味噌真四角のモノリス、リトル・キューと、それから今タバコをふかしながらローバーを運転している植物学のドクター・レコ・アラランタとの気の狂うような付き合いも、もう数年になる。

「エル、君はお疲れかもしれないが今日はあともう一ヶ所あるぞ!なんてったって“今日が歴史的瞬間まさにそのとき”だからな!!いや、“今日”とかって言い方はおかしいか?まあいいか、そんなのどうだってね、少なくとも僕には関係ない。吸うかな?」
「いらない。疲れてはないさ、ただこのへんにたんこぶが…押すとちょっと痛いだけで」

 ローバーはエメラルドブルーのジリジリするような青天のもと、砂埃舞う不毛の大地を陽気に駆け抜けていく。車内にはアラランタの吸う紙巻きタバコのフルーティーな煙が充満していた。アラランタはチェーンスモーカーで、カラフルな巻紙のタバコしか吸わない。今吸っているタバコの巻紙はオレンジとビリジアンの縞模様だ、不気味なことに。
 ふいに、おとなしく後部座席に収まっていたリトル・キューが(人工音)声をあげた。まるで突如発憤した告発人のように。

『エルネスト・ピアソラは左第一指の付け根、いわゆる"スナッフボックス"を負傷している!』

 恐らく、90度折れ曲がってシートに収まっていたリトル・キューは、今し方終えたばかりのタスクについて自己評価に入っていたのだろう。そして未解決のデータに行き当たった。『第三に、エルネスト・ピアソラは負傷している』。大急ぎで処理すべく声を上げた。とんだバカ野郎な人工知能だ。問題は、ピアソラ自身に右手を怪我をした覚えなど微塵もないことだ。
 アラランタはピアソラの右手をひっつかんだ。まったく身に覚えのないピアソラも、自分の右手を見た。筋骨隆々の実用的な腕、よく日焼けした手。スナッフボックス…親指を反らせたときに窪みのできる部分に、よく目を凝らせばだが、確かに擦り傷らしきものが。

「おおミスター・リトル・キューガーデン!!まったくぞくぞくさせてくれるね!!こんなものは怪我とは言わない!」
『その意見には賛同しかねる。怪我を怪我、事象Aを事象Aと定義するのに程度、すなわち大小が問題になるというのなら、我々は命の重さの差異を議論するところから始めなければならない』
「過保護だな!!本当にお嬢さん扱いだ。傷口から未知のバクテリアでも侵入してるのか!?」
「おいお前ら少し黙れないのか?お前らの声がたんこぶに響く…おい、“怪我”ってどう考えてもこっちのほうが重傷だろうが、こんなささくれより」
『そちらの解析はすでに完了している。軽度の皮下出血以上の症状はない。スナッフボックスのほうも、たった今解析が完了した。緊急性のある症状は見受けられない。エル、お大事に』

 アラランタがヒステリックな笑い声をあげ、その鶏冠そっくりのオレンジの髪を揺らした。ピアソラは憤怒し疲労した。これ以上は付き合ってられない。この一人と一機は万事この調子だ。

『彼がなぜ怒るのかわからない』
「AIの悲劇だなミスター・キュー。彼はたんこぶが痛いのが我慢ならんのだ。だが君には痛覚がない。理解できないかもしれないが、君の大事なお嬢さんだろう?“だいじだいじ”してやってくれ」

 まだ言うか。頭に血が上り、たんこぶのあたりが波打つ感覚がする。リトル・キューが『エルネスト・ピアソラはわたしの娘ではない。種が違う』とつぶやくのが聞こえた。

「アラランタ、そろそろ黙らないとお前の耳を灰皿にしてやる。それにおれの親父もおふくろも、こんなに脳味噌真四角じゃなかった」
『さっきからあなた方が何を言っているのかまるで理解できない。わたしの理解の範疇に達していない』
「達していない?おい博士、コイツってやつはどうしてこう、こうなんだ?つまりすごく腹立たしい。まるで低レベルすぎて理解できないみたいな言い草だ」
『AIプログラムには人間の頭脳につきものの不確実性や乱雑性は再現されていない。つまり効率よく演算できるよう種レベルで設定されている。しかるにあなたの頭脳の演算能力がわたしに遠く及ばなくても、それはあなたのせいじゃない、エル』

 またもやアラランタがヒステリックな笑い声をあげた。頭を抱えたくなる。

「お似合いだ、君たち。すっごくお似合いだよ、ずっと見てたいくらいだね」
「頭がどうにかなりそうだ」
「でも、楽しいだろう?楽しいってつまり、頭の中が四六時中忙しいってことだよ」

 灰皿を引き出し、オレンジとビリジアンの縞がたったワンセットになったタバコを押しつけるアラランタをピアソラは見た。頭を縁取る鶏冠を残してすっかり刈り上げてしまった側頭部は、ダークグレーの地毛が猫の背中のように完璧なカーブを描いている。神経質にくぼんだこめかみの先には、虹彩の色が透けるほど痩せたまぶたのこれまた完璧なカーブ。むき出しの額、それから鼻梁のライン、乱視矯正の入ったメガネのレンズなんかも。ドクター・レコ・アラランタの横顔は、見る者の頭を一時がら空きにするようなカーブで構成されている。アラランタ風に言うとそれは“楽しくない横顔”ということになるのかもしれない。

「君はうるさくなった、忙しそうになったよ、出会った頃よりはね。そおらもう次のポイントについたぞ!」

 ローバーが砂埃を巻き上げて急停止し、アラランタはにわかにどたばたし始めた。ピアソラのほうは準備も何もないので、ゆっくりとドアを開けて降り立つ。まだ高い太陽が容赦なく枯れ果てた地面に突き刺さり、ピアソラの頬もじりじりと焼く。

「今何時かな!?」
『現在東部標準時で14時17分。次回の“ひずみ”落下予測時刻は東部標準時で14時19分』
「おかしいな、なんでいつもこんなにぎりぎりなんだ?ワハハ。急げ急げ、なんせこの世に100秒ほどしか存在できない植物だぞ」
『了解』

 リトル・キューが球体に変形してローバーから転がり出る。見渡す限りの不毛の大地。赤っぽい土と、エメラルドグリーンの空が作る地平線まで遮るものは何もない。ふいに、その赤とエメラルドグリーンのまっすぐな境目がぐにゃりとゆがんだ。気のせいかと思ったが、今度はぶるりと震えるように地平線が波打ってこちらへ迫ってくる。

「おい、博士、もう来てるぞ」
「ワハハ、まだ18分台だろう?」
『“ひずみ”落下予測時刻の誤差はプラスマイナス60秒』
「なんてこった、ワハハ!ああ、来た!」

 爆発的に膨れ上がった空間のひずみは地平線を山なり限界まで歪み上がらせ、そして爆ぜた。
 その景色の不思議さと言ったら、一生慣れることはない。まるで不毛の大地という風景を写した写真が向こう側から圧し破られるように爆ぜ、その切れ端が捲れるように展開される見たこともない景色。不毛のはずの大地には既知の植物から未知の植物まで様々な緑が咲き乱れている。もちろん何もない、不毛の景色である場合もあるが…。

「うわー本当に来ちゃった!どれどれ急げ急げ…なんだ?目新しいのは何も無しか?」

 ドクター・アラランタはローバーの窓から顔を出し、小さなデバイスと様々な可視不可視光線に対応した双眼鏡を忙しなく覗き込んでいる。そのオレンジの鶏冠を、ピアソラには到底未知としか見えない植物の葉たちが叩いていく。ほんのひと時現れ展開するひずみはひどく不安定でじっとしていない。ピアソラの足元もぐにゃぐにゃし、まん丸なリトル・キューはコロコロ転がっている。
 不毛の土地に突如咲き乱れる緑たち。これも“あったかもしれない世界”なのだろうか。それとも、“すぐ隣の世界”が垣間見えている瞬間なのだろうか。アラランタはいつだか“可能性のタマゴ”だと言っていた。可能性にもなりきれていないという意味だ。“可能性のいたずら”だとも。本来、絶対にあるべきものでもない、という意味だ。なんだって構わない。なんだって構うというほうが正しい。こんなものは、ピアソラには神の所業としか思えない。こんなことができそうなのは神だけだと。しかしこれは他でもない人間の所業だし、もっと言えば人間の所業のほんの余波、副産物でしかない。そのうえそんな余波でほんの一瞬、いたずらにこの世にその存在を映すだけのものでさえ、全部残らず手に入れたいというのだから人間って奴は本当に大した性質をしている。

『12時方向に未知の植物を確認。わたしのデータベースにあるものとは概ね一致しない。いわゆる“目新しい”を確認』
「出番だお嬢さん」
「お嬢さんじゃない」
『ご武運を、お嬢さん』

 おい誰だ、リトル・キューが冗談を言えるように設定したのは。ピアソラは横目でアラランタを見やったが、アラランタは“目新しいの”がどの程度目新しいのかに夢中で気づく様子もない。研究用に植物を採取するのだ。できるだけ傷つけず、完璧な形のままで持ち帰るにはモノリスの杓子定規な手付きでは心もとない。こんな時代になっても、人の手でやる必要があることはごまんとある。

「博士、たまには自分がやったらどうだ?」
「ぼ・く・が??この細腕で!絞め殺されちゃうよ!なんのために君がいるんだ!」

 だったらもう少ししおらしくしとけってんだ。それにしても何故、ひずみの中の未知の植物と言えばこうも天真爛漫に動き回るものなのか。猶予はあと一分半もない。ピアソラは12時の方向で元気に蔓をのたくらせる“目新しい”植物を“捕獲”すべく駆け出した。



 エルネスト・ピアソラの中に神がいなくなって久しい。この馬鹿馬鹿しい大計画が始まって以来だから、もう数年になる。数年前、人類はついに時間遡行を成し遂げた。神から親ばなれして得た科学技術を残らず駆使し、光速の何倍もの速度で駆け巡り、その余波で無数のか弱い時空のひずみを生みだしながら過去へと降り立った人類は、そこでヘロデ王の幼児虐殺や、人類最初の殺人と嘘や、ノアの大洪水や、自分たちの背負うとされてきた原罪を現認した。

「あ、あ、あー、ハローハロー、こんにちは、ボンジュール、オーラ、」

 あたりは暮れなずみ、赤い不毛の大地はますます燃え立つように空さえ染めている。エメラルドブルーだった空は大地の照り返しを受けて、はしから薄紫に染まっていた。じきに夜が来るだろう。ローバー備え付けの荷台車に用心深く縛った“ひずみ”原産の植物を押し込み、ピアソラは助手席へ戻った。

「あ、あ、あ、ハロー…こんにちは、こんにちは、こんにちは、こんにちは…」
「どうした、薬でもキメてんのか」

 壊れたAIのように不気味な挨拶を繰り返すアラランタにピアソラは問いかけた。頭の先から爪先まで奇抜なアラランタ博士がスカイブルーのタバコを吸う姿はそういう風に見えなくもない。脳味噌真四角の我らがリトル・キューは、後部座席でスリープモードに入っている。勝手に。
 アラランタは顔を上げ、奇妙な笑顔を作ると両手でネックレスのようなデバイスを掲げて見せた。ハンバーガー二つほどの値段で買える、ピアソラの首にも巻きついているデバイス。アラランタのそれは引き千切られ、安価ゆえにもう修理のしようもないとわかる。ラリって壊してしまったのか?それは困る。ヘルシンキ出身のアラランタはフィンランド語しか話せないはずだ。そしてブエノスアイレスで育ったピアソラはもちろん、フィンランド語などわからない。
 青くなるピアソラをよそに、アラランタはこちらに手を伸ばしてきた。何かと思えば、ピアソラのそれも同じように力任せに引き千切ってしまった。

「痛えよ。ああ、なんてことをしてくれるアラランタ博士…」
「ワハハハ!君が何を言ってるかわかる!これが無くとも!!あーあ、ヤツら、本当にやりやがった!!」

 ゾッとして、ピアソラは喉元を押さえた。アラランタの言ったことと、その意味がわかったからだ。口の中で、思わず神に縋る言葉を吐く。それがすっかりスペイン語だったのかさえ、もう判然としなかった。
 時間を遡行することに成功した人類は、過去を求める多くの人々がまず思い当たる大仕事に取り掛かった。過去を求める多くの人々は思う、“もしもあのときへ戻って全てなかったことにできたら”。初めは試験的に、ごく小さな取るに足らないことから。コツを掴んできたら本題だ。人類が誕生以来犯してきた罪を――例えばバベルの塔建設なんかを――“なかったことに”改変し、ゆくゆくは原罪の清算に至ることを最終目的としたこの計画は“大贖罪計画”と名付けられた。

「人類がその昔傲り高ぶってバベルの塔を作った罰は、さまざまな言語の誕生だった。今回全て計画通り成功したなら、バベルの塔は基礎が作られただけで放置されたことになる。到底神の怒りに触れる高さじゃないってわけだ。そして今回の成功は僕と君が話せることが証明している。僕たちは罰を受けていない!」

 アラランタは短くなったタバコを捨て、新しいショッキングピンクのタバコに火を付けた。バブルガムみたいな粘ついた甘い香りがピアソラの喉にまで流れ込んでくる。

「時に、“贖罪”って違うだろ、って思わないかい?贖罪って言葉には文字通り罪を償うって意味があるんだ。時には命をもってしてね。罪自体をなかったことにするのは贖罪とは言わない。まあそのへんも含めてのジョークだよ。科学者たちによるガリレオやコペルニクスの為の神への意趣返しだ。親ばなれを阻んだ親への腹いせに、親の所業の痕跡を消して、親自体をなき者にしようってわけだ」
「…」
「エル?神を畏れてるかい?」

 神を畏れてるわけじゃない。何を畏れてるのか…畏れてるわけじゃないのかもしれない。けど、まだ抜け抜けとこの喉で喋ることが恐ろしいのは確かだ。
 今回はバベルの塔。お次はなんだろう、ソドムとゴモラの風紀統制か?アベルを殺そうとするカインに考え直すよう迫るのか?キリストを裏切る前に、ユダを始末してしまうのだろうか。そしてゆくゆくは本当に、悪魔に唆されたエバの手から林檎を叩き落とし…。アラランタの言うとおりだ。これは贖罪じゃない。罪を償うのとなかったことにするのとでは天地ほどに違う。天地ほどに。人類は神の存在に結び付けられそうな痕跡をなかったことにしようとしているのだ。けど、俺は本当に熱心な狂信者ってわけでもないからな。ピアソラは考える。そんな人間の行動が神に対して畏れ多いとか、いずれ神罰がくだるに違いないとか、そんなことを畏れてるわけじゃない。では、なんなのだろう。この計画が始まった数年前から、ピアソラを包んでいるこの空虚は。神はいなくなったと、ピアソラに思わしめているものは。

「間違いなくエルは旧人類と呼ばれるようになるね!神を不必要に恐れ、進歩を前に尻込みする旧い価値観の人類だってね!」
「別に神の存在をまるっきり信じてるわけじゃない。バベルの件だって、ある標高にある条件を満たしながら達するとある物質が人々の脳に化学的に作用して言語が分散してしまうって物理法則でもあるのかもしれないし…」
「いいね、それ。というか、この大計画を先陣切って推し進めてる学者のお偉いさんだって結局はそれが言いたいのさ。神を人々の心や愛に作用するものとしては信じないけど、物理法則を神の具現化と信じることはできるってね、吸うかな?」

 アラランタは半分燃え尽きたショッキングピンクのタバコを差し出した。ずいぶんな吸いさしなことに文句を言うと「普段吸いもしないヤツにまるまる一本やるわけないだろ!?どうせ一口で飽きたとか抜かすんだ!」と返される。安いバブルガムみたいな味の煙を吸い込みながら、ピアソラはフロントガラス越しに広がる星空を眺めた。今や大地の方が空に染め上げられ、暗く沈黙している。
 そうだ。そういうことなんだ。ピアソラは思う。頭のいい方々はそんなの馬鹿げてるって言うのかもしれないが、俺からすれば意固地になって神を否定したり信じられるように曲解するほうが馬鹿げてる。俺にとって神はそういうものじゃないんだ。天地を創造したとか、傲り高ぶる人類に罰を下すだとか、真っ先に信じなきゃいけない存在だとか、神の具現化が物理法則だとか、そんな存在じゃないんだ。もっと気軽な…もっと人間同士の絆のように気軽で曖昧な…そんなものを信じるのは、そこまで旧人類的で愚かなことだろうか?

「エル、もう飽きたんじゃないか?」
「いや、たまにはいい。最後までもらうよ」
「なんだって!ミスター・キューが起きたら言いつけてやる、君のお嬢さんは不良にもタバコを嗜むようになってしまったって…なあ、ピンクのはそれが最後の一本なんだ、一口だけでも返してくれ」

 ピアソラは笑って、タバコを返しながらほんとひととき車内を眺めた。ドクター・レコ・アラランタの“楽しくない横顔”、テトリスのS-テトリミノのような形状になって眠るリトル・キューガーデン。最後の一人でもいい。いやきっと、いつの時代にだって最後の一人はいるさ、この先どのように世界がうねり変わっていったとしても。人類が神から親ばなれして早数千年、まだ絆を求め、出会い別れる人類はごまんといる。エルネスト・ピアソラはひっそりと、いなくなった神に感謝した。この出会いを。
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