眇たる神話
 真夜中過ぎに撫でたシーツには、期待していたような冷たさもなかった。目の粗い麻の編み目だけが、期待通りに指先をさざめかす。眠りたいときに眠れないことほど厄介なことはない。頭はぼんやりと重く、熱をもって霞んでいた。柔らかすぎる枕は、どのように置いても頭の鉢の凹みまで包み込んで鬱陶しい。月明かりは昼間のように心強く、太陽のようなざわめきこそもたないが、寝返りを打っても目尻の縁を追いかけてきた。月の光は冷たいが、その冷たさには温度がない。だから身体の下で、シーツはぬるく緩んでいくばかりだった。
 まばたきの音と呼吸の音しかない塔の中で、いく度目かの寝返りを打った。十度目かもしれない。百度目かもしれない。髪はとうにほつれ絡まり合い、砂のかたまりのように頬へ貼りつく。唇にまでかかる髪を掻き上げて、まぶたを閉じながらまろび出そうになるため息をこらえる。昔は濡れた芝の上でだって眠れたのに。小石混じりの砂の上でだって。こらえきれなかったため息は寝息のように細く深く、それがおかしくてまたため息が出た。
 あきらめて身を起こし、明かり取りの窓から差し込む冷たい光を逃れて、けれどもすることと言えばまぶたを閉じた。眠れないのなら、せめて夢を見る夢想に耽ることにする。昔は芝の上でだって眠れたのに。濡れた芝の匂いとしっとりした感触が、腫れぼったい脳の底からしずしずと這い上がってきた。柔らかな樹皮の脆く崩れる音が、耳元で聞こえた。ようやく見つけた乾いた枝木の踏み折られる小気味良い音。はぜる火の、円やかに大気を染みわたる熱の色。

 パルサーをよく休ませておけ。

 パルサーは馬の名前だった。今はもう蹄鉄のみになった馬。危機のない常歩のとき、左手の動くものに気をやる癖がある。無数に居た牝馬のうちの一頭で、取り立てて特別な馬ではなかったが、馬たちは皆等しく名前を与えられ呼ばれていた。パルサーのなまあたたかい鼻息。張り詰めた筋肉が、焦げ茶の毛並みを輝かす収斂。黒いたてがみに埋もれるように、毒矢が刺さり立っている。

 常歩ができるようになるまで休めば、皆と一緒に帰れるだろう。

 か細く嘶く牝馬の左手に、手指をかざした。薄い膜の張った目は曇り、ひらめく指にも気がつかない。鼻を鳴らす息吹は嗚咽のように細々しい。

 座って休めば、彼女は二度と立ち上がれないでしょう。

 記憶の中の自分の声が、唇ではなく顎骨を震わせながらつたった。パルサー。今はもう蹄鉄のみになった牝馬。私をいく度も栄光へ導いた、毒に侵された唾液が火に触れる、はぜる音と比べれば耳打ちにも満たない音、パルサー、哀れな牝馬、私の悪夢。

 ならばお前が魂を連れて帰るのだ。

 他の馬が乾き始めた枝木を踏み折り、火のはぜる音によく似たそれは倍音を生み出した。かざしたままの手で、収斂を始めた牝馬の顔を撫でる。左のまぶたから、顎をくぐって右のまぶたまで。温度はあるが、最早そこに魂は宿っていない。

 パルサーのために、お前のために、わたしのために。

 柄に置いたままの右手は、円やかに熱を帯びた大気の中で十分にほぐれている。濡れた芝の匂いも熱に当てられ、奇妙な芳香へ様変わりしている。私の牝馬。私の栄光。私の悪夢。今はもう蹄鉄のみになった馬。


 遠い夜を夢想してまぶたを閉じているのは名案のように思えた。はぜる火に湿った枝木が乾かされていく匂いを脳の底で嗅ぐと、あたたかい泥のような眠気に包まれる気がした。けれど焦げ茶の毛並みの煌めきや、毒に侵された唾液の輝きに唆されほんのわずかにまぶたを開くと、それだけであとはどうしようもなく冴え渡っているのだった。
 高い窓を見た。蝋燭もない丸い塔の中をくまなく照らし出すのに、充分以上の月明かりを許す細い窓を。月の光はふんぞり返り、夜空さえ露草色に染めていたが、それでもけなげに光る星々はある。あの中にパルサーはまだいない。神話なら、疑いなく星に召し上げられるようなけなげな牝馬だったのに。夜空の浅瀬を自由に駆け巡り、細かな星屑のしぶきを散らして存分に遊びまわる名誉が許されるような、哀れな牝馬だったのに。

 あの星はマグネター、おととしにわずか一歳で死んだパルサーの息子です。貴方の目に留まりますでしょうか。

 夜明け前の桃色を帯びた空が、まぶたの裏に広がった。上空でしか吹かない朝靄混じりの風が髪をみずみずしくもてあそぶ。眼下に広がる城下町は、まだ暗い夜に沈んでいた。町の端とつながった空はまだ暗さをのこして、ほんの隅に白く光るのが牝馬の永遠に幼い息子だった。まだ足踏みも満足にできないうちに死んだ幼な子は、広い空で居場所をつかみかねている。

 あの子は星に召し上げられたのか、殊勝なものだ。
 ええ、けなげで純真で哀れな人生を送ったものは、昔からそうなる決まりでございます。

 王が召しものを翻して立ち上がり、私は彼の影に入った。夜明けは最後の加速をし、みるみるその空の色を赤らませていく。薔薇色のすがすがしい朝靄が町まで降りてゆき、そして空の端まで見わたすかぎり一片の暗さも見えなくなる。星々は日中の眠りに入る。あの幼な子も。

 おお哀れな仔馬よ、夢で母親に甘えるといい。

 そのとき私は誇らしくてたまらなかった。私の王はこんなにも慈悲深く、魂を信じ、こんなにも心強い朝をもたらす。生けるものの道を陽光で照らし、死せるものの眠りを円やかにあたためる。あまねく王たるものの悲劇は絶え間なく、立ち入らずとも私の耳にさえ届いたが、それでも私の王は夜空でもっとも明るく燃えさかる星になるだろう。そして、その瞬間を遠ざけつづけるために在れることを、王の騎士であることを至上の誇りであると感じたのだ。

 騎士よ、わたしの黒い騎士よ。お前の言うとおりならば、わたしは死しても星に召し上げられることはないだろう。

 王の言葉は朝焼けに似つかわしく静謐で、私は束の間速まった鼓動を悟られぬよう言葉を選ばねばならなかった。

 私がお側に侍る限り、貴方が結末を知ることはないでしょう。けれどなぜ、そんなことを仰るのです。貴方ほどの王が、最後にして至上の名誉を授からないはずがありません。
 それこそが答えだ。わたしが栄光に浴した王だからだ。生けるものが誉れを得る手段は数多にあるが、純真を犠牲にしない手段はない。

 山々を水色に染め直しながら顔を出した朝陽を御身に浴び、逆光となる王の影に私は入る。パルサーはこのときまだ生きていて、この時間は厩で他の馬たちと眠っていた。その傍らに息子はいない。太陽が昇りきるまでの束の間だけ、牝馬は自身の夢で息子に出逢う。

 死せるものの誉れは、生けるもののためにあるのだ。わたしの誉れを必要とするものはない。わたしが王だからだ。そしてお前が騎士だからだ。

 王は召しものを翻し、塔の中へと踵を返した。私は寄り添い歩く。まばゆい王国の朝陽の中で、王に寄り添い、王の敷く道を、王の影の中を歩く。


 夜は更けゆき、細く高い窓から見える星々がようやく濃さを増していく。月明かりも影を敷くが、それは私には必要がないものだ。

「もし、騎士さま。起きておいでですか」
「起きているとも」

 その呼び掛けがあまりにか細く、いかにも心細げなので、どこからでも私の姿がよく見えるよう月明かりの中へ座りなおした。窓からもっとも遠い場所。丸い部屋のもっとも暗がりの部分に、声よりもよほど儚げな女が立っている。青白い肌も、さほど変わりない色の衣服も、結いあげた黒い髪まで茫として風景から浮いていながら、その輪郭は淡くにじんでいる。手にした燭台の頼りない明かりにさえ、儚く存在を飲まれようとしている。一瞬のちに蝋燭が燐光を燃えあげ飲まれ消え入ってしまう、そんな情景を容易く連想させた。
 女は私の答えには唇を開くことすらなかった。思えば先ほどの呼び掛けだって、ようやく絞り出したような心もとなさだった。女はただ、丸い壁に沿って進んでいって、上へと続く螺旋階段の手すりに手をかけるともう一度、私の姿を捜すように丸い天井を仰いだ。盲者なのかもしれない。それも生まれつきの盲者ではない、まだ盲いてから日の浅い、暗闇の広さに慣れきっていない盲者なのかもしれない。
 私は寝台から降りて歩いてゆき、少し迷ってから女の肩を撫でた。女はかすかに振り向き、茫とした瞳を彷徨わせかすかに頷いた。そろりそろりと、生まれてはじめて立って歩くかのような足取りで、女は螺旋階段へ踏み出す。一段上るだけで、女は儚く崩れ去ってしまいそうだった。片手に燭台を握りしめているので、もう片手でやっと手すりに縋り付いている。私を導き誘う女は、例えようもなくけなげで純真で哀れだった。
 丸い壁に沿って彫り出された素朴な階段を、女について一段ずつ上っていく。太古の昔にきめ細やかな砂が固まってできた岩を削り出して造られたそれは、今また永い歳月を経て砂へ還ろうとしていた。角は取れ、時折小石などが転がっている。女が足を取られないかと気を揉んだが、女は根気強く一歩一歩進んでいく。小石混じりの砂の上を歩く。昔は小石混じりの砂の上でだって眠れたのに。ふと、不眠の混迷を思い出したが、それはもう遥か眼下の寝台の上に置き去りにされていた。

 騎士よ、わたしの黒い騎士よ。わたしの身体は重いだろう。一度あの松の下で休むといい。
 いいえ王さま。ちっともくたびれてなどいません。もう少し進みましょう。それだけ早くお城へ帰れます。

 王の身体は亜炭のように重かった。ぐったりと力なく、召物が長く尾を引いてはるか後ろに過ぎ去った防砂林に縋り付いているかのようだった。何度も腰を入れて背負い直し、いい塩梅の力の入れようを探したが、よくはならない。悪くなる一方だった。私の身体は先ほどから縮み続け、もはや10過ぎの子どもほどしかない。腕は筋張って細く、合わなくなったポイレンとグリーブを脱ぎ捨てた脚は哀れなほどに膝小僧が赤らんでいた。一歩踏み出すごとに小石混じりの砂浜に足がめり込み、からかうように柔らかく私の足を取った。それでも、ちっとも疲れていないのは本当だった。

 ごめんなさい王さま、さっきから身体がどんどんちいさくなってしまって、私の背中は頼りなく思えるでしょう。しばし辛抱なさってください。
 わたしを背負っているから潰されて縮むのだ。お前が芥子粒になってしまう前に、あの防砂林の下で休もう。
 いいえ王さま、お城まで、止まりはしません。

 空は見たこともないほど白く暗く、押し寄せる海は泡立って鈍色をしていた。白い空と、鈍色の海と、黒い松の林と、鼠色の砂浜と。風景はぜんふ合わせてもそれだけだったが、どれも見たことのないものだった。私は薔薇色の朝靄と、さんざめく昼間、召し上げられたものたちの白く煌めく紺碧の夜しか見たことがない。彩度を失った風景は、王の嗄れゆく声と同じくらいに不吉だった。でも、城へ帰れば。あの塔へ帰れば、きっと。
 王はしきりに私に休めと言った。たっぷりと繁り風を防ぐ松の下で休めと。もしかすると、王が休みたかったのかもしれない。私の背中は頼りなく、いく度も王を落としかけた。けれど頭の中まで身体に合わせて縮んでしまった私には、気を回す嗜みのひとつも残っていなかった。ほんの寸暇も惜しかった。一刻も早く城へ帰らねばならなかった。城へ帰れば、城へ帰ればきっと。

 ああ、なに。波からは充分にはなれているのに、さっきから雫が私を濡らすのです。しぶきがここまで届くのでしょうか。
 なに、これは雨だよ、雨というものだ。空から雫が降り注いでいるのだ。大丈夫さ、すぐに良くなる。さあ良い子だから、あの松の下で休みなさい。
 いいえ王さま、早くお城へ戻らなければ。ごめんなさい、辛抱なさって。

 王はしきりに私に休めと言った。本当は王が休みたかったのかもしれない。雨を阻む黒い松の下へ最早立ち上がることができない王を横たえ、幼い息子のように寄り添えば、そんな風景の中で王は、私に何か話して聞かせるところを夢見ていたのかもしれない。けれど私は止まらなかった。ちっとも疲れていなかった。七歳の腕で王の老いゆく身体を抱え直し、素足に小石を刺しながら一歩一歩先を急いだ。老おいさばらえていく王の身体を冷やしながら、王と二人、人生でただ一度の雨に打たれながら、七歳の脚で走った。


 螺旋階段の終わりが見える頃、女は女の形をかろうじて守っているに過ぎなかった。角の取れた段差にほとんどうずくまり、乾いた土に溶け込むようにほんの僅かずつ進んでいた。最早手すりを掴む指の分かれ目も判然としなかったが、燭台だけは後生大事に、水平をたもって捧げ持っていた。そしてついに上りきり、塔の最上階へと辿り着くと、ようやくそれとわかる手で私に燭台を差し出した。

「ありがとう、パルサー」

 冷え切った燭台を受け取り、最後に形を残していたまぶたを撫でる。私の悪夢は長い睫毛を伏せ、ついに形を失って消え果てた。
 光を失った燭台を捧げ持ち、最上階の小部屋の扉を押し開ける。長らく締め切ったままだった扉は、それでも蝶番を小さく鳴らしただけだった。死せる牝馬の嘶きのように。
 小さな円形の部屋は四方に広大な窓を持ち、その全てが開け放たれている。静かな夜風が私の髪を撫でたが、部屋の中央で沈黙する寝台は埃の一片すら舞わせることはない。そこには王が眠っている。ずっと。長いあいだ、この城が灯台の役目を果たさなくなって久しいが、その頃からずっと長いあいだ、眠りについておられる。死の眠りではない。だが、目覚めることのない眠りだ。
 燭台を床に置き、私は低い姿勢のまま寝台へにじり寄った。そこには私の王が眠っている。今の私とそう変わらない、もっとも健やかで峻厳であった頃の姿で目覚めることのない眠りについている。星に召し上げられることもなく。

「王よ、私の王よ、私の」

 あとは言葉にならず、私は王の枕元にうなだれた。シーツに押し付けても髪はほつれも絡まりもせず、ただ沈むように広がって私のまぶたを覆った。王よ、けれど幾星霜経とうとも、騎士より先に王が崩御することはないのです。貴方が王であるから。私が貴方の騎士であるから。幾星霜経とうとも、星に召し上げられることもなく。

 まぶたを閉じる寸前、広大な窓に、広大な夜空に輝く星を見た。あれはパルサーだ。寄り添う小さな白い星は、彼女の永遠に幼い息子だ。私の悪夢はわたしの心に最期の平穏をもたらした。かつて太陽だった王と影であった騎士の星座を見るものはない。必要とするものもまた、どこにもいない。



(眇たる神話)
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