墓標並木
 黄昏にもうもうと咲き誇る桜並木の下を、ものすごい笑顔で歩いてくる喪服の人。ひょろりと背が高いその人は、やはりスイセンさんだ。いつも快活な笑顔でキビキビ働き、ともすれば何をするにも駆け出しそうなスイセンさん。きっと明朗な高校球児がそのまま大人になったらこんな感じであろう。いかにも体育会系の成年男子といった風体の人である。

「やあやあ、お待たせしました。遠方から里帰りしてきた家族の桜を一緒に探しておりましたら、こんな時間に」
「いえ、そういうのこそ我々の務めでしょう。お気になさらず」
「とはいえもう夕方だ。申し訳ないが急ぎましょう」

 キビキビと肩で風を切って歩き出すスイセンさんを、文化系の私はモタモタと追い掛ける。わんさと降り注いでくる桜の花弁を振り払い、ペッペッと吐き出しながらスイセンさんの後を追う。桜並木は町を縦断し、後にも先にも果てなく続いている。そのどれもが相当な年寄りの木で、てっぺん付近の薄ピンクの花弁はほとんど雲と見分けがつかない。しかしまあなんと真っ青で花見日和の空だろうか。アホみたいに存分に空を仰ぎながら歩いていたら喪服の婦人とぶつかってしまった。慌てて地上に視線を戻して謝り倒す。喪服の婦人は心地よい笑い声で許し、舞い散る花弁にはしゃぎ倒す喪服の幼児を伴って通り過ぎて行った。すれ違う幾十幾百の人々は皆喪服を着ている。もうもうと咲き誇るピンクの桜を背景に、真っ黒な影法師が楽しげに行き交いレジャーシートを広げ花見弁当をつついている。桜並木の桜の一本一本には根元に立て札が刺さっている。◯◯家之墓、××家之墓、□□家之墓…。

「さあ我々の桜はこちらです」

 にわかにスイセンさんが明朗快活な声を上げ、並木道からほんのわずかに外れた桜を指し示す。いっそう古めかしく心なしか少し捻れたその桜の根元には、『無縁仏』の立て札が刺さっている。

「こういう桜は今日のような日でも誰も参る人がありませんから、我々職員が担当するのです」
「一体誰のお墓なんです」
「この町に縁もゆかりも無い方です。我々のように」

 確かに私はもっと桜の時期が早い西の生まれだし、スイセンさんも勤めるようになってこの町へやってきたと聞いている。
 スイセンさんは喪服の上着を脱いでしまって、持参したレジャーシートを広げようとしていたが、どうにももたついているので私が代わってシートを振るった。「やあ、ありがたいです」と汗を拭う間もなくキビキビ花見弁当を広げにかかるスイセンさんは、いつも右腕にだけアームカバーを嵌めている。

「しかしお盆の代わりに桜の時期に総出で墓参りとは、面白い町ですね」
「真夏に桜を参ったって仕方が無いでしょう」

 黄昏の中、スイセンさんがニヤリと笑う。それはそうだが、そういうものなのか。遠くで大歓声が上がる。酔った喪服の親爺が重箱の蓋で見事な皿回しを披露している。どの桜の下も似たり寄ったりで、おそらく親族総出総喪服の大宴会と化している。

「やってることはほぼほぼ花見の宴会だし」
「桜の前でしんみりしたって仕方が無いでしょう。それに亡くなった方だって、墓前でしんみりされて嬉しいのは最初のうちだけだと思いますね。あとはやはり楽しいほうがいいでしょう」

 スイセンさんはビールの栓を開け、明朗快活な笑顔で私に紙コップを手渡した。黄昏に濃く染まった無地のコップに、桜の花弁がまるごと落ち入る。あっと声をあげる間もなく、スイセンさんは勢いよくビールを注ぎ込んでしまった。分厚い泡に閉じ込められ、花弁の生死は杳として知れない。生死。この町の桜は遍くこの町の住人の墓なのだ。この町に墓地や墓石というものは無く、代わりに桜の木の根元には死体もとい遺骨が埋まっている。我々の尻の下、レジャーシートの下、土の下にも、桜の張り巡る根に守られて、縁もゆかりもない誰かが眠っている。


 さあさあ起きてください、と揺り起こされて、私は自分が眠っていたことを知った。よもや酔い潰れたのか、そんなことはこれまで一度もなかったし、酒には強いつもりであったのに。あたりはすっかり暗く、町の住人総出かと思われたひと気も綺麗さっぱりなく、桜だけが夜空へ伸び上がる積乱雲のごとくもうもうと咲き誇っている。

「さあ起きて、それからこれをどうぞ、あなたが掘るのですよ」

 スイセンさんは聞き分けのない子供のように、まだ呆けている私を引っ張り起こす。子供のような振る舞いだが彼は体育会系の成年男子なので、私などは一気に引っ張り上げられ立ち上がってしまう。
 スイセンさんが私に押し付けたのは厳ついスコップであった。私の手まで取ってキビキビと握らせると、さあさあとスイセンさんは私を促す。

「さあここです、ここを掘ってください、この辺りですよ、多少根を傷付けたって構いません」

 さあここを、ここを掘ってと、まるでもう少し焦らしておけばワンワンと言い出しそうな勢いで促され、私はぼんやりとした頭のまま桜の根元へスコップを突き立てた。
 土は黒く硬く、冷たさがスコップを伝って駆け上がってきた。乾いていたのは表面だけで、あとは突き立てるたびに暗く湿った土が冷たく飛び散る。まるで血しぶきのようだ。そう思った瞬間、私はようやく覚醒し、自分が何をやっているのか、何を掘り起こしているのかというおぞましさにとらわれた。

「スイセンさん、あなた、私に何をさせているんです」
「大したことではございませんよ」

 人に無縁仏の墓なぞ掘り起こさせておいて、よくもまあ抜け抜けと。こうなると明朗快活な笑顔も月影すら相まってひどく胡散臭く見える。完全に掘り起こしてしまう前でよかった、これでスコップの先に骨壷など当てていたら当分目覚めが悪くなっていたところだ。

「さあさあ大したことではございません、早く掘るんです。夜半までには掘り起こさねば」
「私はこんな罰当たりなことしたくありませんよ。スイセンさん、どうしても掘り起こしたければあなたが掘ればいい」
「あなたが掘らなければ意味がないのですよ、あなた、俺の後任者でしょう。罰など当てはしませんよ。これは俺の墓です。さあわかったら早くやってしまうんです」
「…」
「やりなさい」

 何を戯れ言を、この桜は無縁仏じゃないかと思うも、確かにスイセンさんの墓だとしても無縁仏で間違いないのだった。スイセンさんはこの町に縁もゆかりもない。私と同じように。
追及する気も抵抗する気も失せてしまって、私は黙って桜の根元へスコップの刃を突き立てた。スイセンさんもそれきり黙っていた。次第に深くなる穴の中は暗く、判然としない。ただ時折ごっそりと降ってくる桜の花弁だけが、私の意識をつかの間はっきりさせる。つかの間の覚醒の隙に、私はこの町へ来た理由を考える。ほんのつかの間に。それ以外は黙々と掘った。幾度か根を傷付けたかもしれない。それどころか、勢いに任せて突き立てるスコップの刃で断ち切ったかもしれない。最早気にしなかった。戯れ言に倣うなら、これはスイセンさんの桜なのだろう。私は黙々と掘った。スコップの先が土ではない硬い何かに突き当たり、白く光るものが見えてもなお掘った。

 そうして私が掘り出したのは、白木でできた素っ気ない棺だった。

「当然これもあなたの棺なのでしょうね」

 文化系の私は息も絶え絶えに、地面に刺したスコップに縋って立った。言葉尻に半信半疑の嫌味が乗るのを気にかける余裕もなかった。冷たい汗の貼りつく肌に、さらに容赦なく注ぐ桜の花弁が貼りついて鬱陶しいことこの上ない。それまで黙って立っていたスイセンさんはフラフラとらしくなく、吸い寄せられるように穴へ降り、長らく埋まっていたはずなのにしみ一つ無い白木の蓋を撫でた。

「当然そうです。あなたはご存知ないでしょう、取るに足らないことですし、でも俺にとってはこの世のすべてに等しい大事件です。つまり、俺は死んでいるのです」

 スイセンさんの囁き声があまりに明朗快活から遠く、聴力検査の電子音のように消え入りそうな繊細さを帯びていたので、それで私の中の半信半疑はどこか遠くへなりを潜めてしまった。
 スイセンさんは棺の蓋を開けようとした。しかし昼間にレジャーシートを広げようとしていたときと同じもたつきが右腕にまとわりつき、うまくいかないようだった。私はスコップを倒し、穴の中へ降り、慣れない重労働で既に悲鳴をあげつつある身体に鞭打ち、彼に代わって蓋へ取り付いた。桜の根の下に埋まっていたはずなのに汚れもしていない白木は重く、また内圧が下がっているのか接着されている様子もないのに少し開きそうにない。これは片腕ではとても無理だろう。私は最早無我夢中になり、額から汗をぼたぼた落としながら、渾身の力で白木の蓋を引き剥がした。

「嗚呼、」

 スイセンさんの暗い溜め息が、すぐ耳許で聞こえた。棺の蓋は派手な音を立てて開いたはずなのに、その深く細い呼気の音の方がよほど鮮明に聞こえた。私は白木の蓋とともにひっくり返り、土と降り注ぐ桜の花弁にまみれる。疲労困憊した腕でなんとか蓋を押し退け起き上がると、棺のそばへ侍るように跪き覗き込むスイセンさんの横顔が見えた。紺色の夜空と薄灰色の桜と喪服の黒から、その横顔はぼうっと浮いていた。

 俗な妄想をした。
 棺の中には干からびたスイセンさんの死骸があるのだと。
 死骸とまみえたスイセンさんは、暗い溜め息とともに消えてしまうのだと。

 私は立ち上がり、フラフラとスイセンさんの背後に立った。彼の肩越しに中を覗き込もうとしたが、何かが私を思いとどまらせた。そんな破廉恥極まりない行為は許されないと、そんな考えに取り憑かれる。『あなたには取るに足らないことだけど俺にとってはこの世のすべてに等しい大事件』をひっそりと背負ってきたスイセンさんの背中は、そんな横暴を働くにはあまりにひょろりとしている。

「覗いていただいても結構ですよ」
「いえ、とても、そんなことは」
「あなたには些細なことです。覗いたってなんにもなりません」

 そう言ってスイセンさんは振り向いた。笑顔は普段のように明朗快活であったが、この降り頻る桜の花弁が彼のほんの肩口にさえ舞い降りないのを見て、私の口からも暗い溜め息が漏れた。

「もう随分昔のことになりましたが、私はここへ私の死骸を埋めました。それで生きていけるかと思いましたが、どうにも。死んでしまったものはどうしようもありません」

 スイセンさんが立ち上がって身を引くので、否が応にも棺の中が見えてしまう。そこは虚空だった。想像よりもずっとずっと深く、暗く、その淵のような底に、土で汚れた何かが、見えた。

「それでもう、迎えに来ました」

 なぜか快活な笑い声をあげながら、スイセンさんは棺に脚を踏み入れた。落ちる、と思ったが、スイセンさんは平気な笑顔で立っている。春の最中にいまだ冷たい夜風が容赦なく私の頬へ桜の花弁を叩きつけた。しかし、スイセンさんの身体にはひとつも纏わりつくことがない。取り落としたスコップをもう一度拾い直しながら、私は私の前任者に問うた。

「これからもしょっちゅうこんな仕事があるのですか」
「いえ、これきりでしょう。ですからちゃんと埋めてくださいね。あなたがやらなければ意味がないのです、俺の後任者なのだから」

 スイセンさんは笑顔のまま、仄暗い目を棺の底へ向けていた。そしてふいにその目を私へと向け、つかの間笑顔を忘れて唇を歪める。

「あの日は二度かえらないのに、春だけは毎年巡ってきて、桜だけは同じように咲くのです。惨いと思いませんか」

 私は答えることが出来なかった。
 しかしそんなことは見透かされていたらしい。スイセンさんは私の逡巡を待つこともなく視線をずらし、虚空の底で眠る使い古しのミットへ向かって暗い笑顔を向けた。まるでそこに答えがあるとでも言うように。


 元どおりに土をかけ終わる頃には遠く朝日の気配があった。土と桜にまみれて酷い有様の私は、一晩中酷使して疲労困憊の身体を地面へ投げ出す。まだか細い朝日に逆光になって、捻けた桜の古木は儚げな輪郭を晒す。絶えず花々をざわめかせて、ほんの短い花盛りを浪費し散らしていく。某無縁仏は「死んだ人だって墓前でしんみりされて嬉しいのは最初のうちだけ」と言っていた。裏を返せば最初のうちくらいは誰かにしんみりしてほしいということだろう。スイセンさんは無縁仏なので、せめて私くらいは桜の前でしんみりしてやろうと思った。次に水仙の花が咲き、私の務めが終わる頃までは。



(桜ヶ塚町の墓標並木)
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