そんな人はいなかった
 このあいだと同じように、石畳にぽつんぽつんと置かれたテラス席のそのいちばん川縁の席に八廻部さんは座っていた。フォトジェニックなパンケーキを求めてやってくるのは女の子たちと相場は決まっているので、聳え立つ生クリームの山を前にしていない八廻部さんは目立っている。午後になってやっと吹き始めた穏やかな風が、くたくたのシャツのしなしなの襟を痩せ細った首筋に打ち付けている。
 少し歩けば汗ばむような陽気なのに、八廻部さんはこのあいだと同じように薄い色の上着をだらりと着込んでいた。そのうえぐったりと椅子にもたれている。けれどその様子を暑そうだ、と言ってしまうのはなんだか違う。眠そうだとも、疲労困憊で今にも河川敷へ滑り落ちそうだとも、言えるには言えるけど言い切ってしまうのはなんだか違う。やはり、ただ意味もなくぐったりしていると言うのがしっくりくる。ちょうど同じ塩梅にただぐったりした柳の枝が頭のすぐ上で揺れていて、それで八廻部さんは長年そこに立ち続けて疲労困憊した柳の悪質な精霊みたいに見えた。
「やあ。また来たね」
 俺がうず高く鎮座ましましたる生クリームの山をテーブルに置くと、八廻部さんはほんの0.5度程度顔を上げた。柔らかい西日を受けて薄い色になった瞳は確かに俺に向けられているのに、俺を突き抜けて遥か彼方を見やっているように感じる。にっこりとしているけれど、彼が笑うところを見るたびに「初めて笑ってるところを見た」と思っている気がする。八廻部さんはそういう人だった。


 八廻部さんに初めて会ったのは四月の終わりごろだった。だからまだひと月も経っていない。
 その日の放課後、俺は初めて小神学校へまっすぐ帰らないことにした。訳もなく中華街をふらついて、浜町の商店街をさまよって、同じようなことをしている少年少女ってたくさんいるんだなあとひとしきり感動したあと、中島川をだいぶ遡ってしまってからお腹が空いたと気がついた。小さい頃は律儀に連ねられた眼鏡橋の他は何もなかった気がするのに、いつのまにかモダンかつ超センスが良くてかつ景観にさえ溶け込んでいるお土産屋なんかが増えていて、その最たるものがパンケーキ屋さんだった。パンケーキ屋さん!そんなものが現実に存在するなんて。ここで言う現実ってのはすなわち俺の手の届く世界という意味であって、パンケーキ屋さんなんてものはクラスの女の子たちが幸せそうに眺めている雑誌の中にしか存在しないと思っていたのだ。というカルチャーショックも手伝って、俺は気づくと1000万分の1スケールの積乱雲模型をのせたパンケーキを持って立っていた。
 平日の午後なのに、むしろ平日の午後だからこそ店の中は幸せそうな女の子たちに占領されていて、テラス席も概ねそうだった。場違い感に足が竦むも、この砂糖と牛脂肪分でできた夢の積乱雲をどうにかしないことにはどうしようもないし、しかしそもそも空いている席が見当たらないし。身を竦めながら首を伸ばすというその矛盾に気づいていないからこそ出来た芸当でもって必死に空席を探す。そうして八廻部さんを見つけた。いつも同じように、あろうことかパンケーキもなしに席を一つ占領し、ぐったりと椅子にもたれている八廻部さんを。
 生クリームの山を抱えて、それは年頃と生まれついた性で、見ず知らずの女の子に相席を頼むよりは見ず知らずの怪しいおじさんに相席を頼むほうがまだいい、と俺は思った。それであの日初めて会った、いかにも怪しげな八廻部さんに相席を頼んだのだ。
「あの、この席、」
「どうぞ、ご自由に」
 言い終わる前に、八廻部さんはぶらりと腕を動かして、自分の向かいの席を指し示した。手の形は曖昧で、指先まで力を入れるのを面倒臭がっている感じ。ついでに分かりきった文言を最後まで聞くのも面倒臭がっている感じだった。日頃から先生に「何事も、最後まで、はっきり大きな声で喋ること」と言い含められていた俺は、なんとなくもぞもぞしたまま席についた。
「それはいいけど、お礼が欲しいな」
「え?」
 喉元過ぎればむにゃむにゃ、生クリームの積乱雲のどこにフォークを突き刺せばいいのか、もうそれしか考えていなかった俺は甘美な苦悩をいったん振り切って顔をあげる。八廻部さんは俺を眺めていた。確かに目と目が合っていて、俺たちは顔を見合わせていると思うのに、同時に喉の奥や学生カバンや詰め襟の校章バッジや胃の中をも、むしろそういった俺を構成する要素ばかりをじっと見つめられている気がする。八廻部さんと向かい合うとき、今もそんな感じがする。
 けれどその時の俺はそのもぞもぞした感覚をまだ説明できないでいて、居心地の悪さを説明し振り払うのにいろんなことを考えた。そして最終的に、なんでこの人はパンケーキ屋さんに居座っていながらなんにも注文していないんだろう、と気になって気になって、最初にフォークで避けておいたロイヤルブルーのサクランボを摘み上げた。
「じゃあ、これをあげる」
「それももらうけどね、もっとさ」
 パンケーキの半分くらいも取り上げられるのかな、といっそ悲劇的になった。わざわざ小神学校の規則を破ってこうしているのに、いや、そもそもそういった冒険にこそ必要なアクシデントかもしれない。後で笑い話になるような。
「話してくれないかなあ。お友達のことなんか。なんだっていいんだ。本当につまらないことでもね」
 半ばそんな覚悟を決めていたので、なんだそんなことでいいのか、というのが顔に出たんだと思う。八廻部さんがそうそうそんなことでいいんだよ、とでも言うような顔をしていたからだ。そうでなくとも八廻部さんには俺が何を感じているのか、それこそ頭の上で揺れる柳の枝を目で追うように造作もなくわかるようだった。不思議とイヤな感じはしなかった。本当かな。本当にイヤな感じはしていない?イヤといえばイヤかもしれない。けど、イヤと言い切るほどでは全くない。むしろ妙な安心感のようなものすら覚える。だからといって安心感を覚えると言い切ってしまうのも違う。だって現に、イヤかもしれないとは感じている。八廻部さんと向かい合う時、すべてのことがそんなふうに曖昧になる。混ざり合ってしまう。自分が何を感じているのかはっきりしなくなってしまう。八廻部さんには造作もなくわかるようだけど、教えてくれるようなことはないし。比較的はっきりしているのは、結局俺が八廻部さんに話してもいい、話してしまいたいと思っていて、それだけはずっと変わらずにいる。それを八廻部さんは「何にでも懐く」と評しているのかもしれない。
「本当につまらないことでもいいの?」
「本当につまらないことでも、大好きなんだよ、人間が人間について話すのを見るのがね」
 聞くのがじゃないんだ。ふとそんなふうに思ったのは、ずいぶん後になってからだった気がする。


「八廻部さんは今日は何も頼んでないの?」
「コーヒーを頼んだけど、豆を挽く機械が調子が悪いだかなんだかね。代わりの飲み物がすぐ来るってよ」
 へえ、と言いながら、俺は生クリームの積乱雲からサクランボを摘み上げて八廻部さんに突き出す。ロイヤルブルーなんて素っ頓狂な色をしたサクランボ。これは最初にあげたときからずっと、八廻部さんにあげることにしている。パンケーキ屋さんに来てわざわざパンケーキを頼まずにいる人なのだからこんなものは食べないかと思わないでもなかったけど、八廻部さんは嫌な顔ひとつしない。嬉しそうな顔もしないけど。手のひらに青いサクランボを乗せると、八廻部さんはもう片方の手でそれを摘み上げて、珍しい青い果実をじっくり眺めてみるようなふりをしながらその実あっという間に丸ごと飲み込む。ヘタもタネも、吐き出すところは見たことがない。サクランボがのっていたほうの手のひらをべろりと舐めるまでの一連の流れはなんというか、人間よりももっと原始的な食欲に素直な動物みたいだ。気づくともうおしぼりで優雅に両手を拭いている八廻部さんを眺めるこの気持ちは、懐いてくれたワンちゃんに内緒でオヤツを与えてみたときの気持ちにかなり似ている。
「君はまあ、懐くよね」
「え?なにに?」
「なんにでも。犬のように。いいことさ。褒めてる。誰にでも気さくで、愛情深くていいことだ」
 ちょうど八廻部さんのことを懐いた犬みたいだと考えていたところだったので、笑ってしまった。八廻部さんも笑う。俺はもう何度目か、「初めて笑ってるところを見た」と思う。
「今日は誰の話をしてくれるのかな」
 ぐったりと椅子に深くもたれたまま、八廻部さんはそう切り出した。その頭の上で、柳の枝が揺れている。ぐったりと、まるで使い魔かなにかみたいに。女の子たちの幸せそうな囀りが遠くなった。西日が優しそうな色だけはしながら頬を焼き付けて来る。八廻部さんはちっとも暑そうじゃない。西日とまるっきり同じ色になった瞳で、ぐったり揺れる柳の枝先を追っている。俺は生クリームの山にフォークを刺す。
「あのね、」



 熊谷先輩は同じ小神学校の寮生で、同じ東陵高校に通う先輩である。短く刈った頭髪と黒々とした眉毛の凛々しい、なぜか一年中日焼けしている、第一印象が高校球児でこれが高校球児でなかったらいったい彼はなんなのだ、といった風貌の男子高校生である。彼が高校球児でなかったら何なのかと言うと神父の卵なのだけど、神父の卵の道を選んでいなかったらやはり高校球児だったんじゃないかなと思う。実際、小学校卒業まではリトルリーグに所属していて、小神学校に入ると決めたときには監督からたいそう残念がられたそうだから。
「じゃあもしかしたら先輩はプロ野球選手になってたかもしれないってことですね。すごいなあそんな才能持ってて、なんだか勿体ない」
「子どものときにちょっと上手かっただけでそこまで買い被られるのも居心地悪いなあ」
「でもでも、このテレビに映ってるのは先輩だったかも」
 高校の食堂でたまたま一緒になって、暑そうなグラウンドを映し出すテレビを指差した。汗だくの球児たちが代わる代わるグラウンドを転がっていく。そもそも野球引いては中体連高体連に縁のない俺はイマイチ放送されているそれがなんの大会なのか分かってない。それでもこんなに綺麗に放送されているなら大した試合のはずだ。
「うーんそうだなー」
 熊谷先輩は目を糸のように細くしたまま間延びした声を出した。笑うときと困ったとき、切れ長の一重の先輩の目は糸のようになる。間延びした声の先はほんのちょっとだけトーンが落ちた気がした。否定しないところが。自信過剰なわけじゃなくて、自負があるわけでもなくて、実際そこに立っている自分を想像してみたことがあるんじゃないかと、なんとなくそんな気がした。
「まあでも実際、俺はここにいるわけだから」
 なんとも歯切れの悪い事実を述べて、先輩は話を打ち切った。あとはもう、夏休みの補講がどうだとか、小神学校の授業との兼ね合いだとか、神学校へ入るための勉強がどうだとか、そんなことばかりだった。なんだか先輩のちょっとした個人的なところへ無遠慮に踏み込んでしまったような罪悪感があったが、先輩と楽しく話すうちにそんなことも忘れてしまった。

 熊谷先輩は実際優しい。何かに激しく激昂するところなんて見たことがないし、いつも笑っているか困っているかだ。たぶんマイナスイオンを出していると思う。キリッとした高校球児風の見た目に反して、いつも春の木漏れ日溢れる木陰のような癒し系のオーラを纏っている。だから俺は、小神学校で歳が近いのが先輩くらいだというのを差し引いても懐きまくっているし、先輩のほうも、懐き返すというのは流石にないにしても可愛がってくれているはずだ。
 まだ俺たちが中学生だった頃、どうせ帰る寮は一緒なのだからと授業が終わるや否や上級生の教室に熊谷先輩を迎えに行っていた時期がある。どう考えても鬱陶しいことこの上ないのに先輩が文句を言ったことはなかった。後輩にこれだけ懐かれている先輩を、所詮は俺と同じようにアホな中学生だった上級生たちが単に畏敬の念を持って見ていたことだけが今にしてみれば救いだ。
 ある日いつものように先輩を迎えに行くと、先輩は教室にはいなかった。まさか置いて帰られたのかと徐々に絶望の渦へ沈み込んでいたら、見かねた上級生が先輩の居場所を教えてくれた。先輩は、ベタもベタに体育館裏に呼び出されているのだという。女の子から。すぐに助けに行ってやれ、と面白がる野郎どもと、絶対に邪魔しに行っちゃダメだからね、と目を剥く女性陣がピーピーやり合い始めたところらへんで、俺はようやくそういうことかと悟ったのだ。そういうことか!そうなのか!先輩は!女の子に告白されているんだ!!!
 どうやってその場を脱出したのかは忘れちゃったけど、その次の記憶は自分が告白されたわけでもないのにソワソワ校門付近をうろついていた俺に、やはりあの困った糸目の笑顔で近づいてくる熊谷先輩の姿だ。その凛々しい歩き姿と困った笑顔と身に纏うマイナスイオンのオーラを見て、そりゃそうだよなと俺は思った。そりゃ先輩にそういうことは起こりうるよな、起こりうりまくるよな、今まで無かったのがおかしいくらいだと。
 その呼び出し事件がどういう結末を迎えたのか、熊谷先輩は喋らなかったので知る由も無い。けれど俺は学習し、ただでさえ奉仕の精神でプライベートがジリ貧の小神学生だとしても、だからこそ、先輩には先輩のプライベートな時間が必要なのだと理解した。理解して、教室に迎えに行くのを週3に減らした。それでも十分鬱陶しいというのは、そこは中学生だから、まだまだお子ちゃまだったからということで勘弁してほしい。俺だって熊谷先輩が大好きだったのだから。

 熊谷先輩のような人が神父になるのだろうなと思う。まだ高校生なのに、佇まいとその姿勢は小さな頃に思い描いていた「神父さま」そのものだと思う。我らが寮監のスエナガ神父よりよほど神父らしい。俺たちが中学生だったとき、小神学校で一番歳上だった先輩は厳しい人で、規律や寮則を少しでもはみ出そうものなら鬼のように怒られた。それが守らなくてはならないもので、破ってはならないものだからだ。
 けれど今いちばん年長の熊谷先輩は違う。俺が髪を金色に染めてみたときも、先輩は怒るのではなく最初に「どうして」と言った。
「どうしてそんなことする必要があるんだよ」
 先輩の部屋の床に正座して、俺は眉を下げた。そう理知的に来られると困ってしまう。これがさっきの鬼先輩なら理由なんか聞かれずにけちょんけちょんにされただろう。事実、シスターの何人かは怒りと呆れで卒倒しかけたわけだし。ちなみにスエナガ先生は「いいね。若いとそういう素っ頓狂な色も似合って」と煙草をふかしながら言った。あの人はああいう人なのだ。
「必要に駆られて髪を染める高校生なんていませんよ」
「そりゃそうだけど。規則を破ってまで染めてるんだからそのへんの高校生とは事情が違うだろう」
 俺の主張はなかなか正論だと手前味噌ながら思うのだけど、熊谷先輩のほうがよほど正論らしい正論だった。一応後輩を注意する格好の先輩はベッドに座っていて、例の凛々しくも困ったような顔、という彼特有の表情を見せながらこめかみの辺りを掻く。
「尋は神父になろうと思ってここにいるんだろ。その準備と勉強をするために自分で決めてここにいるんだ。それなのにどうしてそんなことする必要があるんだ?矛盾してるじゃないか」
 それまで、自分でもどうして急に金髪にするなんてありきたりすぎる反逆行為に至ったのかよくわかっていなかった。それこそ理由なんてないと思っていたのだ。けれど、目を糸のようにして切々と諭してくる先輩の顔を見て、俺はこういうことが言われたかったんだなと思った。規則違反に対する条件反射的なお叱りでも、面倒事を軽く受け流すオトナの対応でもなく、俺だけのために選ばれる言葉が聞きたかったんだって。わかってしまえば簡単なことだった。俺は昔からそんな傾向がある。俺だけのための言葉、俺だけのための視線を際限なく引き出して、できる限り集めてしまいたいところがある。熊谷先輩ならそうしてくれるのではないかという期待があった。既に誰よりも「神父さま」然としている先輩なら、きっと誰にでも、つまり俺にでもそういう真摯な態度を取ってくれるんじゃないかって。一言で言うなら俺は先輩に甘えていたのだ。高校生にもなって!いや、高校生ならまだ最後の反抗期としてギリギリセーフ?先輩に金魚の糞のようにべったりしていた中学生時代から何も進歩してないんじゃないの!急に恥という感情がまともに機能し始めて、それで俺は誤魔化すために話題をすり替えたのだと思う。
「先輩はどうして神父になろうと思ったんですか?」
 一瞬、先輩の顔が強張った。気のせいではなく、その瞬間確かにあの凛々しい熊谷先輩は年相応の顔を覗かせた。あれ?と思って、あれ?はないだろうと思って、俺は想像以上に先輩に憧憬を抱いていたというか、過剰な期待をしていたことに気づく。熊谷先輩ならこんなデリケートな問いにもきっとそれらしい、俺が納得するために選ばれた答えを苦もなく与えてくれるだろうと思っていた。俺は基本的に欲張りなのだ。晩御飯の唐揚げは、なるべくたくさん食べたいし。先輩なら先輩ならと思いすぎて、先輩だってたったひとつ歳上なだけの悩み多き少年なんだって思いやることを忘れていたのだ。
「そうだね」
 ぽつんと呟かれたその声音を聞いて俺は、先輩が俺の前で「小神学生としての」「年長者としての」「熊谷先輩」であろうと意識して心掛けていたんだとやっと理解した。きっと想像を絶するような自制心をもってして。つまりその声音は「小神学生として」「年長者としての」「熊谷先輩」ではない、17歳の少年である先輩の素の声だった。
「それは尋にも聞いてみたいと思ってた」
 俺は先輩を見上げた。先輩は俺を見下ろしていた。笑いもせずに。取り繕いもせずに。きっとそれは、歳の近い友達として悩みを打ち明けようとする彼の真摯な態度だったのだと思う。
「尋はどうして神父になろうと思ったの?」



「それで。君はなんて答えたの」
「そこまで言わなきゃだめ?」
「全然、だめじゃあないけどね」
 八廻部さんは依然ぐったりしていて、面白くもなさそうな相槌を打った。八廻部さんはいつもこんな感じで、話してほしいと強請りながら社交辞令でも楽しそうにすらしない。できないのかもしれない、と思わせるほどには彼の印象は「ぐったり」の四文字に尽きる。
「もしかしたら君がね。言いたいんじゃないかと思ってね」
 珍しく相槌を打ったかと思えばそんなことを言った。どういうつもりでそんなことを言うんだろう、と考えるのも野暮なんじゃないかと思ってしまう。八廻部さんの目。どこを見ているかわからない目。どこも見ていないような目。なにからなにまで同時に見ているかのような目。八廻部さんだけがなにもかも残らずわかっていて、だから自動的に八廻部さんの言葉だけが事実で真実で、だからどういうつもりでとか、そんなことを考えるだけ野暮なんじゃないかって。
「初めて会ったとき、俺の友達の女の子の話をしたよね」
 へたり始めたクリームとその下で息も絶え絶えのパンケーキを一頻り眺めて、俺はひとまず切り出した。八廻部さんは西日色の瞳をつつつと斜め下へ流して、そこにある記憶を書きつけた台本を読んでいるような間の後「ああ」と、やっぱりぐったりと声を出した。
「入院してる子だったね。お見舞いに行くって話だった。どうだったかな。お見舞いは」
 パンケーキをちょこちょこ切り取る間だけ俺は覚悟のようなものをして、顔を上げた。八廻部さんはまともに俺を見ていた。目が、俺の目を見ている。俺を見ながら俺など目に入っていないような夢見がちな目ではなく、俺の目から、その奥深くずっとずっとずっと底の方まで、いとも容易く。
「その次に会ったときは小神学校の寮の管理人さんの話をした」
「ヘビと闘ったお爺さんね」
 小神学校の寮生たちを束ねたり叱ったり一緒になってふざけてシスターに叱られたりする寮監は現役司祭でもあるスエナガ先生なので、管理人さんは本当に建物と敷地を管理するのが仕事のお爺さんだ。小神学校なんてところで働いているのに、お爺さんは無宗教の無神論者だった。寮の庭になんのメタファーか出現したヘビに、メタファーでもなんでもなく単純に生理的嫌悪から怯え惑う俺たち寮生及びスエナガ先生を尻目に、このお爺さんは颯爽とヘビを捕獲すると固結びにして寮が面した切り立った高台から投げ捨てた。それ以来お爺さんは寮生及びスエナガ先生のヒーローだったけれど、そのいっそ苛烈とも言える所業はしばらくシスターたちの間で物議を醸した。
「会いたくないお爺さんだな。おじさんなんか、簡単に固結びにしてぽいっとしちゃうだろうね、彼は」
 八廻部さんはそんなことを言った。白々しく。確かに、痩せ細った身体にだらりと上着を着込んだ八廻部さんの数十倍はお爺さんのほうがエネルギッシュだったと思う。
 ウェイターのお姉さんがやってきて、ようやく八廻部さんの前に飲み物が置かれた。冗談のように青く透きとおって、冗談のようにカワイイ星型のキャンディがプカプカしたソーダ水だった。ぐったりしたおじさんと男子高校生の組み合わせを見ても、お姉さんは怪訝な顔ひとつしない。親子に見えてるかな?それにしたってもう少し面白がってくれたっていいのに。最初からそうだった。ウェイターはプロだから、にしたって周りの女の子たちくらいは、碌に注文もせずテラステーブルをまるまる一つ占拠している八廻部さんをヒソヒソしたっていいのに、誰も気にかけない。八廻部さんがそこにいることを、誰も気にかけない。俺以外は。
「それで、今日は先輩の――」
 ふいに、八廻部さんの手が素早く伸びてきて、俺は喉を詰まらせて言葉を切った。頭の中に、タネすら残さず丸呑みにされたサクランボのイメージが一瞬チラついた。なんのことはない、八廻部さんはユラユラと目の前に下がってきた柳の枝を避けようと掴んだだけで、実際その動きもそれほど素早いものではなかった。けれど、ぐったりと椅子にもたれたところから起き上がるところすら見たことがなかったから――そう、八廻部さんが椅子から立ち上がるところさえ俺は見たことがなかったから。
「やっとだね」
 柳の枝を掴んだまま、八廻部さんは唇を薄く曲げた。小さく覗いた思いの外鋭い犬歯を眺めながら、八廻部さんの言うことがわからないようなわかったような、またも曖昧な心地がした。
「君は。やっと本当に友達の話をしたわけだ。ずいぶん焦らされたけど、まあね。『待て』は得意だよ。こう見えてもね。待つのは慣れてるんだよ」
 ぱきん、と小気味よい音がして、なんの音かと思えば八廻部さんの手の中で柳の枝が折れた音だった。折れた枝をごく自然に弄んで、手を降ろしながら指から指へくるくる渡して、取り落とすように足元へ捨てる。簡単に。さりげなく足を組み替えて、地面の枝を踏みつける八廻部さんは、何の意味もなさそうに俺を眺めたままなのだ。
「つまみ食いはしたけどね。そこは勘弁してほしいね。もう長い間、ずっと長い間、本当にね。お腹が空いてるんだよ、おじさんは」
 八廻部さんは笑って舌を出した。サクランボで真っ青になった舌を。俺はまた、初めて笑ってるところを見たなって思う。


 お見舞いには行くはずだった。彼女は昔先輩を体育館裏に呼び出した女の子で、上級生の教室に通い詰めだった俺とも面識があった。
 その彼女がちょっとした事故で入院したというからお見舞いに行こうと、誘ってきたのは熊谷先輩だった。断る理由もないから、先輩の誘いだし二つ返事で了承したけれど、その誘いが無ければ思い出さないような薄い繋がりだったのは確かだ。
 別に八廻部さんを警戒してたわけじゃない。ただほんとにタイミングよく、八廻部さんと出会ったのがお見舞いに誘われた直後だったから。頭の中の一番先頭にあった彼女のことを話しただけだ。
 八廻部さんと出会った日、小神学校に帰ったあと、熊谷先輩に「お見舞いはいつ行きますか?」と聞いた。
 熊谷先輩は「誰か入院したの?」と答えた。
 中学校のとき先輩に告白した〜あの〜と俺はうにょうにょしたけど、先輩はイマイチ当てはまらない女の子の名前をいくつか挙げて、噛み合わない。「入院したって本当に?誰が?お見舞い行かないと」って、誘ってきたのは先輩なのに。ていうか先輩モテるな!?という方向に話はシフトして、うやむやになってしまった。それでお見舞いは行かなかった。
 ヘビと闘ったお爺さんの話は、前回八廻部さんがあまりにつまらなそうに話を聞くので少しでもエンターテイメント性の高い話を、と要らない気を回してチョイスしたものだった。その日は結局、八廻部さんはぐったりしすぎていてお世辞も言えないだけ、という結論に達してぷんぷんしながら小神学校に帰った。たら、ちょうどスエナガ先生に捕まって、まっすぐ小神学校へ帰らなかった違反について諭す気があるのかないのかなお小言を食らってしまった。気分はもうぷんぷんだった。
「先生だっていちいち怒りたかないんですよ。でも庭掃除の当番の日に遊んで帰るなんて怒ってくださいって言ってるようなもんでしょーが。ね」
「庭掃除?なにそれ新しい罰則ですか?」
「ん?」
 というのも、管理人のお爺さんは庭の手入れに誇りと命を賭けていて、寮生どころか先生たちが庭をいじるのでさえ断固拒否していたからだ。それで一度ミニトマトのプランターを置こうとしたシスターとガチバトルに発展したことがある。庭掃除なんてとんでもない。あるいは、逆にそれこそが罰則なの?勝手に庭を掃いてお爺さんに怒られるところまでが?
 という見解を話したところ。スエナガ先生は能面のような顔になった。手が無意識にケープの下の胸のあたりを弄っている。タバコを探しているのか心臓の手術の痕を庇っているのかどっちかだと思うけど――スエナガ先生のその顔が嫌いだったし、その癖が苦手だった。何か猛烈に考えを巡らせている時、その考えを話す気がない時、つまり俺を面倒事だと捉えているときのそれはスエナガ先生の癖だからだ。
「尋、『管理人のお爺さん』なんてのはこの寮には居ない」
「え?…なに言ってんですか、お爺さんがヘビを投げたときいちばん喜んでたくせに」
「ヘビを投げる?なんのメタファーだよその爺さんは。とにかく居ない。そもそも管理人なんて居たことない。必要ないだろ?こんなに男手があるんだから」
 嘘を言ってるようではなかった。そもそもスエナガ先生は先生としていい加減だし神父としても不良感があるけれど、嘘はつかない。それが憎たらしいときもあるけれど。
「なんで?どういう…どうして」
「尋、あんまり気にしないこと。先生もあるよ、夢で先生は南の島に居てさ…起きてからもしばらくそのつもりでいたんだけど、いつもどおりここにいるって気付いたときは辛く苦しく悲しかったですね…」
 スエナガ先生はスエナガ先生なりに気を遣ってくれたのだろう。気遣いが逆に神経を逆なでしちゃうなんてことは珍しくもない、先生の場合その頻度が高いってだけで。
 念のため、諦めきれなくて、熊谷先輩にも下級生たちにも確認したけれど、皆スエナガ先生を若干マイルドにしたような反応だった。何より、庭には雑然とミニトマトのプランターが置かれていた。
 気になって、入院した女の子の上級生がいないか学校で確認したけれど、そんな子はいなかった。そう。そんな子はいなかった。そんな人はいなかった。
 俺の勘違いかもしれない。話が上手い具合にちぐはぐに噛み合って、そんな女の子が居たように勘違いしたのかもしれない。
 12歳でこの寮に入ったときから今日まで、エネルギッシュで頑固なお爺さんのいる日常を過ごした夢を見ただけなのかもしれない。

 ともかくそんな人はいなかった。いなくなった。
 八廻部さんに話した後から。



「おじさんはね。可哀想なんだよ。ずっとずっとお腹を空かせてる。何を食べたってその場しのぎにもならないんだ。ずっと昔にね、出されたものをきちんと食べきれなかった罰でね。君にサクランボをいくつ貰ったってね。まあ、」
 食べないよりはマシだけどね、と八廻部さんは笑った。照れ隠しのようでもあったし、狂気の前触れのようでもあった。
「ずっと昔にね…食い損ねた。それまでは知らなかった。飢えがこんなに耐え難いものだなんて。それまではこの食事のルールももっと優雅に楽しめたんだけど。それでも楽しもうとはしてるよ、今もね。君の話を、楽しもうとはしてるよ。要するに気にするか気にしないかってことだがね。君は気にしない?そのクリームをひり出した牛がどんな環境で何を食べて育ったとか。その小麦がどんな土地でどんなふうに育てられたとか。おじさんは気にするんだ。そういうところも含めて楽しみたいんだ、食事をね。そこは曲げられないところだから、おじさんの」
 八廻部さんはにっこりする。思いのほか尖った犬歯の隙間から、真っ青な舌がちらりと覗く。その仕草が、人間よりももっと原始的な食欲に素直な動物みたいだと思う。
「今日、君はやっと本当に友達の話をした。本当にきちんと知っている人間の話をした。ありがとう。楽しめたよ。我慢できなかったんだろ?知りたくてたまらなかったから、大好きな先輩の話をしたんだろ?ありがとう。心配することない。きちんと味わって食べるよ。腹の足しにもならんがね。これが答えだ。欲しかったんだよね」
 あっさりと八廻部さんは答えを寄越した。俺が欲しかった答えをあっさりと。貰ってしまってみれば別にわざわざ貰うようなものでもなかったな、という程度の答えを。八廻部さんを前にしていつも曖昧に混ざりあっていた思考が急に開けて、クリアーになって、俺は淡々とそんなことを思って、今度はやっと八廻部さんのことを考えた。
「その人はどこにいるの?」
「その人」
「食べ損ねた人」
「君の寮の隣の部屋にいないことは確かだよ」
 西日が眩しかった。八廻部さんの髪も瞳も薄い色の上着も、テラステーブルの上で食べられないまま萎びていくパンケーキも、手遊びに折られた柳の枝も、全てが似たような色をしている。飲まれないままグラスに汗をかいたソーダ水と、八廻部さんの舌だけが青い。風景から不自然に浮き出した青い色を見ながら、俺は自分の言った言葉を頭の中で繰り返している。食べ損ねた人。食べ損ねたヒト。
「さあなさあなさあな。おじさんはどこにでも入れるし、どこに逃げたって追いかけられるけど、それでも手に届かないところだね。執念深いんだけどね、こう見えても。まったく。…まったく」
 八廻部さんは急に俯いて何かに耐えるよう低く唸った。呻き声と言っていい。身も凍るような苦痛に押し潰されそうな、そんな苦痛に暗い怒りを這わせているような。何度となく彼と向かい合ってきてまったく気がつかなかった。みんな意識して心掛けている。俺と向かい合うときに。先輩として。先生として。彼は?俺は?
「それで何してあげようか」
「え?」
 呻いていたかと思えばパッと顔をあげて、八廻部さんはそんなことを言った。気だるそうな笑み。今度こそ、八廻部さんが笑っているところを初めて見たと、確信を持って俺は思う。
「たくさんの借りがある。君にはね。噛んで吐き捨てるような食事だとしても。なんでもしてあげよう。大抵のことはしてあげられるよ。君ができないと思っていることの、ね」
 意外なことに、それは人懐こい笑顔だった。飼い犬が飼い主のそれを真似て口角を上げて見せるような。意外でもないのかもしれない。俺は基本的に欲張りで、そういった傾向がある。それは曲げられないところだから。そういうことって誰にだって、何にだって、どんなにくだらなく見えたって、あるはずだ。
「なんでも?」
「なんでも。大したことじゃあないんだよ。すべてがね」
 周囲の席の女の子たちの喧騒が戻ってくる。緩い風に吹かれてはためくシャツの襟が、痩せ細った首筋に打ち付けられる音さえ聞こえる気がする。


 寮に戻る頃には辺りはもう暮れなずんでいた。門をくぐり、寮生が当番制で整えた庭の砂利道を踏みしめ歩く。建物の入り口の脇で、タバコを吸っていたスエナガ先生がゆらりと振り返った。まだ暑さの名残りがあるのにカソックの詰め襟のいちばん上まできっちりと留めた先生は、暑そうなそぶりもない。能面のような顔で煙を吐き出して、ケープの下に片手を突っ込んだまままたふいと目をそらす。その足元を何の犬種か、ボロ雑巾みたいな犬がつつつと通り抜けて垣根の隙間へ紛れ込んで行く。
 その横を通り過ぎて寮に入る。隣の部屋に熊谷先輩はいない。
 そんな人はいなかった。

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