不審者情報
 その中華飯店が本当に中華料理というものを正確に再現しているのかどうかは疑わしい。この国で喘ぐように生きている人々にとって、それが確かにホンモノだと保証されている中華料理(つまり三ツ星とかの)を拝む機会など無いし、映画に出てくる中華のデリバリーなんかもそれが確かにホンモノかと言うとかなり疑わしいだろう。でもまあ、そんな拙く貧相なイメージしか持たない人間からすれば、その店は確かに中華飯店だ。席はカウンターだし、カウンターの向こうではもうもうと生臭い湯気が立ち上っているし、営んでいるのはどちらも大差なくちんくしゃな老夫婦だからだ。

「あたしはね、ボロ雑巾の塊が転がっていると思ったんだよ。ええ、枝かなんかに絡まった薄汚い襤褸っカスがね、風もないのに煽られてはためいてるんだって。そりゃそう、おかしいよね。よくよく見てみるとそれはボロ雑巾じゃあなかった。こんくらいの、男の子だったんだよ、あんた。そう、こんくらいよ。よく見ると男に馬乗りになっていて、その男の顔を一心不乱に殴りつけていたんだよ。何度も、何度も。とっくに男のほうは気を失ってて、――死んでたのかもしれないね、顔中の骨がぐちゃぐちゃになってそりゃもう大変なことになっているのに気づいてないみたいに殴り続けてた。死に物狂いってやつだね。さらに恐ろしいことに、殴りつける男の子の手もバキバキに折れているようだった。一生懸命力いっぱいに殴っているからね、時折狙いが外れて地面だとか壁だとかに叩きつけているのよ。そもそも子供が大の男の顔中の骨をぐちゃぐちゃにするまで殴り続けたら、殴る手のほうが先に粉々になってしまうわよ。でも男の子は全然気づいていないみたいだった。そう気づいていないのよ!自分の手がぐちゃぐちゃに折れているのに、気づかず殴り続けているの。まるで痛みを感じることができないみたいにね。恐ろしい、本当に恐ろしい光景だった。それであたしがこう声をかけて――」
「婆さん、来る客来る客みんなにその話してるのか」

 店に入ると客は土方風のが二人だけで、その二人相手に店主の女房の婆さんが恐ろしくぺちゃくちゃとまくし立てているところだった。炒飯をかき込んでいる二人はそろそろ堪忍袋の緒を切ったほうがいいのかもしれない、と計りかねているような顔をしている。そりゃそうだ絶対に飯時に聞きたい話じゃない、グロすぎる。

「俺も何度も何度も何度も何度も何ッ度も聞いたことがある。悪いね、ババアだからさ、同じ話を何度だってしなきゃ気が済まない」

 堪忍袋の緒で手遊びしている二人にフォローを入れると、「なんて失礼なのそんなにババアじゃないったら!」と婆さんの堪忍袋のほうがパーンした。いやそんなにババアだわ。

「アンタ、何食べるの」
「んー、考え中」

 婆さんは「フン」とだけ言い、心得たように奥へ引っ込んでいく。ちなみに店主の爺さんのほうは厨房の中で新聞を読んでいる。天井付近に設置された小さすぎるテレビを眺めるだけ眺めながら、俺はたった二人の客が退店するのを待った。小さすぎるテレビはそもそも壊れているのか、無音な上に不気味な色合いに引き伸ばされた前衛的な映像を延々映し出している。

「なあ、テレビ、何やってんのかわかんないぜ」
「知ってる」

 たった二人の客を見送りながら客商売だし一応、と教えてあげたけど、爺さんは新聞から顔を上げもしなかった。知ってる、ならばよし。
 厨房に入り込み、勝手口から出てまたすぐ隣の勝手口から入る。この勝手口は完全に建物に囲まれた空間に面していて、むしろ勝手できるならしてみろという具合になっている。そんな気密性の無駄に高い勝手口を出て入ると、そこは診療所だ。もちろん闇。

「さあさ、どっこも悪そうには見えないけどね」
「ここんとこ、刺されたんだけどさ」

 本当に消毒できてんのかって不気味な色の消毒液でじゃぶじゃぶ手を洗い終え、これで闇医者の婆さんは思いっきり目を眇めながら寄ってきた。サスペンダーのバンドをおろし、シャツをズボンから引きずり出して昨日ガキボーイに刺された傷をまくって見せる。矢自体が細いのとごたごたあってすぐには抜かなかったのとで、出血はほとんどない。一晩経ってどうもないし大丈夫だとは思うけど、

「まあーーッ!そんなもん!ツバつけときゃ治るよ!何かと思ったらホントにもう情けないね!」

 ほらな。「まあーーッ!」のあたりで盛大にツバが飛んできたのは心ばかりの医療行為なのかもしれない。ファック。

「しょうがないじゃん。自分じゃわかんないんだからさ、『痛い』『痛い』ね。腐り始めたって気づかないかも。前に脚が折れたのだって気づかなかったし」

 のたまうと、婆さんは痛々しいものを見る目で何か言いかけ、特に思いつかなかったのか力いっぱい溜息だけをついた。
 今からずーっとずーっとずーーっと昔、「いろいろあってそうなった」のだけどつまり跨線橋の上から突き落とされて以来、俺は遍く『痛み』というものを感じたことがない。それこそ刺されようが殴られようが金的されようが。確かに持って生まれたはずなのに、今じゃ『痛い』ってどんな感じだったかすら思い出せない。たぶん落ちた衝撃でどこか神経がイカれたんだろうなって思うんだけど。こういう仕事をしていると、『痛み』やそれに伴う恐怖が皆無っていうのはたまになら役に立ったりする。でも脚が折れて壊死寸前になるまで気づかなかったりもするので結局メリットデメリットは半々だ。つまり『痛み』を感じる場合と変わらない。

「あんたはどこもおかしくない。刺されたなら刺された痛みをちゃんと感じてるはずなのに、感じてないって思い込んでる。なーんでそんな難儀なことを」

 婆さん曰くのそれに俺が半信半疑なのをもちろん婆さんは知っていて、それでこういう話になると機嫌が悪くなる。母親と成績の話でもしたらこんな感じなんだろうな。

「それこそ治せないわけ?医者なんだろ」
「あたしはスクールカウンセラーじゃないんだよ!!」

 もしくはソーシャルワーカーとか。ガキの悩みと一緒くたにされて面倒がられるようなもんなら大したもんでもないだろう。

「そうだ、あとチンコも蹴られた」
「なんだって?」
「チ・ン・コ、蹴られた。結構重ーい一撃だったし、折れてたら大変。見てくれる?」
「自分で見りゃいいだろそんなもん!出すんじゃないよッ!」
「見たいんじゃない?」
「サイッテーな男だねあんたはッ!!爺さんに言いつけるよッ!!」

 世が世なら許されない、ゾッとするようなセクハラをゾッとするような婆さんにかまし、俺は診療所を出た。来た道を戻り、厨房を抜け、客のない店内でなんと件のテレビを堪能するように観ている爺さんに軽く声をかけた。

「そうだ、給湯器直してくれないか。湯が出らん」

 そしたら突拍子もないことを言う。なんで俺だよ。プロに頼めよ。

「器用だろうがお前。こんなのすぐ直してくれるって知っとる」
「給湯器なんか使ってんの、この店」
「洗い物するときはそのほうが楽ぢゃ」

 爺さんは立ち上がり、流し場の隅の黒い塊をぺちりと撫でる。恐ろしいことにどうやらそれが給湯器のようだった。長年の煤・湯気・油に塗れ、給湯器と言うよりは壁に張り付いたバックパックの焼死体といったていになっている。

「ニュースで今でもやるがね。むかし花屋かどこかで給湯器が壊れて、ガスが出たんだか?店員も客もみんな死んで、その中にどっかのお偉いさんが居て大変なことになってた。うちも客商売だからな〜そんなことになったら生きてけれん」
「花屋じゃねえだろ、フルーツパーラーだったかな?窓が防弾ガラスでできてるような、VIPが来たら閉め切ってそれなりの仕様にできるような高級な店だよ。こんな隙間風だらけの店で同じ心配する必要ない」

 そのニュースもあの前衛的なテレビで観たのだろうか。暗号解読員かよ。

「でももうこれ買い換えたほうがいいだろ。死んでるでしょ」
「買い換えたら高いがね。直してくれ」
「今度ね、今日はちょっと行くとこあるから」
「じゃ、これをやろ」

 爺さんは明らかに読み終わって処理に困っていたふうの新聞を差し出してきた。

「…やろう?」
「やるから捨てといてくれ」

 …爺さんが散々読みしゃぶった新聞を押し付けられて店を出た。通りを渡り、一度(体に染みついた癖で)細い路地に入り、それなりの大通りに出る。露店街だ。なんだってある。恐ろしいほどの人混みも。衣類に肉、魚、野菜、金物、果物…居並ぶ露店をなんとなく一番向こうから順に眺めていったら、いちばん手前の露店に示し合わせたようにパードレが立っていたのでゾッと、心臓が止まりかけた。なんで居る。いや居てもいいけど。偶然なのか?偶然なんだろうな?偶然だよな?

「珍しいなあお前がこんな昼間っからこんな大通りにいるなんて」

 本当にここで待ち合わせでもしていたかのように、パードレは気軽に話しかけてきた。人をまるで日陰者みたいに。パードレはオレンジ色のサングラスを押し上げて額に乗せ、露店のリンゴを弄びながら俺を見た。特に値踏みするようにとか、あざ笑うようにとか、そんなことはなく、ごく自然に。それが逆に怖いんだけど。偶然だよなマジで。

「別にそんなことないけど?どんなところにだって居るよ俺は。必要ならどこにだって」

 真実ではあるがこの状況で言うと若干強がりくさい俺のセリフを、パードレの鼻で笑うという行為が完全に強がりにした。おんどれ。

「アンタこそ何してんの、果物なんて見ちゃってさ」
「お嬢さん方への差し入れだ。レディはみんな果物がお好きだ」

 うえ〜〜優しい。さすがハートフル女衒。とはいえ、もしかして女衒以上のことやってんじゃないのかなって、俺は思うけどね。女たちは皆、“パパ”を慕っている。“パパ”のためなら娼婦以上のことだってやろうって女なんて、いくらでもいるんじゃないの。そんで俺だったらそんだけの手駒と今の倍くらいの度胸があったら女衒以上のこともやるなあって、そう思っただけだ。実際パードレがどんな人間かなんて計り知れないのでわかりようもない、だけど、子供の目玉を躊躇なく毟り取れるような人間はやるんじゃないかって思う、よな。
 人の往来が激しすぎて、金物の露店から鍋が一つ二つ転げ落ちた。いかにもうっすくて安そうな金属音が響く。それすらよく馴染んでしまうような人ごみのざわめき。露店の親父は鍋を拾い、特に確認もせず鍋の山へ戻す。露店で金物を買わなきゃならないような人間は少しの凹みくらい気にしない。

「ガキの目星は付いたのか?」
「まあぼちぼち」

 オレンジとオレンジを両手に乗せて重さを矯めつ眇めつしながら、パードレは俺をも矯めつ眇めつした。目星なら付きまくっているけど、銃はここに無いしなんならしばらく手に入れる気もないんだなぁ。という心境の前半部分だけぼんやりいい感じに伝わってくれればなぁ、という気持ちなんだがなぁ。

「なあ〜んでそんな鋭い目で見ることあんのさ、痛いよ」
「…痛い、『痛い』ね」

 わざとそこにイントネーションを置かれた気がしていやに引っかかった。別にいいだろ、俺だって胸が痛むことがあるんですよ、シャカシャカとね。
 雨に降られた子犬ちゃんのような目で(を、イメージして)見返してやったら、パードレはやっと(やっと)目から力を抜き、ついでにやっととびきりでかいオレンジに決めた。そして今度はナシを選び始める。

「まさかそんなヘマするなんて思ってねえよ、お前が何が得意でどれだけうまくやるかなんて俺はわかってるつもりだ。けどまあタイミングがタイミングだからな」
「…なに?なんか回りくどいね?」

 そして不穏だ。パードレは今一度俺を見、俺の手にしたしわくちゃの新聞を指さした。

「『それ』、お前じゃねえだろうな」
「それって?」
「しらばっくれるところがあやし〜い」
「いややめてやめて、なんのこと?怖い怖い」
「3面」

 言われて、俺は渡されたまま見てもいなかった新聞を引っ張って広げた。ジジイが読みしゃぶってくしゃくしゃだったので。3面は教育に関するニュースとか地域の保護者会がどうのとかいうお知らせばかりなので、特別関係あるとき以外は流し読みだ。パードレは俺の肩越しに小さな、本当に小さな記事欄を指さした。

「不審者情報――」




「今日は女の子の格好してないのか?」

 はるか上空のガキボーイに話しかけた。というのは、彼はこの狭い路地にごちゃごちゃ泥の城のように折り重なった建物の上を、サルの子供のように渡り歩いていたからだ。もちろん偶然見つけたわけじゃない。あの足の悪い婆さんの家からどこかへ行こうとするとき、用心深い子供なら、あるいは自分が何者かに追われていると思っている子供なら、その両方ならなおさら、通るだろうルートを割り出して辿っていっただけのことだ。屋上には誰もいないし、普段よりずっと高い視界はすべて見通せるような気がして安心する。その実、どこからでも狙える的になり得ることに気づかないところはあどけない。
 ガキボーイのシルエットは逆光になって強い後光を放っている。ガキの形に世界に空いた穴みたい。ジジイが読みしゃぶった新聞でひさしを作り目をこらすとガキボーイは実体を持ち、すさまじい表情を作って中指を立てた。中指を立て返してやるとニヤリとする。

「スカートを覗く人がいるから!」

 うーんすげえクソガキ。



「ふ・し・ん・しゃ・情報?」
「いや、俺なりに推理したんだよ。どうしてお前が銃を返したがらないかってさ。その理由を取り除いてやったら素直に返してくれるだろ。ガキの気持ちになり切るのはすごく骨が折れたけど、そこはガキの頃の気持ちを頑張って思い出して…」
「むかしできたことが簡単にできなくなるって、無能なんじゃねーの」

 まあ今のは俺も悪いなってことでイラっと来た気持ちは飲み込む。生きてるのか死んでるのか際どい、店舗が一つ入ってれば御の字の『ほとんど廃墟』ばかりが立ち並ぶ路地。その屋上の一つで、ガキボーイはさらに空の給水タンクの上によじ登り根元に座る俺を見下ろした。バカとガキは高いところが好き、つまりガキはバカってことだ。

「【不審者情報】◎子供がボウガンで撃たれる事案が頻発◎被害者は特に金髪の男の子ばかり◎怪我をした子はまだいない◎各自注意されたし…もしかしてこれ気にしてんの?」

 くしゃくしゃの新聞を読み上げてやると、給水タンクの上から小さな顔が覗いた。タンクの上で丸まっているらしい。さっきの違った、バカとネコは高いところが好きだったっけ?でもネコはバカじゃないよな。とにかくバカのガキボーイは、精いっぱいじっとりした目で俺をじっとり睨みつけて来る。この目玉の相場って幾らなんだろうな。やはり両方揃ってたほうが売れるのか。紫の目玉より高いなんてことはないと思うけど。

「…アンタの差し金でしょ、どーせ」
「差し金って言葉の意味知ってるのか?エライエライ」
「バカにしてないで答えなよバーカ」
「バカって言ったやつがバーカ。どうして疑うんだか」
「疑わなかったらそれこそバカだろバカバカバーカ!」

 確かに。思いながら俺はその小さな記事欄を何度目か読み返した。書いてあるのはそれだけなので何度だって読み返せてしまうんだけど。とにかく事実を確認しよう。まず俺の差し金じゃない。俺が差し金られるような使いっ走りは残念ながらガキボーイそうお前に、お前に殺されてもういない。今この件に関して直接動いているのは俺だけのはずなので、『そういう組織』の差し金でもない。というか上に上げてないし。もし上がってたらとっくに給水タンクの上でごろごろ言ってるクソガキを絞め殺さなきゃならなくなってるだろう。残るはパードレの差し金である線だけど、たぶんそれもない。パードレをまるっきり信じるわけないけど、この『◎怪我をした子はまだいない』の部分。つまりよほどボウガンの扱いが下手くそってわけだ、わざと外しでもしてないかぎり。パードレがそんなド下手くそを使うとは思えない。あの人カッコつけたがりだからね。あの人がこのガキをどうにかしようとするなら、もっと過剰なまでにスタイリッシュで恐ろしい方法にこだわるだろう。
 つまりまったくの第三者が「金髪の男の子」を狙っているってことになる。
 どうしてだかは知らないし、果たしてその目的がコイツだとは全然限らないし、本当にそういうシュミの不審者かもしれないけどさ。パードレの言う通りタイミングがタイミングだ。昨日俺から恐怖の強襲を受けたコイツからしてみれば、すべては俺の差し金だったんだと結び付けたっておかしくはない。タイミングか。どうだか。とりあえず、まだじっとり俺を見ているガキボーイを取りなす。

「仮に、仮にだよ、仮に俺の差し金だったとしよう。それこそ銃を返したら一件落着じゃない。俺がこのボウガン野郎に『やめ!』って指令を出して、この件は終わり」

 給水タンクの上で腹ばいに寝そべったガキボーイは、だらりと垂らした手で俺をまともに指さした。

「なんで?返した瞬間、アンタは約束を破って俺を殺すかも」
「確かに。言えてる。俺だったらそうする。…俺のことか」
「ほらね!」
「つまりそこを信じあえる友達になれたら素直に銃を返すんだな」
「大人と子供は友達になれないんだよ?バカじゃないの」

 大人が真っ当な大人で子供に可愛げがあってくれれば大人と子供だって友達になれます。つまり俺とお前じゃ無理。
 しわくしゃの新聞を脇に置いて、俺はほとんど寝そべって太陽を見上げる。空気は乾燥していて雲一つなくて風は冷たい。別にだらけているわけではなく不必要に的になりたくないからだけれど、それでも思った「何してるんだ俺は」「何がしたいんだ」。正直きな臭くて面倒な気配がし始めている。これ以上不必要な面倒を増やしたくないなら(そもそも一連のこれ自体バカなあんちくしょうのせいで起こった不必要な面倒ごとだし)、そりゃ昨日の時点で力ずくで取り上げるのが一番だった。抵抗するなら黙らせればいいし、放っておいたってどうせガキ、何もできないのだから。いつだってそうできるんだからと舐めてかかってるわけでもない。こういう世界で生きるなら、例え相手がガキだろうが舐めプは禁物だってそんなことは身を以て知ってるし、何よりコイツは既に二人殺しているのだ。二人、自分の意志で。なおのこと念には念を入れてさっさと片付けるのが吉、なんだけど。
 けどそれじゃあ面白くないな*、って。
 パードレの忠犬のようにすみやかに任務完了するのもつまらないし、俺、アンタの部下でも犬でもないんですけどって。ガキから銃を取り上げるなんてフツーは簡単なことを簡単に終えるのもつまらない。できねーで死んだバカはいるけどさ…。昨日、刺されたときは正直興奮した。いやそういう変態的な意味でなく、ね。額に銃を突きつけられて命乞いするふりをしながら縄抜けを試みたときよりも、嫌いなやつを自分の手が折れるまで殴りつけて殺したときよりも、アイスクリームパーラーに仕掛けた爆弾のスイッチを押したときよりも、きっと。『痛み』は遍く遠い。『痛み』は遍くずっとずっと遥か彼方にある。遠すぎて。幽霊のように生きてる。だから、たまにはさ。
 給水タンクの上がガタゴト言うので目をやると、ガキボーイが立ち上がっている。女の子の格好をしているぶんには女の子と言って差し支えなかったが、男の子の格好をしていれば男の子にしか見えない。つーか、このくらいの歳のガキって男も女もちんくしゃで同じようなもんじゃん?ジジイババアにも言えることだけど。

「どうして今日は女の子の格好してないんだ。自分を男の子だって知ってる奴の前で女の子の格好するのは恥ずかしい?俺は気にしない。ちゃんと女の子に見えたしな。金髪の男の子は狙われるんだろ?」

 赤いジャケット、アメコミヒーローのTシャツ、黒いズボン、いささか短くなった金髪、灰色の瞳。少年のアイコンのような風貌の中で、ピンクの競技弓矢のケースだけが浮いている。ナップサックみたく背負うようにデザインされたそれを腹側に身に着けた彼は、灰色の目をまん丸にして俺を見、念を押すように言った。

「本当にアンタの差し金じゃないの?」
「差し金じゃないっつっても信じないんでしょ」
「信じさせてよ、大人なんだから」

 大人をなんだと思ってるんだ。大人なんだから口先三寸でうまいこと言えってことか。なるほどね。でもお前はそんなに簡単に信じてくれるガキじゃないだろう。大人が大人だってだけで線引きして、信じないくせに。大人がなんでもできるって勝手に信じて勝手に失望するのが子供なくせに。
 空には雲一つなく、少し眩しいけどふいに影が落ちて視界が翳ることもない。風も凪いでいる。一番高いところにいる金髪の男の子。太陽の光を受けて金髪が残酷なほどに輝いている。全身に命を漲らせて、存在を主張している。きっとテキトーに撃っても当たるなあと思った。よほど下手くそじゃない限り。

「…そこから降りてこっちへ来な。まだ殺さないから」
「『金髪の男の子は狙われる』からだよ」
「…何が?」

 ガキボーイは給水タンクの上でくるりと回る。どんなに器用に動こうが、狭いタンクの上じゃほとんど動かない的であることに変わりはない。

「だからこうして、男の子の格好で歩き回ってる。『金髪の男の子は狙われる』、手あたり次第みたいだから、目立つほうがいい」

 何を言いたいのか要領を得なかったが、彼が花柄の弓矢ケースのジッパーを引っ張り始めたのを見てストンと納得した。同時にこう思う。いやいやどんな無茶だよ、ふざけるな。

「何人も、怖い思いをした。怖い思いだけで済んでるけど、痛い思いをさせようとしたに決まってる。何人も。俺を狙ってるなら終わるまで倒さなきゃずっと怯えながら生きなきゃだし、そうじゃなくても、そんなやつを、許す必要ない。ほっとく必要なんてない!生かしとく必要ない!!」
「そこから降りろって。いや落ち着け。大丈夫だから」

 さっきまでゴロゴロしていたのが*のように、急激に発憤したガキボーイは顔を真っ赤にし、タンクを踏み抜くんじゃないかという強さで地団太を踏む。あまりに情熱的な激憤は、何かの発作のようにさえ思えた。ガキの形をしたものが、許さないと、裁くべきだと、自ずから裁くのだと吼える。激情に煮えたつ目をしながら。灰色の目をぐらぐら沸騰させながら、神がその威光で人々を惹きつけ断罪するように。腕さえ大きく広げて自ら的になって誘き出そうとしている。ふざけるなよ、誘き出してそれから、何ができるつもりなんだ。

「アンタは俺を殺さないみたいだし、とりあえずだけど信じてもいい。アンタのことはボコボコにしない。今のところは。でも――」
「わかった、わかったから降りろって――」
「許してやる必要なんかない!!猫を蹴り殺すアバズレも俺たちを殺しに来る奴も射撃の練習みたいに子供を撃つクソッタレも!!みんなみんなみんな許すわけないッ!!」

 尻を浮かしかけたとき、ひゅんっと空を切り裂く音がした。ほぼ同時にでんっ、と空洞の物に何か重いものの刺さる鈍い音がする。ボウガン。給水タンクにボウガンの矢が、まるで初めからここに刺さっていましたけど?とでもいうように深々と刺さり立っていた。ほらもう、言わんこっちゃない。刺さり方でだいたいどの方向から飛んできたか目星をつけて、姿勢を低くする。どうするつもりなんだとガキボーイに視線をやると、もうその方向に弓を構えていたので仰天した。おいおいおい、本気か。追い打ちが飛んでこないか気にしながらせっかく低くした姿勢を戻して起き上がり、タンクの上へ急いで手を伸ばす。また空を裂く音がした。誰かの悲鳴が聞こえた気がした。ゴルフボールくらいしかない足首をやっと掴んで、未だ仁王立ちのガキボーイを一気に給水タンクから引きずり下ろした。

「いてっ、痛ーい」
「降りろって言ったらさっさと降りろ!」

 ぽろんぽろんと落っこちて来て、尻をさすって起き上がろうとするバカを引きずってタンクの影へ入り込んだ。自分たちのたてるわずかな衣擦れの音がやむと、あたりはすっかり元通り静かになる。別段、うるさくなったわけでもないけど。空を裂く音も何かの刺さる音ももうしない。妙な動きをされちゃ困ると抱え込んでいたガキボーイを、そこでやっと見下ろした。空を裂く音は二回した。ボウガンの矢は給水タンクに一本しか刺さっていない。俺に抱え込まれたガキボーイは女の子用のピンクの弓を抱え込んでいて、矢はない。

「撃ったのか?」
「撃ったよ、当たった、スエルテ!!」
「見えたのか?」
「見えたし、悲鳴を上げてた。大したことないのに、ボウガンに比べたら」

 …わーお。ガキボーイはあれだけ発憤すたのが嘘のように、すごく嬉しそうにクスクス笑っている。

「どこだ」
「え?」
「どの建物から撃たれたとか、わかるかな?」

 なるだけ優しい声音を心がけたら、逆に気味悪そうな顔をされてしまった。昨日・今日の行いが。それでも給水タンクから顔だけ出し、わりと手近な建物を指さしてくれたので着実に二人の間の信頼は深まっていると信じたい。…近いな、付けられてんじゃねーか。付けさせたんだろうけど。正気か?正気じゃないな。いや、ガキなんてみんな正気じゃないけどな。

「よしちょっと行ってくるから」
「どこに?」
「お前はここに居ろ」
「なんで?どこに?どこに行くの?なに?」
「子供には見せられません。はい、ここにいるか家に帰れ」
「家ってえ〜?」
「ば・あ・さ・ん・ち!!」

 スパン!と尻を叩いていやると加減し損ねたらしく、ガキボーイは息を詰まらせて転がった。その隙に新聞を拾い、屋上から降りる。やましいことがあったら、ふいに飛んできた矢が体に刺さったら、あるいはその両方だったら、どんな逃げ道へ足が伸びるかなと推測しながら。もしも『撃ったよ』というのが人違いだったら、余計にフォローしとかなきゃいけないし。

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