断罪
 あくる日は晴天で、乾いた風が鬱陶しいほどに吹いていた。つまりなにもかもがいつも通りだった。世間は月曜日を迎え、それなりに順調に歯車を回し始めている。この老人ホームにしたっておんなじで、そこに住んでいるジジババだけでなく、デイケアに来ているだけのジジババたちも残らずヘルパーに伴われて中庭へと出てくるところだった。ヘルパーの腐心によって一年中柔らかい芝に覆われた中庭は、建物の中の人間がみな出てきてしまっても十分ゆったりできるほど広く、その有り余ったスペースにはちょっとした演説台が設けてある。
 毎週月曜日の午前中は誰かがこの老人ホームを訪ねて来て、何かしらの講演をしていくと決まっているのだ。それは浮浪者の保護と支援をしている慈善団体の女会長だったり、どこだかの寺の坊さんだったり、はたまたすぐ近くの小学校の子供たちだったりする。もちろんジジババたちの一番人気は小学生たちの拙い劇とか拙い朗読とか拙い笛なんかだ。ヘルパーたちの月間予定表を拝借したところによると、今週はこのホームの新しい後援者先生の挨拶演説だとか。
 まだ男子学生みたいな、スーツの胸元が頼りなくスカスカした男が壇上に上がると、ちょっとした黄色い(ババアの)歓声が上がる。シシー議員はジジババには意外にも人気なのだ。議員の中でとびぬけて若くて、とびぬけて感情豊かだから。これはこれは、まさかシシー議員がこんなブルジョワ臭いホームの後援が務まるようなバックボーンをお持ちとは。親しみをこめてひとりひとり握手してもらったババアたちは嬉しそうにしている。純情そうな顔立ちがまたいいんだろうな。綺麗なものしか見たことがないようなキラキラした目をしている。ヒドイことをしてやるのも躊躇しちゃうような表情をしている。ああいう顔立ちに生まれたら得だろう。まさか子供の臓器を売買するような輩とお付き合いがあるなんて想像だにさせないし、取り巻きの中に見知った顔があっても他人の空似かな、とか俺の気のせいかもしれないな、って思いたくなっちゃうし。シシー議員が“誰でもない”だなんて、パードレは大嘘吐きだ。あるいは情報更新が遅い。それか、やっぱり俺のことを嫌ってるんだろう。
 議員の演説の一部始終を、俺は高台から――貧困層の住居密集地区に飲み込まれた高台から見ていた。てっぺんに2、3建っている大きな廃墟は昔あった製紙工場の社宅団地跡で、工場跡のほうにはそれに群がるように、建築物というよりは少し頑丈なクローゼットや戸棚とか言ったほうがしっくりくるような細かい住居がびっちりとひしめいている。こんな細かい家に住むくらいなら社宅団地の廃墟に住んだほうが良さそうだが、そっちはいつ崩れ落ちるともしれないまま放置されているので戸棚に住むほうがまだマシなのだろう。この国の大きな廃墟にはよくあることだ。こういった密集居住区ではなぜか、往々にして良い場所が**日当たりも良く、見晴らしも良いような場所が**弾き出されたようにあぶれてしまう。めいめい無計画に詰めて建てられているからだろう。今俺がいるのもまさにそんな場所だった。団地廃墟のほど近く、やはり細かい家の密集する中にポカンと開いた空き地はモルタルの壁に三方を囲まれながらも開けた部分から眼下を一望できる。老人ホームの中庭などすっかり見渡せる。申し訳程度にしなしなした木なんかも生えていて、俺はその可哀想な木から毟った枝でコーヒーをつつききながら演説の一部始終を見ていた。というのも、俺がここに到着してすぐにごく小さな羽虫が飛んできて、まだ一口も飲んでいない紙カップへ飛び込みやがったのだ。もう飲む気は失せてしまって、ならば羽虫を助けてやろうとしてそんなことをやっていたから、正確に言うと演説の一部始終を聞いていて、演説の様子とコーヒーの沼に沈みそうな羽虫を交互に見ていた。
 議員の感極まった演説が終わって、老人たちはあるいはヘルパーに付き添われ建物の中へ戻って行く。いつも演説のあとには、演説者とのちょっとした交流の時間を小一時間ほどとるのだ。それでだいたい午前中が潰せるからそうなってるんだろうな、と俺はなかなか捕まえられない羽虫からいったん目を離した。議員が室内へ入っていくのを慎重に見守る。ところであの脚の悪い婆さんは演説のあいだ中テラスに座っていた。いつものように背筋をしゃんと伸ばして座っていて、そこから降りてくることはなかった。議員が室内へ入るのに側を通っても(そしておそらく愛想よく微笑みかけられても)、大して楽しそうにすることもなく、上品な微笑みを湛えたままだった。議員のすぐあとに続くようにして、ヘルパーに車椅子を押されて婆さんが入ってしまうと中庭には誰もいなくなった。それで俺は、手元の小さな底なし沼へ目を戻す。

「ネロ、何してる?」

 振り返らないまま声をかけるのと、振り返らなかった後頭部に銃口がおしつけられたのは同時だったと思う。ネロの押し殺したような息遣いはずいぶん高い位置から聞こえて、それでモルタルの塀の上に器用に立っている姿が簡単に想像できた。太陽は真上にある。貧困にあえぐ住人たちはこぞって働きに出ていて、それでそんな息遣いが聞こえるほどに静かなのだ。俺はコーヒーに差し入れた枝をそっと離し、羽虫の自分で助かろうとする意思にかける作戦に切り替えることにした。ほとんど死にかけの羽虫の羽は、まだ辛うじて細かに震えている。

「あの老人ホームに、おばあちゃんに、なにか、するつもりなら、殺す」

 思う存分走り回ったあと急にインタビューされた人のように、一句一句押さえつけて区切りながら、ともかくネロはそう言った。無理矢理押さえつけられた声が暴れだしたがっている。そんなふうに震えている。あるいは瀕死の羽虫の震えに共鳴するように。けれど後頭部の出っ張った骨に押し付けられた銃口は震えもせず、ごく自然な柔らかさでひたりと静止している。俺が頷きさえすれば、本当に躊躇いなく撃ち抜くんだろう。そういったそれらの才能を、俺は確かに愛していると思うのだ。

「どうしてそんなふうに思った?俺があそこに何かする謂れなんてないと思うけど。そもそも、この距離じゃな。誰かさんくらい狙撃が上手くなきゃ話にならないだろ」

 特段ヤケになったわけではないけれど、なるだけ白々しく聞いた。ネロがグッと銃を握り締める、かすかに皮膚の軋む音がする。どんな顔をしているのか想像してみる。俺と友達になったら使うことないと言った銃を、どんな顔で突きつけているのか想像してみる。想像がつかない。まるで想像がつかない。

「本当にアンタがリーナを殺したの」

 そして、喉奥でのたくりながら出て来たような声が頭上へ降ってきた。俺は、バレないように細く息を吐く。ネロがこんなに必死に呼吸すら押し殺しているのに、どうして堂々とため息なんてつけるだろう。

「どうしてそんなふうに思った?」

 その押し殺したような息遣いさえ、本当に一瞬消えた。目を上げた先にはだだっ広い空がある。おかしくなるような晴天で、鬱陶しいくらい乾いた風が吹いている。こんな空の下にいておかしくならないやつのほうがおかしい。

「アンタがリーナを殺したんじゃないって、言って」

 あの脚の悪い婆さんはシシー議員に特段興味がないように見えたけど、というよりは政治家というワードに付きまとってくる思い出の不快感に囚われていたんだろう。頭がはっきりしなくなっても、思い出自体は思い出せなくても、そのとき感じた感覚というものは忘れる忘れないって問題じゃないからな。真っ白いシャツについたインキのシミのように、もうどうにもならないものだ。

「ニュースでやってたパーラーの“事故”は本当に事故だったって言って。それか、アンタがやったんじゃないって言って。それとも、それともリーナがそこにいるって知らなかったって言って。その日は仕事に行かないように引き留めたんだけどリーナが聞かなかったんだって言って。たった一人を殺すために、事故に見せかけるために、そのためについでに殺す何人かの中にリーナが入っててもなんとも思わないなんて、そんなことはなかったんだって、リーナを救うためにできる限りのことはしたって。言って。はやく。そうだって言って!」

 低く押さえつけた叫びはうめき声のようだった。ネロがモルタルの上で地団太を踏んで、首の後ろに細かな砂利が当たる。コーヒーに視線を落とす。羽虫はとっくに溺れて、黒い水の中にゆっくり沈んでいくところだった。

「なんでなんにも言わないの」
「…や、よくそこまで考えたなって感心してた」
「そんなこと聞いてないんだけど?」

 ネロの声音にははっきりと怒りが混じりつつあった。俺は給水タンクの上からネロが矢を放ったあのときの太陽を何とは無しに思い出す。あの激烈な怒り。まぶしい光。

「アンタがそういうことが――リーナとアンタは恋人だったって俺は思うんだけど――恋人さえそんなふうに殺したって言うなら…きっとアンタはあそこにいる政治家を殺すのにおばあちゃんを巻き込むことくらい平気でやるんだ。そんなことはさせない、おばあちゃんは殺させない。アンタを殺す。でもそんなことはやらないって信じさせてくれるなら――俺はアンタを殺さなくていい。だから早く言って。早く言って…」
「俺を殺したくないのか?」
「殺したくないに決まってるだろ!でも、」

 太陽はあの日と同じく真上にあった。俺が振り返るあいだ、突きつけた銃を持つ手は自然な柔らかさでそれを許した。そして銃口は俺の額で再びひたりと静止する。俺はネロを見上げた。崩れそうなモルタルの塀の上、太陽の真下に立つ金髪の男の子を。どんな顔をしてるのかと思って。まっすぐに俺を見下ろしたネロと目が合う。真上に太陽を背負い、逆光に翳る灰色の瞳が時折地面からの照り返しを受けてちらちら光る。あるいは俺の手にしたコーヒーの水面からの照り返しかもしれない。ネロは、そうすることですべてが理解できると信じているかのようにまっすぐ俺を見ていた。声に滲む苛立ちとは裏腹に、どんな表情もせず。その瞳に映る俺ももちろん、どんな表情もしていない。

「アンタはそんなふうに思ってくれないって、今は思ってる。アンタを殺したほうがいいのかもしれないって思ってる、今は」

 銃口を突きつけられてこれは実質死刑宣告みたいなもんなのに、俺はぼんやり前にもこんなことあったなと考えていた。ネロはボウガン野郎が俺の差し金じゃないかと疑っていて、そうじゃないなら信じさせてくれと言った。大人なんだから。あれは本当のところどういう意味だったのか。
 辺りは相も変わらず静かだった。こんなに家々が密集しているというのに。ほんの時折遊びまわっている子供の声がどこか遠くから聞こえる以外、およそ人の気配というものはない。それは逆に、見渡せるところから見たら俺たちは大変に目立つということだ。

「ネロ、チャンスをくれ」
「…チャンス?」

 思いっきり眉を顰めたネロを口の形だけで黙らせて、俺は囁く。

「しーーーっ。西側の団地の廃墟の4階にいる。お前は俺のほう見たままだ。顔を動かすな。俺のほうを見たまま、視界の端で見てみな」

 ネロは一瞬あからさまに不可解だという顔をしたが、すぐに思い至ったのか左腕を――体の横に力を抜いて垂らしていた、まだ包帯も取れていないだろう左腕を――ほんのかすかに、これだけ近くに居なかったらわからない程度に震わせた。けれどすぐに、今度は露骨に怒りを露わにした顔をして見せる。

「そんなことできない。ウソかもしれない。こないだ俺を撃った奴がいるってアンタがウソついてるのかもしれない。そうやって気を逸らせて、何するつもりなのか、全然信じられない。アンタはまだ言ってない。リーナを殺してないって、まだ言ってないだろ!」
「あのな。あんまり嘗めないでくれる?今お前が俺に殺されてないのは自分がさせてないからだって思ってるの?」
「たとえ殺した相手にだって自分が殺したってバレるやり方は嫌なんだろ。だからリーナを殺すことになったんだろっ!!」

 暗に敵意は無いと示すためのハッタリだったのに、揚げ足すら取られてしまった。肩を竦める俺に構わず、ネロは多少興奮気味にぶつぶつ言っている。

「違う…違う…アンタは殺してない…リーナを殺してない…殺してない…そうだろ、そう言うんだもん…」
「ネロ、聞いてくれ、チャンスをくれ。今からアイツはまたお前を狙って撃ってくる。どういうわけかアイツにそう頼んでるヤツがいるからだ。それがあの議員じゃないかって、俺はそう思ってるんだけどね。そのへんは話せば長くなるから。銃を降ろしてくれるなら、俺がお前を助けてやる。今度は痛い思いする前に、ちゃんと助けるから。信じてくれ」
「だまれ!!うるさいうるさい!どうして違うって言わないの!!言ってって言ってるのに!!言ったらいくらでも信じられるのに!!」

 無理矢理おさえつけ続けた激昂はほとんど声が乗らず、音の無い悲鳴じみていた。それが空気を裂くように鋭いので、力の限り暴れてぐったりした体の、小さな瀕死の動物みたいな遣る瀬無さを思い出した。ネロは俺を信じようとしている。もうほとんど信じていないのに、どうにかして信じようとしている。

「恋人だって平気で殺すくせに!!リーナを殺したくせに!!!俺なんか助けるわけない信じられるわけない!!!」
「ネロ、」
「…なんでそんな顔できるわけ?なんでそんな顔して、俺を助けて、病院に連れてって、何考えてんの?わかんないよ。アンタが全然わかんない。理解できない。全然信じられない」

 俺だって俺なんか信用していないし。

「お前に約束したよな。誰にもお前を殺させないって」

 ネロは今にも両手で顔を覆って泣きじゃくり始めてしまいそうに見えた。けど、決してそんなことはしないだろうという確信がある。たとえネロがそうしたいと心の底から願っていたとして、俺の前でそんな隙を見せることは絶対にない。それでネロは震えもせず俺を見下ろしていた。突きつけた銃口は自然な柔らかさで、俺がどのように動いたってなんなく追いついて撃ち抜けるようにしたままだった。ネロが俺の忠告をほんのわずかでも気にしているのかどうかすらわからない。今、彼の直近の脅威は俺だった。真上に太陽を背負い、鬱陶しい風に切りっぱなしの金髪をもみくちゃにされて、頬は血の気を失って、羽虫の死んだ黒い沼からの照り返しできらめく灰色の瞳で、俺に細心の警戒心を払っている。

「誰にもお前を殺させない。この先ずっとだ。つまり、そういう約束から果たしていかなきゃなんだ、俺は、これから。それができなきゃネロ、お前の言う通りだ」

 許せないものは許さず射抜く瞳で、ネロはまだ俺を見透かそうと足掻いている。そうして覗き込んだってそこには何もない。だから今日まで生きてこられたわけだけど、これからはそうはいかない。太陽よりまぶしい怒りを露わにすることを目にした今は、もう。たとえそれで目が潰れることになっても。たとえそれで気が狂うことになっても。

「だからチャンスをくれ。お前をあそこで狙ってる奴から助けさせてくれ。それはお前のためじゃない、俺のためなんだ。わかるか?俺だけのためなんだ。だからお前が考えてチャンスをくれ。さあネロ、時間がない」

 今やネロも確実に廃墟の人影に気が付いていた。もうどれだけ自分たちがこうして膠着していて、どれだけいい“的”になっているかも。蒼白と言っていい顔をしていた。俺はゆっくり両手を広げる。それよりももっと慎重に、コーヒーの紙カップを持った手をネロのほうへ差し出す。

「もう飲む気がしない。虫がね。入っちゃってさ。沈んでるんだ。見てみろ」

 ネロは分かっていたはずだ。今からほんの数瞬だけでも俺を信じるつもりなら、チャンスを与えるつもりなら、俺の話に乗ったていで紙カップを覗き込めばいい。信じられなくても自分一人で生き残る自信がないなら、一か八かでそうすればいい。そうじゃないなら**信じるくらいなら死んだほうがマシだと言うなら、引き金を引けばいい。お前がもう手遅れだと言うならそうなんだろ。それならそれで俺はいいし。
 ネロは俺を見た。見透かそうとするのではなく、単に俺を見た。初めて会った人を見るように。俺もきっとそんな目で見返していただろう。

 そしてネロは、コーヒーの死の沼を飛び越して、俺の広げた腕の中へ飛び付いた。

 コーヒーの紙カップが地面へ吸い込まれていく、銃を持ったままの腕がしっかりと首に巻きつく、ネロがつい一瞬前まで立っていたモルタルに飛来したボウガンの矢が浅く浅く刺さり立つ、その塀を力任せに蹴破る、すべてをその一瞬で確認して俺は走り出した。ネロを抱え直しながら。全力で。

「ちょっ!えー!?走って逃げるだけ!!?」
「別にそれでもいいけど?ボウガンなんかそこまで飛ばないだろうし。でもそれじゃあ、一件落着とは言えないな」

 向こうがなんでボウガンにこだわってんのかわかんないけど、実はそんなにこだわってなくて、狙撃をするのにもっとまともなものに持ち替えられたらそれこそ終わりだし。俺の肩から顔を出しかけたネロが身を竦める。たぶん二射目が飛んできたんだろう。背中向けて走ってるからわかんないけど。

「刺さってる!背中!」
「そのくらい平気なの。それより撃って」
「は?」
「撃つんだよ、お前が。ここでやっつけてやらなきゃいたちごっこだぞ」

 痛みは遍く遠いもので、正直ガキ一人抱えて走るのに必死で刺さった感触すら感じ取れない。密集住居はどれも同じような見た目で軽く迷路じみている。走っても走ってもまるで進んでる気がしない。どのくらい走ったらボウガンの射程距離から抜けるのか、そもそもボウガンで狙いうちになんかされたこともないから予想もつかない。それでもまあ、アホみたいに棒立ちで撃たせるよりは気休め程度矢避けになるんじゃない?って行き当たりばったりなことは当分黙っとこう俺。

「撃つ!?走りながら!!?」
「走ってんのは俺なんですけど?」
「ガタガタして撃ちにくい!」
「撃ちにくいだけで撃てるだろお前なら。できるだろ。いくらでも盾にしていいから。撃てよ」

 信じられないって顔をしたのはほんの一瞬だった。さっきまで信じる信じないでごちゃごちゃやってたのにね。まあ、この状況でやることやらないと男じゃないからな、って。ネロは俺の肩越しに大きく身を乗り出し、銃を構える。そんなに乗り出したら俺が背中丸出しで盾やってる意味なくない?と、思わないでもないが、あちらさんは将を射んと欲すればまず馬を射よ、らしい。狙撃手を抱えて走るコツを掴み始めると、おぼろげながら背中を中心にビスビスと弾かれるような感触がした。確かに、ネロと俺なら明らかに俺のほうがでかい的なわけだし。わかんないけど、背中って普通の人でも鈍感だし。密集住居の迷路に沿って蛇行したり、モルタルの瓦礫を飛び越えたり、瓦礫になってのは蹴破ったり、肩に乗っけた狙撃手をだいぶ過信した渾身の走りをしながらふとその狙撃手を見上げた。ほとんど吸い寄せられるように。光に虫という虫が吸い寄せられる、その自然の摂理のように。もちろん真上には太陽があるので、ネロの姿は、がったがたに上下する劣悪な環境で銃を構えるネロの姿は、ギラギラした金髪のなびく方向、そのか細い腕に傷を負わせた相手を一点の迷いもなく見据えるネロの姿は、途方もなくまぶしいに決まっているのだけど。

 ああ。
 本当に凄いなお前は。
 目が潰れそうだ。

 一発の銃声が響いた。俺はまだ全力で走り続けていて、それでも細い硝煙の匂いが糸を引くように追いかけてきた。いい加減呼吸が苦しくなってきたけど、それでももう少しだけ、あと少し、と走り続けた。

「スエルテ」
「んー?」
「んーじゃねえよ、当たったよ!撃った!倒れた…もう撃ってこない!」

 興奮気味のネロがやっとこちらを見下ろして無邪気に笑うのを、視界の隅で見た。進む方向を見とかなきゃすっ転びそうな予感が、じわじわと脚にまとわりついていた。

「そうか。もう少しだけ距離稼いどこう」
「…ねえ、もう降ろしていいよ、自分で走るよ」

 今度は急に数トーンも低い声で。

「分かった。あの塀の影で休もう…」

 何枚も蹴破ったのと同じような、たぶんもとは質素な住居の一部だった頼りない塀の影に転がり込んでネロを降ろした。さすがに俺も、若干チビめとは言え12歳児を抱えて走り込んで全然平気というわけには行かない。ネロより先に座り込んでしまった。不甲斐無し。苦しすぎる。息吸えない。いや、息を吸うのも億劫というか。急に意識しないと肺の動かし方もわからなくなって、じゃあ息吸うのも面倒だな、というか。

「ねえ、平気…」

 ちょっと休まないとムリ、と言うのももちろん億劫だった。おずおずと音がしそうな動きでネロが屈み込んでくる。顔を上げるのすら意識して、この筋肉から順番に動かしてってしないと持ち上がりもしなくて足元しか見えないけど、小さな手が肩に乗るのが分かった。ホントよくやるよ、こんな手で。うーんダメ。息吸えない。静かだな。背中かな。背中だけで済んでるのかな。

「どのくらい…刺さってるか教えてくれる…?」

 それだけのセリフを吐き出すので肺がこぶし大まで縮んだ気がした。ぐうっと視界の明度が下がる。やや間があって回答がある。

「いっぱい」

 いっぱいて。数えるの諦めんな。俺の背中がボウガンの矢でヤマアラシみたいになってるのを想像してしまった。ネロがピンクの矢で射抜いてみせた“的”のように。それじゃこんなに苦しいのも納得だ。こぶし大になってしまった肺で、それでもこれだけは言っとかなきゃなって、捨てる寸前の練り歯磨きのチューブばりに声を絞り出す。

「…ほらな…お前のほうがアイツよりずっと上手かった…そんだけ撃って一本だってお前に当てられなかった…お前のほうが上手いって…俺は知ってたからな…」
「血が出てる…」
「んー…」
「いっぱい出てる…なんで?」

 なんで?って言われても、俺だって赤い血が流れてる人間なんですけど。けどそれを言うのはもういよいよムリで、肺が無くなったような感覚、視界が狭くなってきた、どんどん暗くなる、でもこのくらいなら何回か経験したことあるし、それで今俺は生きてるわけだから、ね。あーでも、パードレは俺を殺すなら絞め殺すって言ってたけどこれもなかなか、苦しい、あーダメかも、脇腹を流れ落ちてきた血が腹を伝って地面へ落ちる。一度落ちてしまえばあとはもうどどどどっと、あーダメかも。ダメかな。

「なんで?」

 真っ暗な世界でネロの泣きそうな声が聞こえる。だからなんで?はねえって。ふふふ。だめだな、泣けるな、なんでって、そんなもんは“わからない”んだけどさ。


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