そして最後の夢を見た。
3歳ほどに成長した金髪の女の子がこちらへ歩いてくる。いつだかの夢で見たでちでち歩きよりは幾分安定感のある足取りで。顔は間違いなくこちらを向いているが、よくわからない。子供特有の濁音ベースなのに不快ではない笑い声をあげて、歩けるだけで楽しくて仕方がないというように破顔して、俺に両手を差し出して歩いてくるということまでわかるのに、どんな顔なのかわからない。まあでもそんなものだよな。夢の中で会ったやつの顔なんて覚えていられないし。じれったい速度であっちへふらふらこっちへふらふら歩いてくる女の子の、どんな顔なのかわからない女の子の顔を眺めているうちに、こんなふうに笑いかけられたことがあると思い当たる。こんなふうに嬉しそうに腕を伸ばされたし、こんなふうに踊る金髪を見た。この金髪を愛した。この目を愛した。たぶん、それは確実に。
「はじめまして、リーナ」
そんなことを言って、ついに俺のもとへ辿り着いた女の子を抱き上げたら、ぱっと燃え上がって消えた。腕の中にあった子供の柔らかさが一瞬でいくらもしない灰屑に取って代わる。空を抱いて固まった姿勢がなんだか、すごく滑稽だと気付いて俺は笑った。笑った。それはもう。
それで目が覚めた。それっきりもう、夢は見ない。
目が覚めて、最初に目に入ったのは壁際に座っているパードレだった。この診療所でいちばんマシな椅子を壁にくっつけて、針金みたいな身体を折り曲げて座ったパードレはあの閻魔帳に…じゃなくて、女の子一人の値段とか紫の目玉の値段とかネコの写真とかを挟んだり書き連ねたりしているあの紫の皮の手帳に何か書き付けている。診療所には窓はないが、パードレがキッチリ髪を結い上げているから夕方より遅い時間だろう。パードレが自分の店に顔を出すのはいつもそんな時間で、決してダラシない格好でレディたちの前に現れたりはしない。格好つけたがりだからね。
「お前のやることなすこと余計なことだって言ったよな?」
こちらを見もせずに言う。まだ何も言ってないんだけど。額に目でも付いてんのかな。
「…余計なこと?」
うっわ、声ガスガス。あんな細い矢でもまとめて刺さればここまで堪えるもんか、俺でも。とぼけるな、くらいのことを言われるかと思った。けどパードレは腹立たしいほど取り澄ました横顔のままで、つまりそんな御託は全部すっ飛ばしてやると書いてある横顔だった。
「誰殺そうとしたか言ってみろよ。言えるもんなら。連中が死んだ仲間のガキ二人ぶんなんかに頓着するわけないって言わなかったか?」
「なに?もしかしてあの泣き虫ちゃん、アンタの友達だった?まさかね。人間売るのも中身を売るのも大した違いなんてないのに、仲悪いもんねえ。いやでもアンタは大人だから仲良くできるのかな。つーか殺されかけてんの俺なんですけど」
「自業自得の権化かてめえは」
殺そうとした、か。別に今さら意味深なこと言うつもりじゃなかったし、嫌味や当てこすりが言いたかったわけでもない。ただ弁明すると俺は寝起きで、夢見も悪く、なおかつ重篤な貧血の狭間にいた。ろくに頭が回ってない状態で出てくる言葉がそれならいつもそう思ってんだろうと言われたらそれまでだけど。
「そもそも、なんで俺がそこに立ってるだけで誰かを殺すだのって話になるわけ?ちょっと見晴らしの良い場所でひと息つくのもダメなわけ。どいつもこいつも。俺が殺す理由なんかないじゃん。でしょ?」
「だからだろうが」
パードレはボールペンの尻で顎を撫でながらうすら笑った。目は手帳に落としたまま。ガキの駄々をいなすのにだってもう少し取り繕うだろうってほどにはうわの空だ。
「殺す理由なんかなくたって…。ほんの気まぐれに、理屈も通らない、手が滑ったとか?なんとなく?愉しいから?ムシャクシャしたとか?イカれてるから?いや、わけもなく。お前は人を殺すって思われてる」
せめて『この俺に』くらい付けてくれと思った。みんながみんなにそう見透かされてたらたまらない。
「実際殺した」
バスン!と(ホントにそんな音がした)手帳を閉じ、パードレはこちらを見た。パードレのその、俺を見る目を見ていたらぽろっと、本当にぽろっと、やっと思考らしきものになりかけたような、そんな呟きがまろび出た。言うつもりはなかったのに。
「アンタは良い人なのかな」
パードレは俺を見ている。犬か猫か、いや水槽の中の魚あたりが、ガラス越しに伸ばした指先に寄ってくるかどうか、風が吹けば塵のように失せる程度の関心を持って。
「悪い人なのかな」
「どっちだってお前にゃ関係ないだろ」
突き放すようでもなく、ただ分かりきった事実に呆れ返るふうに。そりゃそうだな、突き放せるほど近くに寄った覚えもなし。それに、違うんだ、俺にとってどうだかなんてマジでどうでもいいけど。貧血のせいで日照りに曝された小川よりも慎ましい血流のせせらぎを感じながら、言葉を選ぶ。
「俺じゃなくて、あのガキにとってだよ。アンタが目玉を取った…紫の…」
紫の目玉と引き換えに。パードレは表情も変えず、つまり呆れ返った顔のままで、背中を止血帯でぐるぐる巻きにされてベッドにうつ伏せになって酷い声でようやく喋っているのをそんな顔で見られているのがおかしくておかしくて笑ってしまう。笑うたびに肺のあたりで「おいやめろ」って感じの感触がするのもまたおかしい。
本当のところ、俺がネロから銃を取り上げずにぐずぐずしていた理由にはそれが少しある。ほんの少しは、いや、もしかしたらほとんどそれかもしれない。あの正真正銘のサノバビッチから目玉を抜き出すパードレは悪魔みたいだった。尖らせたバタフライナイフで綺麗に抜き出して、もたつきもせず愉しそうにすらしないで筋を切り落とすその手並みは本当に恐ろしげだった。同時に、猟師のようだと思った。針葉樹林の暗闇で肉食獣を狩るような現実の世界の猟師ではなく、お伽話に出て来るような。猪から取り出した代わりの心臓が、その浅はかとさえ言える行いが連れてくる災厄なんて気にも留めない、ほんの一瞬鮮やかにナイフを閃かせて出番を終える、ああいったもののようだと。
思うに俺はそういうものをあのとき初めて目にした。そういうものをそういうものだって生まれて初めて理解しながら目にした。それで気まぐれを起こした。いやお前の人生総気まぐれなんて言われたらそれまでなんだけどさ。いいな、って思って。子供の一人くらい助けてやれたらいいなって。ちょっとやってみよっかな、って思って。自分がどんな人間なのかも忘れて。
「可哀想なやつ」
パードレはやはりそう言った。あんまりそう言われると本当にそうなんじゃないかって気がしてくる。貧血の引き潮が意識まで引っ張っていくようだった。“痛み”は無くとも、そういうものなら俺にだってある。死ぬほど血を流して死ぬほどだるいとか、ネジをそっと外されるように手足の先から力が入らなくなっていく感覚とか、呼吸すらできなくなって、体の底に空いたヒビからどんどん命が流れ出してくような感覚とか。だから俺の心だって痛んでいるんだ。気付かないだけで。俺は、そう、たぶん、地獄の存在を知らなければなんだってできるって、ただそれだけなんだと思う。
半分も開けていられなくなったまぶたを無機質な何かで撫でられた。何かと思えば物騒なことに銃だ。視界いっぱいの黒いものを追う視線は遮られ、まぶたを閉じさせるように何度も何度も。その銃って。ちょっとまって、その銃って、もしかして。
「アイツにとっちゃあのアバズレだって良い人、良いママだろうよ。バカなんだもん、アイツ。俺はただ優しいんだ、ガキには。カワイイし、バカだからな。厳しくしようと思っても優しくしちゃうんだな、これが」
ホントかよ。悪態は呼気にすらならなかった。乾いた唇から出る間も無く吸い込まれて、ろくに吸い込まれもせず舌の上を這って消えた。なんとなくだけどわかってた。パードレがあの正真正銘のサノバビッチに与えたものでいちばん重要なものは、母親を買い直す権利でも左目を失う痛みでも教訓でもない。保証だ。紫の目玉は本当にそれだけの価値があるものなんだって、ガキに信じさせてやるだけの保証。パードレが少々強引にでも守りたかったのはほんとのとこ、それだけなんだろう。そうかもね。パードレって優しいのかもね。見習わなきゃね。
「これからはさ、これからは…俺ももうちょっと、理解しやすい人間になってくよ、もう少し…」
眠りの浅瀬かと思いきやそこは底無し沼で、俺はほとんど意識を失いながらそんなことを呟いた。まあ、それを本当に聞いて欲しいのはパードレじゃあなかったんだけど。
「遅すぎる」
冷たい声がして、額の辺りでトリガーの引かれる気配がした。弾倉の回る気配も。死んだかな、と思ったけど、そうでもない。弾は抜いてあったんだろう。やっぱりパードレは優しい。
で、2度目に目を覚ましたときはもう薄暗かったので、何か目に入るより先に耳に入ってきた。何かと言うとすすり泣きのめそめそした音で、それはごく小さく、寝惚けた鼓膜の誤作動かと思うほどだった。意識を宥めすかしておいでおいでしながら耳を凝らす。やっぱり聞こえない気がする。もしくはこの診療所の地縛霊。いやいや。なんて考えてたらズズーッ!と正真正銘鼻をすする音が聞こえて、どうやら部屋の隅にぴったり嵌まり込んでいる赤い何かが発しているようだった。
ほとんどすんなり起き上がれるようになっていることに驚いたが、点滴の針を刺し替えた痕があった。ババアが仕事してくれたらしい。別にわざとじゃないけど、裸足の足で足音を立てずに背後に立つ。しゃがみ込むのに背中が不穏な音を立てた気がするけど、それより赤い上着からチョロっとしかのぞいていない金髪のほうが気になった。
「このクッション、毛が生えてる」
背中を突くと、ハッと我に帰るような気配があった。肩をビクつかせたりもせず巧妙に音のない息だけ飲んで、それからじっと息を潜めている。止めているのかもしれない。ふと目を落とすと、上着の下から唯一のぞいた手が逃げ遅れたみたいに、決まり悪そうな拳を作っていた。
「銃返しちゃったの?」
「返してない…」
「ありゃそーなの?髪の長い怖いお兄さんに会わなかった?」
なんだ、早とちりか。ネロとパードレは出会わなかったのだろうか。それともパードレはホントにガキに甘いのか。頭までかぶった上着の襟元からほんのつむじだけ覗いている金髪に触れた。撫で下ろす手で上着を落とす。ほとんど同時にネロはむずがるような動きをして、結局上着は床までくしゃくしゃと落ちてしまった。
「なに。なんで泣いてんのお前」
まんまるに開かれ、ボトボトと涙を落とす灰色の瞳をネロは隠しもしない。ほとんど睨むように俺を見、真っ赤になった鼻先を隠しもしない。子供だから隠さなくたっていいと思っているのかもしれない。俺はこういうものを素通りして生きてきた。
「ロボットだと思ってたから…」
「んー?」
「だから、おれ、じっくり狙いつけたりして、何本刺さったって平気なのかと思って、テキトーに何発か撃てば当たるのに一発で当てたくて、だってアンタいつも痛がらないから、ロボットだから、平気なのかと思って、思って、ぇ」
喋ると泣いてしまうようだった。というより、言葉と泣き声が喉から同時に出ようとせめぎ合っていたのが、ついに涙の勝利に終わったという感じだった。ぐしゃぐしゃと歪んでいく顔を、じゃあ伸ばしてやろうと両手で押し広げるように撫でた。涙だか鼻水だかわからん液体ですぐびしゃびしゃになる。こうして見るとネロはまるでガキだった。言ってることもガキだし、じゃあ普段大人びて見えるかというと全くそんなことはなくむしろ逆だけど、俺は初めてそんなことに気づいたような気になった。ネロはガキだ。
「そうかもよ」
そんなガキでさえ今、俺が素通りしてきたものに塗れて泣いている。情け容赦なく2人を殺したくせに。いや、今日で3人かも。そんなガキでさえ俺が素通りしたものをちゃんと拾い上げてまともに向き合っている。
「俺はロボットかもね」
ネロは一瞬本気にした顔をして、かと思えばやはり絶望的な顔になり、涙でぐずぐずになりながら俺の身体に巻かれた包帯を引っ張った。
「血が出てた…」
「血が出るロボットだっているよ」
ネロは俺に顔を挟まれたまま何度も、何度も何度も何度も首を横に振り、俯く。そういう話じゃないって?まったくどこまで賢いガキなんだろう。でもだったらなおさらだ。なおさら「俺はロボットかもね」、ネロ。
こうも打ちひしがれて泣いているガキを前にしたらきっと、泣いている理由を推し量り、お前の幼く拙い悩みの種はこの世じゃ芥子粒にも満たないものなのだと安心させ、それから宥め賺して涙を引っ込めさせたりするんだろう。けれどここにあるのは決して幼く拙い悩みの種なんかではなかったし、そもそもそのどれもする気が起こらなかったので、俺は自分の手にまとわりつく細い金髪をただ見ていた。手の甲に沿って細かく散る金の髪を見、木枯らしと枯葉の巻き上がる庭を思い出し、ネロはきっとあの母親と写真を見たのだろう、と思った。
「リーナはね、ハイスクールに入るまでアーチェリーを習ってた。絵本のロビンフッドに憧れて。勇敢だろ?」
花柄のケースに入ったピンクの弓矢は、幼稚園児の頃からアーチェリー教室に通っていた彼女よりその実ネロのほうがずっとうまく使いこなしているし、愛してもいると思う。リーナは結構、早いうちから飽きていたし、すぐロビンフッドよりアイスクリーム屋さんに憧れ始めた。手のひらの中で、子供の柔らかい頬の筋肉がこわばる気配がした。
「7歳のときリーナは俺の頭にリンゴを乗せてあの庭に立たせた。矢は俺の肩に2本刺さった。あの婆さんは今よりずっと若くて、脚も悪くなくて、凄まじく怒り狂った。もちろん自分の娘にだよ。リーナはめちゃくちゃに泣いてたな。婆さんに矢を抜かれながら、俺は別に、リーナになら蜂の巣にされたって構わないのにって思ってた。地面に落ちたリンゴが勿体無いともね。全部、笑い話だ」
陽当たりの悪い場所にしかない曇りガラスの窓、清潔な匂いの診療所、Dr.ババアのお気に入りの消毒液、ストレッチャーが何台か。太陽に照らされて見下ろす金髪の男の子。俺を赦さないことができる男の子。
「ネロ、チャンスをくれてありがとう」
「アンタ、本気でそんなふうに考えてるの」
ネロはほとんど唇を動かさず、つまり頬はこわばったままだった。髪の毛の隙間から、まつ毛の端々にきらきら光る涙を引っ掛けた腫れた目で俺を見ている。そのまま唇を動かし続けるかどうかほんのひと時のうちに猛烈に逡巡し、結局前歯のすぐ裏まで押し寄せていた言葉に押し切られるように、子供に出せるギリギリの低い声で吐き戻した。
「俺がチャンスをやったって」
「でも、お前はあのとき選んだだろ。俺の言うとおりにするのか、しないのか。殺すことだってできたのに。…殺すつもりで俺を探し出したのに」
「それは、」
ネロが視線を逃すように目を伏せると、腫れた目蓋のせいで殆ど目をつぶったようになってしまった。確かにこれは意地悪な言い方だった。あのとき提示した選択肢自体が、そもそも意地悪なものだった。ネロはあの場で自分が生き残る可能性が一番高そうな選択肢をビジネスライクに選んだだけと言える。そうすると必然的にそれは“俺にチャンスを与える”選択肢になる。もちろんそれを分かっていて俺はああ言った。ネロはきちんとそういう選択ができると見越した上で。一方で、自分の命を棄ててまで疑いなく自分の怒りを、裁きを発露させるのかどうか見たかった、そんな気持ちが少しもなかったと言えばそれこそ嘘になる。
「信じたかったから…」
そんな俺の邪なところをわかっているのかいないのか、太陽の真下、いちばん高いところにいる姿を俺に焼き付けた男の子は、蚊の泣くような声でそう言った。俺は基本的に、ネロがそういった意味で子供であることを忘れがちな気がする。
「だってアンタは俺のために銃を撃った。そんなのは嫌いだって言ったのに。アンタは俺を病院に連れてった。俺を誰にも殺させないって言った。アンタは銃を取り上げなかった。俺を誰にも殺させないって言った…!そう言ったときのアンタを信じたくて…信じたいのに…!」
「リーナを理由もなく殺すような俺じゃあ信じられない、そうだろ?」
ネロは頷かなかった。見開いたままだらだらと涙を流している目が二つともよく見える、と思って、ようやく両頬に添えた手で無理に顔を上げさせている自分に気づいた。同じこの部屋でストレッチャーに寝かされたネロを見て湧き上がった気持ちは、実はまだここにある。もう手遅れだけど、なにもかも遅すぎるってわけでもない、そういう意味では今がそのときだと囁きかける気持ちは、実はまだ。
「お前が会ったかどうかは分からないけどパードレはさ、俺を信用してないんだ。笑っちゃうよなこれだけこき使っといて。ま、信用なんか無くたって出来る仕事なんだって言ったらそこまでだけどさ。パードレはホントは俺とそんなに歳も変わらないけど、“パードレ”って名乗るだけあって昔気質なとこがあってさ、つまり、“痛み”が分からない奴のことなんか端から信用する気がないんだな」
手を離すこともできた。強張ったままの両頬から手を離して、取り繕うようにぐしゃぐしゃの頭をどうにかしてやることだって。けど俺はそうしなかった。ネロの顔を固定して、いっそう捧げ持つようにして捉え続けた。ネロはまるで喉元にナイフでも突きつけられているような顔で俺を見ている。そんなことしないのに。
「“痛み”が分からなきゃ躾けようが無いからってのもある。けどそれだけじゃない。お前がその腕の傷を作ったとき感じたような痛み、パードレの言う“痛み”はそれだけじゃない。もっとエモーショナルな痛みだ。もっと耐え難い痛みだ。例えば、大事なものを失ったときに感じる痛みだ。俺にはそれが無いってパードレは思ってる。人間として当然のそれが無いって。人間未満相手じゃもう信用するしない以前の問題だ。犬が本能で羊を追い殺しても仕方ないだろ。犬猫に人間と同じように誠実さを求めたりしないだろ。そういうことだ、パードレは俺のことをそんなふうに思ってる。それでネロ、」
磨りガラス越しに申し訳程度の日差しが差し込むから、かろうじてまだ日はあるのだと思った。そうは言ってもその唯一の窓は勝手口が一角を占める袋小路に面している。太陽は遥かに遠い。手の中のふやけた皮膚はともかく、濡れそぼった痕は冷え切っている。
「お前もそう思ってる。そうだろ?」
「…っ、違」
「ネロ、ネロ、嘘つかないで…イイコだから…しーっ」
なおも「違う」だの「聞いて」だのか細く呟き続けるネロを、まるでほんの赤ん坊にするようになだめて黙らせる。ネロは本当にそんな目をしていた。初めておぞましいものを見た赤ん坊のような目を。
「良いんだよネロ。実のところ、俺だって俺のことなんて信用してないんだよ。…本当に、ビックリするよ」
「ねえ、違うよ、俺はアンタが…」
「リーナのことなら愛してるよ。疑ったことなんて無いし、疑う余地も無い。リーナを愛してる。初めて会った日からずっと。愛してなかった日なんて無い」
ネロははっきりと「聞きたくない」という顔をした。その動揺と逡巡で、俺を宥め賺そうと呟き続けていた言葉を切ってしまった。少し感動しそうになる。本当にネロは俺を信じたいと思っているのだ。
「なのに、驚くだろ?俺はリーナを助けなかった。俺はリーナを巻き込んだ。巻き込んで、虫みたいに燻して殺した。お前の言うとおりだ。俺はリーナを殺した。愛してるのに。虫みたいに殺した。理由もなく。おい、俺を殺すか?」
一応確認しておこうと思って。唯一残された手段で、つまり固く目をつぶって俺の話を拒絶しようと努力しているネロが頷く由も無いけれど。
「…古い型の給湯器は安全装置が付いてなくて、ガタ付いてくると人を燻り殺す凶器になったりする。そんな事故が昔流行ってさ、俺が爆弾なんか仕掛けなくてもね。わかってるんだろ?わかってるからあんなとこまで俺を探しにきたんだろ?ネロは賢いね。俺はリーナがあの店で働いていることをもちろん知ってて、標的がプライベートであの店を使ってるのをもちろん知ってて、じゃあそうするかって。逆に言えば、そうしなきゃならない必要はどっこにも、ひとつも無かった。絶対その方法じゃなきゃいけないなんてことはなかった。リーナを巻き込まない方法なんていくらでもあった。いくらでも思いつけるんだよそんなの…だけどまあ、最初にそれを思いついたからってだけでやった。本当にただそれだけなんだ。目の前にあったことを思いついたやり方でただやった。それだけなんだ。別にリーナを憎んでたわけでもない。死んでしまえばいいと思ってたわけでもない。リーナのことは変わらず愛してる。ただ、俺はさ…」
俺はもうダメなのだと思った。もう何もかも手遅れなのだと。目の前の男の子にこの聞くに耐えない「ただそれだけのことを」注ぎ込んで注ぎ込んで全て、そうして許しを得ないともうダメだ。もう生きてはいけない。今までと同じように素通りして生きてはいけない。目に焼き付いているからだ。太陽の真下、迷いもせず矢を放つ男の子が。
「俺は…愛してるならリーナを助けるべきだと気づきもしなかった」
愛してるなら失いたくないと思うべきだと気づきもしなかっただけだ。
「“今日は仕事休んだら?”そう囁けばリーナは救えるって知ってた。でもやらなかった。愛してるならリーナを死なせたく無いと思うべきだって、救うべきなんだって気づきもしなかったからだ。俺ってそういうところがある。それだけだよ。つまんないだろ?」
「…そういうことなの?」
ネロは困惑と畏怖と警戒を同時に含んだ表情をしていた。天敵しかいない荒野に掘った巣穴の中で、小さな草食動物がするような目で俺を見ていた。
「本当に殺したくない人を殺したことがあるのかわからないって。殺すのは楽しくはないって。…そういうことなの?…割りに合わないとも思わないってだけ?誰を殺すのも殺さないのも、同じようにどうでもいいってだけ?アンタに殺される人がアンタの恋人だろうがめちゃくちゃ嫌いなヤツだろうが、同じように、同じように…そんなのおかしい、そんなの…」
こわばるばかりの頬を辛抱強く撫でる。他にすることもない。窘めるポーズを取っていれば話し続けることができる。
「だからさ、俺はああいう約束から守ってかなきゃならないんだ」
両手を強く払われる。そのまま俺を突き飛ばそうとしたネロはギリギリで堪え、再び強く目をつぶっていわゆる苦痛をやり過ごすような顔をした。口が何度か動き、次第に呼気が乗り、やっと声になる。「それで?」。まるで許しを得たように、それで俺は話し続けることができる。
「…俺はお前を死なせないためなら世界だって敵に回すよ。誰にもお前を殺させない、その約束を守ってるうちは俺は俺にとっていい人間でいられるからだ。そういう約束こそいい人間がするもんだろ。まともな人間がまともに、当たり前にする約束だろ。俺はロボットかもね。だとしても、その約束を守ってるうちはいい人間なんだ。お前がどう思おうが正直関係ない。俺のために、約束は守る。いい人間になりたいんだ。いい加減。あのとき俺を殺さなかったお前はそうやって俺がこの先自己満足に浸って生きてくチャンスをくれたってこと。おわかり?」
別にわからなくていいけど。辺りはしんとしていた。消毒液のにおいの空気が細かな誇りを伴って停滞していた。窓の外のわずかな光は暮れ泥んでいる。金色の髪は輝きを潜め、本当に冷やされていくかのように表情からは強張りが消えていく。
「…俺がバカだった」
ネロは急速に平静さを、生意気さを取り戻しつつあった。何度か鼻をすすり、腫れた目を引き伸ばすように擦り、息を吐く。
「俺が甘ったれだった。アンタに助けてもらって、優しくされたような気になって、そこにそういう優しい気持ちがあるような気になって、浮かれてた。安心しそうになってた。そんなもん、もうこれからはそんなんじゃダメだって、逃げ出したときにわかってたのに」
「なんの話?」
そして非常に話しづらいことを話し出す人の常で、何か固くてデカくて角ばったものを吐き出すような顔を一瞬した。
「俺はおにいちゃんを殺したよ」
「なにそれ初耳なんだけど、こわ」
「聞ーてよ」
今の今まで俺に怯えていたのが嘘のように、ネロは居直った。今しがたのセリフを踏まえればそれも虚勢だと分かりきっているのだけど、そうではないかもしれないと思わせるほどに。実際そうではないかもしれない。ネロなら本当に。
「あのアバズレはネコを殺したから俺に殺された。俺がアバズレを殺したからあの男がうちに殺しにやってきた。父さんが死んだ」
いや、殺しにやったつもりはなかったんだけどね。とは思ったものの、話しているのは誰が誰を殺したかではなく、何が起こったかであるということはなんとなく察したので水を差すこともない。
「だからまた俺が殺して。それで俺は逃げた。おにいちゃんを置いて。父さんが死んだなら、俺たちの身体は。でも俺は逃げたから、おにいちゃんは、おにいちゃんだけ、」
「死んだと思ってるのか?」
「生きてると思ってんの?どこにもいないのに。アンタはそういうテキトー言うタイプじゃないと思ってた」
それすらいつかの怒りの発露や、またいつか同じ場所で起こしたパニックの類ではなく、単に「そんなこともわからないの」と詰るだけの口調だった。耳触りのいい御託を聞きたいわけではないとも。
「まあ確かに」
なのでおためごかしておく。パードレの言うことを100パーセント信じるわけじゃないけど、別に臓器を売り捌かれなくたって事件に巻き込まれて一人ぼっちになったガキが行方知れずになる理由はこの治安の良くない国にはごまんとある。逆にネロが異常だ。
「つまりそーいうことなんだよ。全部帳尻が合うようになってるんだなって、俺はちゃんとわかったんだって。ねえ、名前教えろ」
「このタイミングで?」
さすがに付いていけなくなって聞き直した。
「だってアンタばっか気安く呼んでズルい。金とるよ」
「パードレんとこの女みたいなこと言うな」
「はあ?だってズルいでしょ。俺はアンタの名前も知らないのに、アンタは俺がおにいちゃんを殺したことまで知ってんの!」
「プロのストーカーなので」
「キモ」
「…はあ、わかった。情報量で対等じゃないって話ね」
対等じゃないとしたくない話ってことか。つまり説得とか交渉とか、そんな話をしようとしているということだ。今一度ネロを見た。最早さっきまで泣いてたのは夢…?勘違い…?と錯覚したくなるような目をしている。たぶん、目元がキツイからただの視線が睨みつけてるような強い視線になるんだけど。何を話すつもりなのか。俺に何を分かってもらえる気でいるのか。それにしてもズルいから直談判って根性座り過ぎだろ。
「ダヴィド」
「ん?」
「教えてなかったっけ?教えてなかったな。ダヴィド。綴りはダビデと同じね」
「…カッコいい名前だね、子供にはどんなカッコいい名前付けるの?ソロモン?」
その皮肉に“いや、女の子だから”とまともに考えた自分によくわからないショックを受けた。決して自分がネロのおにいちゃんの名前を聞き出そうとして言った皮肉を綺麗に返されて凹んだわけではない。
「…ダビデって顔ぉ?えーぇ」
うるせえな。もともとちんくしゃな顔をさらにクシャクシャにして顔にまで文句垂れる。お前だってネロって顔じゃねえよ。とは思ったものの、どんどん話が逸れていくように思えたのでさっと思考の彼方に追いやる。よくわからないショックも一緒に。
「それで?なんの帳尻が合うって?」
「俺たちがやってきたことだよ」
俺とネロが主語で、ならばやってきたことといえばそれはもうそれしかない。ネロが自分で選びとって実行したことと、俺がなんの理由もなく思いついたからってだけでこれまでやってきたことだ。
「俺がアバズレを撃ったから、おにいちゃんは死ぬことになった。まあね、俺があの男を撃ったから、おにいちゃんは死ぬタイミングからひとつ逃げだせたのかもって考えたっていいのかもだけど、変わりないよ。すべては俺があのアバズレを殺したから、それが原因なんだもん。俺が殺すって決めて殺した。だからその帳尻を合わせるためにあの男が来た。でも、でもその帳尻合わせの帳尻も合わせないといけないから、どんどんどんどん手に負えなくなる。父さんが死んで、おにいちゃんが死んで、取り返しがつかなくなる。途方もなくなる。際限なくなる。大元の原因が碌でもなければ碌でもないほど、最低に碌でもない帳尻合わせになる。自分がやったことはそのまま跳ね返ってくるんじゃなくて、雪崩みたいに他の帳尻を巻き込みながら、途方もなく大きくなって返ってくる。だから、意味ないよ。アンタが俺を助けたって。アンタがいい人になったって。もうやったことの帳尻はいつか合わせなきゃならない。アンタがリーナを殺したことだって。ねえダヴィド、いつか、途方もなく大きくなって返ってくる。そのときアンタは、アンタみたいな人はさ、きっとそのとき良い人間かどうか、決まるんだと思う」
「…それ全部自分で考えたの?賢いな」
「賢い賢いってバカにしてる?」
「いや全然」
バカになんてできないよね。それに、全部鵜呑みにしたって良いんだ。とりあえずネロの言うことを盲目的に信じて生きたって良い。
「ただね、俺にはそれまで生きてくのになんでもいいから守るルールがなきゃ駄目だって話」
「よくわっかんない」
「ネロは自分を信じてるもんね」
一瞬、ネロは不可解な表情をした。それはほんの一瞬で、次の瞬間にはクソ生意気に取り澄ました表情を取り戻していたけど。
「でも分からなきゃって思うよ。じゃなきゃウソになる。あのとき、アンタを撃ち殺さなかった自分を許せなくなる。だから、理解しなきゃって思うよ。そのときやっぱり殺さなきゃって思うかもしれないけど」
何気に空恐ろしいことを言って、ネロは小さく笑った。俺は純粋になるほどね、と感心した。本当にそのとおりだ。
「…これからは俺ももっと理解しやすい人間になってくよ」
そう言った気持ちを示したくて言った言葉は、パードレに無残に否定された言葉と同じになった。ネロは“遅すぎる”とは言わなかった。“わかった”とも“期待してる”とも言わなかった。“信じられない”とも。“信じてる”とも。
「…よし、じゃ、手始めに。生き方を教えてやる。この世界での」
「なんで?」
「なんでってお前、いつまでも足の悪い婆さんのヒモでいるつもりかよ。末恐ろしい」
ネロはしばらく考え込んでいた。どうでもいいけど考え込むときくらいは俺の目から視線を外して欲しい。睨まれてる気になってくる。人の目を見て話すことは大事かもしれないが、実際には顎のあたりを見て話す方が望ましいし「この世界」では特に意味もなく誰も彼もと目を合わせるのは望ましくない。
「じゃ、これは返す」
そう言ってポンと差し出されたのは、銃だった。あれほど出し渋っていた銃。二人の人間と一匹(一匹?)のロボットを撃ち殺した銃。衣服の腹あたり不明瞭な部分から取り出されたそれはいっそ無垢なほどに生暖かくなっている。
「なんで?正直もうパードレもとっくに諦めモードになってるよ」
俺に呆れ返ってるのもあるけど。
「…返せるようになったら返すっつったじゃん」
そんなこと言ったか?と半ば本気で思いかけ、校舎屋上でのやりとりを思い出した。あっ言ったな。俺を殺すときは銃を使うとかなんとか。あれだけ大人と子供は友達になれないと主張していたのにって本気で少し感動しかけたけどそこはネロ・ザ・ホークアイ・オブ・ザ・クソガキボーイだ。
「…なんかいい話風にまとめようとしてない?ほんとのところは?」
「“この世界での生き方を教えてくれる”んなら、どうせ返したってすぐに持たせてくれると思った」
「分かってんなお前、ほんと小賢しい」
クソガキボーイは舌を出し、中指を立てた。逆光になりながら同じことをしていた姿を思い出す。そしてそのまま、流れるように、給水タンクの上で矢をつがえる姿、俺の肩の上で弓越しの彼方を見据える姿をも。
思い出すだけで目が潰れそうだ。
この“痛み”が生々しいうちは、誰もわからなくたっていい、良い人間なんだ、俺は。
「あとさっき、アンタが起きる前に、男なのに髪が長いお兄さんがちゃんと自分で返さなきゃ駄目だって言ってきて、俺隅っこで隠れてたのに、めっちゃ怖かった…」
「男なのに髪が長いのはお前もだろ」
「俺はいーんだよ」
いーのかよ。