「ねぇ、それ、何の本?」
早くもベッドに入り、部屋に置いてあった雑誌を読むジェイコブに声をかけると「魔女の友」と返された。
「魔法界で今話題の料理人……?面白そうな記事だな。読む?」
「ううん、私は平気」
コートを脱いでいると、控えめにノックされたドアの向こうからティナが顔を覗かせた。手に持ったお盆の上にはマグカップが3つ並んでおり、ゆらゆらと湯気が立っている。
「あの……温かい飲み物、いかが?」
「もしかして、ココア?」
「ええ」
ほんのり漂う良い香りに誘われてマグカップを受け取ると、ニュートが横になっているベッドの端に腰を下ろした。一口飲んだだけで体が温まり、濃厚な甘さに疲れが取れていく。ジェイコブも嬉々とした様子でココアを飲んでいる。
「ココアなんて久しぶりに飲んだ……ありがとう」
ニュートの代わりに、彼の分のマグカップを受け取る。目はしっかり開いているのだが寝たふりを決め込むつもりらしい。「さっきの食事も本当にありがとう。とても美味しかった」とディナーのお礼を述べると「それは良かった」と彼女は優しい笑みを浮かべた。この後、ろくに挨拶もできずにここを出ていくことになるため、感謝の気持ちだけはどうしても伝えておきたかったのだ。ティナが部屋を出てその足音が聞こえなくなると、ニュートはベッドから飛び起きトランクを開いた。
「名前、先に降りて」
「ココアは?」
「もうおしまい」
ココアくらいは飲み切ってからにしたかったのだが仕方ない。折角用意してくれたというのに、ニュートなんて一口も飲んでいないのだ。最後にもう一口だけ飲んでベッドサイドのテーブルに置くと、トランクの中に足を踏み入れた。
「気をつけて。僕も、君の後に降りるよ」
「うん」
階下に広がる見慣れた空間に、ニューヨークへ来てからようやく息をつくことができた気がした。薬品などの独特な匂いに、自然と落ち着く自分がいる。荷物とコートを小屋の隅に置いた。
「私の荷物、もうここに置いたままでもいい?」
「ああ、うん。そうだね。いいよ」
外にいるジェイコブを呼んでから降りてきたニュートは、脱いだコートをかけてシャツの袖を捲った。トランクの入り口を見上げると、ジェイコブの足がゆらゆらと揺れている。中に入ろうと奮闘しているのだろう。そのうち、派手な音を立てて階段を滑り落ちるように入ってきたジェイコブは、状況が掴めず困惑した表情を浮かべたまま木箱の上に腰を下ろした。首の傷の具合を確認するニュートに「大丈夫そう?」と訊ねると「やっぱりマートラップだ」と彼は作業台に向かった。
「名前、水を用意してくれる?」
「分かった」
「彼は毒に弱いらしい。マグルだから僕らとは体質が違うんだ」
棚に並べられた小瓶や道具の中からコップを取り、水を一杯分樽の中から汲んだ。手早く湿布剤を作ったニュートは、ジェイコブの首筋にそれを塗っている。その様子を横目に「ここに置いておくね」と近くの台にコップを置いた。
「さあ、これで汗もひくだろう」
「良かったら、これ使って」
ハンカチを取り出すと、まだ額に汗を滲ませるジェイコブに差し出した。反対側の手には、けいれんに効くはずだと言われてニュートから渡された錠剤が何粒か乗っている。彼は眉根を寄せてそれをジッと見つめた後、覚悟を決めたように口へ放り込み、一気に水で流し込んだ。パッケージもなく、入っている成分も分からない薬をいきなり飲めと渡されたら、そういう反応にもなるだろう。
「平気?」
「あ、ああ……多分……平気」
「お水のおかわりは?いる?」
ジェイコブは首を横に振って私の言葉に返事をすると、片手で顔を拭った。彼の様子を気にせず「持ってて」とニュートが渡したバケツの中には、ぶつ切りになった生肉が入っている。
「あ、ニュート。それ、そんなところに置いたらまた汚すよ」
脱いだばかりで雑に置かれたベストが目に入り「まあ、魔法で落とせるけど」と手に取った。サッとはらって畳み直し、小瓶とスウーピング・イーヴルを持ったニュートを見る。
「……ごめん」
「ニュートはみんなのママだけど、私はニュートのママになったみたい」
「君は、僕のママじゃないだろ」
「うん。ニュートママに失礼だもの」
「そうじゃなくて──」
「なぁ、それ、あんたが手に持ってるのは何なんだ?」
黙っていたジェイコブは、ニュートの手に握られている魔法動物を指した。
「地元の人はスウーピング・イーヴルって呼んでる。空飛ぶ悪魔だよ。物騒な名前だよね。動きが素早いんだ」
魔法動物について聞かれ、心なしか嬉しそうに見える。興味を持たれたことで饒舌になったニュートは、薄めさえすれば毒は薬になることや嫌な思い出を消してくれるなど、これまでの研究結果を話した。スウーピング・イーヴルを彼の方へ放ち「ここで放し飼いはまずいよね」といたずらっ子のような笑みを浮かべてジェイコブの反応を楽しんでいる。気弱そうに見えて、案外そういうところがあるのだ。
小屋を出ようとドアを開いたニュートに「これは?ママが着せてあげた方がいい?」と冗談めいた口調でベストを持ち上げてみせると「冗談でもやめて」と彼はそのまま受け取って着直した。
「でも……毎朝、君がシャツを着せてくれるのは悪くないかも」
そう呟いて、ニュートはさっさと小屋を出て行ってしまった。
「ねぇ、今のどういう意味だと思う?」
振り返り、今の言葉の意味をジェイコブに訊ねる。彼はバケツを持ったまま立ち尽くして、小屋の中を見回した後、私を見た。見慣れないものや目新しいものを前に、興味が移っているのだろう。どうぞ、とドアを開くとジェイコブはお礼を言いつつ小屋の外へと出た。小屋の中だけでも驚いているのなら、外を見たら腰を抜かしてしまうかもしれない。続いて私も小屋の外へ出ると、丁度ニュートがフランクを呼んでいるところだった。
「それにしても助かったよ。お前が逃げてたら、とんでもないことになってた」
ニュートは降りてきたフランクを撫で、こちらを見て手招きをした。
「名前、フランクが早く君に来てほしいって」
「え!そんなこと言ってる?」
「この目がそう言ってる、ほら」
ただ綺麗な金色がこちらを見つめているばかりで、私にはその心情を読み取ることができない。フランクに近づくと、撫でてもいいと言わんばかりに頭を低く下げた。そっと手を伸ばし、傷つけないようにゆっくりと撫でる。フランクは一声鳴いて、嬉しそうに羽を動かした。
「もうすぐお別れなんて寂しいね……」
「どっか、行っちゃうのか?」
「実は、アメリカに来たのはこいつのためなんだ。ふるさとに返すため」
「私たち、アリゾナに行くところだったの
「ああ、近づかないで──フランクはちょっと人見知りだから」
フランクに近づこうとしたジェイコブを制止し「こいつは密輸されたんだ。エジプトで鎖に繋がれてた。見過ごせなくて連れてきた」とニュートは保護した理由を説明した。
「元の世界に返してあげるからな、フランク」
ニュートが地虫を空中へ思い切り投げると、フランクは大きく羽を広げ舞い上がった。空高く飛ぶ姿は、非常に迫力がある。大自然を思わせるその姿を見つめるニュートの横顔は、慈愛に満ちており、いかに動物たちを大切にしているかが伝わってくる。数時間後には、彼が命よりも大事にしているトランクを奪われてしまうと思うと胸が痛んだ。
「コワルスキーさん、こっちよ。あと、後ろ気をつけて」
大きなフンコロガシにぶつかりそうなジェイコブに声をかけ、次へ移動したニュートの後を追う。トランクの中は拡張され、動物たちに合わせた空間がそれぞれ広がっている。
「ほーら来た」
「何が来たって?」
「グラップホーンだ」
口元に伸びるうねうねとした触手を動かしながら、グラップホーンが1頭2頭とこちらへやってきた。
「口元が可愛いでしょ。タコちゃんの足みたいだねって言ったら、その違いについてニュートに3時間も説明されたの」
「君が、タコの足とグラップホーンの触手は似てるって言うから」
「もう言わないよ」
すり寄ってきたグラップホーンの体を撫でながら「嫌でも覚えたもの」と言葉を続けた。
「こいつら、世界で最後のつがいなんだ。僕たちが助け出さなかったら、グラップホーンはこの世から消えてた」
もう他に仲間はいなくとも、この子たちが命を繋いでいくのだろう。寂しくはあっても、この世から存在が消えてしまうよりはいい。グラップホーンの子どもが1頭、ジェイコブの元に走り寄ってきた。彼は戸惑いを見せつつも、その背中を優しく撫でている。
「あんたたち、こういう動物を助けてんの?」
「そうだよ。助け出して、育てて、保護して、魔法使いの間でも理解を広めてる」
「最初はみんな、怖いだろうし戸惑うと思うけど……私だって仲良くなれたんだから大丈夫よ。魔法界のみんなも、貴方だって、きっと仲良くなれるわ」
グラップホーンの棲息地から移動すると、階段を上り、今度は竹林へと入っていく。
「タイタス、フィン、ポピー、マーロウ、トム」
竹林が開けた場所にある木に向かってニュートが呼びかけると、ボウトラックルたちがそれに応えてぞろぞろと姿を現した。ピケットはニュートの手の甲に乗って、様子を窺っている。
「こいつは風邪引いたから、体温であっためてた」
「私のポケットでもいいよって言ったのに、ニュートがいいって言って聞かないのよ」
「へぇ……」
群れに返そうとしても一向に戻ろうとせず、むしろ徐々に退行している。ニュートが「ほら、ピケット」と木に降ろそうとしても、頑なに行こうとしない。そういう頑固なところはニュートにそっくりだ。
「ニュートのことが好きだから離れたくないんだよね」
ピケットはニュートの指にぶら下がったまま、私の言葉に同意するように小さく鳴いた。
「まったく。そんなんだから、僕がひいきしてるって責められるんだ……」
「じゃあ、やっぱり、たまには私の方に来てもいいんじゃない?」
ピケットの前に手を出して「ほら、おいで。あっためてあげる」とこちらに来るよう呼びかける。ピケットは私の手のひらに片足をそっと乗せるも、すぐに引っ込めてしまった。
「ニュートに似てこだわりが強くなっちゃったのね」
「じゃあ、代わりに僕の手を温めてくれる?」
「ダメ。そうやってすぐ私の手の自由を奪うんだから」
ニュートが私の手を掴む前にサッと避けると「残念」と軽く笑いながらピケットを肩に乗せた。
「あれ?ドゥーガルがいない」
「ほんとだ」
もぬけの殻になっている巣を見て「探さないと」とニュートは呟いた。ジェイコブのアパートでトランクが開いた拍子に、どこかへ行ってしまったのだろう。そのすぐ下からは、早く来てと言わんばかりにいくつも鳴き声が聞こえている。
「はいはい、今行くよ。ほら、いい子だね。ママが来たよ──ちょっと顔を見せて」
「こいつらは知ってる」
幼いオカミーたちが、こちらを見上げて必死に鳴いている。ニュートはその中の1匹を持ち上げ「君のオカミーだ」とジェイコブに言った。今日、あの銀行で産まれたばかりの子だ。
「俺のオカミー?」
「そうよ。卵をポケットで温めて、銀行で産まれる瞬間を見たでしょう?」
「だっこする?」
「うわあ、そうだな、うん、じゃあ……」
オカミーを手渡されたジェイコブは、嬉しそうにその姿を見つめている。頭を撫でようとして、噛まれそうになった瞬間手を引っ込めた。
「あ、撫でないで。そいつ、防衛本能が強いんだ。卵の殻が純銀だから、貴重でね。だから、よくハンターに巣を荒らされるんだ」
ジェイコブは「そっか……」と納得したように呟いて私にオカミーを渡した。巻きつくようにくっついて、そのままニュートの腕に移動していく。
「ありがとう──スキャマンダーさん、名前さん」
「ニュートでいいよ」
「私も、名前でいいよ」
「ニュート、名前。夢じゃないよな?」
「何でそう思う?」
「俺のオツムじゃ、こんなの思いつかない」
「大丈夫、安心して。夢じゃないよ」
彼の新鮮な反応に、ニュートと2人でくすくすと笑って「ムーンカーフに餌をやってみる?」と提案した。