12
「コワルスキーさんって、優しい人だね」
バケツを持ってムーンカーフの棲息地へと向かうジェイコブを見送り、手押し車を押してニフラーがいないとぼやくニュートに話しかけた。
「君の好きなパンも焼けるから?」
彼は大きな獅子のようなヌンドゥの足元へ行き、餌を撒いて「僕にもああなれって?」と不貞腐れたように言った。学生時代もこの顔を見たことがある。ホグワーツでは変わり者として扱われることの多かった彼ゆえ、少数ではあったがそういった類のことを言ってくる者がいたのだ。やれ兄を見習えだの、周りに合わせろなどと余計なお世話もいいところだった。ニュートがうんざりした顔で反論もせず静かにしている横で、私が全員を石に変えたのは今となってはいい思い出だ。
「何でそうなるの。ニュートにはニュートの良さがあるでしょう」
「分かってる。君はそういうことを言う人間じゃない」
「じゃあ、なんでそんな風に」
空になったバケツを適当な場所に置いて、彼はこちらに歩いてくる。そのまま私の横を通り過ぎた。
「何か怒ってる?」
「別に、何も」
無言で次へと移動するニュートの背中を追いかける。意味のない手遊びをしながら声をかけるタイミングを窺うも、先ほどのそっけない態度に気後れしてしまいなかなか言葉が出てこない。このような沈黙が続く状況は珍しいのだ。どちらかが不機嫌になって、腹が立って喧嘩したとしても、お互い本気で怒っているわけではないことが多い。私たちは、ルームシェアを始めてからもそれ以前も、本気の喧嘩というものをしたことがない。そういえば、いつもニュートが先に声をかけてくれるんだっけと彼の優しさに気づかされた気がした。
間を置いて「もしかして私が彼を褒めるから拗ねちゃった?」と半分冗談、半分様子を窺うように声をかけると、彼は分かりやすく石に躓いて転んだ。
「ちょっと、大丈夫?」
ニュートは、そのままその場で三角座りをして「だって、君が」と何やらぼそぼそ呟いている。親にお菓子を買ってもらえず、スーパーの床に座り込んでしょんぼりしている子どもみたいだ。隣にしゃがみ込み目線を合わせると「私がどうしたの?」と聞き返した。
「……彼のことを好きになったのかと思って」
「誰が誰を?」
「名前が、コワルスキーさんを」
よちよち歩きのディリコールが視界の隅に一瞬チラついて消えていった。
「それは、さすがに話が飛びすぎじゃないかな……」
一体、今日の何を見てそう思い至ったのか教えて欲しいくらいだ。どうなの、と真意を確かめるような目を向けられても困る。彼と同じようにその場にペタリと座り込み並んだ。
「兄さんに会った時のこと忘れたの?」
「テセウスと会った時?」
「顔が整ってる、彫刻みたいで綺麗だって散々僕に話してた。しかも名前、兄さんに見惚れてただろう」
ニュートからテセウスを紹介されたのはもうだいぶ前の話になる。初めて見た瞬間、造形美という言葉は彼のためにあるのかもしれないとつい見惚れてしまったのだ。だが、あれは恋などではなく、芸術作品に目を奪われた時と同じだ。その時のことはよく覚えている。ニュートが途中から私の話を聞き流していたことも。
「確かにあの時は見惚れてたけど、ニュートが思ってるようなこととは違うし、今回もそういうのじゃないよ」
「見惚れてたことは認めるんだ」
「……だって、綺麗な顔してるから」
私へ向けられたジト目にウッと言葉が詰まる。不可抗力。美しいものを前にした時、人はそれに抗えない。自説だが、あながち間違いでもないだろう。
「名前は、兄さんと僕だったらどっちの方が好き?」
小首を傾げ聞いてくる彼に「ニュートが好き」と答えれば、選ばれた本人は「それを聞けてよかったよ」と満足げに笑った。テセウスとニュート、どちらか一方の顔を選べと言われたら、やはりニュートを選んでしまう。
あちらの世界にいた頃から、ニュートの顔がとてつもなく好きだった。勿論、推していた理由は顔だけではないが。
彼は立ち上がると、手についた泥汚れを軽く叩いて落とした。
「今お菓子持ってないけど、仲直りしてくれる?」
「うん、勿論」
「よかった」
深海を思わせるゾーンへ移動すると、ニュートはエイリアンのようなイカのような動物を腕に抱いて戻ってきた。体全体がネオンライトのようにピカピカ発光している。手押し車から餌の入った哺乳瓶のようなデザインのボトルを取り、軽く振って、彼に渡した。
「ねぇ、ニュート」
靴の裏に張り付いた葉っぱを取ってその辺に放りながら「もしかして、友達を取られるとでも思ったの?」と茶化すような言葉が出た。私の言い方が気に入らなかったらしい彼は「まあ……君らしい言い方だと、そう」と不服そうに認めた。
「でも、それは君だから」
ジェイコブが、楽しそうにムーンカーフたちに餌をやる姿が見える。動物たちも彼の優しさに触れ、懐き始めているようだ。ニュートは空になったボトルをこちらに渡して「他の人には、リタや兄さんにだってこんな風に感じたことはない」と腕の中の動物をあやしながら歩き始めた。
「君が他の誰かに好意を向けていると思うと……嫌なんだ、すごく。例えそれが、冗談であっても」
私を見てそう言い切った彼は「君は知らないと思うけど」と言葉を付け加えた。
「……なんか、それってまるで──」
まるで、ニュートが私に好意を抱いているかのように聞こえる。彼は私を見下ろして「まるで?」と聞き返した。
「その、私のことを……」
そう言いながら、絶対にそんなはずはないと思い浮かんだことを否定する。もし今その疑問を口にすれば、必ずそれに対しての答えが返される。彼がどのような返事をしようとも、私はそれを受け止めなければならなくなってしまう。ならば、言葉になどしない方が良いに決まっている。
「やっぱりなんでもない。何を言おうとしたのか、忘れちゃった」
送られる視線に気まずさを感じ、顔を背けた。私がニュートではない、他の誰かに好意を抱いていたとして、どうしてそれを彼が嫌がるというのか。恋慕。少しでもそう思い至ってしまったことを忘れるように、ギュッと強く目を閉じて、気持ちが落ち着いたところでパッと開いた。
「そういえば、そのコワルスキーさんは?」
動物を元の場所に戻していたニュートの背中を叩き「コワルスキーさんはどこ?」と再び訊ねた。
「彼ならムーンカーフに餌やりをしてるだろう」
「そうなんだけど、見当たらなくて」
彼の言うとおり、先ほどまでムーンカーフと戯れていたはずの姿が見えない。ニュートとともに土手を上りながら、ジェイコブの姿を探す。ムーンカーフの餌を入れていたバケツだけがポツンと置かれているのが見えた。
「ああ、まずい。あっちに入ったんだ」
ムーンカーフの棲息地近く、カーテンで仕切られた向こう側へすぐさま入ると「下がって!」とニュートは声を上げた。
「下がってて……」
「これ何なんだ?」
「あ、触っちゃダメ」
「いいから下がってて。名前も来ちゃダメだ」
「コワルスキーさん、もう少し下がって。こっちに……」
薄い膜に包まれた黒いモヤの塊が、雪景色を背景に浮かんでいる。ジェイコブは訳がわからなそうに「一体何なんだこれ」とそれを指した。不規則に蠢いては、パチパチと弾ける音とともに中で光が瞬いて、不気味な印象を与えている。
「これについては、私たちもまだ詳しくは解明できてないの」
ニュートは、私とジェイコブにその塊から離れるよう呼びかけると「オブスキュラスだ」と彼の問いに答えた。
「さあ、もう行こう。逃げた子たちの身が心配だ」
ジェイコブをオブスキュラスから遠ざけるように、トランク内にある森の奥へと入っていく。
「時間が経つほど探しにくくなるものね」
「危ないのか?」
「ええ」
「何されるか分からない。見知らぬ土地で、周りにいるのは何百万という地球上で最も恐ろしい生き物」
目が合ったジェイコブは、それは何なんだと言いたげに私を見た。ニュートは手に持っていたバケツを置き「人間だよ」と森を抜けた先にある草原を見つめた。
「囲いがあんなにバキバキに……」
「後で直しておかないと」
主不在の草原は、囲いの一部がバキバキに破壊されている。圧倒的なパワーだ。
「どこを捜せばいいかな?中くらいの動物で、広い原っぱとか──木とか──水たまりが好きなやつが隠れるとしたらどこだろう?」
「ニューヨークで?」
「ああ」
「原っぱ?」
「ええ、どこかない?」
近代的な街の中で、そう自然が生い茂っている場所もないだろう。悩むそぶりを見せたジェイコブは「あ、セントラルパークとか?」と思いついたように言った。
「それはどこにあるの?」
「セントラルっていうくらいだから街の中央にあるんじゃない?」
「あんたたち知らないのか?」
ジェイコブの視線がニュートから私に移される。「実は地図も持ってなくて」と肩をすくめてみせた私に「旅行なんだよな?」と彼は目を丸くした。
「いいよ。案内してやるよ」
「ホント?いいの?」
「でも、失礼だと思わないか?せっかく泊めてくれて、ココアも入れてくれたのに……」
「それは、私も申し訳ないとは思うけど……」
朗らかにニコニコ笑うクイニーと、困ったように眉を下げて優しく笑うティナの顔が浮かぶ。勝手に出て行くのは失礼だと、ジェイコブと同じように思ってはいるのだ。ニュートは私の肩に触れ「名前が気に病むことじゃないよ」と言った。彼は彼で、私のことを気にしてくれているらしい。
「具合がよくなったって分かったら、すぐオブリビエイトされるよ」
「ブリビエイトって?」
「オブリビエイトね」
「魔法に関する記憶がきれいさっぱり消える」
ジェイコブはゆっくりと辺りを見回し「じゃ、全部忘れちゃうのか?」と信じられないとばかりに両手を広げた。
「そうよ。彼女たちや私たちのことも。全部」
ジェイコブは渋々といった様子で「分かったよ、あんたたちを手伝うよ」と了承して協力を申し出てくれた。
「さあ、行こう」
「朝になったら、また探しづらくなっちゃう」
貸してくれたベッドの上には、食事などのお礼と出て行くことに対しての謝罪を書いたメモを残してきた。