13

結局、私たちは逃げるようにアパートを飛び出してきてしまった。それも窓から。出発する前にせめて一口、とニュートにはココアを飲ませてきた。半ば無理矢理ではあったが。

人気のない通りを歩いてセントラルパークを目指す。この辺りは高級品を取り扱う店が集まっているのか、ダイヤモンドやジュエリーなど、煌びやかな宝飾品がショーウィンドウに並んでいる。昼間はショッピングを楽しむマダムたちで賑わっているのだろう。ニュートは、ニフラーがどこかしらの店に潜んでいるのではないかと疑ってショーウィンドウを気にしている。

「夜は冷えるね」

鼻先が、頬が、吐く息が、凍えそうなほどに冷たい。道の端には溶けかけの雪が残っている。自由になった両手をこすって、温めるように息を吐いた。自分の荷物を彼のトランク内に置いてきて正解だった。視線はショーウィンドウに向けられたまま「寒い?」と聞いてきたニュートに「少しだけ」と返す。彼は空いている左手で私の右手を取り、そのままコートのポケットに突っ込んだ。

「ここで温めて」
「……あ、うん……ありがとう」

自然とこんなことができてしまうなんて、と驚いて反応が遅れた。なんせ、マンガやドラマの中でしか見たことがない。突然ポケットに突っ込まれ、どうしていいか分からなくなった手をそのままに彼を見上げる。ニュートは気にも留めない様子で「見てて思ったんだけど」とジェイコブに話しかけた。

「うん」
「君、みんなに好かれるだろう」
「ああ──それを言ったら、あんたや彼女だってそうじゃないか」

彼は私を見て「だろ?」と同意を求めた。頷き返せるほどの自信は私には無い。ニュートは別だ。ほんの少し人付き合いが苦手なだけで、彼に関わった人たちはその優しさにきちんと気づいて慕っている。

「名前はね。よく人を見てるし、話をちゃんと聞いてくれるんだ」
「聞き上手ってことか?」
「そう。それ、聞き上手」
「そんな風に思ってくれてたの?」
「初めて会った時から、僕の話をよく聞いてくれてただろう」

私が聞き上手というより、この世界の人たちの主張が強すぎるのだ。

「けど、僕は人をいらつかせる。名前だけは違ったみたいだけど」
「はあ」

どう反応していいか分からず、曖昧に返事をしたジェイコブに「ニュートは、人見知りだから勘違いされやすいだけなの」とフォローを入れる。反応に困るような言い方をしているのを見かねて、つい口を出してしまった。

「優しいし、よく気にかけてくれるし……だから、動物たちもニュートにすごく懐いてる」

当の本人は口をモゴモゴさせ「やめて。もういいだろう」と照れ臭そうに目を泳がせた。どれも事実であり、まだ他にもあるのだが、止められてしまっては黙るしかない。

「何故、パン屋を開こうと思ったの?」
「なんでって……今、きついんだよ──缶詰工場の仕事」
「そんなに大変な労働環境なの?」
「そうなんだよ。働きづめでさ、人生なんてあったもんじゃない」
「そう……」

話の流れで「缶詰好きか?」と聞かれ、私たちは揃って口を閉ざした。嫌いなわけではないのだが、特別好きなわけでもない。

「いや」
「私もあんまり」
「そっか、俺もだ。だからパンでみんなを幸せにしたいのさ」

こっちだ、と右に曲がるジェイコブに続いて角を曲がった。道の先の方に人影が1人か2人ほど見えるが、やはり他に人気は無く閑散としている。

「やっぱり昼間と違って全然人がいないのね。銀行なんてあんなに混んでたのに」
「そりゃ、こんな時間はそうそう出歩かない。最近はまた特に寒いからな。家にいるのが一番だよ」
「そういえば、銀行の融資はもらえた?」
「ダメ──担保がなくてね。軍隊暮らしが長すぎたかな」
「戦争に行ったの?」
「当然だろ。みんな行ったさ──そういうあんたは?」
「ドラゴンと戦ったよ。ウクライナ・アイアンベリー種──東部戦線でね」
「ドラゴン?魔法使いってのは大変だな……まさか、名前も行ったのか?」
「あ、ええ。私もドラゴンと戦った……ほんの少しだけ」

遥か先の、別世界の未来で生きていた私にとって、戦争という言葉をよく耳にすることはあれど歴史の一部という認識だった。今となっては本当に恥ずかしく、勝手な話だが、身近に感じられていなかったのだ。だが、この世界へ来て初めて、私は身をもってそれを知ることとなる。

各所で勃発するマグル同士の争い。その光景は、未来を生きていた私にとって衝撃以外の何でもなかった。日々どこかで何かが起きていた。平穏な日常が急速に崩れ、じわじわと安寧が奪われていく感覚。魔法界はマグル同士の争いに介入しないことを宣言したが、テセウスを含めた何人かはそれを無視し、戦地へと向かった。のちに、テセウスは英雄と呼ばれることとなるが、私とニュートはその戦いに関与することなく魔法省の極秘プログラムに携わっていた。ドラゴンを手懐けるという壮大な目的を掲げ、東部戦線と呼ばれるそれに駆り出されたのだ。結果として、それは失敗に終わったのだが、マグル側の戦況が激しくなった頃、私はニュートとは別の場所へ飛ばされた。見知らぬ世界で、過酷な環境。知り合いは誰ひとりおらず、日夜争いが起きている。息が詰まるような毎日の中で、ひとり置き去りにされたような気がしたのだ。

私が魔法省のオフィスで倒れ、しばらく寝込んだのは、全てが収束する頃のことだった。世界を移動してきて体調を崩したのは、今のところあの一度だけである。

「名前?」
「……え?ごめん。聞いてなかった。何かあった?」
「いや……歩道にダイヤが落ちてるから、きっとニフラーの仕業だろうと思って」

ほら、と歩道で点々と輝きを放っているダイヤを指した。ニュートは私の肩を抱いて「今はあの時とは違う。僕がそばにいるよ」と何かを察したように優しく囁いた。しっかり回された腕に、もうすっかり安心感を覚えてしまっている。今後ティナと結ばれても、古くからの友人としてこの体温に安堵することだけは許してほしい。「ありがとう」と彼のポケットから手を出して、出会った頃より大きくなった体を軽く抱きしめた。

「じゃ、ニフラーを探さないと」

ニュートから離れ、散らばっているダイヤモンドに近づく。夜で助かった。暗闇の中でそれらが輝いて、ニフラーのいる場所まで案内してくれる。前方に続くダイヤモンドや宝飾品を辿り、周辺を確認していく。ショーウィンドウの中でアクセサリースタンドのフリをしているニフラーと目が合った。

「ファネストラ!」

窓ガラスが割れ、その場に崩れ落ちる。ニュートが店内に飛び込み、ニフラーが慌てて棚やショーケースに潜り込んで逃げていく。宝飾品は散らばり、ショーケースは割れ、棚の中身がそこらに飛び出している。

「名前!そっちに行った!」

割れた窓から飛び出そうとして再び私と目が合ったニフラーは、踵を返して店の中へと戻っていった。

「ごめん、無理だった!」

いくら元に戻せるとはいえ、悲惨な状態になっていく店内の様子を前にジェイコブは口を大きく開けてポカンとしている。泥棒だってもっと静かに目立たないように侵入して盗みを働くはずだ。シャンデリアに飛び乗ったニフラーを追って、捕まえようとニュートもシャンデリアにぶら下がる。そのまま重みに耐えきれず、落下した拍子にすさまじい衝撃音が夜の静けさの中に響いた。

「……あのシャンデリアっていくらぐらいだと思う?」

1人と1匹の追いかけっこを目で追いながらジェイコブに問いかける。彼は「俺が一生働いても返せないぐらい」と戦々恐々とした様子で返した。タイミング悪く、放置されたトランクの留め具が外れて唸るような声が聞こえてきた。留め具をかけ直そうと、トランクに向かって少しずつ近づくジェイコブと背の高い棚に登ったまま窓ガラスにぶつかったニュートたちを見比べる。ぶつかった衝撃に耐えきれず、ヒビが入り始めた窓ガラス越しにニュートと目が合った。猫、フレーメン効果で検索した時に出てくる写真のような顔をしている。そんな状況ではないのだが、ふふ、とつい笑ってしまう。

「2人とも同じ顔してる」

たちまちヒビは広がり、瞬く間に割れてしまった窓ガラスの破片が通りに散らばった。仰向けに倒れ込んだニュートに慌てて駆け寄る。幸いガラスは刺さっていないようだ。

「アクシオ!」

素早く立ち上がった彼は、逃げ出したニフラーに杖を向けて呪文を放った。こちらに飛んでくるダイヤモンドや宝飾品を避けながらニフラーを追う。ニュートが更に呪文を放ち、別の店の窓ガラスにべったりと張り付いたところをようやく捕獲した。

「どうだ、満足か?」
「盗みは犯罪だって昼間に言ったばかりなのに」

サイレンを響かせ集まってきた数台のパトカーが目の前で停車し、銃を片手に警官たちがぞろぞろと降りてきた。ニフラーを追っているうちに肩や頭などに乗っかってしまった宝飾品を見て、強盗だと勘違いされたのだろう。もしくは、大きな物音を聞きつけた近隣住民に通報されたかのどちらかだ。

「1匹捕獲、あと2匹」

通りの向こうを指し「あっちへ逃げました」と逃れようとするジェイコブに警官たちの冷ややかな視線と銃が向けられる。

「ね、私ニューヨークの警察って初めて見た。あの車もなんだか可愛いし……」
「僕もよく言われるけど、君も着眼点がズレてる」
「だって、初めて見るものには興奮するでしょ」

ニュートはコートの内側にニフラーを隠しながら「まあね」と返した。彼もまた、口の端を釣り上げて楽しそうに笑みを浮かべている。

「ラ……ライオン」

ジェイコブの震える声に、全員がそちらへ目を向けた。通りに響く肉食獣の唸り声。ライオンが一頭、こちらを見ている。

「ウソ、本物……?」

CGかと思うほどリアルな姿に目を疑う。動物園の檻越しで見ていても危険だというのに、私たちとライオンの間には檻どころか何もない。

「わぁ……ニューヨークっていうのは、思ってたよりも面白いところだね」
「あれを見てそう思うのはニュートくらいだよ」

普段、外を歩いていても見かけるのはネズミか猫か、犬くらいだ。ライオンが街中を自由に歩いているのは異常。目を輝かせるニュートと怯えるジェイコブを掴むと、警官の意識がライオンに向けられているうちに姿くらましをした。





「ここでみんな何をして遊ぶの?テニス?バスケットボール?」
「今の時期はスケートだよ。やったことないのか?」
「あんまり?」

滑らないように気をつけながら、地面の凍るセントラルパーク内を進んでいく。石橋を渡っている途中で、前方から物凄い速さで走ってきたダチョウが間を通り抜けていった。

「ダチョウの卵ってすごく大きいらしいけど、味はどうなんだろう」
「君さっき夕食を食べた後にココアも飲んでなかった?」
「飲んだけど」
「まだ食べるつもり?」
「お腹が空いてるわけじゃなくて、ただの好奇心!」

公園の奥から、ずっしりとした音が響き渡った。エルンペントの唸り声だ。

「ニュートってば学生の時はもう少し可愛かったのに」
「いつの話?僕たちもうすぐ30だよ」
「年齢の話はしないで。いつ婚約するんだってまたテセウスに言われる。私にそんな相手いないって知ってるはずなのに……それとも、誰か紹介してくれるのかな」
「兄さんが、君に何を紹介するって?」
「いい結婚相手?」

ニュートはコートの内側からヘルメットを取り出し「君にはそんなの必要ないだろう」と私を一瞥してからジェイコブにそれを渡した。

「これかぶって」
「なんで、こんなもんかぶるんだ?」
「ぶつかったら、君の頭蓋骨はひとたまりもないから」
「そんなの想像したくもないでしょう?」

サッと顔を青くしたジェイコブは、言われるままにヘルメットをかぶった。それだけで防ぎ切れるとも思わないが、無いよりは充分いいだろう。再び聞こえた唸り声を追って、セントラルパーク内の動物園前にたどり着いた。門は開かれ、煉瓦造りの壁もぶち抜かれた跡がある。ジェイコブの部屋の壁と一緒だ。トランクを置いて、追加でプロテクターを出したニュートは「ほら、これあげるから」とジェイコブに着せた。

「大丈夫。何にも心配することないからね」
「あんたにそう言われて、誰が信じる?」
「名前は信じてくれるよ」
「そりゃまあ……彼女はそうだろうな」

自信満々に答えたニュートに、ジェイコブはやれやれと首を振った。彼といることを選んで一緒にホグワーツを退学したくらいだ。この先も、私はニュートを信じるのだろう。ただ、それが本当に間違っていることなら、ビンタしてでも気絶させてでも止めるつもりでいる。

「どうせ苦しむなら心配するだけ損だろ」

崩れ落ちた煉瓦に躓かないよう動物園の中へ入ると、徐々に声が近づいてきた。

「さかりの時期だ。相手を探してる」
「気になる子でもいたのかな」

檻越しに、巨大なカバのようなエルンペントが本物のカバに寄っている姿が見える。ニュートは取り出した小瓶の栓を抜き地面に捨てると、その中身を両手首に少量ずつ出して擦り合わせた。

「エルンペントはこの匂いでメロメロになる……名前にも、効果があれば良かったのに」
「ニュートは惚れ薬で女の子を落とすつもりなの?」
「できれば使いたくはないけど、それしか方法がないなら。仕方ないよね」
「そこまでいったら身を引くって考えはないんだ……でも、私で効果を試すのはやめて」
「どうして名前で試す必要があるの?君に使う時は完成させておかないと。じゃなきゃ、意味がないだろ」

小瓶をジェイコブに渡し、ニュートは自ら檻の中へと入っていく。

「何、意味がないって!最終確認に使われるってこと!?」

ニューヨークへ来てからというもの、ずっと同じような掛け合いをしている気がする。ニュートは檻の中でトランクを開き、エルンペントの様子を窺いながら独特な唸り声を上げた。あれが、以前彼から聞いた求愛の踊りというものなのかもしれない。片足を前に出し、地面に波線を描いてまたもう一方の足を前へ踏み出す。何が起きているのか気になったらしいジェイコブは、身を隠していた看板から顔を出してエルンペントとニュートの方を見た。

「……あれは何なんだ?」
「多分、求愛の踊りじゃないかな……あのエルンペント、女の子なんだよね」

ニュートが地面を転げてみせると、エルンペントも同様に地面を転がる。少しずつトランクに近づき、ほんの1メートルほどまで距離を詰めた。

「見て!あと少し!」

突然、頭上から降ってきた何かがジェイコブの頭にぶつかり、その拍子に小瓶の中身が彼にかかった。彼の足元には、小魚が落ちている。

「なんだ?」
「なんで魚?」

オットセイが、こちらを見てそそくさと外へ逃げていった。背後から聞こえる唸り声にそちらを振り向くと、エルンペントが真っ直ぐジェイコブを見つめている。

「……まずい」

状況が悪い時にいつもニュートが使う言葉が自然と口から出た。

「逃げて!コワルスキーさん!」

突進してきたエルンペントは、そのまま檻をぶち破り、一目散に走り出したジェイコブを全速力で追いかけ始めた。助け出さなくては、と杖を取り出し呪文を唱えている途中で、再び頭上から降ってきた魚が手元にぶつかり杖を落とした。カラン、と音を立てて地面に落ちたそれはコロコロ転がって遠ざかっていく。

「だから、なんで魚!ニュート!大変!」

杖を追いかけながら、声を張り上げてニュートを呼ぶ。

「コワルスキーさんが!」
「追いかけないと」

壁にぶつかってようやく止まった杖を拾い上げ、ニュートともにジェイコブとエルンペントを急いで追いかける。レパロ、とニュートが呪文を唱えようとして、今度は彼の杖がヒヒに取られてしまった。

「大変だ」
「どうしてこうアクシデントばっかり!」

ニュートの杖を抱えたまま瓦礫の山に座り込むヒヒに「こっちにしない?同じだろ」と近くの枝を折って彼が差し出すも、全く興味を示さない。ヒヒは杖を振り回し、暴発した拍子に遠くへ飛んでいった。

「ごめんね」
「ニュート早く!」
「待って名前」

ジェイコブの逃げ登った木の幹が、熱を持ち始め赤くなっているのが見えた。ゆっくりと、徐々に傾き、折れた木からジェイコブが落下して凍った川の上に投げ出された。滑りながらも必死にエルンペントから逃げている。体勢を崩したエルンペントが大きな体を氷の上で滑らせながら、ジェイコブと距離を詰めていく。

「どうしよう、早くトランクに入れないと!」
「僕が行く」

ダチョウとすれ違った石橋の上から私とともにその様子を見つめていたニュートは「名前はここにいて」と言い残して姿くらましをした。2人と1匹は川に張った氷の上を滑り、間一髪、ニュートは無事エルンペントをトランクにしまい込んだ。思いの外、つるつると滑りやすい氷の上をぎこちなく歩きながら、彼らの元へ急ぐ。

「無事で良かった。怪我は?平気?」
「ああ、大丈夫」
「よくやった、コワルスキーさん」
「ジェイコブでいい」

彼は私たちにそう言って、握手を求めるように片手を差し出した。「ありがとう。ジェイコブ」とその手を握り返す。

「とりあえず、トランクの中に避難しない?」
「そうだね」

橋の下にトランクを置き、開くと順番に中へ入っていく。しばらく外にいたせいで体がすっかり冷えてしまった。

「さて、2匹捕獲。あと1匹」
「ドゥーガルね」
「そう」

階段を降り、外との気温の差に眠気に襲われた。小屋の中がやけに暖かく感じる。大きく欠伸をした私に「眠い?」とニュートは聞いてきた。

「うん、少し。あったかいから眠くなってきちゃった」

睡眠を取らずにセントラルパークまで魔法動物を捕まえに来ているのだ。朝からずっと休憩時間もなく行動していることを考えると、よく動いていた方だ。

「寝てていいよ。寒かったら、僕のコートを使って」
「ありがとう」
「それか……一緒に寝る?ほら、2人の方があったかいだろうし……」

どうかな、と提案しつつも、恥ずかしさを感じているのか視線は真下に向けられており目が合う気配はない。私の返事を待ってそわそわしている彼に、つい意地悪したくなってしまう。口元にニッコリ笑みを浮かべると、誤魔化すようにひとつ咳払いをした。

「あら、スキャマンダーさん。さっきは違う女を誘惑してたくせに」
「えっ、いや、あれは」
「ジェイコブも見てたよね?」
「何を?」
「エルンペントの女の子をメロメロにするニュート」
「まあ……そうだったか?」

ニュートは焦りだして「トランクにしまうには、ああするしかなかったんだ」「動物は別だよ」と謎に弁明している。その慌てぶりが面白く、吹き出してケラケラと笑ってしまった。

「名前」
「ごめん」
「君はいつもそんなことばかりして」
「怒ってる?」
「怒ってない、呆れてる」

ほんの冗談じゃない、と唇を尖らせて、エルンペントの餌を用意するニュートを目で追う。先ほどから、棚に並んだ小瓶をジッと見つめているジェイコブに「ベッドで仮眠取らなくて平気?」と声をかけた。この小屋内には簡易的だがベッドが備え付けられているのだ。

「俺は遠慮しとくよ。どこでも寝れるから。ああ、この木箱の上とか」

そう言って彼はムーンカーフの餌が入った木箱を叩いた。

「じゃあ、ベッド使わせてもらうね、ニュート」
「うん」

ようやく横になれると思うと余計に1日の疲労を感じる。「ちょっと待って」とニュートに呼び止められ振り向いた。

「何かあった?」
「……あれは、しなくていいの?」
「あれ?」

彼が何を言い示しているのか心当たりがなく、首を傾げる。本気で分からず「何の話?」と聞き返した。ニュートは至極真面目な顔で「寝る前に……キスを」と言った。

「は?……キス?」
「いつもしてるのに、忘れたの?」
「えっ、いつもそんなのしてない……」

私たちのやりとりを見ていたジェイコブに「してないよ!」と慌てて訂正をする。焦る私を見て、ニヤリと口角を上げたニュートにハッと気づいた。

「からかったの?」
「ほんの、さっきのお返しだよ」
「ニュート」
「ごめん」
「誤解されるようなことはやめて」

これだから私たちは大人げがないと言われるのだ。呆れてると言っていたはずだが、その舌の根も乾かぬうちに私と似たようなことをしてやり返してくるなんて。ニュートのあまりに自然な物言いに、記憶が飛んでいるだけで本当はいつもしていたのではないかと混乱した。真面目なトーンで冗談を言うのはやめて欲しい。正直ヒヤッとした。

控えめに手を挙げたジェイコブは「なあ、ちょっといいか?」と私たち2人に向かって声をかけた。

「どうしたの?」
「もし俺に気を遣ってるなら、気にしなくていい。その、よく眠れるおまじないみたいなもんだろ?」
「そういうわけじゃないし、いつもしてないよ!」
「僕は本当にしても構わないけど」
「しない!」
「俺のばあちゃんは寝る前にしてくれてた。おでこに」
「じゃあ、僕らも……」
「何ですると思ったの?テセウスにでもしてもらって」

テセウスに、と私に言われて、彼は分かりやすく嫌な顔をした。ハグも乗り気ではないのだから、おやすみのキスなんてもってのほかだろう。ムッとしたその表情は、幼く見えて可愛らしい。「何かあったら起こして」と2人に言って簡易ベッドに横になると、すぐに眠気に襲われた。目を閉じて呼吸を整える。

「名前」

額に何かが触れる感触とともに、おやすみ、とニュートの声が聞こえた気がした。



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