20
「ねぇ、ニュート」
点々と星の浮かぶ夜空の下、混乱の渦に巻き込まれているニューヨークの街を見下ろした。ビルの屋上では風が強く吹いており、隣でニュートの上着がパタパタと音を立てて揺れている。
「オブスキュラスの状態の時ってどんな感じなんだろう……」
「どんなって?」
「近づいてきた人のことをちゃんと判別できてるのかとか、瓦礫を巻き込んで痛くないのかなとか。あとは、音と声はちゃんと聞こえてるのかなって」
あの竜巻のような姿で、正しく何かを見たり聞いたり、感じたりすることはできるのだろうか。グレイブスが話しかけた時、グレイブスだから反応したのか人が近づいてきたことに対して反応したのか。よく考えてみると分からないことだらけだ。
「今のクリーデンスにもちゃんと僕たちの声は聞こえてるよ。ただ、まだ、届いてないだけで」
「そっか……じゃあ、絶対に届けなきゃね。私たちを頼ってくれたティナのためにも」
「大丈夫。君の声は届くよ」
勇気づけるかのようにニュートは私の背中を軽く叩いた。
「そうだといいけど」
「名前の言葉は、混じり気がなくて純粋なんだ。だから人の心に入り込みやすい。それに、ほら、君は誰とでもすぐに打ち解けてるだろ」
「えー……自分ではそんな気しないよ」
極力争い事を避けたいという本能からきているのだろう。「多分、国民性?」と言葉を続けた。
「大抵、君はそう言うけど、それは名前にしかない良さで名前だからこそ出来ることだと思う」
「ニュートってばそんな風に思ってくれてたの?」
「僕は本当のことを言っただけだ」
「優しいね」
「そうでもない」
「そんなことないよ」
「僕のことをそんな風に言うのは名前だけだよ」
「それこそ違うよ。ニュートは人のことをよく見てるし、こういう時は声をかけてくれるでしょう。みんな、ニュートのことを優しいって思ってるよ」
「それは、君だから」
「私だから?」
「そう」
「その言い方だと私にしか優しくないみたい」
「だから、名前にだけだ」
「ニュートは他の人にだって優しいでしょう」
「優しくないよ。別に、優しくしようと思って、接してない」
それはどういう意味なのか、とここで聞き返すことは無意味である。
「君の優しさも、僕にだけ向けられていればいいのに」
そんなことを言われるとは思ってもみなかった。ニュートのその言葉に、私は何も返せそうにない。
大規模な爆発音が響き、2つ隣のビル付近で黒煙が上がった。どちらからともなくそちらの方向へ駆け出し、姿くらましと姿現しを繰り返す。屋上を渡って、オブスキュラスが通過する前の場所に回り込むことができた。前方から猛スピードで迫り来るそれに向けて「クリーデンス!」とニュートが声を張り上げた。
「僕たちが力になる!」
「クリーデンス!ちょっと待って!」
スピードを緩める気配のないオブスキュラスに、衝突しそうなほどギリギリのところで慌てて姿くらましをした。見失わぬようオブスキュラスと並走しながらビルの屋上を渡って移動していく。「クリーデンス!」と叫んだ瞬間、ゲホゲホと咳き込んだ。普段そこまで大声を出さないせいで喉が酷く乾いている。前を行くニュートが私を振り返り見た。
「ごめん名前。もう少し耐えられる?」
「大丈夫!まだ、平気」
次に姿現しをした先で、青白い閃光が明滅し、その眩しさに目を細めた。向かいのビルの屋上から、数人の闇祓いたちが私とニュートを見ている。闇祓いたちの放った呪文がオブスキュラスに直撃し、中で爆ぜた。
こちらとあちら、互いに狙っている目標は同じで目的は別だ。生かすか殺すか。向こうがオブスキュラスを消滅させる前に、私たちが追いつかなければならない。クリーデンスを殺させはしない、と屋上を走りながら睨み返す。一斉に呪文を受けたオブスキュラスは、身を捩り、近くのビルや地面に衝突しながらも未だ通りを突き進んでいる。再び放たれた呪文に巻き込まれぬよう、ニュートとともに物陰に身を隠した。
「まずい」
すっかり上がった息を整えながらニュートの視線の先を辿る。ズラリと横一列に並んだ警官隊が、オブスキュラスを迎え撃とうと銃を構えている。オブスキュラスが飛ばした車が2、3台、地面をバウンドして彼らの前に転がった。このままではオブスキュラスと衝突してしまう。
「どうしよう、何か……」
姿くらましと姿現しをすればギリギリ助けられる距離ではあるが、魔法の存在がますます公になってしまう。せめて何か、オブスキュラスを逸らす方法はないかと思案している最中、発砲音が聞こえた。夜空よりも深く、濃い闇がじりじりと自分たちに迫り来ることに恐れを抱いたのか、衝突する寸前に警官たちは散り散りに逃げ出した。
「よかった……」
「正面から衝突したら無事じゃ済まない」
「うん」
止まることなく空中に伸び上がったオブスキュラスは、そのままスピードを落とさず地面に激突した。衝撃波が周囲に広がり、近隣の建物のガラスがバリバリと音を立てた。オブスキュラスは細かく分裂し、やがて地下鉄の入り口に黒い塊が出来上がった。
「ニュート。あそこ見て」
黒い塊が徐々に小さくなり、人影が見えた。
クリーデンス、とニュートと声が重なる。怯えたように背を丸め、ホームに続く階段をゆったりと降りていくクリーデンスを目で追う。
「僕たちも行こう」
「うん」
ビルの屋上で姿くらましをして、目下の大通りに姿現しをした。ニュートの後ろを歩きながら、靴の裏で何かの破片を踏み潰している。周囲に漂う焦げ臭さが鼻についた。
「ここだったよね。クリーデンスが降りてったの」
地下鉄のホームへと続く階段の先を覗き込んだ。
「うん。この先にいるはずだ」
「じゃあ、早く行こう。また、マクーザの闇祓いが来るかもしれないし」
一段降りたところで「待って」とニュートに呼び止められ、振り向いた。
「何?なんかあった?」
ニュートには、何か気づく点があったのかもしれない。降りた一段を登り直し、彼の正面に立つ。真剣な表情を浮かべる彼に、何を言われるのかと緊張してしまう。
「名前。なんで怪我してること黙ってたの?」
伸びてきた手が頬に触れる。「血が出てる」と指摘され、自覚した途端ジワジワと痛みを感じ始めた。無我夢中で姿くらましと姿現しを繰り返し、全速力でオブスキュラスを追いかけながら闇祓いたちの攻撃に当たらないよう必死だったせいか何の心当たりもない。ハードモードすぎて自分のことを気にしている余裕などあるわけもない。
「怪我してる?」
「まさか、気づかなかったなんて言わないよね?」
「そんなに言うほどなんだ」
怪我の状態を確認できるものが今は何もない。「ちょっと切れてる?」と聞いた私に「どこかの壁に顔を擦ったような状態だよ」
と怒気を含んだ声で返された。
「トランクが無いから、今はちゃんとした消毒ができない。痛む?」
「ほんの少し。怪我してるって思ったら、ちょっとだけ痛い気がする」
「僕が怪我した時は小さな傷でも放っておくなってすぐ怒るのに」
「だって、ニュートは」
「僕が何?」
「ニュートは、酷い怪我をしてもこれくらい大丈夫だって言って取り返しがつかなくなりそうで」
優しい人だから、動物が関わった時、親しい人が関わった時、自分を顧みず真っ先に危険に飛び込んでいくだろう。今回がまさにそのいい例だ。そうして、命に関わるほどの大怪我を負っても、大事だと思わなさそうで怖い。自分よりも大切な何かがあるのは、たぶん、良いことなのだろうが、自分の身も大切にしてほしい。
「そんなことないよ」
「そんなことあるの」
「名前がこんな風に怪我するよりいい」
「ダメ。よくない。自分が犠牲になればいいなんて考えないって約束して」
「それなら名前もだろう。君こそ自分を顧みずに動く時がある。僕だって、君にそんな風にしてほしくない。自分を軽視しすぎだ」
ニュートは「僕の目を見て」と私と目を合わせた。こんな状況下でも、私に向けられた彼の瞳は透き通るように美しい。
「怖いんだ」
「怖い?」
「ん、そう」
「何が怖いの?」
「名前を失うことが……どんな悪夢よりも」
顔を傾け「そう言ったら、君は笑う?」とニュートは私の様子を窺うように言った。
「……ううん。笑わないよ」
失うことを恐れているのは私も同じだ。
人は誰しも変わっていく。ニュートとティナが少しずつ自分の変化を感じたように、私もアメリカに来て変わり始めている。この世界にとって、良くも悪くも。クリーデンスを助けたいという意志もニュートを失いたくないという想いもその変化の一つだ。アメリカに来る前の私なら、クリーデンスのことは変えられない運命なのだと何もせずに動かず、ニュートはティナと結ばれるのだと彼の幸せを願って、この世界の行く末を変えないようにと一歩引いた立ち位置から見ていたことだろう。それが今は、どんな悪夢よりもニュートが自分のそばからいなくなることが、永遠に失うことが怖い。
「だって、それは私も同じだから。ニュートがいなくなったら寂しい。だけど、別れは必ず来るものでしょう?」
特に、私たちは住む世界がそもそも違うのだ。ずっとこのままというわけにはいかないだろう。ニュートもティナとの未来に進まないといけない。
また一つ大きな爆発の後に、人の話し声とこちらへ近づいてくる気配がした。ここで立ち止まっている場合ではない。何か言いたそうなニュートに「今はクリーデンスを助けないと」と階段を降りずに姿くらましをして駅構内へと入り込んだ。