誰そ彼そ

西日が顔に当たり、烏が鳴いていることで夕暮れ時だと気づく。
身体はもうバキバキである。さばいてもさばいても積まれていく書類、送られてくるメールに溜息しかでない。

「住公さん。お疲れ様です」
静かで気の弱そうな、こちらをうかがう声が耳を通った。

「伊地知さん、お久ぶりですね。3時間ぶりくらいですか?」
黒いスーツに身を包んだ男性の手元にある、憶測数十枚とも見える書類を一瞥し嫌味をこめて返事をする。

「申し訳、ありません・・・2日前の九州地方への乗り換え路線の順序に手違いがありましたのでその訂正と、昨日の活動に伴う施設の破損があったために、」
「伊地知さん、もういいです・・もういいですよ聞きたくありません見たくありません」
伊地知さんの言葉を遮り、耳をふさぎ、目をつぶる。

「いつもご迷惑をおかけします」
神経質そうな顔が、申し訳なさげに眉毛をさげている。
「どうせ、五条さんでしょう」
「その通りです」
「ですよね〜。伊地知さんほんとどうにかしてくださいよぉ〜。がちめに我々の仕事時間4割はこのお方に使ってると思います」
「どうにか出来ていたら、はるか昔にどうにかなっていますよ。今更どうにもできませんよ・・・」
伊地知さんの自分に言い聞かせるような言い方に、口をつぐんでしまう。

蹴落としのしあがり向上意識の高いこの業界には同性はもとより同年代がいない。
老けて見えるが実は同年代の伊地知さんに勝手ながらに仲間意識を抱いている。
これでも仲良しだと思っているのだ。

「いいですよ、これが私の仕事です。1/3に3をかけて幾らにでもしてあげますよ」
「はは、頼もしいです」
「お互い苦労しますね。時間が合えば、新田さんとご飯食べにいきましょう」
「時間が合えばですね」
「はい、時間があえば」
数十回とも交わしたであろうこの口約束は一度たりとも実行されたことはない。私も伊地知さんも新田さんも忙しいのだ。社畜同士のブラックジョーク挨拶として定着してしまった。

あの時も今のような同じような夕方だったな、と書類を見ながら思い出す。
私が伊地知さんを伊地知さんだと認識したのは割と最近である。




「おい住公。このガバガバの見積書訂正してきてもらえ」
今月のキャッシュ・フロー計算書を作成していた時、先輩から1枚の紙を渡される。
「え、今、営業活動のキャッシュ・フロー中で」
「んなこた分かってる。俺は賃借対照やってるわ」
10秒チャージ飯を片手に有無を言わせぬ圧をかけてくる。
先輩からの命令への返事はイエスかはい。そういう世界だ。
「っ・・・はい。いってきます」
今日も残業確定である。


「あーしみる・・・」
夕暮れの光が目に入る。ブルーライトで傷ついた網膜には優しくない。先輩から渡された書類で影を作りながら、お寺のような古いながらも頑丈なつくりの建物内を歩く。

「あ、」
いた。
書類の主を見つけた。あの背格好はきっとそうだ。

「五条さん!」
私の声に反応して2人の男性が同時に振り向いた。
「お忙しいところ申し訳ありません。先日提出していただいた書類に不備があったようで」
いつもこの名義の書類をもってくる黒いスーツを着た男性へ声をかける。

「はあ?いつそいつが僕になったんだよ。僕に失礼だよ」
”五条 悟”さんに声をかけたのに、その隣に立っていた男性が低い声で口を開いた。 
圧が、圧がすごい。
「は、あ、え・・申し訳ございません」
圧倒されながら、謝罪を口にする。

その男性は白い髪とは対照に、首元まで覆われる黒い服に身を包み、黒いアイバンドという目立つ格好をしていた。
オレンジの太陽の光が白い髪に当たって綺麗だ。
身長も何センチあるんだろうか。こんな高身長なかなかお目にかかれない。首が痛くなるほど見上げ、そして頭を下げる。

「も〜これからは絶対間違えないでよね」
腰に手をあて、ぷんぷんと口で擬態語を出している。

ここでようやく、どうやら私は「五条 悟」を誤認していたと理解する。
黒いスーツ姿の男性が「五条 悟」名義で書類を提出してくることが多くお互い名乗ることもないため、勝手にそう思いこんでいたのだ。

「今度からは絶対に間違えないでね〜。伊地知も名前くらい名乗っとけよ。間違えられる僕が迷惑だろ」
「はい、申し訳ありません」
こんなグッドルッキングガイとお前が一緒なわけないだろ〜と失礼なことを言われている。
黒いスーツの人は謝っているが、目は「お前が自分でやればこの問題は起きなかった」と語っている。
あ、この人企業戦士だわ。目が死んでる。そのやりとりを見て、瞬時にさとる。

「じゃあ、僕忙しいから先に行くね。伊地知その紙の訂正適当にやっといて〜。君もよろしくね〜」
五条さんが、私の肩に一瞬手を乗せ、そのあと手をひらひらさせて去っていく。
手が乗ったというか、圧がかかったような感覚だったが次の瞬間にはそんな違和感はなくなっていた。

「伊地知さん、とおっしゃるんですね。いつもお疲れ様です。申し遅れて申し訳ありません、私、経理部に勤めております住公と申します」
「私こそ、名乗らずに申し訳ありません。事務部の伊地知と申します」
ビジネスマナーとして名刺を渡し渡され、はじめての挨拶を終える。
書類は後程、訂正してお持ちいたします。はい、よろしくおねがいします。と手短に用件を済ませ分かれた。


「あんな目立つ人、一回見たら忘れないよなぁ」
五条さん、伊地知さん、と名前を復唱する。今後は間違えるまい、と手のひらで西日を遮りながら廊下をあるく。
まだまだ今日もやることは多い。

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数学者、物理学者、会計士に「1/3かける3はいくらですか」と尋ねた。数学者は「答えは当然1だ」物理学者は「有効数字5桁で1.0000だ」と答えた。最後に会計士はブラインドを閉め「1/3かける3をいくつにしたいんですか?」と答えた。
会計士がお望みの数値を出してみせますよ というお話です。

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