背中を押したのは紛れもない


夏も近い。息をするだけでも、じんわりと汗が滲むようになってきた。今年は猛暑らしい。

「…今日も来てんねや。」

しまった。話しかけるなと言われていたのに。
あんな衝撃的な一言を忘れる程度には驚いたのだ。白濱は、何故進学できたのかもわからないほど、1年の頃はほとんど学校に来ていなかった。2年になってからも同じ。来たとしても昼から数時間程度。
そんな不登校の問題生徒が2日も連続で朝からいたら、驚きもする。

こんなに暑いというのに彼女は明らかにサイズオーバーなグレーのカーディガンを着ていた。彼女の細さも相まって、まるで父親のを借りてきたようにも見える。

俺の声に気づいていないのか、それとも故意に無視しているのか。白濱は頬杖をついたまま窓の外を眺めている。

「おはようさん。ホームルーム始めるぞー。」

担任がめんどくさそうに教壇に立った。俺も小さくため息をついて席につく。
この担任はいわゆる人気教師だ。適度にゆるく、適度に生徒に無関心だ。ボサボサな頭と黒縁メガネ。もっと整えたらかっこいいのに、と女子達が騒いでいるのを何度も聞いたことがある。

「ジャージ、持ってきたかー?今日の午後、清掃活動やぞ。」

そういえば。思い出して一気に憂鬱になる。
午後は帰ってしまおうか。高校生が揃いも揃って大所帯で何のために掃除をするのか。学校のイメージアップなんて、この偏差値底の高校には今更すぎる。

「そういや、白濱。お前にプリント渡しそこねてたなあ。ジャージ持ってるか?」
「………」

担任が静かに白濱の方に歩いてくる。至って普通のことだ。普段、学校にいない生徒をさり気なく気遣う先生。
ふと、白濱を見ると、下を向いたまま小さく震えているのが分かった。

…なんで?

「っ、先生!」
「なんや錦戸?急にビックリするだろがー。」
「えぇーっと…あれ、なんやったかな…。」
「なんだあ?寝ぼけてんのか?」

小さくおきた笑い。無駄に恥をかいてしまった。
興味がこちらから逸れた頃にまたそっと白濱の方を見てみる。震えてはいなかったが、自分の体を抑えるようにぎゅっと抱き締めていた。


「亮ちゃーん!」
「…マルか。何?」
「現国の教科書持ってへん?忘れてもうたー。」

ホームルームが終わるなり、教室に飛び込んできたマル。寝坊でもしたのか、担任に負けず劣らずのボサボサ頭だ。

「コロッケパンな。」
「ご堪忍をー。今月ピンチやねんて。」
「忘れるお前がわるい。」

お目当てのものを胸元に押し付ければ、お礼が返ってくる。マルは忘れ物があまりに多い。というのも律儀に教科書を持って帰るせいに違いないのだが。今時、毎日時間割通りに教科書を鞄に詰め込んでる高校生なんて。俺はこっそり国宝に認定している。

「今日の昼はー、っと。亮ちゃん。」
「あ?」

マルにつつかれるままに後ろを振り返ると、そこには白濱が立っていた。
ここまでの至近距離は初めてかもしれない。本当に見た目だけは抜群だ。そのミステリアスさも加えて、学校中のアイドル化しているのも理解できる。

「……さっき。」
「は?」
「さっき、ありがと。」
「………」
「錦戸は助けたつもりないかもだけど、私は、助かったから。」

嘘みたいに心臓が加速する。何かの病気か。死の間際なのか。そんなレベル。
声すら出なくなって、ただ目の前にいる白濱を見返すだけ。長いまつ毛に縁どられた瞳はまるでビー玉のようで。心臓が、痛い。

「…あと。」
「っ、は!?」
「邪魔。入口塞がないで。迷惑だから。」

今、どんな感情なのか。自分で自分が分からなかった。


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