想起するにおい

「お待たせしました」
「全然待ってないよ。さ、行こうか」

 粛々と咲く花のように微笑むと、いつものサングラスをかけて玄関の扉を空けてくれる。
 お礼を言うと返ってきた微笑に小さく心臓が跳ねた気がした。イケメン耐性がなさすぎて自分でも驚いている。

「そういえば、勤務先の学校って、どこら辺にあるんですか?」
「ここから2時間くらいかな。ちょっと遠いけど大丈夫?」
「それくらいならなんてことないです。仕事で県外行くこともあるので」
「へえ、君ってずっと引きこもってるのかと思ってた」
「うっ…それは間違ってないですけど…」

 外で遊ぶのが嫌いなわけではない。ただ、小説を書き始めてからは他に時間を割くのが惜しくなった。
頭の中で映像の様に流れる物語を、たまに夢にみる普通では思いつかない様な話を文字にしなければ、いつも小さな何かを忘れる様に全て忘れてしまう気がした。それが嫌だった。

 最寄り駅に着いた。だがどうやら通勤ラッシュと重なったらしい。ホームは人で溢れ香水や汗の色々な臭いが雨上がりのムワッとした空気に混じり漂う。
 失敗した。しばらく電車を使っていなかったせいで通勤ラッシュの存在を忘れていた。あまりに人が多すぎて軽く気分が悪い。
 階段の近くだと一歩歩くだけでも一苦労なのでなるべく人の溢れていない車両を目指した。
人をかき分けて少しずつ進んでいると、五条さんが見当たらないことに気づく。もしかしてはぐれた?
彼は背が高いので見つけやすいが、私は一般的な女性より身長があるものの男性とは大差ない。
どうにか目立つ白髪を見つけようと背伸びをすると、丁度電車が到着し後ろから人が押し寄せてきた。

「あっちょっ…!」

 足がもつれて転びそうになったその時、右手首を大きな手に力いっぱい引っ張られ、覚えのある匂いに包まれた。

「五条さん…?」
「うん」

 通勤ラッシュの駅で抱きしめられているのはもちろん恥ずかしいのだが、距離が近すぎて正直それどころではない。幸い顔は見られないが、狂った様に鳴り続ける心臓の音が聞こえるのではないかと心配になる。皆私たちに気づかず出社に集中してくれますように…!
 しばらくすると抱きしめていた長い腕を離し、五条さんが私の顔を覗き込んだ。

「大丈夫だった?」
「はい…ありがとうございます」
「んーん。ごめんね、通勤ラッシュと被っちゃったね」
「いえっ、すみません。近所に住んでる私が把握しとくべきでした」
「僕は人混み平気だから」
「…あ、あの」
「ん?どっかしんどい?」
「…顔が近いです…」
「だって、近づかないと声聞こえないじゃん」
「それはそうですけど…」

 ピークが過ぎたとはいえ、まだ人は多く電車も数分おきにきている。通行人がこの高身長超絶イケメンと私に目もくれず満員電車に乗り込んでいるのが救いだった。

「さ、そろそろ乗ろうか。今度ははぐれないようにね」
「それはこっちのセリフです…!」

 五条さんは少しいたずらっぽく笑うと、私の手を優しく取った。

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