誠実な男

 誰だって面倒ごとには首を突っ込みたくないだろうし、危ない目にだって遭いたくはない。できるならこのまま見ないふりを決め込んで素通りして、さっさと寮に戻って休みたい、というのがジュンの何よりの本音であった。だが、どうせ帰ったところでおひいさんはうるさいだろうしメアリの世話だってある。寮に戻っても相変わらずジュンに自由などはない。

 そうやって目の前の面倒事と帰ってからの面倒事を天秤にかけた結果、ジュンは重苦しい溜息とともに地面に広がる水溜りを踏ん付けて、雨の中平気で立ち尽くしている彼女へと近付いた。

「どうしたんすか、名前さん」

 声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。青のブレザーが水を吸い込んで紺色へと変色している。土砂降りの中、傘も持たなければコンビニへ駆け込む様子もない、なのにどこか楽しげな彼女を、道行く通行人は白い目で見ていた。大都市では、こんなハッピーなイカれ女はいい見世物でしかない。彼女、もとい名前は、ジュンの姿をみると雨音よりも密やかな声でぽつりと呟いた。

「雨が降ってるね」

 なにを今更。
 雨は未明から降り始め、未だ止む兆しが見えない。この手の天気の話題ならジュンは朝に同級生たちと済ませていた。相槌すらする価値のない話を、彼女はまるで、今初めて知ったかのようにジュンに共有してくるものだから余計反応に困る。
 不相応な無邪気さはいっそ気味の悪いものがあった。

「なんでこんなとこにいるんすか」
「漣くんは?」
「質問を質問で返さないでくださいよ、……仕事終わりっすけど」
「そう、私もだよ」

 相変わらず読めない表情でそう話す彼女に、ジュンは無意識のうちに傘を傾けていた。すっかり色を変えてしまったブレザーを見るに、そんな気遣いさえ無用なように思えたが、それでもジュンが傘を持っている以上はそうする他なかった。なにも彼女が特別なわけではない、捻くれているようで案外真っ直ぐに育ったジュンの根っこがそうさせるのだ。

「そんで、傘は」
「あったけど、貸しちゃった」
「……一応聞きますけど、誰に」
「夢ノ咲の子」

 そりゃ、そうだろうけど。苦言を呈したくなる気持ちをジュンはぐっと堪えた。どうせこの人のことだ。どうせ折り畳みがあるとかなんとか言って、半ば押し付けるように相手に貸したのだろう。彼女に対する理解が浅いジュンでも、その光景は容易に想像がついた。相手に罪悪感さえも抱かせず、なんなら「ラッキー」とでも思わせるような善行。要するに、見返りが伴わないもの。そいつは、当の本人がこうして雨晒しに合っているとは思いもしないで、この土砂降りの中を呑気に傘をさして歩いているに違いない。
 その光景を思い浮かべるとジュンは何故だか無性に腹が立ってきた。まごうことなき善人がこうして損をしているのを見るだけで、なんとなく気が立ってしまうのだ。

 傘を半分分け与えたまま、ジュンは歩き出す。どうしてかついてこようとしない彼女の腕をなるべく優しく掴んで隣を歩かせれば、彼女はようやく人間味のある表情を浮かべた。

「駅までっすよね?入ってってくださいよ」
「……それだと漣くんに申し訳ないよ」
「このままあんたを帰したら夢ノ咲の人にネチネチ文句を言われるのはオレなんすよ」

 いいから、と念を押せば、不思議そうに歩き始めた。なぜジュンがここまで良くしてくれるのか、その真意を図りかねている表情だ。本当に他意などはないので、そういった腹の探り合いは茨とやってほしい。

「傘持ってないなら、走って帰りゃいいのに」

 そんな胡乱な視線を躱すように、ジュンは軽口を振ってみる。

「漣くん、天気予報見てないの?」
「はぁ、そりゃ見たからこうして傘持ってきたわけなんすけどぉ……なんすか、急に」

 相変わらず分かりきった話をする彼女に、思わずげんなりした声を上げたジュンだったが、それとは対照的に、彼女は楽しげに続きを話す。

「今日は虹が見れるかもしれないって、天気予報で言ってたんだよ」

 ………彼女の脳味噌に詰まった蜜を養分に、頭の上に花でも咲くのではないか。そんな馬鹿げたことを考えてしまうくらい能天気なことをいうもんだからジュンは本気で困惑した。この時、初めて笑顔を見たのものだから余計にそう感じたのかもしれない。

 人に傘を貸して自分は雨に打たれるだなんて、まったく散々な一日のはずなのに、どうして、そうも屈託なく笑えるのか。ジュンにはまったく理解できない。正気でないとさえ思う。

「あんた、」

 困惑のすえに発した言葉に続きがあるわけではなかった。空中に消えるはずだったその言葉に、救世主が如く突き抜けた声が重なった。

「名前!」

 曇天さえも晴らすかのようなその声の主は、雨の隙間から大きく手を振っていた。
 あれは、確か、夢ノ咲の。ジュンがそいつの名前を思い出すよりもはやく、隣の彼女が弾かれたように顔を上げた。この雨の中、能天気に足を止めて虹を探していた彼女の愚行はどうやら報われるらしい。
 野郎には不釣り合いな花柄の傘をさすそいつを見て、ジュンは全てを悟った。

 あの男は、彼女の重く濡れたブレザーを見たらどんな反応をするのだろうか。想像すると実際にその面を拝んでやりたい気分になったが、男の元までわざわざジュンが付き添ってやる義理はない。

「早く行ってあげたほうがいいんじゃないすか?」
「そうだね。ここまでありがとう、漣くん」
「別にいいっすよ、これくらい」

 駅はもうすぐそこだ。このままジュンの傘に入って行った方が賢明ではあるが、そういう話ではない。ジュンの持つ傘から離れて、男の元へと向かう女の背中を見送る。その、はずだった。

「名前さん」

 気付けば、ジュンの手は彼女の腕を掴んでいた。まさか呼び止められるとは思っていなかったのか、彼女は驚いた表情をジュンへと向けた。一方で、ジュンも自分の行動に驚いていた。全くの無意識だったのだ。

「漣くん?」

 疑問を乗せたその声を聞いたとき、ジュンの頭は少し冷静になった。ジュンの役目はもう終わったのだ。早く手を離して、彼女をあの男の元へと行かせなければならない。頭では理解しているのに、ジュンの掌は彼女の細い腕に吸い付いて離れない。
 彼女は理由も話せず黙りこくるジュンを不思議そうに見つめていたが、その手を振り払うことはなかった。

 それに痺れを切らしたのはジュンでも彼女でもなく、女物の傘をさす男の方だった。降りしきる雨の隙間から、男がこちらへと向かってくるのが見える。その姿を見て、ジュンはようやく自分の行動がただの時間稼ぎであることに気付かされた。

 さっさと晴れて、太陽でも虹でもなんでも出てくればいい。彼女があの男の持つ傘へと入り込む前に、こんな雨、はやく止んでしまえ。

 靴の縫い目のあいだから滲んでくる冷たさに不快感を覚えながら、ジュンは傘の柄を強く握りこんだ。