酔い醒め

 音もなく昇る太陽が、本丸に朝を連れてきた。
 障子を白く光らせる陽光に目を細めると、背後で同室の兼さんが呻いた。今朝の兼さんは二日酔いで潰れている。昨夜は綺麗な星が出ていた。今日の快晴を見れば、それがよくわかる。星見酒に興じていた面々は、総じて兼さんと同じような朝を迎えていることだろう。
 酔狂なことに、その中には審神者も含まれていた。
「主さん、朝ですよ」
「う〜〜……堀川くんは今日も元気だね」
「はいはい、起きてくださいね」
 剥ぎ取った布団の下で、死にそうな顔をして転がる審神者に声をかける。
 一目見て、「世話が焼けるひとだな」と思った。結果その印象は間違っておらず、毎朝寝坊する彼女を起こしに行くのが堀川の日課となった。堀川は誰彼構わず世話を焼きたがるたちではないが、その審神者のことは、どうにも気にせずにはいられなかった。今朝も相変わらずのふくれっ面で迎えた審神者に、堀川は呆れ混じりの視線を向けた。夕陽が沈むまでには、彼女は現世に帰ることになっている。昨晩の酒盛りも、銘打っていなかっただけで審神者の送別会を兼ねていた。
 つまり、堀川のこの日課も、今日で最後である。

 彼女は一ヶ月だけの審神者代理であった。この本丸は、ついひと月前に主を老衰で失った。幸い後任はすぐに見つかったが、後任が審神者として本丸に移るための準備に時間がかかると言うので、その間に本丸を維持するための代理の審神者が必要となった。そこで、前任の遠い親戚にあたる彼女に白羽の矢が立ったというわけだ。
 頼まれたから引き受けたにすぎない彼女に、歴史を守ることへの熱意はおろか、政府からの期待もない。お気楽な臨時職だった。
「会社も辞めて、朝寝坊し放題の生活だと思ってたのになあ」
 当の本人も、こんなことをぽろりと口にするような能天気である。おまえのせいだと言わんばかりの視線を寄越す審神者に、堀川はやれやれと肩を竦めた。
「僕がやらなくても、誰かは起こしに来てたと思いますけど」
「そんなことないでしょ」
 私の世話なんて焼きたがるのは、堀川くんくらいだよ。そんなことを笑って言うものだから、堀川はその目を見ていられなくてふいと逸らした。
 彼女には、所謂婚約者と呼ばれる存在がいる。審神者代理の任を引き受けたのも、寿退社して暇を持て余していたからだと聞いている。彼女は婚約者に大層惚れ込んでいるようで、暇さえあれば愚痴とは名ばかりの惚気をこぼしていた。顔も知らぬ男の話など、どうでもいい。だというのに、幸せそうな審神者の態度を目の当たりにする度に、堀川は自分の胸が酷く軋むのを感じていた。

 未だ太陽は山の端で屯しているにもかかわらず、本丸は随分と騒がしい。普段なら厨当番が慌ただしく準備をしている朝餉の席には、既に本丸の刀剣男士が皆揃っていた。審神者が上手の席に腰を下ろしたので、堀川はその向かいに座った。
「あーあ。明日から早起きしなくちゃ」
「でも会社辞めたんだろ?起きなくてもいいんじゃないのか?」
 隣に座っていた御手杵が、米を口に詰めたまま審神者の話に口を挟む。審神者はむっとした顔をして、言い聞かせるように返した。
「専業主婦も意外と大変なんだよ」
「へー、そういうもんかあ」
 そういうもんだよ、と知ったような口を利く審神者を、堀川はちらりと見る。満足そうな表情が滑稽だった。彼女だって、実際の専業主婦がどんなものか知らないくせに。
「今日で自堕落な朝からもお別れかぁ」
 ぽつりと呟いた審神者が、意味ありげに堀川のほうを向いた。つられたように向けられる幾つかの視線が痛い。
「誰かさんのおかげで、全然自堕落じゃなかったけどね」
 毎朝、寝ぼけ眼で布団から出ようとしなかったくせに、どの口が言うのだろう。堀川は、自分だけが知っているむくれ顔を思い出した。明日からはそれがなくなると思うと幾らかせいせいするが、反面、どこかで寂しいと思う心があることに驚いた。
「なぁ主、あんたひとりで起きれるのか?」
「うっ、刺すのは得意だからって、言葉でまで刺してこなくていいよ」
 御手杵の言葉に顔を顰めていた彼女が、不意に頬を緩ませたのを見て、堀川は嫌な予感がした。ひどく緊張のほどけた、ぬるま湯に蕩けたような表情。この顔をするときに出てくる話題など、一つしかないと相場が決まっていた。
「言っとくけど、私だって愛する旦那さまのためなら起きれるよ」
 ほら、やっぱり。堀川はその顔が大嫌いだった。彼を愛してやまないのだと、これ以上ないほど体現しているその表情が。堀川のことなど、十に一つも気にしていないということを、まざまざと見せつける態度が。
 日が落ち、また夜が明ければ、彼女は俗世で『旦那さま』のために生活を捧げるのだ。ここでのひと月のことなどすぐに忘れて、愛する人との幸せな日々を送るのだろう。それはどうあっても覆りようのない未来であるし、そもそも覆す必要なんてないはずだ。
 たったひと月だけ一緒にいた女のことなど、堀川にとって取るに足らないものである。まして刀剣男士は人間より遥かに長い時を過ごすのだから、さっさと忘れてしまえばいいのだ。そう思おうとしても、尚も吐き気を催すほどむかむかしたものが、偽物の胃の中で蜷局を巻いている。そんなに簡単に忘れてしまえるなら、そもそも世話なんて焼いてない。
「起きれるといいですね」
「堀川くん、それ、絶対思ってないでしょ」
 茶化すように笑う審神者の言う通り、ちっとも思ってなんかない。むしろ寝穢いのが直らなければいい、とすら思っていた。そうしてその旦那とやらに、愛想を尽かされてしまえばいい。
 主の不幸を願うなど、知らぬ間にとんだ鈍に成り下がってしまったものだ。こんなことを考えていると知れたら、兼さんにどやされてしまうだろうな。