一本だけの過ち

※現パロ

「ごめんな。気持ちは嬉しいんだが、俺には大事な人がいるんだ」
 放課後、夕暮れ、通学路。告白するには最高のシチュエーションだった。これがもし薄っぺらい少女漫画なら、ロマンチックな一言をさらりと贈られてハッピーエンドになるのだろうが、現実、私の淡い初恋は無様にも玉砕した。申し訳なさそうに眉を下げた下の黄金色の瞳が、逆光に照らされて影落ちた、好いた人の顔の上で鈍く輝いているのを見た──それがつい、半日前の話。

 まだ覚醒しきっていない頭のまま半身を起こして時刻を確認すると、午前五時を回ったところだった。放心状態で家に帰るなり部屋に引き篭もり、母の叱責も、とめどなく続く泣き声に対する弟からの罵倒も聞こえないふりをして枕を濡らしていたら、いつの間にか眠っていたようだ。乾いた喉の感覚が気持ち悪くて、水を飲もうとベッドから足を下ろそうとすると、何か固いものが膝に当たった。見ると、見慣れた青みがかった黒髪が、組んだ腕を枕にし、私のベッドに頭だけを乗せて寝ている。困惑しながらも起こそうと揺さぶってみると、彼──貞ちゃんは、ぱちりと瞼を開けて、黄金色の瞳を輝かせた。

「な、なにしてんの」
「声、掠れてるぜ。水飲む?」
「え? あ、うん……」

 起き抜けとは思えないほどにはっきりした物言いに狼狽えていると、貞ちゃんは手際よく動いて用意されていたピッチャーからとくとくと水を注いだ。あからみかけている空がその様子をぼんやりと映し出す。開け放した窓から流れ込む、湿度を孕んだぬるい風がドレープを揺蕩わせ、貞ちゃんを隠そうとする。今日は雨の予報だったのを思い出した。対照的に太陽のような貞ちゃんの双眼は、薄暗い部屋の中でも目を背けたくなるほどに眩く輝いている。
 ん、と渡されるままに水を受け取って一口飲んだが、彼が私の部屋にいる理由はわからない。

「いや、どうしたの?」
「その言葉、そっくりそのまま返すぜ?」
「何言って」
「どうしたんだよ、その目」

 躱された疑問に応えて欲しかっただけなのに、貞ちゃんの鋭い眼光と問い詰めるような声色とでびくりと身体が震えた。貞ちゃんとは親同士が知り合いで生まれる前からの仲ではあるのだが、こんな表情を浮かべる貞ちゃんを見たのは初めてだった。ぎり、と奥歯を噛んで、ただ苦しげに私を見つめている。

「何があったんだよ。いじめられたのか?それなら、俺が話してやるから誰にやられたのか言ってみろよ。……それとも、俺には話せない?」

 最後の言葉を紡いだのち、貞ちゃんは瞳に影を落とした。無理をして笑った琥珀は心配と不安とで揺れていた。咄嗟に首を横に振る。
 違う。違うの。貞ちゃんは悪くなくて、もちろんあの人だって悪くない。誰も悪くないのに、私だけだなくどうしてか貞ちゃんまでが傷付いてしまっていた。凍り切ったはずの涙腺が解けて、私の頬を撫でるように一筋つたう。

「フラれたの」

 必死になってその言葉を口にした刹那、心の奥に黒い靄が重く溜まった。しんと静まり返った部屋が心を責める。誰に、とは言えなかった。貴方の兄にフラれたのだとは。
 貞ちゃんは一瞬大きく目を見開いたが、ゆっくりと口角を上げ、朗らかに笑った。そっか、とどこか嬉しさを纏った貞ちゃん表情に反し、私は耐えきれずに嗚咽を漏らす。貞ちゃんは慌てて赤子をあやすように私の涙を拭ったが、その表情に残っていたのは安堵の色だけであった。

「見る目ねえなあ、そいつ」

 そうかなあ、と自信なく声を震わせたけれど、重ねて肯定されたとて、やはりそうとは思えない。
 あの人は高嶺の花だった。歳も相当離れているし、持ち前の明るさゆえに男女も年齢も問わず人気がある。そんな人に振り向いてもらえるなんて、いくら愚かな私でも予想だにしていなかった。そんなに素敵な人だ。彼女がいるのも尤もだった。そのはずなのに、身の程は弁えていたはずなのに、どうして告白なんかしちゃったんだろう。
 自分の殻に籠るように俯いた私の顔を、ぐい、と貞ちゃんの両の手が救う。布団の染みになるはずだった涙は彼の手をじっとりと濡らした。こつん、とお互いの額を重ねる。真っ直ぐな視線が、間近で私だけに注がれている。

「俺はずっと、あんたのものだよ」

 なんだかとんでもないことを言っているような気もするが、私の返答は欲しいと強請った物を買ってくれると言われた幼子のように、純然と溢れ落ちた。

「……本当?」

 それは自分でも無意識に、口を突いて出た本音だった。最悪だ。失った隙間を埋めるように、貞ちゃんを求めてしまったとしか思えなかった。悔いて、手のひらに爪を立てたが貞ちゃんはからっと笑って、おう、と何でもないことのように受け止める。私の手に少し大きい自分の手を重ね、不自然な力を自然に解いて、私の膝の上に縫い付けた。その優しさが薄い記憶の中で重なった。遠い昔の記憶、と言うほど生きてはいないはずだけれど。
 心は何もかもが涙になって枯れ果て、私の手は無意識にも更に甘えるように貞ちゃんの服の裾を掴んだ。貞ちゃんが壊れ物を扱うように私に触れる。ぽす、と肩に頭を預けさせられるがままに、貞ちゃんの服を濡らした。貞ちゃんのお洋服からはお日様の匂いがした。もう姿を現し始めているあの空で、他の全てをかき消して眩く輝く太陽のような匂い。彼の肩にかかった髪に顔を埋めてみると、今度はあの人と同じ匂いがした。
 シャンプー、同じの使ってるんだな。
 肩の上で頭を横に倒し、貞ちゃんの糸と私の糸とをぐちゃぐちゃにする。視界を翳らすそれがどちらのものかはもうわからない。
 しかし私を映す黄金色の瞳がどろどろになって揺れているのは、濡れそぼった蜘蛛の巣の中の隙間でも確かに映じている。