地獄めぐり
すみっこの星最終話後のifではない番外編です。前後編の前編になります。
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1999年11月末。空港から引き摺った大きなスーツケースを宿泊先のホテルへ預けた後、タクシーを使って目的地であるハンター協会の本部へと辿り着いた。
ビル群の中でも異彩を放つそれは、なんとなく初めて『外』の仕事を引き受けた時を思い出させた。
聳え立つ建物を前に、緊張から脇腹がキリキリと痛む。どうしてこんなところに来てしまったのだろう。

ヨークシンから逃げるように流星街へ戻って約2ヶ月。その間、私は毎日のんびりと過ごしていた。
ゴミの山に埋もれてぼーっとして、ナズナさんの作るご飯をもりもり食べて、スズシロさんの家で夕方まで昼寝をして、メガネを後ろから挨拶代わりに蹴り飛ばして。
電波が届く場所でも携帯を使わず、身内以外と言葉を交わすこともなく、とても狭い世界だったが不思議と不満はなかった。
しかし2ヶ月近くもそんな無収入生活を続ける私にやきもきしたのか、同じく流星街に戻っていたハギ兄さんから「良い話がある」とハンター協会のアルバイトを紹介された。

この話をもらうまで私はハンター協会の仕事に携われるのはプロハンターだけだと勝手に勘違いしていたのだが、よくよく考えたらそんな少数精鋭で決して小規模ではないあの組織を運営していけるわけがない。
確かにハンターの仕事はハンターにしか出来ないけれど、それ以外にもやることはたくさんある。部署によっては勤めている人も仕事内容も一般企業とそう大差ないらしい。
それってもしかして、私が夢にまで描いた"一般企業の正社員"となれる場所なのでは?

なんて考えたところで無理やり荷物を纏められてハギ兄さんに外へ放り出された。
私会いたくない人達がいるんだけど、と思ったがハンターが出入りしているなら流星街の次くらいに安全な所だろうから、問題ないか。
それに2ヶ月近くも経てば、旅団だってとっくに私から興味を失っているはずだ。何なら存在すら忘れているかもしれない。
一応警戒して牧師コスプレのおじいさんの元へも行かないようにしていたが、旅団らしき人物が流星街を彷徨いているという話は全く聞かなかったので、きっと彼らは私を捜していないんだろう。なら、余程の事がない限り街中でばったり遭遇なんてミラクルは起こらない。

傷ついて帰って来た私に何も聞かずに優しく接してくれたナズナさんの目も大分厳しくなってきたところだったし、仕事復帰のタイミングとしては丁度良いのかもしれない。ハギ兄さんが持ってきた時点で絶対に"良い話"ではないけれど、私はこの仕事を正式に引き受けることにした。

そうして流星街から遥々やってきたこの土地は、大都会といっても差し支えがないだろう。
とりあえずは短期間の採用となったため、アパートなどは借りずにホテル暮らしだ。ハギ兄さんが決めてくれたホテルは協会運営らしく、今回の仕事を続けている間は無料で滞在できるらしい。
物凄い数の同意書にサインさせられたけど、まあ、そこは置いておこう。


よし、と気合いを入れてから本部へ足を踏み入れる。
受付で話をつけてから、私の直属の上司にあたる人の部屋へ通された。私が来ることを知らされていた部屋の主は、目が合うとすぐに笑みを浮かべる。
事前に軽く話は聞いていたが、ハンター協会に置いて"彼"の立場がどれ程のものなのかは広い部屋と本人の立ち振舞いから一目瞭然だった。

「はじめまして、セリさん。ハンター協会副会長のパリストン・ヒルです」

言いながら手を差し出された。あまり握手の習慣はなかったが、反射的に手を重ねて自己紹介をする。
ハンター協会の副会長、つまりは組織のNo.2というとんでもない大物。会長が亀仙人なのでどんな人物かと思ったら、予想よりずっと若く、"普通"の外見をしていたことに少し驚いた。
だってあの超難関ハンター試験を突破した猛者達を束ねる協会の副会長だよ?正直シルバさんみたいな人が出てくるかと思っていたから、こんな高そうなスーツをきっちり着こなした青年実業家みたいな人が出迎えてくれるとはただただ意外だった。

「ハギさんからお話は伺ってますよ。お会いできるのを楽しみにしていました!今日からお願いしますね」
「よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げる。分かりやすく友好的な態度に、少し身構えた。なんか、なんていうかこの人…。
爽やかな笑みを絶やさず 「どうぞ、こちらに」とソファーを示され、彼と向かい合わせになるよう腰掛ける。

「もう書面やハギさんから聞いたとは思いますが、僕の方からも簡単にお仕事の説明をしますね。セリさんにやっていただきたいのは、僕の仕事全般の補佐です」

僕自身も会長の補佐ですけどね、と明るく笑いながら続ける彼に、何とも言えない違和感を持つ。なんか、この人…。

「恥ずかしながら僕だけじゃ手が回らない所もありまして、とりあえずはメールと電話応対、一部の書類作成と場合によっては現地視察にも同行していただくことになるかと」
「現地視察?」

首を傾げると上司となる彼は嫌な顔一つせずに解説をしてくれる。
協会へきた依頼の中でも被害が大きいものや詳細不明なものはハンターを派遣をする前に調査が必要になるらしく重要度に応じて副会長自らが現地へ赴くことがあるそうだ。
頻度は高くないが、雇用期間中に彼が必要だと判断すれば私も同行することになるので頭に入れておいてほしい、と告げられる。

この仕事は要するに雑用係だ。
あくまで協会員ではないので必要以上の機密事項には触れることなく、彼が仕事を進める上で発生する出来る限りの雑務を片付けるのが私の役目。決して『秘書』ではない、というのがポイントである。短期バイトだしね。
副会長ともなるとちょっとした会話の中にも念という言葉が頻繁に出てくるので、こういった仕事は何の関係もない一般人には任せられない。かといって雑用を片付けるというだけのものにプロアマ問わず忙しいハンター達を態々雇うことはできない。その為、ある程度信用のおける暇な念能力者代表として私が呼ばれたのだ。

私は今回ハギ兄さんの紹介ということでトントン拍子に話が纏まり、ここへ来ることができたが、本来なら雑用とはいえハンター協会の副会長『様』の傍で働くことなど絶対に出来なかっただろう。
ハギ兄さんの話だと彼はトリプルハンターだそうだ。メンチちゃんだって異例の若さでシングルハンターになったが、彼も相当若く見える(念能力者の外見年齢ほど当てにならないものもないが)ので対面した今でも信じられない。
三ツ星というのは歴史的な発見とかものすごい偉業を成し遂げた人しかなれないらしい。つまり私なんかとは比べ物にならないほど優秀で、世の中の為になる立派な仕事をしているのが彼なのだ。
ゴミ棄て場育ちの私が、ちょっとしたコネと念能力者ってだけでそんな人の側で働けちゃうんだから、ハンターの世界は夢がある。

「そしてこれが一番重要なお仕事なんですが、暇な時は僕の話相手もお願いしますね!」

なにそのクソみたいな仕事。
どう反応していいか分からずに「そうですか」とだけ返すと「冗談ですよー!」と笑われた。そういうの良いからちゃんと話してほしい。さっきから脇腹が痛いんだよこっちは。
何だか思っていたよりも大変そうな業務内容に自然と顔が強張る。何よりこの副会長様の側で働くのが、一番心配だ。
そんな私の心情を読み取ったのか、副会長様は「色々不安もあるかと思いますが」と真っ直ぐこちらを見る。

「笑いの絶えない明るい職場ですから、安心してください」

うーん、やばそう。
いや、笑いの絶えない〜発言もそうなんだけど、何よりも目が、目がさ。ずーっと笑ってないんだよ。なんか久々に見たわ、こんなやばそうな人。
最初に顔を合わせてからずっと感じていたものが胸の中でますます大きくなる。私も転生して約20年。スナック感覚で人殺しをする頭のおかしい人間達に囲まれてきたせいか、そういった人種には鼻が利くようになった。
どうしよう、私この人苦手かも。今まで出会ったヤバい連中を全員集めて各要素をランダムに抽出して組み合わせたって感じ。
旅団ほどの強烈な悪意や暗さはないけれど、また別のものを心に抱えているように見える。一見人当たりが良いのが恐ろしい。

やっぱり良い話じゃなかったな、と今更ながら後悔する。
仕事復帰に丁度良いと思った。正社員登用への足掛かりになるかもとは思った。でも仕事って周囲との人間関係も重要なわけじゃん?直属の上司が苦手なタイプって、もう無理でしょう。
一気に嫌になってきたが、まだ初日。何なら一時間も経っていない。
お給料は中々良いし、業務内容も限りなく一般企業に近い。判断するのはもう少しちゃんと働いてからにしよう、と自分を説得する。
私には借金があるんだから、出来ることはやらなきゃダメだ。どうせ臓器売っても大した額にならないんだし、コツコツ頑張ってみよう。

心の中で気合を入れ直したのと同時に建物内を案内する、と言われたので一緒に部屋を出る。
副会長様は完全に個室だったが、私は同じ階にある事務執行部の半個室になっているデスクを使っていいと言われた。用がある時は内線で呼ぶと言われたので、彼と常に一緒にいるわけではないと分かり、安堵した。

「これ、渡しておきますね」

他部署の方々に軽く挨拶した後、歩きながら手渡されたのは銀色のカードキーだ。「これで僕の部屋も含めて大体の部屋へは入れますから」と言われる。

「高層階へいくエレベーターを使う時もこれが必要になりますから、紛失には気を付けてくださいね」

頷き、首に下げた入館証の裏に仕舞うことにした。私が立ち入る必要のある場所を一回りして、もう一度最初に通された副会長様の部屋へ戻ってきた。
私のデスクに持っていってほしい、と副会長様が資料をかき集める。その間、何気なく周囲を見回すとこの部屋に似つかわしくないものを見つけた。恐る恐る尋ねてみる。

「…あれなんですか?」

私の視線に先にあったのは、壁に貼り付けられたカフェのフードメニューだ。いくつか赤いペンで×印が付けられている。
さっきは緊張で見えていなかったが、部屋の中にまるで溶け込めていないそれを見て副会長様が資料片手に「ああ、これ」と明るく口を開いた。

「下のカフェのメニュー全制覇しようと思って!セリさんも何か食べたら印付けてください」
「他人が食べてもカウントされるんですか?」
「この部屋に入った時点でセリさんはもう僕みたいなものですから」

判定軽いな。
このカフェは最近ビルの一階にオープンしたらしく、評判も良いそうだ。正直食に興味のない人だと思っていたので、イメージの違いに驚いた。こんな暇なOLみたいなことする人なんだ。
二人で頑張りましょうねっ!と手を握られる。なんかムカつくからこの店行くのやめよう。



そんなこんなで私の短期バイトが始まったのだが、それは想像の倍のくらい大変な日々だった。
私の仕事は他部署との連絡係も兼任しているので「この依頼結局どうなった?」「あの資料送ってください」等とひっきりなしにメールや電話がくるのだ。
基本的には副会長様に伝えてほしい、という連絡ばかりなので直接電話を繋ごうとしたら「そんな大した話じゃないので…」とすぐに通話が切れることが多い。結構大した話だったぞ。
何故みんな副会長様と直接やり取りをしないんだろう?どう考えたって、私を介するより本人と話した方が正確に伝わるのに。
そして普段はこれだけ電話やメールの嵐が起きるというのに、副会長様が私の側にいる時は不思議なことに誰からも声をかけられないし、メールも届かない。電話も絶対に鳴らないのだ。これを偶然とは言えないだろう。

そこで思ったのだが、もしかしてみんな副会長様に意見が言いづらいんじゃないか?
ハンター協会のNo.2でトリプルハンターなんて確かに萎縮するし、本人がそもそもヤバそうな空気を醸し出しているので出来れば関わりたくない。
それを踏まえて勤務中に然り気無く周囲を観察してみれば、やはり避けられているというか、皆必要以上に距離を取っているように感じた。少なくとも私のデスクがあるこの階では、彼に意見できるような立場の人がいないのだろう。
なんか笑いの絶えない明るい職場とか言っていたが、どこで笑いが起きてるんだ?今のところあの人だけでしょ笑ってんの。

「セリさん、顔色が優れませんが大丈夫ですか?」

初対面で苦手意識を持ったまま改善していない副会長様に気遣われ、咄嗟に「平気です」と嘘をつく。本当は慣れない環境でかなり疲れが溜まっているが、それを上司へ正直に伝えられる人がどのくらいいるのだろう。
早く帰りたいなあ、と思いながら手に抱えていた封筒を差し出す。

「これが今週分の新規依頼です。どれを回すか決めて欲しいって審査部の方から預かりました」
「ああ、ありがとうございます」

回す、とはどのハンターへどの依頼を割り振るかという意味だ。基本的には協会へ来た依頼はサイトで内容を掲示し、応募があったハンターへ回されるものだが、希望者が多い時はその中から審査部が条件に合うハンターを決めるらしい。
そう、これはそもそも審査部の仕事なのだ。なのに、その審査部から「この封筒の分は副会長へ渡してくれ」と頼まれた。どういうことだ?
判断に困る依頼でもきたのだろうか?ぶっちゃけ興味はないので質問はしなかった。ハンター協会の副会長ってこんなことまでするんだ、大変だなあ、なんて心の中で少し同情しながら部屋を出ようとしたら、引き止められた。

「折角だから、セリさんが選んでください」
「は?」

彼の発言が理解できず、聞き返せば満面の笑みで一言一句違わず同じことを言われた。は?何言ってるのか全然わからないんだけど。

「選び方を教えてあげます。見るポイントは依頼の難易度、応募者の実績、依頼人の身元」
「え、いや、あの」
「協会依頼に応募するハンターは念能力も公表してますから、調査書を参考にしてください。流石に全部正直には書いてないでしょうけどそこはセリさんの」
「そうじゃなくて!」

無理やり遮れば、怒るわけでもなく「何か?」と平然とした様子で聞いてきた。
何かじゃなくない?こんな重要なことバイトにやらせるのっておかしくない?審査部は副会長様に、って渡してきたのに私にパスするのやばくない?
と言いたい衝動をグッと堪えて「私がやっていい仕事じゃないと思いますけど」と問いかければ「そんなことないですよ?」と返ってくる。

「もちろん最終チェックは僕がします。ただ内部事情に詳しくない第三者の目も時には必要だと思いますし、何よりセリさんはハギさんの妹さんですし」

なんでだよハギ兄さん関係ないだろ。
私が求めていた返答ではなかったし、どう考えても適当なことを言っているとしか思えなかった。ハンターでも何でもない内部事情に詳しくないやつが決めるのは一番ダメだろ。
しかし、上司にやれと言われたらやるしかない。それが社会…だと思う!
最終チェックをしてくれるなら、私が見当違いな振り方をしてもちゃんと修正してくれるだろうから影響はない。覚悟を決めて封筒を受け取った。

見るポイントはえーっと難易度、実績、依頼人の身元だっけ?どうして依頼人の身元が関係あるんだろう、と聞いてみれば報酬を踏み倒されることがあるかららしい。一応前金をもらってから依頼書を受理するが、それしか払えない人間もいる。身元を洗って不穏な人はここで弾くそうだ。
「こちらも慈善事業ではないですし、支払い能力があるかどうかは大切なことですから」と副会長様は肩を竦めた。今回の依頼主は皆かなりの資産家で、なんか全員身元がはっきりしてるっぽいので良しとする。次!

各依頼に応募しているハンターのリストと調査書に目を通す。協会へ来た依頼を専門に引き受けるハンターのことを協会の斡旋専門ハンター、略して協専と呼ぶらしい。教えてもらったわけではなく、小耳に挟んだ。どうもこの呼び方は皮肉めいた意味で用いられているようだ。
彼らの能力から、依頼に適したものを探して割り振るわけだがこれは経験がものをいうと思う。ただ能力がぴったりなだけじゃダメだ、依頼の難易度によっては何も出来ずに終わる可能性がある。ハンターとしての力量もこの薄っぺらい調査書から読み取らなくてはいけない。
そんなことがバイト1週間ちょいの私に分かるわけがない……とそこまで考えて、ある一つの可能性に気が付いた。

そうか、わかった、わかったぞ……!これはハギ兄さんへの嫌がらせだ…!
私がここでの仕事で何か失敗したら、私を紹介したハギ兄さんの評判が落ちる。副会長様はそれを狙ってるんだきっと!だってハギ兄さんってうざいし、むかつくもん。そりゃ嫌がらせしたくもなるわ。
なんだか物凄く納得してしまった。これならハギ兄さんの名前を出してきたことにも説明がつく。完璧な推理じゃないか?
うんうん頷く私に首を傾げる副会長様。企みが分かったからか、少し彼に対する恐怖が薄れた。
ということは、ここで頑張らないと私はハギ兄さんに殺される…!大昔に受けた高校受験の時の気持ちを思い出しながら、この難題に挑んだ。


「はい、結構です。流石セリさんですね、どこも直す所がありません!」
「いえ、直してください」

数十分後、私の見解を聞いたのち、とんとん、と資料を整えて封筒に仕舞おうとした副会長様を止める。「またまた〜」とか言われるがマジでやめてほしい。
過去最高の集中力で依頼を回すハンターを決めた私を彼は大袈裟に褒めてくれるが、普通に考えてこれが正解な訳がない。

「でもセリさんはきちんと見極めの出来る方だと思いますよ。少なくとも現場に出たことのない人も多い審査部よりはね」

私の不安を察したらしい副会長様が真意の見えない目でまたもやこちらを持ち上げてきた。
審査部ってそうなの?ちら、と覗いた限りではハンターかどうかは知らないが、念を使える人が殆どのように見えた。使えるって言っても個人差があるし、戦闘向きじゃない人も多いのかな。

「そういえばセリさんって昔あの解体屋を捕まえたそうじゃないですか」
「肉の問屋ですか?それともマグロ?」
「違いますよー!ザバン市の連続殺人犯!」

明るく言われて、ああ、と過去の記憶を引っ張り出す。
忘れていただけなのだが「セリさんってば過去のことは振り返らないタイプなんですね」といい感じに纏められた。あれ殆ど妖精さんの力なんだよなあ。

「僕は腕にあまり自信がないので尊敬しちゃうなぁ」

はい、嘘。三ツ星取ったハンターが腕に自信ないとかあり得ないし、本当に尊敬してたらそんな死んだ目で見てこない。
というか、あの件は表向きは警察の手柄として片付けられたはずだが、なんで知ってるんだろう。ハギ兄さんがわざわざ言うわけないし、私も別に言い触らしてない。ハンターは情報収集なんてお手の物だから?
それにしたってこんな事どうでもいいのに…と聞いてみれば「仕事仲間の情報はどんなに些細な事でも頭に入れておくものですから」と返された。そうなの…?短期バイトなのに…?でも上司ってそういうものなのかな。

***

副会長様はちゃんと仕事をすると褒めてくれる。何なら挨拶しただけで褒めてくれる。初孫に甘いおじいさんのようだ。
まるで意図が掴めず不気味だったのだが、この短い期間でも彼の下で仕事をしてきて、こうじゃないかな?という推測はできた。

彼が私のことを過剰に褒めるのは、優しいとかおじいちゃんとかバカにしているのではなく"私という存在"に興味がないだけだ。あの人の中でハギ兄さんのことは抜きにして、私自身は『どうでも良い』というカテゴリーに入れられているのだろう。好きでも嫌いでもない存在。
でもきっと彼の中では殆どの人がそのカテゴリーに入っている。だってあの人は立場の割には人の悪口を全然言わないのだ。
嫌みのひとつも出さないなんて聖人か?そんなわけない。目が笑っていないぞ。つまり興味がないから悪口もでてこないだけだ。
逆を言えば興味のある人間には嫌味たっぷりで対応するのかもしれない。かわいそう。

「セリさーん」

丁度考えていた人物の呼び声に、出た!と一瞬身構えてしまった。
当然彼も気が付いているだろうが特に触れず、もう昼食をとったかどうかと聞かれる。今日は特に忙しく午前の仕事がたった今終わったところだった。
素直にまだだと答えると「良かった!」と嬉しそうに言われた。

「ぜひ今日の昼食は御馳走させて下さい」
「え、いいんですか?」
「はい、本当はもっと早くお誘いしたかったんですが中々時間が取れなくて…、何かアレルギーとか、苦手なものはありますか?」
「えーっとアレルギーは多分何もなくて、好き嫌いもそんなにないんですけど、流石に激辛料理とかは苦手ですね」
「分かりました!」

そのやり取りの末、連れていかれたのは人を殺せるレベルのチャレンジメニューが売りの激辛料理専門店だった。

「僕辛いもの好きなんですよね〜!」
「へぇ……………」

ねぇ、嘘でしょ?私何かした?
マジでどういうことなの?高級店に連れて行ってもらえるのかな良いところあるじゃん、とかちょっと喜んじゃったんだけどマジで何これ?億単位の損害でも出したか?
真っ赤な料理の写真しか見当たらないメニュー表の中から普通の見た目をしている品がないか必死で探す。ない!!
副会長様は何を頼む気なんだろう、と向かいに座る彼に目をやれば、何故かメニュー表ではなくこちらを真っ直ぐ見ていて目があった。にこりと微笑むと愉し気な様子で口を開く。

「僕はもう昼食を終えてますから、お構いなく」
「え!?」
「人が食べてるところを見るのが好きなんですよねぇ」

なんだこいつ…なんだこいつ!!!?
なんで!?なんで私が一人で激辛料理食べるところ見せなきゃいけないの!?そういう企画!?私のこと体当たり芸人かなんかだと思ってんのか!?
どうしよう…!?突如として訪れたこの危機を乗り越えるべくメニュー表を真剣に眺める。チャレンジメニューは論外。スープ系はまずい、逃げ場がない。ご飯系も味が染み込んでいるはずだから無理。ステーキ、そうステーキだ!ソースを落とせばまだイケるはず!
決めました!と元気よく宣言してステーキを頼む。すぐに真っ赤なソースの海に浸った肉が出てきた。かけ過ぎ!!!
美味しそうですね〜と暢気な声が聞こえてきたが反応する余裕がなかった。カトラリーを持つ手が震える。すごい、なんか目に染みるんだけど。
出来る限りソースを取り除いてから、一口大よりさらに小さく切って恐る恐る口に運ぶ。……ギブアップ!!!!

「セリさん、お仕事には慣れましたか?」

最悪なタイミングで話しかけてきやがった。しかし無視するわけにもいかず、飲み物を一気飲みして小さく答えた。

「……はい、あの……まだ……心細いっていうか…」
「そんな!泣かないでください!」

辛いんだわ、辛すぎて泣いてるんだわ。
全て分かった上でやっているだろう彼にハンカチを手渡され「可哀そうなセリさん…」と憐憫の目を向けられた。無理だと思うけど殺してやりたい。
あまりの展開に殺意を抑えきれないでいると電話の着信音が聞こえた。鳴ったのは副会長様の携帯だったらしく彼は「ちょっと失礼」と私に断りを入れる。
邪魔をしないよう静かに涙を拭っていたら、左手を引っ張られた。携帯を片耳に当てて相槌を打ちながら、そのまま私の手の甲に胸ポケットから出した黒のペンで文字を書き出した。木曜午後第三会議室……メモがわりに!!すんじゃねぇ!!!!
通話が終わったのを確認してから、声を出す。

「自分の手に書いてくださいよ!」
「やだなあ、セリさんは僕も同然って言ったじゃないですか」

こいつ!!!なんだこいつ!!!!
悪びれる様子もなく「ほら〜休憩時間終わっちゃいますよ〜」と激辛ステーキを勧めてきた彼を見て眩暈がしてきた。これが悪か。
その後、死ぬほどうざい応援をされながら何とか精神力で半分以上は食べられたものの完食することは出来なかった。

もう二度とこの人とは食事に行かない、と固く胸に誓い二人で店を出る。
丁度その時、道の反対側で悲鳴が上がった。尻餅を付いてる女性が慌てて走り去る人物に向かって何やら叫んでいる。周囲の声を聞き分けるとどうやらひったくりのようだった。隣の副会長様がこちらを見る。

「セリさん、出番ですよ」
「なんでやねん」

つい突っ込んでしまった。めちゃくめちゃ当然のように言われたんだけど何故?この人私をどうしたいんだ。
なんだか無駄にきらきらと澄んだ目で見つめられ、つい後退る。その目やめて!

無言の圧に耐えられなくなり、渋々追いかけることにした。この辺りは人が多くて走りにくいので上から追跡する方が確実だろう、と両足にオーラを集中させ、すぐ側にある建物の屋根目掛けて大きく跳び上がる。今日はスカートなのでこんなことをしたくなかったが、ひったくりの上品な捕まえ方がわからないので仕方がない。
ひったくり犯は道行く人達にぶつかりながら逃げていたので見つけるのは簡単だった。進行方向の先に人通りの少ない路地を見つける。逃走経路にぴったりなので、このまま行けば必ずあの路地へ入るだろう。
予想通り路地の方へ向かったのを見届けてから一気にスピードを上げて先回りする。屋根から飛び降り、犯人の目の前に降り立った。驚く犯人をすぐさま回し蹴りで倒す。うん、余裕。

「流石セリさん、余裕でしたね」

直後音もなく現れた副会長様に、思わず「早い」と驚いた。が、まあ念能力者だし、このくらい当然か。
そうですね、と適当に返しながら伸びている犯人を蹴り飛ばす。そんな私の行動を窘めるような声色で副会長様が言った。

「でもスカートで跳んだりしちゃダメですよ。女性なんですから」

じゃあひったくりの上品な捕まえ方教えてくれよ。

[pumps]