ナズナの風呂を覗く話


手にメガネから借りたまま返すのを忘れていたインスタントカメラを持って、髪が濡れた状態でゴミだらけの夜道を走る。寒い。

私の養母スズシロさんが暮らしている場所はコンクリート造りの病院のような建物だ。昔は六階以上あったそうだが、今は三階から上は消えている。どこにいったんだろう。
役目を果たしていない開けっ放しの入口から中に足を踏み入れる。スズシロさんは二階を陣取っているので、割れた窓ガラスとかゴミが散乱して荒れ果てた一階には灯りすら点いていない。

しかし時々暗闇の奥から物音が聞こえたり、冷たい風が吹いてきたり、なんとな〜く嫌な感じがしたり。
スズシロさん曰く、一階はバナナの皮で滑って頭を打って死んだ男の霊が出るそうだ。確かにそんな死に方したら成仏できないよね。
一回転生しておいてアレだが、私は別に霊魂の存在を信じているわけではない。
が、ほんのちょっと、ちょっとだけドジっ子幽霊さんが怖いので、一階を通るときは自然と早足になってしまう。呪いをかけられちゃったらどうしよう。

ドキドキしながら二段とばしで階段を駆け上がり、ドアの隙間から灯りがもれている部屋の中に飛び込む。

「ただいま!」
「おかえり」
「あら、本当に持ってきたの」

部屋の中にはイルミとスズシロさん。
キキョウさんから送り込まれた刺客イルミは朝から私達の家に入り浸り、風呂を貸してもらいに一緒にこの部屋まで着いてきて、最終的に私より先に入浴した。お客だから仕方ないけど。
ナズナさんの服を借りて、半乾きの髪(ショートからセミロングに進化)を一つにくくったイルミは、今日はもう泊まっていくらしい。

私もイルミに続いて入浴を済ませ、今はナズナさんが入浴中。ちなみに今日は一週間に一度のバスタブに湯を張る日であの人は長風呂なので中々出てこない。
スズシロさんは仕事関係?の書類を眺めていて構ってくれない。大人二人に放置されて暇な私とイルミはゲームを始めた。

その名も『人生ゲーム〜夢は一流の暗殺者〜』である。イルミが持ってきたのだから当然だが、すごくゾルディック家の息がかかったゲームだ。
これがまたおかしなゲームで、三マスごとに『他プレイヤーの言うことを聞く』というマスがある。二人でやっているので他プレイヤーはお互いしかいない。

上手いこと避けていたマスに何度目かのターンで私が止まった。
イルミは少し考える動作見せた後「ナズナおじさんの所に行って怒られてきて」と言った。多分、私が一番ダメージを受ける内容だと思ったのだろう。
しかし、思い出せイルミ。ナズナさんは入浴中だ。出てくる気配もなし。
これはつまり風呂覗いてこい、ってことだろう。間違いなく怒られるが、それで受けるダメージより好奇心が勝った。
そのために私はわざわざ家まで引き返してカメラを取ってきたのだった。


イルミとスズシロさんにカメラを見せびらかして、一度部屋の外に出る。
誰も居ない廊下を少し進み、風呂場の扉の前で膝をつくと開けっ放しにしておいた二人の居る部屋に向かって叫んだ。

「こちらセリ!風呂場の前に到着!繰り返す!風呂場の前に到着!イルミ隊員応答せよ!」

部屋からイルミが顔を出す。

「こちらイルミ。こんな大きな声で話してたら中のナズナおじさんにバレバレだと思うよ」
「止めるなイルミ隊員!ここで諦めるわけにはいかない。私には家族がいるんだ…」
「そういう設定は事前に打ち合わせしてくれないと困るんだけど」
「今から突入する!」
「いってらっしゃい」

名演技を披露するとどうでもよさそうに見送られた。
「あの子って悩みないだろうね」とイルミがスズシロさんに言っていたが、聞こえないフリをした。
風呂場の扉を開くとすぐに人影の映ったカーテンが目に入った。浴槽はカーテンの先なので忍び足で進む。
そして勢い良くシャワーカーテンをひいた。

「ナズ、ぶっ!?」
「風呂を覗くとは何事か」

覗きに来たよ!どころか名前を言い終わる前に顔面に凄まじいスピードで飛んできた桶が直撃。プラスチックの桶がこんなに凶器になるとは。

特に負傷した鼻をカメラを持っていない方の手で押さえながら、ナズナさんを見ると私の存在を完璧に無視して本を読んでいた。すぐ近くにある風呂専用テーブルの上にはペットボトル。
うわ、いつも風呂長いなーと思ったら本と飲み物持ち込んでたのか。やれやれ、とカメラを構えてシャッターを押す。
残念なのは私が「テレビみたいに泡だらけにしようよ!」と言って、スズシロさんが持ってきてくれた入浴剤をぶちまけたせいで湯船が泡まみれになって、せっかく覗きに来たのに何も見えないということだ。

「これは家族会議だね」
「え、ちょ、何やってんの」

カシャ、というシャッター音とフラッシュにナズナさんがようやく顔を向けて反応した。すぐに現像された写真が出てくる。ふむ、良いものを借りパクした。
記念にもう一回シャッターを押す。

「はい、こっち見てー!いいね、じゃあちょっと泡飛ばしてみようか!うん、あっ、ごめんなさい!」

ナズナさんがシャワーを出そうと手を伸ばしたのを確認した瞬間に私は逃走した。



「どうだった?ちゃんと怒られてきた?」
「うん、最後はシャワー攻撃されそうになったから、多分怒られたよ。あ、これお土産ね」

撮ってきた写真を手渡すとイルミは数秒見た後、それを床に捨てた。ひどい。
勿体ないのでそっと拾う。ほら、ナズナさんって基本ガード固いというか隙がないというか、写真を撮らせてくれるなんて相当レアなので保管しておかないと。

私が戻ったのでゲームを再開した。イルミが止まったのはあのマスだった。

「言うこと聞くマスだ」
「よしきたイルミ。ナズナさんの風呂覗いてきて」
「わかった」
「マジかよ」

イルミのノリの良さに驚く。さっきの仕返しのつもりだったのに。八割本気だが、二割は冗談で言ったのに。
これが引き受けた依頼は必ずこなすゾルディック家の長男……!
すっ、と立ち上がり部屋を出ていくイルミを見ながら私は一人でルーレットを回した。でた数字は4で、その分車を進める。生命保険に加入することになった。

***

「ただいま、これお土産」

少しして部屋に戻ってきたイルミは私に向かってペットボトルを差し出した。

「えっ、飲み物奪ったの!?」

それは紛れもなくナズナさんが風呂場に持ち込んでいた飲み物だった。中身は確認するとポカリで、まだ半分は残っている。
こく、と頷くイルミに戦慄する。なんてことを…あの長風呂の途中で飲み物が奪われるなんて、砂漠の途中で持ってきた水があと一滴しか残っていないとわかった時と同じくらい絶望的な状況じゃないか。恐ろしい。
イルミは特に気にした様子もなくゲームを再開するためルーレットを回した。ラーメン屋に就職することになった。
私もルーレットを回して車を進めるとまたもあのマスに止まる。

「言うこと聞きましょマスだ」
「じゃあ、ナズナおじさんの所に行っておいで。また覗きに行きたいんでしょ」
「私が変態みたいな言い方しないでくれる?」
「て、言いつつカメラはちゃんと持っていくんだね」

イルミの冷めた目と言葉は無視した。


風呂場に進入した私は今度はカーテンを少しだけひいて、顔だけ出した。ちょっと覗きっぽい。
相変わらず本を読んでいるナズナさんに声をかける。

「こんにちは、覗きに来ました」
「またお前か」

ナズナさんは呆れたような目を向けた。こんなに堂々と見ているのにほとんど動じないあたり、この人は覗き自体はどうでもいいらしい。
つまらない、と思いつつ先程イルミが奪ってきたポカリを見せる。

「あんたの大切なポカリは私が預かった!のぼせたくなかったら早く風呂から上がって!」
「後半ただの心配じゃねーか」
「このポカリ子が私に飲まれてもいいの!?『キャー、ナズナさん、助けてー』げほっ、ごふっ、む、むせた」
「そいつはポカリ子じゃなくてポカリ男ね」
「男……!?」

私ではなく、本に熱い視線を向け続けるナズナさん。ポカリは男だったのか。衝撃の事実に動揺を隠せず、思わず写真を撮ったらキレられたので逃げた。


「イルミ、私は写真がいっぱい撮れて嬉しいけど、そろそろお風呂に入って二時間だよ?」
「そうだね。あ、ラーメン屋の店長になった」
「水分補給のためのポカリ男はここに…」
「セリの番だよ」
「いい加減のぼせちゃうと思うの……火災保険に加入かぁ」
「そうだね。あ、言うこと聞くマスだ」
「とりあえず風呂覗いてきて」
「わかった」

立ち上がるイルミ。このゲームのゴールがまったく見えないんだが、それもこれも「言うこと聞くマス」のせいだろう。
きっとこのゲームの開発者はこのマスに止まったときは罰ゲーム感覚で楽しんでほしかったのだと思う。
しかし現状はまったく関係のないオッサンが風呂を覗かれているだけだった。

数分後、イルミがびしょびしょになった本を片手に戻ってくる。
飲み物も本も奪った。あとは本体を引きずり出すだけだ。長風呂ってあまりよくないんだぞ。
イルミのラーメン屋が大繁盛してチェーン店を持ち始めた時、私は言った。

一緒に風呂に突入しよう、あとこのゲーム飽きた、と。意外なことにイルミはこの意見に賛成した。さすがにラーメン屋で一生を終えるのは嫌だったらしい。
カメラをしっかり持って私達は風呂場へ向かった。移動中に下の階からガタッ!という音が聞こえて思わず背筋が伸びる。どじっ子幽霊さんが転んだのかな。


「お待たせナズナさん。また覗きに来たよ」
「なんでお前ら交互に来るの?」

先程のようにカーテンを開けて顔だけ覗かせるとナズナさんは溜め息をつきながらそう言った。少し頬が紅潮している。いい加減出ればいいのに。
「実は今回はイルミもいます」とカーテンを開ききって片手を上げたイルミが現れるとナズナさんは見事に顔をひきつらせた。
そんなことはお構い無しに私は口を開く。

「えー、それでは風呂覗きミッション開始。実況、解説はイルミ・ゾルディックさんです。こんにちは」
「どうも、よろしくお願いします」
「おいお前は本返せよ」
「ナズナさんはいつ上がるんですか?」
「お前らがいなくなったらね」
「ねぇ、ナズナおじさんはなんでこんな狭い風呂に長時間入っていられるの?」
「お前は実況、解説じゃなかったのか」
「写真撮りまーす」
「やめなさい」
「バスタブに水入れていい?いいよね」
「イルミ、俺が師匠に怒られるからやめて」
「そういえば、ゾルディック家のお風呂ってすごく広いんだよ」
「ハイハイ、良かったね」
「写真撮りまーす!」
「あー、だからやめろって!」
「セリが写真を撮っている」
「お前は実況へったくそだな!もういいから出てけって!」
「うわぁああカメラが!…撤退だー!!」

結果、失敗。情けなく撤退した私達。借りパクしたカメラが濡れただけだった。
ダメだ…これは最早我々だけで解決できる問題じゃない…。そう悟った私とついでにイルミはボスに相談した。

「ねぇ、スズシロさん。ナズナさん全然風呂から出ようとしないんだよ。ちょっと説教かましてやって」
「あら、まだ出てこないの?流石に長いわねぇ…ちょっと言ってくるわ」

そう言うとスズシロさんは部屋を出る。
正直本当に行ってくれると思っていなかったので心の中でナズナさんに謝っておいた。
頬杖をつきながら夜だとか気にせずにイルミとお菓子を食べていると風呂場の方からドカッ!やらバキッ!やら、あまりよろしくない効果音が響く。路地裏の喧嘩じゃん。

「スズシロさん暴れてるね」
「うん、今日も絶好調みたい…」

流石我が家のボスである。
その五分後、ナズナさんがようやく風呂から上がって部屋に戻ってきた。
腫れた頬とか額から流れている血とかは見ないフリをした。

[pumps]