江戸川さん

朝になっても結局お兄ちゃんは帰ってこなかった。

その日、私は学校に行かずに家でゴロゴロしていた。担任の先生からだと思われる電話も全て無視した。別にお兄ちゃんが心配で家で待ってるとかそんなんじゃないから勘違いしないでほしい。
そもそも普段無断外泊などしない兄が朝に帰ってこなかった時点で私は警察に連絡しようとしたのだ。なのに隣の家の太ったおじさんが「いや、だから昨日言った通りなんじゃが…」などと意味不明な供述を繰り返しており……とまぁ、なんやかんやあって未だに警察には届けていなかった。

隣の家の太ったおじさんこと阿笠博士の言い分を纏めると…えーっとなんだっけ?
お兄ちゃんは黒ずくめの男の人のなんかアレを見てしまいバットで殴られて子供、江戸川なんとかさんになったんだっけ?バットすごいな本気出しすぎだろ。

とりあえず物凄く訳のわからない小難しい話だった。私にはまだ早いって、自分で思った。
あの眼鏡の江戸川なんとかさん=お兄ちゃんとかね、ちょっと意味わかんないです。いや、分かるんだけど理解したくないっていうかなんというか。
そんなややこしい事の顛末を私でも理解できるよう必死に噛み砕いて説明してくれる博士に対して「はぁ、そうなの」と完全にボケ老人を相手にするかのような態度をとってしまったことは一応反省している。老人には優しく、だよね。まだ52歳らしいけど。

それからさらに二日ほど経って、博士の「新一のことは心配せんでも大丈夫」という説得の末、私は学校へ行くことにした。
本当は録り溜めていたアニメを観たかったから嫌だったんだけど、そろそろ担任の先生が押し掛けてきそうだったのでまぁ仕方ない行ってやる。
重い腰を上げて家を出て暫く行き、角を曲がった所でお兄ちゃんの彼女こと蘭ちゃんに遭遇した。

「あ、さっちゃん。おはよう!」
「蘭ちゃん。おはよ……お、おぅ…」
「どうしたの?」
「いや、あの…その横の眼鏡の方は?」

すごいナチュラルにランドセル背負った江戸川なんとかさんが隣にいるんだが。衝撃的な光景に色々な意味で震える私を見て蘭ちゃんが不思議そうに言った。

「眼鏡の方って…この子は江戸川コナンくんでしょ?阿笠博士の親戚の子なんですってね。博士の頼みで家で預かることになったのよ」
「え!?」
「え?会ってないの?この子一昨々日博士と一緒にさっちゃんの家にいたのよ?」
「あ、ああ、うん、知ってる。…江戸川さんね…」
「なぁに、その呼び方?コナンくんでいいじゃない」
「いや、私達ちょっとまだ心の距離が開いてるから…」

そうなの?と蘭ちゃんは江戸川さんを見る。江戸川さんは曖昧な笑いを返していた。

「ねぇ、新一のことなんだけどさっちゃんは何か聞いてる?何か厄介な事件を頼まれたみたいで、当分帰ってこないって言ってたんだけど」
「え?」

なにそれ、と江戸川さんを見ると向こうは焦ったような顔で口許に人差し指を立てた。
どうやら「余計なことは言うなよ」という意味らしい。本気でお兄ちゃん気取りか。ていうか服ダサくない?どうした?

「電話が掛かってきてね。解決したら戻る、って言うだけで、あいつ詳しくは教えてくれなくて…」
「ね、ねぇ!蘭姉ちゃん。早く行かないと遅刻しちゃうんじゃない?」
「あら、もうそんな時間?」

江戸川さんが無理矢理話を逸らす。端から見ても必死だと思うが、蘭ちゃんは変なところで鈍いので何とも思わなかったらしい。
そっか、と少し残念そうな顔をした後、江戸川さんを見てから「あ」と声をあげた。

「そうだ、さっちゃん。折角だしコナンくんのこと小学校まで連れていってあげてよ。中学の方が小学校に近いし」
「小学校!?ふ、ふふっ!」
「そうよ、今日から帝丹小に通うの。ね、コナンくん」
「う、うん!………」

江戸川さんの文句を言いたげな鋭い視線を無視してにやにや笑う。きっと自己紹介の時に「変な名前ー!」とか言われるんだろう。
そんなことを思いながら蘭ちゃんの頼みに「いいよ」と返す。本当は嫌だったが、多分まだ心の距離がある私達を仲良くさせるために提案したんだろう。
よろしくね、と言うと蘭ちゃんはいつもとは違う別の道から帝丹高校へ向かった。

「…………じゃあ行こうか江戸川さん」
「……おい、なんで事情知ってて血縁者という一番俺に近い位置にいるはずの奴が一番遠い呼び方をするんだよ…」
「だって、お兄ちゃん気取りのちょっと痛い男の子のことをコナン君とか親しげな呼び方したくないし。…コナン・ドイルさんに謝れよ…完全に名前被ってんだよ…」
「いや、気取りって…まだ信じてなかったのか?あと、コナンってコナン・ドイルから取ったからな?」
「えっ、じゃあまさか江戸川って……、江戸川って…なに……?」
「江戸川乱歩」
「なんで砲無図にしなかったの?」
「流石に無理あるかなって」

江戸川コナンもかなり無理があると思うのだがそれはいいのか?
早歩きで進む。歩幅の関係で江戸川さんは小走りになった。オイ、と声をかけられるが無視。
横断歩道を渡ろうしたところで、運悪く信号が赤くなってしまったので止まる。
追い付いた江戸川さんが何か言おうと口を開く前に私が話し出す。

「さっきさぁ、蘭ちゃんのこと蘭姉ちゃんとか言ってたじゃん?………まさかと思うけど、私のこと早希子姉ちゃんとか呼ばないよね?」
「あ?そりゃ、二人とか博士しかいない時はそんな呼び方しねぇけど……他になんて呼ぶんだよ」
「決まってんでしょ?工藤さんだよ」
「さっちゃん、お兄ちゃんも工藤なんだけど」
「だから江戸川なんでしょ!?いい加減にしてよ!」
「なんだよ急に!?静かにしろよ、他にも人がいるんだから……」
「じゃあ、早希子さんって呼んでいいよじゃあね」
「は?お、オイ、なんだよお前。どうしたんだよ、変だぞ?って、おーい無視すんな!さっちゃん?俺を小学校まで連れてくんじゃなかったのか!?」

タイミング良く青信号になったので何か叫んでいる江戸川さんを置いて私は学校に向かった。
確かに蘭ちゃんから帝丹小へ連れてくよう頼まれたが、彼が本当にお兄ちゃんだというなら自分の母校くらい一人で行けるだろう。
兄の面影を持つ眼鏡の小学生の姿を思い浮かべて舌打ちをする。私は江戸川さんのことなんて認めないから。

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