アムロ、帰ります

ポアロの看板を見て立ち止まると道に面した窓ガラスから店内の様子を窺う。ざっと見た限り天敵の姿はない。窓際の席に座っていた人が店内を凝視する私に気付いてぎょっとした顔をしたので慌てて離れる。
深呼吸してから意を決して店の扉を開くとカラン、と軽い音が鳴った。

「いらっしゃいませ」

そう言ってカウンターの向こうで微笑んだのは梓さんだった。
やった、いない――と思ったのも束の間、店の奥から現れた安室さんが「あれ、早希子ちゃん」と私に気がついた。がっくりと肩を落とす。普通に居た。

「なんですか……?ちゃんと学校帰りなんですけど!」
「そんな、まだ何も言ってませんよ」
「季節のフルーツパフェ!飲み物はカフェオレ!注文は以上です!!」
「かしこまりました」

フン!と顔を背けてカウンター席に座ると、梓さんは私達のやり取りに苦笑しながら飲み物を用意してくれた。
久しぶりにポアロへ来たが、本人が言っていた通り安室さんは何事もなかったかのような顔で働いていた。よくやるよバーボンのくせに。
安室さんには会いたくないが、季節のフルーツパフェは食べたい。どうかいませんように、と祈りながらやってきたが、私は自分で思っていたより運が悪かったみたいだ。というか安室さんがシフト入れ過ぎなのでは?バーボンもやってるのに本当よくやるよ。
そもそも今の彼の目的が何なのか、江戸川さんもよくわからないらしい。元々は哀さんの捜索?が目的のようだったが、彼女が死んだことになっている今、米花町に残る目的は何なのだろうか。
カウンターの向こうで手際良く調理をする安室さんを観察する。きっと毎日やることが沢山あって忙しいだろうに、疲れなど一切感じさせないプロ意識の高さ。裏でバーボンをやっているとは思えないほど明るく生き生きと真面目に働いている。これもしかしてポアロのバイトに本腰を入れたい説ある?それはそれで困るな。



パフェをあらかた食べ終えた頃、やけに絡んでくる安室さんを適当にあしらっていると、カリカリ、と何かを引っ掻くような音が微かに聞こえてきた。
さらにコツ、と小石が打つかったような軽い音がすると梓さんが「大尉が来たみたい」と明るい声で言った。厨房の端に用意してあった深めの皿を手に取るとそのまま店の扉を開けて外へ出る。

「大尉?」
「最近この店に餌をねだりに来る野良猫のことですよ」

首を傾げる私に、安室さんが説明をしてくれる。この辺りを根城にしている三毛猫で、夕方頃になると毎日のようにこの店へ餌をねだりに来るらしい。
ポアロによく来るから、という理由でエルキュール・ポアロの友人であるアーサー・ヘイスティングズ大尉の名に因んでマスターが『大尉』と名付けたそうだ。ミステリー好きのマスターらしい命名である。

「首輪をつけているので元はどこかの飼い猫みたいなんですが、迷ったのか捨てられたのか……」
「ふ〜ん、ねこ……猫ね……」
「好きなんですか?」
「べ、別に?好きでも嫌いでもないです」

咄嗟にそう返すと安室さんは「まだ暫くは店の前にいると思いますよ」と聞いてもいないのに猫の滞在時間を教えてくれた。ふ〜ん?ま、私には関係ないですけど?
そんな会話をしていると裏からマスターが梓さんを探す声が聞こえてきた。安室さんが梓さんを呼びに扉の方へ向かったので、その背中をさり気なく目で追う。あの扉の向こうに猫がいるんだ。ふ、ふ〜ん……。ま、私には関係ないですけど?
梓さんと安室さんが店の中へ戻ってきたのと私が残ったカフェオレを一気飲みして帰り支度を始めたのはほぼ同時だった。

安室さんがレジに入ってくれたので素早く会計を済ませる。すぐに外へ出ようと扉へ足を向けると何故か安室さんが「ちょっと待って、早希子ちゃん」と引き止めてきた。
一瞬無視するか迷ったが、反射的に立ち止まってしまったので仕方なく振り向く。安室さんはレジから離れると「渡したいものがある」と言って一度裏へ引っ込んだ。今のうちに出ようかなと思っていたら、お菓子の箱を持って戻ってきた。

「これ、よかったら好きなものをどうぞ」

と言って、箱ごと差し出される。焼き菓子の詰め合わせだった。どこかのお土産というよりは、デパートで売っているようなギフト用のものだ。既に何個か無くなっているが、それでもまだまだ残っている。

「探偵業の依頼人の方からお礼で頂いたんですが、僕一人じゃ食べきれなくて配ってるんです」

二個でも三個でも、好きなだけどうぞと続ける。急にそんなことを言われても。
今までの彼とのやり取りを思い出して迷っていると安室さんは足を動かし、さらにこちらへ近づいてきた。戸惑う私に、内緒話をするように声をひそめて言った。

「授業中にお腹空くんでしょう?学校でこっそり食べてください」

そのままマドレーヌを二つ手渡される。彼は以前私がした話を覚えていたらしい。
つい受け取ってしまったマドレーヌを見ながら口を開く。

「も、もらってあげてもいいですけど……」
「良かった」
「お腹空くから食べるだけなんだからね。勘違いしないでよね……!」
「はい」
「…………ありがとうございます!」
「どういたしまして」

何か貰った時は必ずお礼を言いなさい。両親にそう教えられて育ったので深々と頭を下げる。お菓子貰っちゃった。
にこにこと笑顔を浮かべた安室さんが「じゃあ、また」と手を振ってくるが、振り返さずにさっさと外へ出た。私はバット組織の一員だって知ってるんだから、媚び売っても無駄だぞ。

マドレーヌを鞄にしまいながら、地面に目を向けると店の扉のすぐ近くに赤い首輪をつけた猫がいた。ペロペロと皿を舐めていたが、私に気が付くと顔を上げて、ニャア、と鳴いた。挨拶だろうか?ご丁寧にどうも、と軽く頭を下げる。
元飼い猫だからか人に慣れているようで、私を前にしても逃げ出す素振りはない。一人と一匹、暫く見つめ合う。
そのまま目を逸らさずに鞄から携帯を取り出し、無言で写真を撮る。大尉も無言でこちらを見上げていた。
何枚か撮った後、人通りが少ないことを確認してから膝を曲げてその場にしゃがみこんだ。大尉は私の動きを追うように目を動かした。もう一度周囲を確認し、ごくっと喉を上下させる。私を見つめながら、ニャ、と短く鳴いた大尉に向かって、そ〜っと手を伸ばす。

「あら、早希子ちゃん?帰ってなかったの?」

カラン、という軽い音と共にポアロの扉が開いた。サッと手を引っ込める。帰ったはずが猫と対峙している私を見て、梓さんは目をパチパチとさせた。

「ち、ちが……、猫に触ろうとしたわけじゃ……!」
「そんな隠さなくても」

すぐに状況を把握したらしい梓さんがくす、と笑う。
気恥ずかしくなり口を尖らせていると、もう一度扉が開いて今度は安室さんが出てきた。戻れ戻れ!
敵の登場に居心地が悪くなり帰ろうとすると梓さんに引き止められる。折角だから撫でてあげてと促され、少し迷ったが大尉に触らせてもらうことにした。
ちょっと移動して大尉の後ろに回り込み、丸まった背中にそっ、と手を置く。大尉はびくともせずに皿を舐めていた。すごい、なんか“命”って感じ。私の手は若干震えていた。撫でるわけでもなく、ただ手を置いて大尉の後頭部を眺めている私に、梓さんが「な、なんか違くない……?」と困惑する。
その横で安室さんが何か言おうとしていた(多分猫に関するアドバイス)が、結局口にすることはなく、大尉との触れ合いを堪能する私を見守っていた。店に戻って大丈夫ですよ。
大尉が皿を舐め終わった頃、ポアロの二人は大尉の首輪に挟まっていたレシートについて話し始めた。実物を見た梓さんによると、一部の文字が不自然に消されていたそうだ。梓さんが他にも気付いたことを言う。
私にとってはどうでもいい話でも安室さんは何か思うところがあったらしく、徐ろにエプロンを脱ぎ始めた。

「確か、あっちの方に飛ばされましたよね?」

という安室さんの発言の意図を察した梓さんが「えぇ!?」と驚きの声を上げる。まさか探すんですか?という梓さんの言葉に私も思わず大尉の背中から手を離す。

「マスターには急に体調を崩して早引きしたと言っておいてください!今日のバイト代はいらないからと……」
「あ、はい……」

言いながらエプロンを梓さんに渡すと安室さんは走って消えた。止められるとは微塵も思っていないようだった。というか、止める隙を与えなかった。自由か。
残ったのは私と梓さんと大尉のみ。レシートを探すためにバイトを早退する人を見たのは初めてだったのですぐに言葉が出てこなかった。帰った?本当に帰ったのか、あの人?
大尉がニャア、とひと鳴きしたことで私達はようやく我に返る。

「梓さん、あの人仕事舐めてるよ。クビにしましょう」

バイトとはいえ許されない。真剣な声色でそう言うと梓さんは困ったように笑いながら「う、う〜ん?」と言葉を濁した。

pumps