跡部様の後輩

「どうぞ、おばあちゃん………あっ!」

その一言で、空気が凍りつく。
反射的に顔を上げれば、名前が「しまった」という表情で口元に手を当てていた。床には先程まで彼女が手に持っていたと思われる家族旅行のお土産が散らばっている。

(おばあちゃん……?こいつ今おばあちゃんって言ったのか…?)

誰のことかと周囲を見回すが、この場には自分と名前しかいない。まさか、自分のことをおばあちゃんと呼んだのだろうか?
雷に打たれたような衝撃に、跡部は目眩がした。目の前では名前が眉を八の字にして何事か話しているが、あまりにショックな出来事に直面し、全く耳に入ってこなかった。

一学年下の名前のことを跡部は結構気に入っていた。
学内では樺地の次によく傍に置いていて、頼み事(大抵忘れ物関係)は大体聞いてやったし、試験前には勉強も見てやったし、自身の誕生日会にも招待したし、休日には遊びに連れて行ってやったこともある。一人っ子の跡部にとって名前は妹のような存在でそれなりに可愛い奴だと思っていたのだ。

それが、まさかのおばあちゃん呼ばわりである。おじいちゃんなら未しもおばあちゃん。
向こうもきっと自分を憎からず思っているのだろうと考えていた跡部にとって「おばあちゃん」の一言は決して聞き流すことのできない強烈なもので、一気に裏切られたような気持ちになった。

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跡部先輩ってなんか、田舎のおばあちゃんみたい。

名前は、いつからかそんなことを思うようになっていた。小学生の頃は近所のお節介なおばさん程度の認識だったのだが、中学生になってからはやっぱり田舎の可愛いおばあちゃんだな、と感じるようになったのだ。
あまりに不名誉で失礼なことだとは思うが、学内でも跡部と関わりの深い方だと自負している名前からすればこれほどしっくりくる例えもない。
なんて、こんなことをうっかり口に出そうものなら周囲から袋叩きに遭うかもしれない。一学年上の跡部は男女問わず好かれていて、学校一の人気者なのだ。
テニス部の部長で中等部の生徒会長でもある跡部は、頭が良くて運動もできて家もお金持ちでやや自信家でちょっと吃驚するくらい綺麗な顔をしている。

対して名前は、特に秀でたものはない至って普通の女生徒だ。成績は真ん中よりちょっと上で、運動は走ること以外は苦手で、顔は時々お世辞で可愛いと言われるくらい。
そんな名前にとって跡部という人間は異次元の存在だった。親しみやすさがまるでないのだ。あの隙のない外見のせいか溢れ出る自信のせいか、何とも言えない迫力があるので未だに慣れず、彼との会話はいつでも全力投球。以前遊びに連れていってもらった時は長く一緒に居すぎたせいか疲れて次の日に熱を出したくらいだ。わざわざお見舞いに来てくれたが更に熱が上がったので大変だった。

普通なら名前のような目立たない生徒A(仮名)は接点の持ちようがないのだが、彼と同じ部活に幼なじみがいるというだけの理由で、偶々話すようになってしまった。
中等部に入学してすぐの頃、わざわざ跡部が自分のクラスまで訪ねてきたことで、クラス公認の部下のような扱いになってしまったのが今の関係の始まりだ。クラスメイトに「お前選ばれし者じゃん!」と散々茶化されたのは苦い思い出である。

「名前は跡部先輩に気に入られてていいなぁ」

名前の友達は大抵そう言った。特別気に入られているわけではないと思うが、嫌われてもないだろう。それは当然理解していた。
皆が憧れる学園の人気者の側に入られることを嬉しく思う気持ちもあるが、それよりも「下手な失敗は許されない」という緊張感の方が大きい。名前は決して思い上がらなかった。
そもそも跡部が数多いる生徒の中から敢えて自分を呼びつけるのは、部活仲間の幼なじみで、氷帝学園に入学してから一番最初に接した年下の女子が自分だったからだろうと名前は推測している。彼の信頼する樺地と同学年で最初に名前を覚えたのが偶々自分だったというだけで、別に名前個人に何か光るものを見つけたとか、魅力を感じたとかではないのだ。
樺地に倣って時々「お、オス!」とか言ってみたりするが、跡部はいつも怪訝な顔をするだけだった。気に入っていたらもっと満足そうな反応を見せるはずである。

それでもいち後輩として彼が自分を可愛がってくれているのはよく分かっていた。その可愛がり方が完全に"おばあちゃん"のそれなのである。
以前生徒会の仕事に付き合い遅くまで学校に残っていた時、ついお腹を鳴らしてしまったことがあった。以来、跡部は名前用の軽食を常備するようになっていた。放課後会う度に「腹が減っただろ?」と食事を薦めるのだ。彼は名前が無限に空腹なんだと思っているのだろう。

テニス部員達に混ざって彼の自宅で夕食をご馳走になった際も幼なじみと「美味しいね」と料理の感想を話していたら気に入ったのかと尋ねられ、首を縦に振った次の日から毎日お昼に同じものが届けられるようになった。一度美味しいと口にしたらそれしか作らなくなるおばあちゃんである。
他にも少し体調が悪くなると完治しても一週間は心配され続けたり、彼自身は好きでもないジュースを名前が探していたからという理由で毎回くれたり、冬場は毎日「そんな薄着で…」から会話が始まったり、名前が好きな男性アイドルの名前を何度訂正しても間違えて覚えたままだったり。
出会ってからの積み重ねで名前は跡部のことをおばあちゃんのようだと思うようになった。勿論思うだけだった。


「やっちゃった…絶対怒ってる……やっちゃった…」

その日の夜、ベッドに横たわる名前の脳内では学校での出来事が延々と繰り返されていた。お土産を渡すだけのつもりが、本人を前に"おばあちゃん"と言ってしまうなんて、うっかりで済まされるものではない。
何度も何度も謝ったが、跡部は「ああ」とか「うん」とか普段の彼からは想像できないほど覇気がなく曖昧な返事しか得られなかった。結局まともな弁明も出来ずに逃げるように帰って来てしまった。

これからどんな顔で彼と接すれば良いのだろうか。と言うより、もう嫌われたかもしれない。
そう思うと同時にじんわりと涙が浮かんできた。確かに一緒にいると緊張するし疲れるけれど、あの人はとても良い人だ。
彼の協力で名前は逆上がりが出来るようになったし、その振る舞いを間近で見ていたからこそ、あがり症も克服して人前でも堂々と話せるようになった。物言いで誤解されることもあるが人の美点を見つけるのが得意で名前のような取り柄のない人間でも決してバカにしたりはしない彼をずっと尊敬していた。
明日を迎えるのが憂鬱でならない。こんなにも学校へ行きたくない、と強く思ったのは選ばれし者になった日以来だ。


次の日、寝不足の名前は朝から体調が悪かった。朝食も殆ど食べられず、授業中は机に突っ伏し、昼休憩になるや否やトイレに駆け込むと嘔吐してしまった。
死人のような顔色をしている彼女を心配してくれた友達に付き添われ、保健室で休むことになった。身体が弱ると心細くなるもので名前は保健室のベッドで「跡部と会う機会は二度とないかもしれない…」などと思っていた。
昨夜に引き続き目に薄い涙の膜が張られたところで、保険医から声をかけられる。
迎えに来てもらえないかと自宅に電話をしてくれたらしいのだが、留守電になってしまったそうだ。両親はいつも仕事で帰りが遅いから元から期待していなかった。歩いて帰れます、と答えた名前に保健医は「いつも一緒に帰ってる友達は?」と尋ねた。放課後までここで休んで、友達に荷物を保健室まで持ってきてもらって一緒に帰るといい、と続けられたので親しい友人の名を告げる。


いつの間にか眠っていたらしい。
カーテンの向こうから人の話し声が聞こえて意識が浮上する。先生から「苗字さん、来てくれたわよ」と声をかけられ、返事をする。
名前が上体を起こしたのとカーテンが開いたのは同時だった。

「おい、大丈夫か」
「え、跡部先輩?」

そこに立っていたのは跡部だった。あ、あれ〜?いつも一緒に帰るお友だちでC組の坂本さんって言ったはずなんだけど〜?なぜA組の跡部さんが〜?
もう部活の時間のはずなのに、跡部は制服姿でベッド脇の椅子に置いていた名前の鞄を持ち上げると困惑する名前に「坂本の代わりに来た」と短く伝えた。かろうじて「あス…」とだけ答える彼女に、首を傾げる。
突然のことに動揺し、まともに反応出来ないでいる中、今週はテスト期間なので部活動は全て休みになっていることを名前はようやく思い出した。
だからといって迎えに来る意味も分からない。あんなに失礼なことを言ったのに…とあの恐ろしい事件を思い返したところで、イメトレしていた謝罪の言葉が浮かぶ。

「違うんですよ…先輩」
「なんだ、俺のことを裏でおばあちゃんとか呼んでいた件か?」
「いや………それは、それもそうなんですけど…」

何故自分が跡部と会話する時に疲れてしまうのか、明確になった。この素敵な人に嫌われたくない、がっかりされたくないと思って気を張りすぎてしまうのだ。つい自分をよく見せようとして頑張りすぎてしまう。

「私、いつも先輩に助けてもらって、おかげで変われたのに…失礼なこと言ってしまって……」
「………」
「悪口とかじゃないんです。初めて会ったときからずっと先輩に憧れてますし」
「それ愛の告白か?」
「懺悔ですね」

すみませんでした、と口にする頃には名前の視線は自分の手に向かっていた。どうしても目を合わせることができなかった。
暫く沈黙が続く。居た堪れなくなり、ベッドから降りて靴を履いていると頭上から「お前は」と声が降ってきた。

「何度言っても忘れ物を繰り返して、だらしなくてどうしようもない」

俺から見れば何も変わってねぇ、と続けられる。低く静かな声だった。めちゃくちゃ怒ってない?
恐る恐る顔を上げる。腕を組んだ跡部の表情に怒りの色はなかった。

「でも素直なのは良いところだ。他人に寛大で、失敗をすぐに謝れて、いつも笑顔なのも良い」

その時の跡部は普段とまた違う柔らかい雰囲気で、どこか懐かしく安心する名前の好きな顔だった。ふ、と口角を緩める。

「帰るぞ」

そう言うと跡部は背を向けて歩き出したので慌てて付いていく。
後ろを追う中、名前ちゃんは素直な良い子なんだよ、とにこにこ語る田舎のおばあちゃんを思い出した。
やっぱりこの人おばあちゃんだ、と名前は確信した。

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