菊地原と先輩
※一応ネームレスになっています。


従兄弟の蒼也くんが「自分のチームを作る」と言ったのは私がB級に上がってすぐのことだった。三つ年上の彼は私より一年以上も前からボーダーに所属していて攻撃手としての実力は折り紙付き、個人総合でも10位以内に入っていたが、慢心せずにひたすら鍛錬を積むストイックな人だ。私は元々銃手志望だったが、そこまでトリオン量が多くなかったので攻撃手になり、入隊してからずっと彼に稽古をつけてもらっていた。なので、私達の関係はボーダーにおいては師弟と言ってもいいのかもしれない。
昔から向上心が高く努力家で何をやらせても優秀な人なので、彼が隊を立ち上げると聞いて懸念は一つもなかったし、むしろ遅いとすら思った。血縁とはいえ私とは顔も似てないし頭も性格も何もかも正反対だ。風間隊か〜、と自販機で購入したココアを飲みながら隊長姿をイメージする私に、蒼也くんはチームの方向性を説明してくれた。メンバーはそれに沿って選ぶらしい。

「正隊員でフリーの人ってほぼいないけど、メンバー集まりそう?」
「訓練生にも声をかける。おまえも誰か入れたい奴がいたら連れてこい」

彼のその台詞で私もチームのメンバーとしてカウントされていることに気が付いた。別に先約があるわけではないので「うん、わかった」と素直に頷き、その二時間後にオペレーターの栞ちゃんを紹介した。最近開発されたばかりの隠密トリガー『カメレオン』を使った近接戦闘を主軸にする、と蒼也くんから告げられた栞ちゃんは目を輝かせて「良い子がいますぜ」と訓練生だった歌川くんの情報を教えてくれた。
そこからは早い。入れたい奴を連れてこいと言われていた私は、強化聴覚を持つ菊地原くんのことが前々から気になっていたので「あの子が良い」とおもちゃ屋で立ち止まる子供のような言い方で二人に相談した。戦闘員の中でもトリオンの低い私は、サイドエフェクトが発現するような高いトリオンの持ち主に強い憧れがあったからだ。トリオンが低くても強い人は沢山いるが、高くて弱い人はまずいない。きっとあの子はとても強くなるんだろう。
その翌日には蒼也くんがサイドエフェクトを取り入れた戦闘方法を考案し、栞ちゃんが聴覚情報の共有を思いつき、確保した歌川くんを連れて菊地原くんの勧誘に向かうことになった。行動力がすごい。
そんなこんなであっという間に風間隊のメンバーは決まり、訓練生だった二人が正隊員に昇格してから本格的に始動したチームは、コンセプト部隊としての地位を確立していった。最大で五つも年が離れたメンバーに囲まれている蒼也くんに年齢差から来るはずの違和感を持つことは一切なく「馴染んでるな…」と思ってしまったのは内緒だ。

カメレオンをここまで効果的に使えるのはきっと風間隊くらいだろう。順調にチームランクを駆け上がる中、私はとある問題を抱えていた。何かと言えば人間関係である。
学生だろうが社会人だろうが集団においてこの手の話は切っても切れないものだ。チームの雰囲気は決して悪くない。私にとって蒼也くんは身内、元々知り合いの栞ちゃんは明るく良い子なのでいつも一緒にいたし、年頃の中学生とは思えないほど人柄の良い歌川くんとも上手くやれていた。問題は菊地原くんだ。

「先輩、これで掃除したって言ってるんですか?」

同じチームになった彼への印象は「姑みたいなこと言うじゃん…」だった。作戦室の片付けをした、と告げれば彼は黙って室内を見回した後、棚の上を指でなぞってそう言った。それは紛れもなく昨日観た昼ドラで姑役がやっていた動作そのもので、この後続く台詞を思い出して息を呑んだ。
彼は毒舌である。それは理解している。蒼也くんだってズバッと物を言うタイプなのでそういう人には耐性がある。ちょっと意地悪に感じる人もいるかもしれないが、口が悪いだけで言っていることは正論だ。要は、相手にものを伝える時、表現に気を遣わないってだけ。

心を抉るようなものもあったが、戦闘に関することならどんなに厳しいものでも受け入れられた。自分ではわからない部分もあるので他者からの指摘はありがたい。けれど、それ以外の日常生活が私達にとって思いの外大きな障害となった。
私はどちらかといえば大雑把な人間なので、菊地原くんからすれば色々と我慢ならないのだろう。私は彼に憧れを持っていたし、仲良くなりたいという気持ちが大きかったので、最初のうちは何か言われてもあまり気にしなかった。気にした方が良いのだろうけど、この歳で性格はもう直らないし。
何より菊地原くんは誰に対してもトゲのある言い方をするので、自分だけじゃないと思えばそこまで傷つくこともなかった。

しかし、正論は時にただの言葉の暴力にもなる。私は自分で思っていたほど心の強い人間ではなかったようだ。
何度目かの昼ドラ劇場の末、姑を演じる彼に一言二言反論していたら段々とヒートアップし、売り言葉に買い言葉で揉めに揉めて、私はもう無理だと悟った。蒼也くんとは良い関係を築けているのに、菊地原くんの毒舌には耐えられないということは、きっと私達は相性が悪いのだろう。
蒼也くんに泣きながらチームを辞めたいと相談すればカレーをもちゃもちゃ食べながら年上らしくアドバイスをしてくれたが最終的には「おまえの好きにしろ」と言ったので、私は風間隊を抜けることになった。栞ちゃんと歌川君が必死に止めてくれたが、もうやっていける気がしなかった。

原因となった菊地原くんに理由を伏せて挨拶をしたら返ってきたのは「そうですか、お元気で」というシンプルな別れの言葉だった。風間隊がA級に上がってすぐのことだったので『無責任』くらいは言われると覚悟していたのに、ぽかんとする私に対して彼は「そういう時もあるでしょ」とだけ続けた。
考えた上で辞めたいなら辞めればいい、と思っていたのだろう。でも、いつもの毒舌は鳴りを潜めて私を見送る彼の興味なさげな目、声色。その全てから私のことなどどうでもいいように感じさせられて深く傷ついた。

きっと彼は私のことが大嫌いなんだろう。チームを抜けて結構経つが、私は当時のことを今でも引き摺っている。

***

「お疲れ」
「ああ、お疲れ様」

戦闘員の過半数を学生が占めるボーダーにおいて平日の夕方は最も人が増える時間帯だ。ざわざわと騒がしい基地内で、自販機前の休憩スペースで飲み物片手に一人ぽつんと座る私に声をかけてきたのは同じクラスの犬飼くんだった。私の持っている飲み物が新発売のジュースだと気がついた彼に「それ、どう?」と聞かれたので「結構イケる」と答えれば、迷わず同じものを買っていた。

「昨日はありがとね、助かっちゃった」
「いーって、隣の席じゃん」

防衛任務のシフトを代わってもらったので改めてお礼を言えば、犬飼くんはそう言ってひらひら手を振った。席順はあまり関係ないと思ったが頷いておく。私は困った時はとりあえず相手に合わせておく癖があった。蒼也くんが悪い癖だと言っていたので直したい。
隣に腰掛けた犬飼くんは何故かきょろきょろと辺りを見回した。なんだろうと思ったら「あの子いないの?」と聞かれる。誰のことか分からず首を傾げる私に「ほら、菊地原くん」と目を細めて言った。

「いつも二人でいるじゃん」
「ええ?別にいないよ」

仲良しべったり、みたいな言い方をされて苦笑する。私達の関係性を考えるとあり得ない話だ。
そんなわけが…と否定してからボーダーでの自分を思い返して、ぴたりと動きが止まった。覚えている限り、記憶の中の私の側にはいつも菊地原くんの姿があったのだ。

「あ、………いる!」
「でしょ?」

言われてみれば確かに、チームを辞めた割には彼とよく顔を合わせていた。というかボーダーに来ると大体遭遇する。特に約束をしているわけではないが基地を歩いていると声をかけられるし、他所のチームのランク戦を観に行けば高確率で彼も現れるのでいつも並んで観戦していた。少なくとも蒼也くんよりは会う頻度が高い。なんとも不思議な話である。
まあ、この広い施設内で戦闘員の行動範囲は限られているので確率的にはあり得なくもない。会話の内容は大体嫁姑バトルなので、菊地原くんは嫌いな人間と目が合ったら勝負を仕掛けてくるタイプの子なんだろう。なんて好戦的なんだ。こちらとしてはそっとしておいてほしい。
などと考える私の横で犬飼くんが「うん、結構イケる」と口にしたので何かと思えばジュースの話だった。私達の味覚は同じらしい。釣られて私も持っていたジュースの蓋を開いた。

「ほら、いるよ」

くすりと笑った犬飼くんが示した方を見ると件の後輩が歩いていた。声が聞こえたのか不意にこちらを向いたのでバッチリと目が合う。その瞬間、彼は思いっきり顔を歪ませた。その顔は私を傷つけるのに十分すぎる破壊力を持っていた。ホントに私のことめっちゃ嫌いじゃん。
はあ、とため息をつくと何故か横の犬飼くんはおかしそうにケラケラ笑った。他人の不幸がそんなに楽しいか?少しむっとすると彼はそのまま腰を上げた。

「おれ、もう行くから」
「うん。じゃあね」
「また明日〜」

ひらひらと手を振り合う。犬飼くんは丁度すれ違う形になった菊地原くんにも軽く挨拶をする。菊地原くんはそんな彼に会釈を返し、少し振り返った後まっすぐ迷いなくこちらまでやって来た。ひょっとしたら私に何か用があるのかもしれない、と居住まいを正す。学校帰りで制服姿の私と違って、彼は防衛任務明けなのか私服だ。目の前まで来ると座っている私を見下ろしながら軽く口を尖らせた。

「何の話してたんですか?」
「別に大したことじゃないよ」
「へえ、そんな無駄口叩いてる暇あるんですか?」

あっ、姑だ!ええ?お友達と世間話?家事も育児も満足にできてないのにあなたそんな暇あるの?な姑が顔を見せる。いつものやつだ。
あまり余計なことは言わない方が良いと思い「でも今日はもう帰るから」とだけ答える。本当は個人ランク戦をする予定だったが、今日は諦めよう。飲みかけのジュースの蓋を閉めて横に置いていた鞄の持ち手を取れば、中からガサッといういつもは聞こえないはずの軽い音が鳴った。教科書以外に何か入れてたっけ、と音の出所を探れば、派手に割れたクッキーの袋が出てきた。夕飯前のおやつのつもりで買ったはいいが食べ忘れたんだった。軽く振ってみれば何枚かは正常な姿をしているが、粉になりかけているものもある。菊地原くんが訝しげにこちらを見た。

「なんですかそれ」
「鞄の中で教科書にやられたみたい。食べる?」
「よくそんな割れたクッキーを他人に渡せますね。正気ですか?」
「ごめん、そうだよね」

流石にこれは彼の言う通りだと思ったので素直に謝る。私はこういうところがいけないんだ。
家に帰ったら夕飯が用意されているし、これはもう蒼也くんに渡そう。彼なら気にせず食べてくれるはずだ。そのままクッキーの袋を鞄に仕舞おうとすれば、菊地原くんが心底わからないといった顔で「は?」と声を出した。

「なに?」
「いらないとは言ってないんですけど?」
「ええ…」

分からないって。今のは判断できないって。完全にこんなもん食えるかの流れだったじゃん。正気疑ってたじゃん?そう言いたくなったがまた喧嘩になってしまうので飲み込んだ。いつもの拗ねた様子で「ん」と手を出されたのでとりあえず渡す。不機嫌そうな声色とは裏腹に、大事なものでも貰うような優しい受け取り方だった。
憎まれ口をたたくが乱暴な振る舞いをすることはない。この子はこういう子なんだよね、と懐かしく思いつつ鞄のチャックを閉めれば、目の前の後輩はちらりと周囲を確認した後「そういえば」と口を開いた。

「先輩、一昨日B級の奴と帰ってましたよね」
「一昨日……ああ、虎太郎くん?家の方面が一緒だからね」
「それでなんで一緒に帰るんですか。別に仲良くないでしょ」
「そんなことないよ。最近はよく個人ランク戦するし」

風間隊は色々と忙しいようで、以前と比べて個人ランク戦に顔を出す頻度が減った。なので彼も虎太郎くんのことをあまりよく知らないのだろう。虎太郎くんは柿崎隊の子で、小学生で正隊員になったすごい子だ。いつも一生懸命で柿崎隊長を尊敬している。彼を思い浮かべると自然と頬が緩んだ。

「あの子可愛いんだよ」

その時、菊地原くんの耳がぴくりと動いたのが見えたが特に気にせず続ける。

「素直で礼儀正しくてね、努力家なの」
「ふーん…」
「人懐っこくて、つい面倒見てあげたくなるよね」
「へえ…」

そこまで言ってから、ハッとした。当て付けのように聞こえたかもしれない。
私はただ虎太郎くんの可愛さを教えたかっただけで決してそんな意図はなかったのだが、そう捉えられてもおかしくない。別に菊地原くんがひねくれてて年上に敬意を払うことなく近寄りがたいなどと思っているわけじゃないんだ。私は彼がサイドエフェクトに胡坐をかかずに努力を重ねていることも知っているし、結局上手くやれなかったが今でも後輩として可愛くは思っている。ちょっと姑だなって感じるだけで。そう、みんな違ってみんないいってやつだ。

心の中で言い訳をしながら恐る恐る菊地原くんを見れば、つまらなそうな顔をしていた。わからない、これはどういう顔なの…?彼に関してはこれが標準なので判断が難しい。私が駐輪場で見かけた野良猫の話をする時も大体こういう顔してたし…わからない、なんだこの顔は…?
自分なりに必死に考えるが、どうしても彼の感情が読めない。どうしよう、嫌味じゃありませんって一応説明した方が良いのかな?間違えたと思ったらすぐやり直せって蒼也くんも言っていたし、伝えるべきかな?なんてぐるぐる迷っていたら菊地原くんがフン、と鼻を鳴らした。そのまま「でもB級でしょ」と小馬鹿にしたように続ける。それが虎太郎くんのことを言っているのだと理解するのに数秒かかった。

「ぼくの方が強いですよ」
「あ、うん、そうだね」
「本当にわかってます?」

あっさり肯定したので、適当に合わせていると思っているらしく彼は眉を顰めた。適当でもなんでもなく私も概ね彼と同意見だ。そりゃ、どっちが強いかと言えば今はまだ菊地原くんの方が強いだろう。一対一なら勝ち越すはずだ。
でも強さにも色々種類があって条件によって勝敗は変わるものだし、虎太郎くんはこれからどんどん伸びていく子なので、B級だからどうとか一概には言えないと思う。

私がそう口にする前に、菊地原くんは呆れたようにため息をつくと自分の――というより風間隊の強さについて語り出した。どうした、やけに饒舌だな?と思ったが、彼は普段から気を許している人の前ではよく喋る。無愛想だが決して無口なわけではなく結構お喋り好きな面もあるので、妙なことではない。これ別に当てつけだと思っていない感じかな?そもそも彼は「それ嫌味ですか」とはっきり言うタイプだ。
じゃあいいか、と少し安心する。その間に話は終わって「わかりました?」と若干苛ついたように言われた。半分くらい聞いていなかったのでとりあえず「うん」と頷いておく。いつもの悪い癖だ。

「でも強さとか関係なくない?虎太郎くんは可愛いって話だから」
「好きなんですか」
「は……?」
「ぼくより好きなんですか」
「ん……?」

ええ、なにこの流れ……?
あらぬ方向へ進んでいった会話に困惑する。私は何を言わされようとしてるんだ……?新手のいじめか……?
なんと答えればいいのか、彼が何を求めているのかわからず、控えめに手をあげる。

「あの、ちょっとタイムで……」
「即答できないんですか」

何をそんなにはっきりさせたがっているんだ?
どことなく不機嫌そうな彼に、もう一度「タイムで」と手をあげる。訳がわからず暫く考えるが、その間も菊地原くんはじっと食い入るような目でこちらを見つめていた。
虎太郎くんは好きだ。でも菊地原くんよりって、後輩をそうやって順位付けしたことはないし、ていうか何その自分を好きなこと前提な聞き方。好きっていうか可愛くは思うし仲良くしたいけど、そもそもこの子は私のことを嫌っているじゃないか。それなのになんでこんなことを聞いてくるんだ?即答ってなんだ?何を言ってほしいんだ?
そこまで考えて、はたと気が付く。

「もしかして菊地原くんって私のこと嫌いじゃないの?」
「何を今さら」

当然のようにそう返され、一瞬思考が止まる。
菊地原くんは手が寂しいのか私があげたクッキーの袋を軽く上下に振った。

「別に嫌ってないですよ、うざいなって思ってるだけで」
「それを嫌ってるって世間では言うんだよ」
「嫌いじゃないですよ」
「え……」

怒るわけでも照れるわけでもなく、はっきりとそう言われて、ちょっと吃驚してしまった。口を半開きにして固まる私の頭上から「嫌いじゃないですよ」とさらにもう一発降ってくる。聞こえてる聞こえてる。もう大丈夫。

「まさかずっと嫌われてると思ってたんですか?バカみたいな勘違いしないでください」

嫌いだろこれ…。あまりにも冷たい言い方にどうにも信じられずに疑いの目を向ければ、はあ〜、とわざとらしく大きなため息をつかれる。嫌いだろこれ…。
どういうことか理解できずに戸惑っていると菊地原くんは「美味しいですか、それ」と私が持っているジュースを指差した。急に話変えるじゃん?
結構イケるよ、と軽く振って答えれば彼はくるりと自販機の方へ向き直ると迷わず同じものを購入した。この流れさっきも見たな、と犬飼くんを思い浮かべる。

「先輩には……いや、風間さんも宇佐美先輩も歌川もそうなんですけど、借りがあるので」
「ん?」
「…皆が声をかけてくれたおかげでそれなりに楽しめてますって話です」

自販機の前で、こちらに背を向けたまま菊地原くんはぼそっと言った。この騒がしい空間では集中していないと聞き漏らしてしまうような小さな声だった。振り向こうとしないので彼が今どんな表情をしているのかはわからない。
彼は私の返答を待たずに「それは言い過ぎですかね」とぽつりと呟いた。独り言のようにも聞こえたので、答えがほしい訳じゃないのかもしれない。
ジュースの蓋を開ける彼の後ろ姿を眺めながら、あの子が良い、と言った過去の自分を思い出す。

「まっず、味覚おかしいんじゃないんですか」

すっかり感慨に浸っていた私の耳に、新商品に対する容赦ないレビューが届いた。確かにちょっとクセがあるけど、そこまでじゃないだろう。
菊地原くんが振り返る。ようやくこちらを向いたと思えば「うえ〜」と舌を出した。どうやら彼はダメみたいだ。

「でも犬飼くんも結構イケるって言ってたよ」
「疲れてるんでしょ、あの人」

言いながら、もう一口飲んだ。またわざとらしく「うえ〜」と舌を出す。お茶目アピールしないで。
そんな彼に対して今までとは少し違う感情が生まれ、つい口角が上がる。鞄を掴んで椅子から立ち上がると私達の目線はほぼ同じくらいの高さになった。

「残りは私が飲むよ。お金出すから別の買えば?」
「は?あげませんよ」
「え〜?」

ひねくれた返しにおかしくなって笑ってしまう。明らかに嬉しさが滲み出ている私の態度に、菊地原くんは分かりやすく顔を顰めた。

「何にやにやしてるんですか、気持ち悪い」
「言い過ぎじゃない?借りがあるんでしょ?」
「え?先輩何かしてました?」
「え?あの…クッキーあげたよ?」
「正気じゃないでしょ」

またまた、意地張っちゃって。もう知ってるんだよ君の気持ちは。なんて、にやにやしながら肘で小突けば「うざいので触らないで下さい」と物凄く迷惑そうな顔で言われた。

どうやら彼は私のことを先輩として(多分きっと)好きだけど、普通にうざいと思っているらしい。なんじゃそりゃ。
ちょっと複雑な気持ちではあるが、嫌われてはいない――その事がわかって前よりずっと心が軽くなったし、彼との距離が近づいたような気がした。というか、ずっと近かったのに私が勘違いしていただけみたいだ。
不器用な彼がより一層可愛く思えた。この後の予定を尋ねれば不審そうに「もう帰りますけど、それが何か」と返ってくる。私達の家は案外近い距離にあるけど、帰り道を共にしたことはなかった。私が何かと理由をつけて避けていたからだ。けれど今の私は違う。すっかり調子に乗っていたのでその提案をするのに抵抗はなかった。

「じゃあ、今日は一緒に帰ろうね」
「それだけは死んでも嫌です」

にべもなく断られた。なんなんだよ、どういうことなんだよ。

[pumps]