episode5

個人ランク戦を終えて帰り支度を済ませた美也子はブースを出る前に一度時計を確認した。すっかり長居してしまったが、ここ最近楽しみにしている深夜番組の時間まではまだ余裕がある。忘れ物がないかしっかりと見回してから、使用していたブースを出た。
いつもは賑わっているランク戦のロビーもこの時間帯になると流石に人が減って、どこかゆったりとした静かな雰囲気だ。年末ということもあり、最近は自宅で過ごす者も多いので人の出入り自体が減っているのだろう。
スマホ片手に母親へ「今から帰るね」とメッセージを送りながら美也子はバイクの免許取ろうかな、などと真剣に考えていた。

何故バイクなのかというときっかけは昨夜のこと。弓場隊の神田忠臣が今月でボーダーを辞めることになり、送別会を兼ねて彼と交流のある同学年だけが集まった忘年会が開かれた。流石に防衛任務などで全員の予定は合わずメンバーは入れ替わり立ち替わりで、夕方から長時間続いたそれに途中から加わった美也子は日付が変わる直前まで参加していた。帰りは両親に迎えに来てもらうつもりだったのだが、二人揃ってお酒を飲んでしまい車を使えないという連絡が入ったので仕方がなく歩いて帰ろうとしたところを影浦隊の北添尋が「危ないから家まで送るよ」と申し出てくれたのだ。横で聞いていた影浦が「お前のバイクきな粉にされるぞ」などと意味不明で失礼なことを言っていたが、北添は遠慮する美也子を家まで送り届けてくれた。優しい。
今まで美也子はずっと自転車を使っていたが無理やり鍵を壊したせいなのか妙な音が鳴る様になり、直そうと手を加えた結果、最終的に壊れてしまったので今の彼女の移動手段は徒歩一択である。こんな時にバイクがあれば遅い時間になっても周囲に気を遣わせることもないし、自分にとっても便利だ。車の免許と迷ったが、北添に送ってもらったせいかバイクの方が魅力的に思えた。

「美也子さん、帰るんすか?」

階段を下りていけば、先程までランク戦をしていた米屋が声をかけてきた。三輪隊の隊服ではなくジャージ姿で、手に財布を持っている。彼の問いかけに首を縦に振れば「オレ飯食いに行くんで途中まで見送ります」と横に並んだ。この時間に食事をとりに行く、ということはまだ暫く基地に残るという意味である。美也子は防衛任務の勤務表を思い浮かべた。深夜シフトに米屋の名前はなかったはずだが、学校が休暇に入ると一部のバトル狂は家に帰らないで仮眠室に勝手に泊まっていたりするので彼もそのパターンだろう。
家に帰らない代表格の男の顔が浮かんできてこっそり苦笑していると米屋は軽く振り向いて後方を確認してから「あの〜」と内緒話でもするように控えめに切り出した。

「帰る前に、ちょっと美也子さんに聞きたいことあるんすけど」
「何?」
「ここじゃ、ちょっと」

そう言うと人の目を避けて、防衛隊員は殆ど使うことのない一般職員のオフィスに繋がる狭い通路へ先導した。突然のことに美也子は、え…告白…?などと胸をざわつかせた。私には王子君が…じゃなかった太刀川さんがいるからごめんね…などとあり得ないと理解しつつもドキドキしながら米屋の後に続く。
美也子のこの思い上がりは実際そう的外れでもなく、米屋はかつてランク戦のロビーで美也子が三輪と話しているところにやってきて「一目惚れしました。お友達からお願いします!」と勢いよく頭を下げて彼女に右手を差し出した過去がある。ボーダーではいつも太刀川と共に居た美也子に対してそんな声の掛け方をする者はいなかったので周囲は「おお……」とざわついていた。呆れる三輪の横で目を瞬かせた美也子は、ポンコツなので『剣捌きに一目惚れ』と解釈するとランク戦を申し込まれたと思い、そのままブースへ入って彼をボコボコにした。場所が悪かったのかもしれない。

米屋は辺りを窺ってから美也子の方を向くと「う〜ん」と彼にしては珍しく迷った様子を見せた。何を言われるのかと不思議がる美也子に、米屋は声をひそめて言った。

「美也子さん、うちの蓮さんと付き合ってるってマジっすか?」
「あ〜、そうきたか…」

また予想外の質問が飛んできたものである。誰だそんなデマを流しているのは、と一先ず情報源を探れば「諏訪さんが言ってました!」と特に意外性のない名前が返ってくる。
何故そんな与太話が流れているのか、美也子には心当たりがあった。太刀川に相撲勝負を挑む前に月見と二人で居たところを諏訪に揶揄われ、否定せずに親指だけ立てて放置したのだ。完全に自分のせいである。
米屋は出水と同クラスで仲が良いはずだが、太刀川ではなく月見が相手だと思っているということは、出水はちゃんと美也子との約束を守っているようだ。まったく良くできた後輩である。どこぞの犬飼とは大違いだ。
ふざけた噂を立てられ、美也子が月見に申し訳なく思っていると米屋は「蓮さんにも聞いたんすけど」と頭を掻いた。

「蓮さんはなんて?」
「どうかしらね、ってはぐらかされた」

それを聞いて美也子はくす、と笑った。米屋に対してそう答えた月見の顔が簡単に想像できて、口角が自然と上がる。

「で、どーなんすか?」
「どう思う?」

茶目っ気のある月見の返しに美也子は自分も乗ることにした。
否定をせずに含みのある笑みを浮かべるだけの女子二人の態度に、米屋は「え〜?」と腕を組んで悩む素振りを見せる。彼は思いの外、真剣に悩んでいた。

「二人って付き合い長いし、弾バカ…出水が言ってたんすけど、美也子さんは見方によっては太刀川さんより蓮さんに懐いてたって」
「うん、つまり?」
「なくはない」

美也子は思わず吹き出しそうになった。
出水の話通り彼女は月見によく懐いていた。美也子は普段からオペレーター全員に大恩があるが、その中でも月見は古株で公私ともに世話になった人だった。異性で初めての先輩が太刀川なら同性で初めての先輩は月見である。才色兼備で真っ当な人物なので手放しで尊敬できる分、太刀川より懐いているように映るのも当然のことだった。誕生日もクリスマスも何か祝い事があれば必ずプレゼントを贈り合っているし、家へ遊びに行ったこともある。
デマだと一蹴されそうな噂も二人の交友を知っていればいるほど米屋のように「なくはない」という結論に至り、混乱が起きていることを月見も美也子も何となく予想できたが面白いので静観することにした。月見が嫌じゃないなら美也子も気にしないし、大部分の隊員は本気では捉えないだろう。
後方のエレベーターホールからこの階への到着音が聞こえてきたのと同時に美也子は我慢できずに声を出して笑った。特に周囲を気にせず言う。

「実は、私と蓮さん付き合ってるの。内緒にしてね」
「マジか〜、いつから?」
「三年くらい前から、もうずっとラブラブ」
「えっ?俺聞いてないぞそれ?」

突如、通路に驚いた声が響いた。それは目の前の米屋ではなく美也子の後ろから発せられたものである。
面倒な気配を察知した彼女がぎこちなく振り向けば、空気が読めないことに定評のある太刀川が「おいおいおい知らなかったわ〜」としみじみと頷くのが見えた。運の悪いことに先程到着したエレベーターから降りてきたのは太刀川だったらしい。彼も今月は防衛任務がないはずなので仮眠室コースだろう。よりによってなんでこのタイミングで来るんだ、と美也子は頭を抱えたくなった。他の誰でも構わないから太刀川だけは現れないでほしかった、というのが彼女の切実な願いである。もうめちゃくちゃだよ。
米屋と軽く挨拶を交わした太刀川に名を呼ばれ、美也子は思わずぎくりとする。

「お前、俺のことは遊びだったのか…」
「そういうこと言うの本当にやめてください。殺しますよ」
「美也子さん、すげーシンプルな脅迫しますね」

米屋は二人の発言が冗談だと思っているのかおかしそうに笑った。恐ろしい話だが少なくとも美也子は本気である。
今日までに何度か痛めつけられた経験を持つ太刀川は今更彼女の発言に怖気づくことはなく、美也子の肩にもたれるように手を回した。

「米屋〜、聞いてくれよ。俺弄ばれてたっぽい」
「まじっすか、美也子さん二股とかプレイボーイっすね」

何故こっちが彼氏役なんだ。心の中でツッコミを入れつつ、美也子は何かの拍子で米屋に太刀川との関係性がバレるのではないかとハラハラしていた。最悪のタイミングで現れた太刀川の間の悪さを恨みつつ、自身の肩を抱く彼の手を無理やり引き剥がす。美也子がその手と暫く戦っているのをいつものじゃれ合いだとスルーした米屋は、女子二人が付き合っている話を聞いてショックで夜しか眠れそうにないと太刀川に語っていた。

「ほら、オレ美也子さん一目惚れなんで」
「えっ、そうなのお前」
「嘘ですよ嘘。陽介くんはそういうこと言っちゃう子なんです」
「いやいやマジで。おうちはお米屋さんなの?って聞かれた時にこの人かわいい〜って思いました」
「それ俺も聞かなかったか?」
「太刀川さんのこともかわいい〜って思いましたよ」
「マジか、美也子聞いた?やったな」

俺達かわいいって、と先程までの攻防に勝利を収めた手に肩を揺らされた美也子はやめろやめろ…かわいくないから…とひたすら焦っていた。マイペースな太刀川の登場で会話がどの方向に転ぶかわからない恐怖から冷や汗が止まらない。太刀川は米屋の言葉を冗談だと思っているからか、自分が好かれているという自信があるからか、飄々とした様子で会話を続けていたので、美也子は今すぐこの場を解散させるか話題を変えるかの二択を迫られた。

「フリーなら俺が立候補しようかなって狙ってたんすよ」
「おっ、告るか?俺、席外した方がいい?」
「…そうですね、太刀川さんは邪魔なんで今日はもう帰ってください」
「どうした美也子、腹減ったのか?」

いつにも増してそっけない美也子を太刀川が揶揄うように笑う。実際、彼女はとてもお腹が空いていた。だから帰ろうとしていたのに…とむくれていれば肩に置かれていた太刀川の手が頬を突いてきたので、静かに距離を取る。関係性が変わってから美也子は他人の目が気になり、二人だけの時以外はあまり触れてこないでほしいと思っていた。正直ボーダー内ではこの程度のじゃれ合いはいつものことなので今更なのだが彼女は分かっていない。
空腹で上手く考えが纏まらない美也子は、米屋が食事をとりに行く途中だったことを思い出す。外へ出るとは言わなかったので、恐らく食堂で済ますのだろう。基地の食堂は三交代勤務の隊員達の為に長時間開放されているが、深夜前になると一旦閉まる。利用は出来るが食事の提供はそろそろ終わるはずだ。美也子は腕時計に目をやりながら言った。

「陽介くん、ご飯食べに行くんだよね。早く行かないと閉まっちゃうよ」
「あ〜、そうっすね」
「米屋飯食うの?俺も行くわ」
「太刀川さんはダメです。私が許しません」
「何故?」
「太刀川さんって飯食うの許可制なんすか?」

通路に明るい笑い声が響く。緩い雰囲気の二人とは対照的に美也子はやや緊張した面持ちでどうにか彼らをバラけさせる方法を模索していた。このまま米屋と太刀川を二人だけには出来ない。今のままでは絶対に太刀川は口を滑らせる。
なんとしてでも阻止しなくては――焦燥に駆られた彼女は子供の我が儘のような口振りで「二人はダメです」と腕を動かして胸の前で大きくバツを作った。

「じゃあお前も来るか?」
「私は鍋が待ってるので…」
「鍋は食いたいっすよね〜、わかる」
「とにかく二人はダメですから」

明確な理由を話すわけでもなく、ひたすら譲らない美也子に太刀川が首を傾げる。
頑なな彼女の態度に、何かを察したのは米屋だった。

「ああ〜、なるほど…」

米屋がにやにやと口元に笑みを浮かべた。きょとんとする美也子を見ながら太刀川の方へ近づくと何やらごにょごにょと耳打ちをする。

「何?何なの?」

なんだか嫌な予感がしてくる。美也子は先程より心臓の鼓動が早まるのを感じながら「何の話…?」と胸を抑えた。そんな彼女をにやりと笑いながら太刀川は自身の顎を撫でる。

「だから何の話!」
「ほら、俺が束縛されてるって話だ」
「………?新しい妄想ですか?」
「おいおい、いつも妄想してるみたいな言い方はやめろよ」
「大丈夫、美也子さんの太刀川さんへの気持ちは誰にも言いませんから。オレ口固いんで」
「は……?陽介くん、殺されたいの……?」
「シンプルな脅迫やめてくださいよ〜」

太刀川さーん、と助けを求める米屋に一歩近づけば反射的に一歩後退る。そのまま壁に追い詰めれば少女漫画でよく見かけるような構図になった。男女の立ち位置が逆転しているし、美也子は少女漫画というより一昔前の不良漫画を参考にしているので中々不穏な空気が漂っている。助けを求められた太刀川によって壁についていた右手を離され「落ち着けよ」と笑われた。
どうやら米屋は美也子が太刀川の事を好きで、自分に妬いてると勘違いしたらしい。またおかしな方向へ進んだものである。否定したかったが、かといって本当の事を話すわけにも行かないし、上手い言い訳は思い付かない。結果、押し黙ることになってしまった美也子は耳に熱が集まっているのを感じた。太刀川に庇われるような形でこちらを窺う米屋の顔から察するに、きっと赤くなっているのだろう。

「悪いな、米屋。俺は束縛されてるからさ」
「了解っす」

米屋はおちゃらけたように敬礼すると二人に別れを告げて食堂の方へ足を動かした。
力なく彼の後ろ姿を見送った美也子はその場に膝から崩れそうになった。今の気分は?と聞かれたら最悪としか答えようがない。殆どバレたようなものである。
壁に寄りかかるように半身を預ければ、束縛されているらしい太刀川と目があった。

「もういいですよ…、陽介くんと行っても。基地に泊まるんでしょう」
「いや、俺も今日は帰るわ。迎えは?」
「来ません」
「じゃあ送るから帰ろうぜ」

言いながら欠伸をした。確かに普段の帰宅時間より遅くはなったが、まだそれなりに人通りはあるはずなので迎えがなくとも帰れると踏んでいた美也子は擽ったい気持ちになりながら「どうも」と口にする。

「それとも二人でどっか行くか?」
「鍋が待っているので行きません」

そっぽを向きながらそう言えば太刀川は頷きながら「鍋は食いたいよな〜」と頭の後ろで手を組んだ。早くバイクの免許取らなきゃ――美也子は心に固く誓った。

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