episode10

※Telescope本編中「みかづき」辺りの話です。


カレンダーが8月に変わって一週間が経った頃、朝早くから駅前までやってきた美也子は待ち合わせによく利用される時計台の側のベンチに腰掛けていた。容赦なく照り付ける日射しの中、膝の上に乗せた大きな旅行用の鞄に片肘をついて暇潰しにスマホを弄っていれば、ここで待ち合わせをしている人物からメッセージが届く。
『もう着くわ』という文字列を見て、美也子は鞄を持ってベンチから立ち上がると辺りを見回した。少し離れたところから日除けの白い帽子を被った月見が、自分よりも少しコンパクトな鞄を肩にかけ直しながら歩いてくるのを見つけて美也子は手を振った。振り返されるなり待ちきれずに傍へ寄れば、月見は「おはよう」と微笑んだ。

「待たせてごめんなさいね」
「全然。私が勝手に早く来ただけですから」

実際その通りで、美也子は二人で決めた集合時間より30分以上前に着いて待ち合わせ場所となっていたベンチに座っていた。

「私すっごく楽しみで、眠れなくて…あ、でも途中で寝たりしないんで!ちゃんと夜まで起きてます」

美也子が自信有り気に胸を張れば、月見はくすりと笑って「私も楽しみにしてたのよ」と照れたように言った。

「買ったばかりの新しい服を着てきたし、美容院にも行ったし、ネイルもしてきちゃった」
「私も!水着買いましたし、蓮さんに貰ったイヤリングもつけてきて、あれ、これって着けたままだと錆びます?」
「素材的に錆びにくいとは思うけど確実ではないし、落としたら大変だから海に入る時は外した方が良いかもね」

美也子は耳元で揺れるイヤリングに触れながら「わかりました!」と頷いた。

二人が海へ行く約束をしたのは7月の頭だ。月見の誕生日である25日は大学の試験期間だったので、試験終了後に彼女の誕生日祝いを兼ねた一泊二日の小旅行を計画した。
場所は県外の海水浴場で、この時期はそこら中にパラソルや小型のテントが広がっている。近くのホテルに宿泊予定だった二人は、先に荷物をフロントへ預けると必要最低限の物だけ持ってすぐに海へ向かった。

シャワー室が併設された更衣室で着替えを済ませて浜辺へ出ると美也子は「写真撮りましょ」と防水ケースから取り出したスマホを向けた。月見から了承を得ると二人並んで、海に来たことが分かるような構図で何枚か撮影する。

「これSNSに載せていいですか?ボーダーの女の子と柿崎さんしかフォローしてない鍵アカなんですけど」
「別に構わないけど柿崎くんはどういう基準をクリアしてその面子に入れたのかしら」

投げ掛けられた純粋な疑問に「柿崎さんはマブなので」と答えになっていない答えを口にした美也子は、SNSをやっていない月見に代わり自身のアカウントに写真を投稿する。

今回の旅の発案者は美也子だ。夏と言えば海という短絡的な思考だが、彼女も月見も泳ぐことは好きだったので特に揉めることもなく、あっさりと決まった。
泳ぐだけならホテルのプールでも良かったが、やはりスケールや雰囲気が違う。防衛任務のシフトの関係で一泊二日となってしまったが、折角の旅行なのだ。思い出になるのは海だろう、という美也子の決めつけで二人はここまでやってきたのだった。

正直、お嬢様の月見をシーズン真っ只中の観光客で賑わう海水浴場へ連れて行っていいのか美也子は随分と悩んだが、一般家庭の育ちである彼女にプライベートビーチの手配など出来るはずもなかったので仕方がないことである。旅行前に「ごめんなさい、財力がなくて……」と力なく謝る美也子に対して、月見は普段の彼女からは想像もつかないほど大笑いしたものだ。偶然その場に居合わせた彼女のチームメイトである奈良坂透は後にその時の様子を「気が狂ったのかと思った」と語った。
お嬢様だから、と言っても月見は一々そんなことを気にしないし、もし彼女の幼馴染である太刀川がそれを知ったら「お前こいつに夢見すぎ」と妙な気を回す美也子を笑っただろう。

昼過ぎまで海で遊んで、食事を取って、近くの観光施設を見て回る。それが今日の予定だった。ボーダー屈指の高嶺の花で他隊員からも一目置かれる月見と二人で出かけると言うと様々な意味で――話合うの?だの怖そうだの緊張感すごそうだのと――驚く者も多かったが、美也子からすれば皆は彼女の何をそんなに恐れているのかと不思議でたまらなかった。太刀川と二人の方が余程疲れる。
太陽が一段と高く昇った頃、暫く自由に泳いでいた二人は休憩のつもりで波に身を任せていた。

「太刀川さんに聞いたんですけど、蓮さんって水泳やってたんですよね」
「ええ、中学までだけどね」
「実は私もちょっと習ってたんですよ。隣の市のスイミングスクールで、幼稚園の時なんですけど」
「あら、もしかして同じところじゃない?」

月見が通っていたスイミングスクールの名を口にすると美也子は「そこです」と懐かしそうに頷いた。隣の市で一番大きなスクールで、中にはプロになった生徒もいるとかいないとか。
お互いの記憶を擦り合わせてみるとどうやら二人は所属期間も被っていたようだ。

「じゃあ、廊下とかロビーですれ違ってたかもしれないわね」
「あー、でも私やっぱり向いてないな〜と思って二ヶ月でやめちゃったから、どうかな」
「見切りつけるの早すぎない?」
「ひよこクラスで限界を悟っちゃったんですよね」
「悟るの早すぎない?」

美也子はまともな泳ぎを習う前に、水に慣れることを目的とした初心者向けのクラスで進級することなく辞めてしまった。プロが出たとか出てないとかいう熱心なスクールだったので、子供相手でも指導が妙に本格的で肌に合わなかったのだ。

「その割に泳ぎのフォームは綺麗よね」
「義務教育で習いました」
「それでモノにできるなんてやっぱり器用ね」

己の限界を二ヶ月で悟った美也子はプールの授業でしか泳ぎを学んだことがなかったが、四泳法は完璧に修得していた。一部のタイムは同年代の平均より早い。それは彼女の運動神経と器用さが成せる技だった。
そのことをよく知っている月見は「大体何でもできるでしょ」と笑った。

「でも荒船君は私より運動神経良いけど、水が怖くて全然泳げないんですって」
「運動が得意といっても色々あるもの。私も水泳や持久走は得意だけど球技はそうでもないし」
「またまた〜、陽介君が蓮さんのラケット捌きは半端ないって言ってましたよ」
「それは嘘よ。仕方ないわね、あの子」

米屋を思い浮かべているのか呆れたように続ける月見は、まさしく才色兼備で体力もあり、トリオンも戦闘員として十分やっていける範囲だ。彼女こそオペレーターではなく戦闘員でも良かったのに、と美也子は常々思っていた。
海に入るからと長い黒髪を一つに纏めた姿を見て「蓮さんって弧月似合いそう」なんてぼんやり考えていれば「寝ちゃダメよ」と冗談めかしたように言われて美也子は明るく笑った。

「美也子ちゃんは学校の球技大会でも大活躍だったんでしょ?」
「それこそ嘘ですよ。C組の子達に負けて準優勝です」
「十分よ」

六月後半に開かれた球技大会は全学年参加のトーナメント方式で、テニスを選択した美也子はダブルスの決勝で惜しくも他クラスのペアに敗れてしまった。それを米屋や出水が持て囃していたのだが、美也子は実力というよりパートナーと運が良かっただけだと思っていたので月見に対しても「ペアの子が頑張ってくれたんです」と遠慮がちに言った。

「それより蓮さんって水泳以外にも色々やってたんでしょう?茶華道は絶対やってますよね」
「やってるわよ。授業でもあるから」
「やっぱり!」

予想が当たって興奮したのか美也子が悲鳴のような声をあげるので、月見は思わず吹き出した。普段の彼女らしくない笑い方だったが、それに驚くような付き合い方はしていない。
美也子が「お嬢様だな〜」と感心したように呟けば「お嬢様だから」と月見は相変わらず『らしくない』顔で言った。

「美也子ちゃんは何か習い事してた?水泳だけ?」
「いえ、私はピアノとバレエとサッカーと書道と体操と…あと空手とか」
「あらら、忙しいのね」
「でも全部中学までに辞めちゃいましたよ」

恥ずかしそうに小さく笑う。今まで沢山の習い事をしてきたが、美也子はいつも「なんか違うかも」と思って辞めてしまうのだ。少し長めに続いたものもあれば、水泳のように一年どころか半年経たずに辞めたものある。

「だから全く身に付かなくて……もっとなんか……乗馬とかするべきでした」
「何故……?」

突然の乗馬に月見は混乱した。この流れで乗馬はおかしいだろう。
しかし美也子は至って真剣で、王子と出会ってから今日までずっと乗馬くらい習うべきだったと後悔していたのだ。たとえ身に付かなくても話の種にはなっただろう。
「私は馬に乗れないんです……」と悔しそうに続ける美也子を残念ながら月見は理解できなかった。

「昔から何にでも興味があって、一人っ子だから何でもやらせてもらえたけど、全部続かなかったな。もしかしたらボーダーが一番長いかも」
「そういうところ、ちょっと太刀川くんに似てるわ」
「似てないですよ」

美也子は顔を顰めた後、間を置いてからもう一度「似てないです」と呟いた。

「私は全然一番になれないから」

月見の視線を感じながら、美也子はため息をついた。
彼女は本当に普通の家の普通の子だった。一人っ子で昔から家族仲は悪くない。元々真面目な性格なので、うるさく言われたこともなく、やりたいことは全部させてもらえたし、ボーダーへの入隊ですら反対されなかった。
器用だからこそ、なんでも少しの努力で平均よりは上に行ける。でも一位にはなれない。勉強も運動も全部そうだ。全部そこそこ。
テスト期間になる度に国近や当真に「80点はそこそこって言わないと思いま〜す」と文句を言われたが、トップクラスである今や水上に敵わない以上、美也子からすれば『そこそこ』の出来なのだ。
かといって、太刀川のように何かのめり込めるものがあるかと言えば、それもない。
習い事が続かないのは飽きっぽい性分というより、高みを目指して時間を費やすことも割り切って趣味として楽しむことも出来なかったからだ。

「私、特別何か得意なことがあるわけでも好きなものがあるわけでも、将来なりたいものがあるわけでもなくて、なんかつまんないなって」

美也子はそんな自分を決して注目されることのないその他大勢の一人だと思っていた。

「普通なんですよね。何もかも、何にもないんです」

つまんない人間――それが自分の評価だ。そんなことを考え出したのは受験生になったからかもしれない。学校でも何度となく進路相談はしたが、大学に進学するということしか決まらなかった。

「あなたがそう思うなら、そうなのかもね」

美也子の話に黙って耳を傾けていた月見は、少し考えてからそう言った。
家族連れや学生のグループの騒ぎ声で賑わう中、二人の間だけは静かだった。

「でも美也子ちゃんは私の特別だから、いいじゃない」

一拍置いて続けられた予想外の言葉に、美也子はぽかんと口を開いた。

「私はね。入隊してすぐの頃、忍田本部長に北へ進めと言われた美也子ちゃんが自信満々に南下して行ったのを見た時に、一生この子を忘れないと思ったわ」
「それは忘れてほしいですね……」

唐突に恥ずかしい思い出話を掘り返された美也子は気温のせいではない何か別のもので自身の体温が上昇していくのを感じた。身体は海に浸かっているというのに、ちっとも涼しくならない。

「というのは冗談で」
「本当に冗談ですか?」

疑いの眼差しを向ける美也子に「冗談よ」と月見は優しい顔で言った。彼女が時折見せる年下を見守るような優しい目が美也子は好きだった。

「あなたは素直でいつも笑顔だし、問題を先送りにしないし、誰かの為に頑張れるし、みんなと仲良くやれる。方向音痴は……これからも頑張りましょう」

やはりそこは欠点だと思っているらしい。
はい、と項垂れる美也子の頭上から優しく穏やかな声が降ってきたのはそのすぐ後だ。

「あなたは自分を何もない人間だと言うけど、私からすればそんなことはないのよ」

美也子が海面に向けていた視線をゆっくりと上げれば、月見は少し照れたような笑みを浮かべていた。

「もし美也子ちゃんがボーダーを辞めて遠くに引っ越して二度と会えなくなっても私はあなたのことずっと覚えてるわ。だって、後輩の子と二人で旅行にくるなんて初めてだもの」
「……私も先輩と二人旅は初めてです」

そう言って顔を見合わせると二人は同時に声を出して笑った。

「私は太刀川くんより美也子ちゃんの方が好きよ」
「じゃあ、いっか」
「でしょ」

蓮さんは太刀川さんより私が好き。
太刀川に勝てる要素を見つけられた美也子は「私の方が好かれてるのか〜」と得意げな顔で言った。

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