拍手文T
※原作二年前あたりの話
意識が浮上するのと同時に話し声と何か金属がぶつかるような音が聞こえてきた。ベッドの上で身を捩りながら、それが両親の声と玄関のドアの開閉音であると理解した美也子は目をぱちりと開いた。
やばい、寝坊した――と勢いよく上半身を起こすが、すぐに今日が土曜日であることを思い出す。学校は休みで、防衛任務も夜からだ。
時計を確認すれば、普段ならとっくに家を出ている時間だった。けれど何の予定もない休日と考えれば、目覚めるには早すぎる。二度寝という選択肢が頭に浮かんだが、美也子はそれを選ばずにのそのそと起き上がった。こういう日もある。
睡眠が足りていないのか顔を洗ってもスッキリしない。リビングへ顔を出すとソファーに座っていた母親から挨拶と共に「今日は仕事なの?」と尋ねられ、まだ寝ぼけ眼の美也子は返事の代わりに大きな欠伸をした。母親は防衛任務のことを仕事と言う。
三交代で街の平和を守り、給料も出るのだから仕事と言って差し支えないだろうが、同年代の多い環境のせいかまだ遊び気分の抜けない美也子には慣れない響きだった。キッチンへ足を向けながら「夜から出るよ」と短く返す。
朝食の準備をする美也子の耳に、リビングから父親が休日出勤になったという情報が届く。彼女を叩き起こしたあの音は父親が発したものらしい。
大人って大変、と他人事のように捉える美也子だって休日出勤のようなものである。防衛任務まで何をして過ごそうか、とぼんやり考えているとリビングから名を呼ばれた。母親がテレビ画面を示しながら「この子達、最近よく出てるね」と美也子を手招く。
何かと思えば、画面にはつい最近広報担当となった嵐山隊の面々が映っていた。ローカル番組のようで、画面の端にはボーダー隊員特集というテロップが流れている。
元々ボーダーの広報役はメディア対策室の職員達が担っていたのだが、まだまだボーダーに対して反感を持つ者も多い中『より身近に感じてもらえるように』とのことで新たに嵐山隊が抜擢された。実際、彼らが組織の活動を語る事で世間の風向きが変わったように感じる。
人体実験だの兵士養成だの好き勝手言われてきたが、得体の知れない秘密組織という認識は、少なくとも若い学生の間では大きく変化しただろう。自分達とそう変わらない年頃の隊員達の口から語られるボーダーの実態は若い世代には魅力的に映るものだ。
広報部隊に嵐山隊を選んだことも良い方向に作用している。柿崎が少し前に抜けてしまった為、今は戦闘員三人にオペレーターの綾辻の四人だけだが、華やかな容姿に全員が好感の持てる性格で近頃は各人に固定ファンが付き始めたそうだ。特に嵐山の人気が高い。彼は元から学校では『カッコいい先輩』として有名だったが、こうしてメディアに取り上げられるようになってからは最早ボーダー外では気軽に近付けなくなってしまった。学校の廊下で彼と挨拶を交わした時に何処からか金切り声が聞こえてきて美也子は怯えたものだ。
メディアやボーダーがわざとそう“仕立てている”こともあるが、実直な性格の嵐山は市民にとってまさに理想のヒーロー像なのだろう。しかし今の嵐山隊は天然寄りの人物が多いので気さくでまとめ役になってくれる柿崎が所属していた時の方がもっと人気が出ただろうな、と美也子はこっそり思っていた。
「美也子はテレビ出ないの?」
インタビューを受ける嵐山隊をのんびりと眺めていたら、不意にそう聞かれる。希望者は誰でも出演できると思っているのだろうか。美也子は「出ないよ」と呆れたように返した。
「そもそも出る必要もないし」
「でも慶くんは出てたよ?」
「慶くん……?あ、太刀川さんか」
久しく聞かない呼び名に美也子は一瞬反応が遅れる。彼女の周りで太刀川を名前で呼ぶ者など忍田くらいだ。せいぜい三、四回程度しか会ったことがない――車で迎えに来た母親が美也子と一緒に居た太刀川もついでに家まで乗せて行っただけ――というのに、母親のこの馴れ馴れしさはなんだろうと美也子は不思議に思った。まるで仲の良い友達のような扱いだが、親とはこういうものなのだろうか、と複雑な気持ちになる。
「慶くんって二年生だっけ?」
「三年生。春から大学生だよ」
「ええ〜、大きくなったのね」
「そう……?」
美也子からすれば太刀川はずっと大きいのだが、母親は違うようで前に会った時はこうだった、などと親戚面をし始めた。太刀川はボーダー随一の攻撃手として先日テレビで紹介されていたらしい。これからのボーダーは必要に応じて隊員達の情報を開示するつもりなのだろうか。
やだ……私も髪とか切っておこうかな……などと内心そわそわし始める美也子の様子には気が付かず、母親は太刀川について謎の思い出話を語っていた。よく分からないが、母親はどうやら太刀川を嵐山のような好青年だと勘違いしているようだ。太刀川は良くも悪くも他人と距離を縮めるのが上手いので、たった数回の邂逅で好印象を与えることに成功したらしい。一度だけ美也子の家で夕食を共にしたこともあるが、確かに実家のように馴染んでいたし両親も楽しそうだった。美也子は普通に地獄だった。
母親は知らないのだ。娘が太刀川にパシリにされていたことも、風刃争奪戦の時に候補者の一人として参加し迅に瞬殺されたら「俺の代理のくせに」と理不尽な怒り方をされたことも、太刀川の為に餅を焼かされ続けた美也子がいつの間にやらボーダーで一番餅を焼くのが上手い女になってしまっていたことも、太刀川がボーダー推薦という闇ルートで大学への入学を決めたことも何もかも知らないのだ。
美也子は先週の火曜日、忍田と太刀川と三人で寿司屋へ行った時のことを思い出す。
大学への入学が無事に決まり「親泣いてた」とあっけらかんと語る太刀川に対して、忍田は驚くほど深いため息をついていたし、美也子もドン引きしながら横でちらし寿司を食べ続けた。もう何を言えばいいのかわからない。
太刀川は彼を知る極一部から絶妙に生まれる時代を間違えなかった男だとよく言われていた。ボーダーという組織に所属出来たことで道が開けたと諏訪に揶揄われていたが、要領が良いのでボーダーがなくてもこの人は上手くやれたんだろうと美也子は思っていた。なんだかんだ良い方向へ進んでいく彼の姿は想像に難くない。太刀川はそうだ。そういう奴だ。自分もあのくらい要領良く、図太く生きていけたらどれだけ幸せだろう。
なんて珍しく太刀川のことを考えていればリビングで充電中だったボーダー用の端末が振動する音が聞こえた。何か来たみたいだと母親に言われ、充電器を外して確認すると件の人物からメッセージが届いている。美也子は思わず「げっ」と声に出してしまった。
中学生の頃と違い、太刀川という人物がすっかり苦手な存在になっていた美也子はこのまま気が付かなかったフリでもしようかと迷ったが、緊急の用事だとまずいのですぐに思い直してドキドキしながら連絡用アプリを開く。そして後悔した。
別に緊急でもなんでもなく、防衛任務の時間まで暇ならランク戦をしに行こうというお誘いだったのだ。行きません――脳内で返事をしていると文字を打ち込む前に新しいメッセージが届く。太刀川は午前中は美也子の家の近くで用事があるそうで、それが終わったら迎えにいくから一緒にボーダーまで行こうと言ってきた。
勝手に予定を決めるな一人で行け、と返す勇気は残念ながら彼女にはなかった。最近やる気が出ないって言ってたくせに……、と兄弟子の発言は基本的に当てにならないことを思い知らされた。
端末の画面を睨み付けながら、心にもない返信を打つ。美也子は元々ボーダーに入り浸っているが、今日のように行くつもりがない日でも太刀川に引っ張られてランク戦に参加することが多かった。妹分が成長できるよう太刀川なりに気を遣ってくれているのかもしれない。
しかし美也子からすればありがた迷惑である。太刀川がいるとポイントが取られるから嫌だ。ここ最近は小南と風間くらいしか強敵がいなかったのに、彼が来ると調子が狂う。
眉間に皺を寄せる彼女に「どうしたの」といつの間にやら母親がキッチンから準備途中だった朝食を代わりに持ってきた。
「太刀川さんが今日は迎えに来るって」
「じゃあ二人とも車で送ってあげるから」
「いいよ、別に…」
あまり身内と関わってほしくない――美也子は太刀川を自分の内側に入れたくなかった。彼はあくまで職場(ボーダー)の先輩であり、友人でも家族でも何でもないし、それに近い存在になるつもりもない。親と居る時の限りなく素に近い自分を知られることがどうにも嫌だった。彼女はポンコツなのでもう十分内側に入れてしまっていることに気が付いていないのだ。
結局美也子は迎えに来た太刀川と共に母親が運転する車でボーダーへ向かうこととなった。道中、母親に大学進学について尋ねられた太刀川が「大学入れて親泣いてました」と朗らかに返せば冗談だと思われたのか車内に明るい笑い声が響いた。思春期特有の気まずさを感じた美也子は早くこの密室から脱出したくて堪らなかった。