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※原作一年前あたりの話です。
放課後の教室には学級日誌を書く美也子の他に数人の生徒が残っていた。美也子がペンを回しながら「三限何したか覚えてる人」と意見を募れば「地理」「内容は忘れた」「寝てた」と返ってくる。参考にならないな、と思いつつお礼を言って適当に空欄を埋めていく。今のクラス担任は優しいのでとりあえず文字を書いておけば何も言われなかった。
一気に最後まで書き上げた美也子は日誌を閉じると大きく伸びをする。文房具を机の端に置いていたペンケースに仕舞いながら窓の方へ目をやれば、外はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。完全に窓を閉め切っているのに、雨音がこんなにも鮮明に聞こえてくるのも珍しい。
空がどんよりとした雨雲に覆われたのは、帰りのHRの直後だった。早く帰らなきゃなどと話す間もなく、すぐに大粒の雨が激しい音を立てて降り始めた。その勢い足るや教室に残っていた全員が思わず「ええーっ!?」と声を揃えてしまったほどだ。今朝の天気予報では確かに夕方から天気が急変し、夜まで豪雨が続くと言われていたが日中は見事なまでの快晴でとても雨が降るとは思えなかったので、傘を持たずに登校した者も多い。
予報を欠かさずにチェックする美也子に抜かりはなく、教室の隅にある傘立てから自分の傘を取ると残っている面々に別れを告げて廊下へ出た。職員室に立ち寄り、日誌を提出すると真っ直ぐ昇降口へ向かう。
この雨のせいで用のない者はとっくに下校しているらしく、いつも以上に人が少なく感じた。家に着くまでの間にどのくらい濡れるだろうか――想像して億劫になる。
トリオン体なら濡れても気にならないのに、なんて考えながら昇降口まで来ると一年生の下駄箱前で出水が座り込んでスマホを弄っていた。特に無視する理由もないので声をかければ彼は「お疲れっす」というボーダーで多用される挨拶を口にした後、美也子が手にする傘を見て「やった、ラッキー」と笑った。
「美也子さん、一緒に帰ろ」
「傘持ってきてないんだ?」
「そーなんすよ。普通に朝は晴れてたし」
参ったな〜と眉を下げる出水は天気予報を見ていないそうだ。立ち上がる彼に「友達は入れてくれなかったの?」と聞けば見捨てられたらしい。薄情な奴ばっかり、と愚痴る姿に美也子はつい笑ってしまった。
「美也子さんもボーダー行くでしょ?」
「ううん、今日は家に帰るよ」
「……マジ?」
出水がぴたりと動きを止める。彼の計画ではボーダーまで一緒に行くつもりだったのだろう。
美也子が家へ帰るとなるとせいぜい途中までしか入れてもらえない。しかし外は傘無しで進めるとは思えない降水量だ。
あちゃー、と頭を抱える出水に対して美也子は何の問題もないという顔で続けた。
「でもロッカーに折り畳み傘入れてあるから、そっち貸してあげる」
「やっぱりおれには美也子さんしかいないな〜」
調子の良い台詞に美也子は「ハイハイ」と慣れた様子で返した。傘を取りに行くため出水と共に来た道を引き返す。
ロッカーは各教室の外側に設置されているので中に残っている面々には声をかけなかった。鍵を開けて折り畳み傘を渡せば出水は深々と頭を下げた。高校生の男子が持つには少し可愛らしい柄だが、借りる立場でそこに文句を言う彼ではない。
そのまま連れ立って昇降口へ戻る。階段を下って廊下を進む途中、前方から歩いてきた女生徒を見てハッとした美也子は心の中で「あ」と声を出した。横で話す出水の声が耳を通り抜ける。
すれ違うと美也子はすぐに振り向いて去っていく女生徒の後ろ姿を眺めた。その様子を不審に思った出水が「美也子さん?」と歩みを止める。
「何?今の人がどうかしたんすか」
「あの人、太刀川さんの彼女だ」
「えっ!?」
元カノ、と小さく続ければ「あの元カノ?」と出水も声をひそめて聞き返した。
『あの』が具体的に何を指しているのかわからなかったが、興味がなかったので美也子は「多分それ」と頷いておく。
既に女生徒の姿は見えなくなっていた。
「ちょ、おれ顔見てきます」
「やめなさい」
走り出そうとした出水の左手を取り、ぎゅうと握ると少し強い口調で止める。
わざわざ追いかけて顔を確認するなんて、いくらなんでも失礼だろう。しかも『元』彼女なので今は全く関係のない人だ。
すぐに美也子の言いたいことがわかった出水は「ですよね〜……すいません」と反省の弁を述べたが、その顔には悔しさが滲んでいた。そんなに見たかったのか、と美也子は少し怯んだ。
出水が高校へ入学した頃には太刀川と先ほどの彼女は既に別れていたので、知る機会がなかったのだ。別れた彼女の写真見せてください、なんて言うわけにもいかないので当然である。
「つーか、まだ高校にいるってことは、年下の彼女?」
「うん、三年生。一学年下だって」
「どーなんすか。どんな感じ?」
「すごく可愛いよ」
「美也子さんは他人のこと悪く言わないからな〜」
美也子は罪悪感から思わず口をつぐんだ。出水は彼女が心の中で太刀川に罵詈雑言を浴びせているとは知らないので仕方がない。
しかしそれはそれとして、美也子は太刀川の元彼女のことを本当に可愛いと思っていたのでもう一度同じ言葉を繰り返した。
「あの人が面食いなのは知ってるでしょ。可愛いに決まってるじゃない」
「それはわかりますけど可愛いにも種類があるじゃないっすか。性格悪そーとか優しそーとか。ていうかどんな人なんすか」
「いや、詳しくは知らないし」
実際のところ、美也子は太刀川の元彼女についてよく知らなかった。紹介されたわけでもないし、本人と話したことがあるわけでもない。ただ、太刀川と一緒にいるところを何度か見かけて、二人の妙な距離の近さと周囲の人々からの情報で彼女であると断定したのだ。名前も分からないし、人柄など知る由もない。
そう答えれば、とりあえず容姿だけでも知りたいのか出水は「じゃあ似てる芸能人は?」と諦めずに聞いてきた。美也子は暫し頭を悩ませる。初めて彼女を見た時、最初に浮かんだのはとある人物の顔だった。
「芸能人はわからないけど……昔、私が好きだった人に似てるんだよね」
「え!急になんすか、その話。美也子さんってそっちもイケるって話?」
「いや、そうじゃなくて憧れてたお姉さんと顔が似てるって話」
そう、かつて近所に住んでいた年上のお姉さんによく似ているのだ。近界民侵攻後、すぐに引っ越してしまったのでそれ以来会っていないが、お洒落で優しくて何でも知っている人で美也子は大きくなったら彼女みたいな人になろうと思っていた。
なので、太刀川の元彼女もきっとそんな感じの素敵な人なんだろう。そう告げれば出水は絶妙につまらなそうな顔をしていた。彼は案外、美也子が扱き下ろすことを期待していたのかもしれない。
「まあ、つまり美也子さんと太刀川さんは趣味が似てるってことですかね」
「ええ?それは複雑だなぁ」
美也子は明るく笑い飛ばした。本当は複雑どころか物凄く嫌だったのだが顔に出さないように気を付ける。
出水は「なんで別れたか知ってます?」と噂話をするような軽い調子で続けた。
「ランク戦ばっかりしてるからフラれたんでしょ。知ってる」
「あの様子見てると今後も上手くいかなそーですよね」
普段の太刀川を思い浮かべているのか苦笑する出水に、大きく頷きながら美也子も同意する。
「太刀川さん、彼女にボーダーと私どっちが大事なのって聞かれたらボーダーって即答しそうなところがあるから仕方がないね」
「ああ、めっちゃわかりますそれ」
言いそう、あの人。
完全なる想像だったが、二人の中のイメージにぴたりと一致していた。迅が黒トリガーを使い始めてランク戦を抜けてからは、確かに太刀川から以前ほどの意欲は感じなくなったが、それでもかなりの時間を費やしているはずだ。やる気がない、と言いつつそんな状態なのだから、きっとこの先も変わらないだろう。
美也子は呆れたような、笑っているような、一見してわからない表情を浮かべて言った。
「だから、ボーダーの人と付き合うのが一番上手くいくんじゃないかな」
出水は「へえ……」と何とも言えない目で美也子を見てきた。なんなんだその目は?と思ったが美也子は特に突っ込まず「年上がいいと思う」と続けた。
「年上っすか。年下ではなく」
「あの人は同い年とか年下には手に負えないよ。だから今回も上手くいかなかったでしょ」
「あ〜、う〜ん?そうですかね……?」
「四つ上のOLとかがいいんじゃないかな」
「ボーダーの人って話はどこ行ったんすか」
「あっ、そっか」
美也子が誤魔化すように笑っていると誰かが階段を下る音が聞こえてきた。普段なら気にならないが、今日は校舎に人気がないせいでよく響いた。
その足音が段々と近づいてきた事で二人がそちらに目を向けたのと「あれ?」と聞きなじみのある声が廊下に反響したのはほぼ同時だった。
「お二人さん、まだ帰ってなかったの?」
美也子と出水の「迅さん」と呼ぶ声が綺麗に被った。呼ばれた迅は「お疲れ〜」と軽く手を振る。鞄も何も持っていなかったので、彼はまだ暫く学校に残るのかもしれない。そんな彼の視線は二人の手元に向いた。
「というか、なんで廊下の真ん中で手繋いでんの?」
「えっ」
「あ」
指摘されて初めて自分が出水の手を掴んだままであると気が付いた美也子は、慌てて手を離した。ごめんね、と謝れば出水も「やー、おれも忘れてた」と照れくさそうに笑う。
迅はそんな二人を交互に見てから「んん?」と何やら目を細めた。
「え、なに二人もしかして?ちゃんと太刀川さんに報告した?」
「いや、そういうのじゃなくて……おれが」
出水がそこまで言いかけると美也子はダメ、と咄嗟に止める。
太刀川さんの元カノの顔を見ようとしてました、という話を迅にするのは何となく憚られた。彼と同学年なので知り合いの可能性もあるが、正直言って下らない話だ。これ以上掘り下げる必要もない。
しかし説明しないとそれはそれで面倒な勘違いをされる。この窮地に「何か他に打開策が?」と言いたげな目を向ける出水に対して美也子は黙って頷くと神妙な顔で言った。
「あの…ちょっとトリガーの臨時接続してました」
「ここで?」
美也子はポンコツだった。