アルネトーゼ

#08.化物


 シエルたちがカミァ村に到着したころには、太陽は既に西へ傾いていた。通りに人の気配のない鉱山の村は、寂しくて不気味だ。このような場所で野宿はしたくないので、まずは泊まれる場所を捜したものの、見つかっても泊めてもらえない可能性もある。考えれば考える程状況は悲観的にも思われるが、幸い店じまいに差し掛かっていた宿屋に入ることができた。
「こんな時にここに来るなんて、運が悪いですね。いつもだったら山越えの人が一組二組くらいは泊まってくれるんですが、噂が広まるのは雷や突風よりも早いものだと思い知りました」
 主人は笑うしかないといった様子だし、シエルたちを歓迎している様子は露も見受けられなかった。案内された客室に入り、シエルはここで大きな溜め息をついた。今この瞬間まで気を張っていたのだということをようやく自覚したのだ。
「良かったですね、泊めていただけて」
 同じように気を張っていたのか、ラスタも大息をした。外はもう暗くなっている。ようやく一息つけると思ったけれど、プライムやケンやクリムが「今から調査に向かう」などと言い出すのだろうと思うとげんなりした。揃いも揃って、世話焼きで正義感の強い同行者なので辟易している。いや、ラスタは言葉にしないだけで、彼も本当はうずうずしているのではないかと思われる。シエルは嘆息した。
「よし、じゃあ俺は少し調査に行ってくる。シエル、あんたは暗いところが得意なはずだから一緒に来い」
 やはり。シエルの予想は見事的中した。なぜこの男が一緒にいるのだろう。シエルはこの男に逆らえない。三度目の溜息が鼻先まで出かかったその時だった。
「わああああ!」
 男性の静寂を引き裂く叫び声と共に、何かが破壊されたような衝撃音が外から聞こえた。声の主は宿屋から少しばかり遠いところにいるのだろう。
「例の化け物だろう、行くぞ!」
 誰にともなく告げたプライムの言葉に全員が反応し、クリム以外は部屋から飛び出した。ケンの顔など、生き生きとしている。どうしようもないと、駆け出したシエルは、プライムの後姿が遠くなってから、先ほど引っ込めた溜息を吐いた。


 気味が悪い仲間たちの足音は耳に入ってくるが、それ以外は静寂。虫の声も、動物の気配もない。新月で真っ暗闇の中、夜目が利くことに心から感謝した。暗闇も静寂も、己の感覚を研ぎ澄ますに丁度いい。
 そんなシエルの耳が何者かの存在を捉えた。素早く振り向くも、誰もいない。じっと目を凝らし、耳を澄ませ、全神経を闇に溶け込ませた。消耗が激しいため多用はできないものの、こうすることで闇に紛れたものを正確に把握することができるのだ。
 空気の人為的な揺らぎと殺気を感知する。シエルは俊敏な動きで何者かの足に自分の足を引っかけた。何者かはバランスを崩したが、倒れはしなかった。それどころかすぐにシエルに襲い掛かってくる。殺気で察知し、素早く上半身を右に傾け攻撃を避けるも、同時に頬に微かな痛みが走った。相手はどうやら刃物を持っているらしい。それは化け物と言うより、シエルよりも小柄な人間であるような印象である。
 何者かは矢継ぎ早に鋭い突きを繰り出してきた。シエルは最初の一撃以外は全て避けた。今は相手の息遣いなどで動きが読めるものの、集中力が切れればそこで終わりだ。そして、限界が近づいているのを感じていた。
 もうだめなのか。諦めがシエルの脳裏をよぎったその時、相手の攻撃が止んだ。それどころか、怪しげな低い笑い声が聞こえる。
「さすがアルネトーゼの宿主だと言ったところかな」
 低いけれどあどけなさの残る声を聞き、相手が何者かをシエルは理解した。影しか見えないその存在を睨みつる。
「おれはサミエル、復讐者だ。アルネトーゼ、あなたを迎えに来たんだ。だからそんなに警戒しないでほしい」
「警戒するなと言うのなら、最初から攻撃してこなけりゃよかったんだ。どうせ化け物の噂だってあんたが大本なんだろう。そういう暴力的な真似をすれば、普通は寄り付かないぞ」
「はは、そうだね、その通りだ。でも、あなたはここへ来た。メーレのいた町へも行っただろう? あなたの周りにはオヒトヨシが多いようだからね」
「そいつは同感だ」
「なんだ、おれたち、案外気が合うかもしれないな。なあ、アルネトーゼ、おれたちと来てくれよ。一緒に悲願を叶えよう」
「そうかもしれないね。だが人違いだ。あたしはアルネトーゼじゃない。何度も名前を間違えるような人間とよろしくするような暇は、残念ながらないんだよ。あと、あんたの悲願を叶えようとすると、あたしの悲願からは遠ざかる。利害が一致しない。交渉はもっと上手にやりな」
「そうか、残念だ。悲しいよ、アルネトーゼ。せっかく仲良くやれそうだったのに。手荒な真似はしたくなかったけど、最悪生け捕りさえできればいいって言われてるからね」
 つまり、シエルが再起不能の重傷を負ったとしても、シエルが生きていて、かつアルネトーゼがシエルに憑いている状態であれば、彼らにとって価値があるということらしい。
 シエルが考えるより早く、サミエルがナイフを突き出す。それを半身でかわしたものの、足元にあった木箱に気付かず、そのまま足を引っかけ転倒した。なんでこんなところに箱が置いてあるのか。シエルがひっかかっても動かなかったところから見ると、かなり重いものでも入っているのだろう。すぐに起き上がろうとするも、素早くサミエルがシエルに覆いかぶさるように、両手首を押さえつけていた。
「まったく、てこずらせてくれたよ」
 万事休すか――そう思った次の瞬間だった。打撃音と共に、サミエルの拘束が解かれた。すぐにシエルは立ち上がる。誰だ。
「チッ」
 サミエルのものと思われる舌打ちの後、気配が一つ消えた。サミエルが去ったようだ。介入してきた別の気配に警戒する。影が喋った。
「大丈夫? 騒がしかったから来たんだけど。ああ、警戒しないで。私は少なくともあなたの敵ではないはずよ」
 影の主は、比較的声の低い女性だった。幸運だったのだろうか。あのままではシエルは確実に、サミエルに捕えられていたはずだ。そのことは理解していたので、シエルは短く「ありがとう」とだけ告げた。
「大丈夫そうで良かったわ。私はアルス。こんな村でこんな時間に誰と喧嘩してたのか、〈巻き添え〉を喰らった身としては教えてほしいんだけど、どうかしら。それより、こんな気味の悪いところにいたくはないわね」
 気づいたときには、アルスと名乗った女性のペースに巻き込まれ、シエルは苦笑するしかなかった。

 シエルがアルスと共に宿に戻ったところ、他にはまだ誰も戻ってきていないようだった。先ほどの襲撃で随分と時間が経ったように感じられたのは、どうやら気のせいだったようだ。「早かったわね」と留守番のクリムがシエルを迎えたのがその証拠である。クリムはシエルの背後に別の人間の姿を認めた。
「ん、誰か連れてきたの?」
「ああ、ちょっとゴタゴタがあってね、助けられた」
 クリムは「ゴタゴタ?」と首をひねったが、シエルの頬の傷を見つけ、納得したようだ。すぐに手当てを始めた。
「アルス、何があったのかは話すが、何度も話すのは好きじゃない。連れが戻ってきてからでも構わないか?」
「ええ、それは勿論よ」
 てきぱきとシエルの傷を手当てするクリムと、すでに場に馴染んで普通に部屋でくつろいでいるアルスを交互に見やり、なぜこうもオヒトヨシと縁があるのかとシエルは溜息を吐きたくなった。傷の手当てが終わった頃、プライムがラスタとケンを連れて戻ってきた。
「お、シエル、戻ってたのか。探してたんだぞ」
「そうだよ、心配したんだぜ」
 そのようなことを言いながら微塵も心配していない様子のプライムとケンに、シエルはあからさまに悪態をついた。
「へぇへぇ、そうですか。で、何か収穫はあったのか? 大の男どもがぞろぞろぞろと連れ立って」
「まあ、特に何もありませんでしたね」
 と、困ったようにラスタは頬を掻いた。
「ところで、そちらの方は?」
 ラスタは顔だけをアルスに向けた。アルスは男性陣の顔を見回して、柔らかい笑顔で「アルスよ」と名乗った。
「例の化け物に関係あるかどうかは分からないが、サミエルとかいう復讐者に襲われてね。そのときアルスに助けられたんだ」
 復讐者とうい単語に、アルス以外の四人は顔を険しくした。プライムの眉間の皺がことさら深い。もし復讐者が関わっているのだとすれば、化け物の正体も復讐者である可能性が高いと考えるのも自然だ。シエルはとりあえず、事の仔細を説明した。
「で、絶体絶命のところをそのお嬢さんに助けられた、と」
 プライムはまじまじとアルスの身体を見た。身体のラインを隠す大きめの服は、逆に小動物的な愛らしさを演出している。ふわふわとした栗色の巻き毛、中性的な整った顔――骨格は分からないが、少なくとも絶体絶命の女性の生命を助けられるような実力の持ち主には見えない。
「私もこの村に住んでるし、化け物のことは多少知ってるつもりだけど。やっぱりおっかなくて姿を見たことはないけどね。ただ、そのサミエルって人、すばしっこい男の子って感じだったわ。私だって、大男までは背負い投げできるかもしれないけど、化け物なんて流石に投げられないわ」
 しれっと言ってのけるアルスに、シエルは苦笑を禁じ得なかった。
「なるほどな。シエルが襲われたとなると、いよいよ無視できない問題だ」
 シエルはプライムに目を向けられ、左手を額に当て長く息を吐いた。
「分かった。言いたいことはよく分かったから。だからもう、今日は休ませてくれ」
 サミエル相手に消耗したのだ、シエルとしては一刻も早く眠りに就きたかった。復讐者と名乗る者がいるこの村で熟睡できるかどうかは分からないけれど、横になるだけでもいい。
「私、今日はここに泊めてくれないかしら。化け物が出てくる前は夜でも普通に出歩いてたんだけど、ほら……」
 アルスの言い分はもっともだ。そんな女性に助けられた身としては面白くないけれど。アルスは続ける。
「それに、この件は私も気になっているの。あなたたちがそのつもりなら、私にも調べさせてほしいわ。ほら、村に明るい人間が一人くらいいて、得はしても損にはならないと思うの」
 シエルを助けた人間のこのような申し出を断る理由はないはずだ。プライムが受け入れるのを、シエルは眠りながら聞いていた。


 夜が明け、シエルはラスタと共に村を散策することにした。なぜかアルスまで付いてくると言い張るので、彼女の同行は渋々認め、宿屋を出る。クリムとケン、プライムは、夜まで休むとのことだった。シエルの目前には、村に入った当初とはまた違った風景が広がっていた。屈強な男たちが、大ぶりの鉱石を積んだ一輪車を転がす。人々の談笑が聞こえる。世間話でもしているのだろう。しかし化け物のことは不思議なくらい聞かなかった。
「あんまりにも怖いから、あんまり触れたがらないのよ」
 とは、アルスの言葉だ。アルスは肝が据わっているらしい。そうでなければ、誰かが襲われていることを知っても助けられないだろう。
「で、アルスはこの村で何をしているんだ?」
 汗水たらして働く人々を見ながら質問を投げかける。アルスは待ってましたとばかりにその場で一回くるりと回った。
「大衆食堂でウエイトレスをやっているの。基本的には夜に出てるわ。夜はお酒が入るし、乱闘騒ぎになるのも珍しくなくって。そりゃ、私も強くなっちゃうわよね。まあ、今はこの有様だけど」
 大男相手にも立ち回れるとのたまったのは、あてずっぽうではなかったようである。普段から鉱山の男どもを相手にしていると言われれば、確かに説得力が違う。
 村を歩いているうちに、陽が傾いてきた。それと同時に、人が少なくなっていく。村が黄昏色に染まった頃には、人どころか虫さえもいないのではないかと思えるほどの静寂に包まれていた。
「夜が近くなると、皆怖いのよ」
 アルスが困ったように説明してくれた。そんなアルスも少し慄いているようだった。
 調査を兼ねて、宿に戻らず歩いているシエルたちの前に、十四、五ほどの小柄な少年がやってきた。ブロンドの髪が夕陽を受けて橙色に輝き、その下から白い肌が覗く。
「どうしたの、坊や? 危ないから、早くママのところに帰りなさい」
 アルスが少年に話しかける。少年はアルスには目もくれず、シエルを見て笑った。
「やあ、また会ったね」
 その声には聞き覚えがある。暗闇で聞いたのだ、忘れるはずがない。
「サミエルか」
「覚えていてくれて嬉しいよ」
「白昼堂々と、よく姿を現せたもんだ。化け物ってのが現れるのは夜だと聞いたがな」
 強気な態度でサミエルを睨みつける。サミエルはそのような視線など気にも留めていないようだった。
「人目を気にして夜にしていただけだよ。昼は安全だと思っていた方が、アルネトーゼもこの村に来やすいと思ってね。それに、暗い方が皆恐れる。もっとも、アルネトーゼがここに来た今となっては時間なんて無意味だ。どうせ人もほとんど歩いてないしね」
 化け物ってのは心外だけど、とサミエルは付け加えた。曰く、自分で名乗ったことはないらしい。
「まあ、それでアルネトーゼの連れが来たがるんだから、却って好都合か」
 くつくつと笑うサミエルは、会話がこうでなければ、ただのあどけない少年だった。少年は「もう喋るのに飽きた」とだけ告げ、動いた。どこに隠していたのか、たくさんのナイフをシエルたちに向けて投げる。三人ともそれをひらりとかわした。サミエルが息つく間もなく素早い攻撃をシエルに繰り出す。シエルも地を蹴ってよけ、腰のダガーを一本抜きサミエルに飛びかかった。サミエルもシエルの攻撃を鼻先すれすれで上体を反らして避ける。間髪入れずに突き出されたサミエルのナイフをダガーで受け止める。高い金属音が響く。重い。決して力のあるようには思えない体格のサミエルだが、初めて受けた一撃は重かった。シエルの両隣からラスタとアルスが飛び出す。二人の攻撃を察知したサミエルはすぐさま飛びのいた。サミエルが光芒を奔らせる。シエルは屈んでよけた。その頭上からラスタがサミエルに斬りかかる。それによりサミエルが怯んでいる一瞬の間にアルスがサミエルの背後へ回り、ナイフを持っている方の手首を背中にねじりまわした。ナイフがサミエルの手から滑り落ちる。
「さすがの化け物とやらも、三対一じゃ分が悪いみたいね」
「くっ、ほざけ!」
 サミエルが八重歯をむき出しにする。その姿はさながら狂犬だ。しかし押さえ付けられた狂犬はただただ憐れだった。
 瞬間、アルスが飛びのいた。アルスのこめかみを汗が伝う。アルスだけではなくシエルも感じた。ラスタも感じただろう。サミエルのものとは違う、洗練された鋭い殺気を。サミエルが立ち上がる。
「邪魔をするな」
 不機嫌そうに告げたその先には、すらりとした身体に不釣り合いな大鎌を手にした、漆黒の髪の美女がいた。歳は二十七、八か。真っ赤な唇がゆっくりと開き、高くも低くもない、耳に心地よい声が流れ出る。
「サミエル、時間をかけすぎよ」
「うるさい、ラファ! こいつら意外と強いんだよ!」
「当然よ。セリィの手を逃れ、メーレを倒したのよ」
 セリィという名に、ラスタがピクリと反応した。シエルはラスタを一瞥し、すぐに美女に視線を戻した。
「ここで時間を喰うのは得策じゃないわ。早く捕えるのよ」
 ラファと呼ばれた美女が指をパキンと鳴らした。次の瞬間、サミエルが頭を両手で抱え、苦しそうにうめき声を上げ始めた。何が始まるのだろう――サミエルの服が破け、小柄な少年からは想像のつかない、ケンよりも大きな化け物に変身した。
「ちょっと、これ何かの冗談?」
 アルスの声が震えている。サミエルの白かったはずの肌は、黒く太陽を反射し、鎧のように硬そうだ。裂けた口からは鋭い犬歯がむき出しになり、両手両足の爪が鋭利に伸びた。「化け物が出た」と騒いだ人は、これを見たのだ。
 ――あり得るのか? こんなことが……。
 少なくとも、シエルはこれまでヒトが異形になったなどという話は聞いたことがない。なるほど、これは確かに化け物だ。先ほどの少年とは比べものにならない凶悪さと存在感が、その化け物にはあった。
「今度は私もいるから、三対一じゃないわよ」
 妖しく微笑むラファには隙が見られない。サミエルが変身しただけでもこちらには分が悪そうである。構えを取ったアルスが声を張り上げる。
「こっちの女は私が引き受けるわ!」
「わかった。ラスタ!」
 シエルはラスタの返事を待たずにもう一本のダガーを抜き、化け物となったサミエルに突進した。サミエルの巨大な拳が飛んでくる。しかも素早さが、少年の時と大差ない。慌ててシエルは足を止めたが、吹っ飛ぶほどの風圧を受けた。
「シエル!」
「大事ない」
 サミエルはすでにラスタの背後を取っていた。音で察知していたラスタは、襲い掛かるサミエルの拳をひらりとかわした。シエルは立ち上がろうとしたものの、吹っ飛ばされた際に打ち付けた背の痛みで顔を歪めた。風圧でこれかよ、と舌打ちをする。
 ラスタの動きは、見えていないことが不思議なほどだ。見えていないからこそなのかもしれない。闇の中であれば自在に動けるシエルのように、彼は優雅にサミエルを翻弄している。その間に、器用に右手の親指の先を食いちぎり、血を剣に塗りつける。微かに口許が動いた。瞬時に剣が炎を纏い、奔る。同時にサミエルの右手が落ちる。
「ぐわあああ!」
 サミエルが雄叫びを上げ、元の姿に戻った。それにも驚いたが、サミエルの右手首を切り落とした紋章剣の鋭さに唖然とした。
「サミエル、青二才が」
 それを横目で見たラファが舌を鳴らす。サミエルはもう戦えないだろう。そう判断したシエルは、今まさにアルスと対峙しているラファに標的を変えた。異形の少年も手ごわいが、彼女も相当の使い手であることは予想できる。
「ラスタ、シエル、アルス!」
 シエルの耳にプライムの声が飛び込み、振り返る。なかなか戻って来ないシエルたちを心配したのだろうか。とにかく、これで勝負は分からなくなった。癪だが、プライムは強い。まだ姿は見えないが、すぐにここへ辿り着くはずだ。シエルは再びサミエルとラファに視線を戻した。すると、ラファが明らかに狼狽えているではないか。
「ラファ?」
 顔中に脂汗を滲ませたサミエルが声を発した。ラファはラファで、下唇を?んでいる。
「退くわよ、サミエル」
「え――」
「二度も言わせるな」
「分かった」
「待て!」
 シエルが駆けよるも、二人はすっかり暗くなった空をひらりと舞い、闇へ消えた。遅れてプライムが駆けつける。
「お前たち、無事か!」
 シエルはプライムを見て軽くうなずいた。その時、ラスタが切り落としたサミエルの異形の手が砂となって崩れ、風に消えていくのが視界に入った。

★☆★☆

 山の天気は変わりやすいなどという話はよく聞くが、その日はよく晴れていた。山登りにはもってこいである。しかし折角の陽気の中で、シエルはとてつもなく不機嫌であった。というのも――。
「で、なんであんたまで付いてくるんだよ」
「え、だからそれ、村を出る時にもちゃんと説明したでしょう! それで皆オーケイしてくれたじゃない。だから店の主人に頼んでウェイトレスも辞めたんだけど」
 泣き付かれて大変だったのよ、とアルスは相変わらず何の悪びれもない笑顔で述べた。放っておけないから一緒に行きたいと言って付いてきたのだ。勿論、シエルもそれをしっかり聞いていたので知っていた。ただ、納得できないのだ。
「あたしは同意したつもりはないよ」
「なんでお嬢さんの許可なんぞ取らねばならんのだ」
 後ろの方でぬけぬけと言う、アルスの同行を許した年長者を、シエルは思い切り睨みつけた。
「なんであんたが仕切ってんだよ」
「そりゃ、俺が最年長だからな。それに、道連れは多い方が楽しい」
「まあまあ、いいじゃないですか、シエル。とても賑やかになって」
 ラスタが、カリカリしているシエルを宥めようと、至極穏やかに話しかけた。それは確かにその通りなのだ。シエルは皆の笑顔、アジトに溢れる笑い声――思い出していたのだ、リブル島にいるクリムゾンテイルを。忘れたことなどないけれど、この賑やかさは楽しい思いでさえ掘り起こす。だがカミァ村の一件が、ことさらにシエルの心に影を落としていることも事実であり、自分の中にいる正体不明の〈アルネトーゼ〉と、その力を求める〈復讐者〉たちに対する不安は高まる一方であった。



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