アルネトーゼ

#07.憎悪


 自分に憑いたアルネトーゼをどうにか剥がして、またかつてと同じように、ユーノたちと共に日々を過ごしたい――ただその気持ちだけでシエルは旅をしている。そのために必要とあらば、どこへでも行くつもりだ。それだけの覚悟をしてはいたものの、国境を超えるとは思っていなかった。ウェスパッサ連合王国はリーフムーン王国より広いけれど、それでも広いリーフムーンで解決するのだと思っていた。メーレの件といい、自分はもしや、想像より遥かに厄介なことに巻き込まれているのではないだろうか。
 ウェスパッサ連合王国は、リブル島から見て比較的身近な存在だった。リーフムーン王国領にあるリブル島から、ウェスパッサ連合王国領のシェリングへは、セルナージュ側の港に行くのと大して変わらない。そのため、ウェスパッサからの観光客もリブル島にはそれなりにあった。そのウェスパッサ連合王国がかつて怒涛の進軍を繰り返していたリーフムーンに対抗して成立したというのは、リブル島においても有名な話だ。今では名目のみで、友好な関係が築かれている。
 オルディタウンからだと、道なりに進んでマイカ山脈のふもとにあるカミァ村を目指すのが最も近いとプライムが言っていた。
「俺、陸路で国境越えるの初めてなんだよな」
 ケンは元気で好奇心旺盛で、その好奇心こそが彼をまだ見ぬ地への旅を決心させたのだろう。
「カミァ村とといえば、鉱山が盛んで、しかも国境の村だから、昔はそれなりに栄えていたな」
 プライムが昔を思い出しながら語る。
「今はマイカ山脈を越えようとしなくても、海を渡りやすくなったからな。船の旅もそれなりに快適だし、値段も手ごろになってきた」
 船が快適、という言葉にシエルは反応し、言い返した。
「できれば船には二度と乗りたくないね」
 船の記憶といえば、船旅を楽しむ余裕もない船酔いと、セリィに沈められたことと、漂着した島の獣に大きな傷をつけられたということなのだから、シエルは船が嫌いになった。あの時の傷は、ようやく包帯が取れた程度だ。
「カミァ村では落盤事故とか、とにかく事故が多くて、ホワイトクロスにもよく呼び出しがかかるの。マイカ山脈は険しい山だけど、そのために山道がきちんと通っているから、装備さえ整えれば、迷って遭難することもほとんどないはずよ」
「そこまでクリムが詳しいなら、心配いらないな!」
 ケンはクリムを盲信している。最初にケンを見たときは、呪術のこと以外どうにも便りなさげなクリムを心配しているのだろうかと思っていたが、どうも違うようだった。ケンはクリムを心から尊敬し、崇拝している。ケンにとってクリムは正しくて、たとえそれが間違っていることでも正しいのだ。海が紫だとクリムが言えば、ケンも海を紫だと言うだろう。そしてシエルが好意を寄せる相手の側にいたいと思うのと同じように、ケンもまたクリムの側を離れなかった。
 それに対して、クリムは何か思うところがあるのだろうか。彼女の表情や、相変わらず淡々としている声色から、彼女の感情を読み解くことは非常に難しかった。クリムはメーレを心から慕い、本当の兄か父のように愛していただろう。ケンがクリムの生命を救ったとはいえ、クリムにとっては敬愛するメーレの仇だ。ケンを憎む気持ちがあっても不思議はない。ただ、クリムが何も言わないから、誰もそこには触れなかった。
 その後もひたすら歩き、日暮れに差し掛かったころ、シエルたちは街道沿いの粗末な旅籠で一夜を過ごすことにした。近くに小川が流れいるらしく、ささやかなせせらぎが聞こえる。無人の旅籠で火を熾し、クリムとケンが料理の支度をする、その最中のことだ。
「いい加減にして」
 クリムの声が鋭く聞こえた。張り上げたわけでも凄んだわけでもないけれど、研ぎ澄ましたナイフのような声だ。その声に反応して、ラスタとシエルとプライムは現場へ駆けつけた。クリムの表情は後姿だから分からないが、大柄なケンの困惑した表情はよく見えた。
「クリム」
「これ以上私に纏わりつかないで。確かにあなたが同行することを拒否しなかったけれど、だからといって何も感じていないわけじゃない。都合の悪いことを忘れられるほど簡単じゃないの。だから私のことは、できるだけ放っておいて」
 それだけ言って、クリムはケンに背を向けた。シエルたちに聞かれたことを知り、間が悪そうに目をそらし、旅籠に入った。それをプライムが追う。ケンは呆然と立ち尽くしていたものの、すぐに力なく料理にとりかかった。


 ――どうしてあんなことを言ってしまったのかしら。最悪。最低。ひどい。本当にどうしようもなくひどい。いや、ひどいのはあの男。メーレを殺しておいて、平気な顔して私の側にいるあの男。でもケンは、私の生命を助けてくれた。彼がいなければ私は今ごろ生きてはいなかった。メーレのナイフに心臓を貫かれていた。だけど、私はそれでもよかった。メーレと同じ道を歩みたかったし、それが叶わないのであれば死んでもよかったのに。
 クリムはぐるぐると矛盾した考えを頭に巡らせた。苦しい。胸が、心が、喉が苦しい。自分の中でさえ答えが出ない。考えるのをやめたいのに、止まらない。旅籠で立ったまま拳を強く握りしめるクリムの耳に、扉が開く音がした。クリムは振り返らなかった。
「クリム」
 プライムの声だ。ケンに対してひどいことを言ったクリムを責めに来たのだろうか。クリムはプライムに向けて、口を開いた。
「分かってる。彼のしたことは正しかったわ」
 自分でも分かるほどに、声が不安定に揺れていた。
「メーレのしたことは、決して許されることじゃない。メーレの志がいかに正しくても、人の世で許されることと許されないことがある。だから、ケンがしたことは正しかったの。仕方のないことだったのよ。メーレはそれだけの罪を犯したんだもの。だからあんな結末だって、誰も文句は言えない。それにケンがああしなければ、犠牲者はもっと増えていたわ。でも――」
 誰に言い訳をしているのだろう。何のために言い訳をしているのだろう。疑問に思いながらも、言葉が、高ぶる感情が止まらない。
「でも、じゃあ私の気持ちはどうなるの? メーレと過ごした十年間は嘘じゃなかった。人が大事だと言ったメーレの言葉に偽りなんてなかった。なのにメーレには裏切られて、理解する前にケンに殺されてしまった。正しいこと? 仕方のないこと? 冗談じゃないわ! 仕方のない〈死〉なんて、あるはずがないのに!」
 そこまで言って、気が付いた。メーレに対して反発していることを。それだけクリムにとって、メーレの行動が許し難いものだった。大義など関係なかったのだ。それはメーレを殺したケンだって同じだ。そのために苦しいのだ。ケンに助けられたことを感謝しているし、メーレを殺されたことを憎んでいる。どちらもクリムの本当の感情だ。だから、つらいのだ。
「クリム」
 プライムの大きな手が、クリムの肩に載る。
「あんたの気持ちはよく分かった。きっと俺たちが思っている以上にいろいろなことを考えているのだということも分かった。苦しいよな。矛盾を抱えている時が、一番苦しい。俺たち他人が言葉をかけて解決するような簡単な問題なら、誰もこんなに苦しまないさ。だから、今は思い切り悩むことだ。正しい正しくないなどと考える必要もない。メーレの志を正しいと思うのであれば、遺志を継ぐ別の方法を捜せばいい。なに、答えを急ぐ必要はない」
 目頭が熱く、涙の代わりに鼻水が垂れてきた。一人だったら、クリムはきっと泣いていた。


 何も考えられないけれど、手だけは動いていた。それくらい、料理はケンの身体に沁みついていた。クリムの言葉が何度も何度も頭の中で反芻される。
『何も感じていないわけじゃない』
 クリムがどれほどメーレを慕っていたか、ケンは知っていた。ケンがクリムを慕っている以上に、クリムはメーレを慕っていた。一緒にいた時間が長い分、相手の考え方や想いを感じ取って、そのことに対して凄いと思っていて、正しいと考え、疑ってなどいなかったのだ。そのメーレを、ケンは殺した。あの時のケンは何一つとして躊躇わなかった。ただクリムを守らなければという、その一心だった。全てが終わった時、ケンは後悔した。人を殺したのは初めてだったし、それがどのような結果を招くかは簡単に予想できた。若いケンにとって、多くの人の生命よりも、たった一人の少女にどのように思われているかのほうが重要だったのだ。それでも、オルディタウンを出る時、クリムはケンの同行を許してくれたし、何より微笑んでくれたから。どんなことでも、クリムが許してくれるのならばそれでよかった。何一つ気にせずにいられた。
「本当に、なんでこんなことになっちまったんだろう」
「何かできることはありますか?」
 つぶやいた側からラスタの声が割り込んできたので、ケンは心底驚いた。すぐ隣にいるラスタになぜ気が付かなかったのだろう。それほどまでに上の空だったのか、はたまたラスタが気配を消していたのか。
「えっと、じゃあ、そっちに器を並べてもらえるか?」
「分かりました」
 永遠に光を見ることのできないラスタには、実は見えないところに目がちゃんとあって、それで見ているのではないかと思うことがある。それほどまでに動きが流暢で、特にアシストがなくても自由に動いている。そのからくりが、動く彼から常に聞こえる舌打ちにあると分かっていても、やはり感心する。
「ケン、先のことを考えましょう」
 側にある粗末な台にひとしきり器を並べ終えたラスタは、穏やかな表情でそう言った。
「何をしたって、後悔はします。後から考えてもやっぱり、そうするしかなかったのだとしても。だから、これから先のことを考えましょう。クリムもあなたも生きています」
 ラスタはケンを慰めようとしてくれているのだろう。それは充分に伝わったけれど、失意のケンには気休めにもならなかった。どんな言葉も、悪い方へ悪い方へと向かっていく。
「それはそうと、なんだか焦げ臭いような……」
 お礼の言葉を述べようとしたケンの鼻には、ラスタの言う通り不快な臭いが漂ってきた。臭いの元をたどると、肉がしっかり真っ黒になっているではないか。
「わーっ!!」
 過ぎたるはなお及ばざるがごとし。覆水盆に返らず。旅の途中で覚えた悲しいことわざが頭の中を埋め尽くした。
「ああでも、こちらの薬味のスープで何とか食べられるかもしれません」
 食べ物なのか何なのか分からなくなってしまったコゲコゲの肉の前に意気消沈のケンにとっては、胡椒を効かせたスープの香りさえ慰めにならなかった。だが食欲をそそる香りで、腹の虫が容赦なく音を立てる。こうなったら自棄だ。腹が減っては戦などできないのだから。
 ラスタが勿体ないからと言って、焦げた肉を器に盛っていた。そんなものを食べては身体い毒だし、何よりおいしくない。ご飯はおいしいものがいいということは、ケンは常々思っている。ラスタが夕食にシエルたちを呼んでも、「焦げ臭い」という感想しか出てこないし、ケンはますます悲しくなってきた。全くもって踏んだり蹴ったりだ。
 そこにはいつも通りのクリムも現れ、心臓が跳ねた。先ほどの出来事があったため、気まずい。何か声をかけたかったけれど、言葉が何一つとして浮かんでこなかった。そんなケンをよそに、他の人たちが食べたがらない焦げた肉を真っ先に口に放り込む。その姿に少なからず驚いた。
「えっと、クリム? それ、おいしい?」
 ケンは当たり前すぎることを恐る恐る尋ねた。クリムからも「そんなわけないでしょう」という至極当然な意見が返ってくる。
「生命には敬意を払わなければ」
 クリムの言葉が今までで一番鮮明に聞こえた。元々彼女の声は澄んでよく通る声だったけれど、はっきり聞こえた。彼女を支えるのは、人を助けたい、一人でも多くの人を――その強烈な想いだ。そしてその想いは、今の彼女の一言に集約されていた。その言葉を聞くことができただけでも嬉しかった。けれどそれ以上に嬉しかったのが、彼女がケンと口を利いてくれたことだ。先ほどのことがあり、きっとクリムにとってケンと会話することは苦痛だろうし、ものすごく嫌なことだろう。そのことに気が付いて、笑みをこぼした。
 ここにきてようやく、先ほどのラスタの言葉を受け入れることができた。そう、自分たちは生きている。生きている限り、クリムは志を遂げるための努力ができるし、ケンはそれを見守ることができる。クリムの想いは一貫しており、メーレの事件でさえ変えられなかったのだから。それに、希望だって抱くことができる。彼女に取りつく島がないわけではないのだ。彼女はケンの同行を許してくれているのだから。


 食事の後片付けを終え、シエルたちが就寝準備に入った旅籠の扉が開いた。そこには、息を切らした筋肉質の男性が立っている。もう夜が更けているが、せめて旅籠までと思って慌てていたのかもしれない。小さな子どもを抱えた壮年の男性の額には汗が滲んでいた。
「ここ、空いてますか?」
「ええ、空いてます」
 ラスタがすぐに二人分のスペースをつくった。男性は深々と頭を下げ、眠っている子どもを降ろした。
「ありがとうございます。とても助かります」
 シエルの目から見て、男はどうにも旅慣れているという雰囲気がなかった。格好も簡素で、靴も歩きやすいとは言えず、何より旅に出るにしては荷物が圧倒的に少ない。何せ彼が抱えていたのは、子どもの他にはショルダーバッグ程度なのだ。
「失礼ですが、あなたはどこから?」
 ラスタの質問に、額の汗を拭いながら男性は答えた。
「カミァ村です」
 カミァ村と言えば、現状シエルたちの通過点となっている村ではないか。
「そうなんですね。私たちは今、カミァ村に向かっているところなのです。奇遇ですね」
「き、奇遇なものか!」
 男性は声を張り上げたが、身じろぎをして呻いた子どもに気がつき、咳払いをして一旦気を落ち着かせた。
「すみません、ちょっと気が動転して。俺、カミァ村から逃げてきたんです。このままセルナージュにでも行けば何とかなるかもしれないと思って」
「なんだ、鉱山の仕事がそんなにきつかったのか?」
 男性の右側にプライムが腰かける。男性はいいえとかぶりを振った。
「鉱山の仕事を逃げたいほど辛いと思ったことはありませんでしたよ。いや、今は仕事どころの話じゃないんです」
「じゃあ、カミさんと喧嘩でもしたのか?」
「違いますよ! 家内はチビを生んですぐに他界しました。いえ、そうじゃなくて。もう、話の腰を折らないでください。だからつまり、何をしに行くのか知らないけど、カミァ村には行かない方がいいんです」
 男性曰く、ここ一週間の間、特に何事もなく平穏な村に、暗くなると化け物が出没するようになったらしい。マイカ山脈にはそれなりに凶暴な獣は多いが、人に近づくことはほとんどない。それが、見たこともない巨大な身体で、巨大な角が二本生えて、あらゆるものを切り裂きそうな鋭い爪と牙を持つ化け物が、道歩く人を襲ったのだ。どこから現れたのか見当もつかなかったし、どこへ消えたかも分からなかった。日中は姿を現さなかったため、日が暮れると村人はすぐに家にこもるようになった。しかし彼が村を慌てて逃げた日、彼の家が襲われたらしい。それで着の身着のまま、何が入っているかも分からないカバンと幼い息子を抱えて逃げてきたのである。
「なるほど、それはますます行かなくてはならんな」
 顎に手を添えて唸ったプライムに、シエルはやっぱり、と肩を落とした。どうせこの男は公務を理由になんにでも首を突っ込みたがるのだ。手がかりゼロの現状で焦っても仕方がないことは分かっているが、悠長に村人を助けている場合ではないだろう、と内心毒づいていた。
「正気ですか?」
「正気に決まってるだろう。いいよな」
 確認が遅い! と文句を言ってやりたかったが、この中で一番急いでいるはずのクリムでさえ否定はしなかった。彼女の信念を考えれば自然なことだろう。シエルは大きく溜息を吐いて横になった。
「なんだシエル、もう寝るのか?」
 鎧を脱ぐのに手間取っているケンが訊ねる。プライムの独断を諦めたシエルは、鼻から息を吐いた。
「これから化け物のいる村に入るんだ、しっかり寝て体力を温存しておかないと、村に着いた途端にオダブツじゃあ、話にならいだろ」
 それもそうですね、とラスタもシエルに続いて横になった。背後から「冗談でしょう」と男性の心底呆れた声が聞こえたのは、気のせいなどではないだろう。



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