アルネトーゼ

#10.苦悩


 山を下りてテリト村を過ぎ、クリムたちは街道沿いに南へと下っていった。ウェスパッサ連合王国はリーフムーン王国ほど街道がかっちり整備されているわけではないので土埃が立つ。
 ウェスパッサ連合王国を形成する七王国のひとつ、シェリングに本部を置くホワイトクロスは、初めは組織とも呼べないほど小さなものだった。かつて大小さまざまな医師団が発足しいたが、経済的な利便性を考慮し、ホワイトクロスを中心にジンガー大陸内の医師団を統合してできたために医師団連盟と呼ばれている。が、実質ホワイトクロスそのものが他の医師団を吸収したのだとメーレからは聞いていた。
 山越えして最初のキャラバンサライに泊まった時、シエルは口をあんぐり開けて、しきりに感嘆の声を上げていた。
「リーフムーンみたいな小屋じゃなくて、こんな立派な宿なんだな」
 キャラバンサライは、土地によって違いはあるものの、基本的にしっかりとした石造りのものが多い。
「それはウィッセルベの慣習にも関係あるでしょう」
 ウェスパッサ連合王国の代表であるウィッセルベ王国の王家は、成人の儀という名目で、必ず連合王国内を旅歩く決まりがある。王家の者が旅立ったというお触れは出ないし、身分を隠す。その上ウェスパッサはキャラバンによる交易も盛んなので、変わった姿の旅人は珍しいものではない。そのため、王族とはいえ一見すると市井の人間と判別がつかない。だから全ての旅人を手厚くもてなす、というのがウェスパッサの暗黙ルールなのである。
 プライムが一行の中で唯一「お嬢さん」と呼ぶシエルは、確かに知らないことが多い。けれど、小さな村や町に住む多くの人間は、シエルのように外のことを何も知らないまま生きて死んでいくのだろう。キャラバンはジンガー大陸の三分の二を占めるウェスパッサを行ったり来たりしているが、交易路に外れた些細な村や集落には行かない。そんな場所に住む人には、今クリムたちが話している言葉を理解することができないし、クリムたちも彼らが言っていることを理解できない。皆が言葉に不自由なく交流できるのも、ひとえにキャラバンあってのものなのだ。
 マイカ山脈を越えて一週間歩いた頃、ようやくシェリングの影が見えてきた。クリムはシエルたちを振り返り、シェリングを指さした。
「あれがシェリングよ」
 医師団連盟ホワイトクロスが本部を置くシェリングは、大きな港町である。海に面した大都市を目視して、二か月前にはそこにいたはずのクリムは、懐かしい気分を覚えた。
「やっと着いたか! 腹減ったなぁ」
 ケンの能天気な声がクリムの鼓膜を揺らした。


 シェリングはセルナージュ同様、海に面した街である。温かい海域のために、海産物が豊富だ。たまに変な魚が水揚げされるが、それも観光の目玉となっている。
「クリムクリムー!」
 先ほど空腹だなど宣っていたケンが、串に魚を刺して焼いたものを両手に持っていた。一尾は大ぶりで、もう一尾は小ぶりだ。何事かと思えば、片方をクリムに差し出す。それも、比較的大きな方だ。
「……ありがとう」
 と一応は礼を述べたものの、そんなに大きなものを食べるほど腹は減っていない。そもそもクリムは小食なのだ。小食で食べる頻度がそこそこ多いため、旅歩く上ではあまり効率的ではないだろう。ケンに差し出された魚を受け取ろうとしたけれど、クリムは手を伸ばして小さい方の魚を取った。取った魚にかぶりつく。
「えっと……」
 大きな魚をクリムに差し出す姿勢のまま、ケンがキョトンとして立ち尽くしている。その様子が、なんとなくおかしい。
「何よ、お腹空いてるんでしょう? あなたの方が大きい魚を食べるべきよ」
「えと、まあ、そりゃそうだな。そうするよ」
 ケンはすぐに、その魚にかぶりついた。クリムも続けてかぶりつく。塩味の効いた魚は、身が締まっており歯ごたえが良かった。
「もう二人とも食べてるのか」
 魚を食べながらプライムが「早いことだ」と感心していた。その隣でラスタとシエルも食べている。
「このオッサンが、ここに来たらまず魚を食べろって言うから食べてるんだけど、こんな変な魚も食べるんだな。うまいけど」
 シエルが食べている魚は、クリムならば食べたくない魚だ。なにしろ青い。とても綺麗な青なのだ。観賞用に人気の高い魚で、食用に適さないわけでもないが、進んで食べるのは躊躇うほど食欲をそそらない色なのだ。しかしシエルはうまいうまいと言って食べているので、おいしいのだろう。
「私は変な魚が分かりませんが、なんでも食べられるのは得ですよね」
 ラスタは楽観的というか、非常にプラス思考だった。そんなラスタの手にも魚がある。皆考えることは同じなのだろうと思い、クリムは魚の骨付近を丁寧に食べた。
「おお、クリムは綺麗に食べるなぁ」
 そう感心するプライムの魚の骨には、食べ残した白身がたくさん付いている。「慣れてるから」と答えたクリムは、きっとプライムは魚をそんなに食べない人なのだと勝手に結論付けた。
「みんな、本当においしそうに食べるのね」
 楽しそうにアルスが笑っている。
「アルスは食べないのか?」
 首を傾げるケンに、アルスは「苦手なのよ」と短く答えた。苦手だったり嫌いだったりするものを無理に食べる必要はないし、それを食べなくとも本人には何の不利益もない。
 食べながら歩いているので自然と歩はゆっくりになるが、食べ終わる頃には本部の立派な建物の前にいた。元々礼拝堂だったものをそのまま使っている石造りの大きな建物を見ても、不思議とメーレのことを思い出さなかった。思い返せば、メーレとの思い出は、ここにはなかった。メーレはあまりここに長居したがらなかったし、団員としての報告義務を果たすためだけにここに来ていたのだ。彼は常にシェリングの外にいた。クリムにとっては、やはり彼の姿こそが正しいのだと思うし、あのような事件があったにしても、その認識に変わりはない。
「やっぱりちょっと、緊張するわね」
 アルスが顔を強張らせているのを一瞥して、クリムは重い扉を押し開けた。軋む音が高い天井に響いて吸い込まれる。壁や天井は清潔感を意識した白で、足元には灰色の絨毯が敷かれている。人の往来のある港町にある本部だけあり、建物の中は静かではあるけれど、人が早歩きでせわしなく行き来している。正面には小さなカウンターがあり、そこに案内係が待ち構えていた。彼女はクリムと目が合うと、カウンターから出てきた。
「クリム様、お帰りなさいませ。こちらの方々はいかがなさったのですか?」
「私が道中お世話になった方々です。それよりも、今ユイ様はどちらに? 取り急ぎご報告したいことがあります」
「分かりました。前もってのお約束がないので今から取り付けることになります。早くても一週間かかるかと思いますが、それでもよろしいですか?」
 一週間。冗談ではない。クリムは案内係に対して苛立ちを隠さなかった。はっきりと、だが早口で伝える。
「クリムが戻ったとお伝えください。メーレのことで大切なお話があると」
 メーレの名を聞き、案内係の顔色が変わった。メーレの所業は、すでにここまで届いているようだ。それはそうだろう、エゴで町を一つ水没させたのだから。
「分かりました、すぐに。そちらでかけてお待ちください。お連れ様方も一緒に」
「はい、お願いいたします」
 慌てて団長室へ向かう案内係を見送り、クリムはシエルたちを椅子に座るよう促そうとしたが、彼らはすでに腰かけていた。その様子を見て唖然としたものの、少しおかしくなって、口許に弧を描いた。
「早くて一週間か。あたしたちだけ先に行った方がいいかな」
 不満な様子でシエルがあくびをしている。プライムが「先の目的地も分からないのに?」と半眼で睨みつけたので、シエルは眉間に皺を寄せて押し黙った。
「心配はいらないわ。団長は私が戻ったと、メーレのことで話があると聞けば、何よりも私を優先しなければならないはずだから」
 仮にメーレのことを重要視していないのだとすれば、それを後回しでも良い案件なのだと考えているのであれば、もはやクリムは、ホワイトクロスに何の未練もなかった。
 程なくして、奥の小さな扉から、誰かが階段からでも落ちたような、派手な音がした。クリムだけは苦笑いを浮かべていたが、他の者たちはきょとんとしている。何が起きているのか分からないのだから当然か。ホワイトクロスの女性団長ユイは、仕事はできるもののそそっかしく、おっちょこちょいで落ち着きがない。その上なんの報せもなくクリムが戻ってきたことに心底驚き、慌てている様が見えるようだ。凄まじい足音の後、勢いよく扉が開き、とても無邪気な笑顔の、妙齢の女性が飛び出した。
「あらあらあらあらクリム!」
 ユイの姿を認め、クリムは背筋を正した。それに倣い、他の者たちも立ちあがる。
「ユイ様、お久しゅうございます」
「堅苦しい挨拶なんていいのよ。前置きはとにかく、こちらへいらっしゃい」
 団長に案内され、奥の扉をくぐり、階段を上る。ユイに案内された応接室に入ると、三人がけのソファに座るよう促された。ユイ対面の椅子に座ったので、クリムは一礼してソファのまん中に腰かけた。クッションに下半身が沈む。
「ええと、何から話せばいいかしら。やっぱりオルディタウンでのことを、順を追って話してもらうのが正解よね」
「そうですね。その前に、お伺いしたいことがあるのですが、ユイ様は〈アルネトーゼ〉のことで何かご存じありませんか?」
「〈アルネトーゼ〉……リーフムーンの悪魔ね。それは私よりも、お連れ様の方が詳しいと思うわ」
「いや、仰る通りです」
 突然プライムの敬語が聞こえてきて、クリムはぎょっとした。普段不遜な態度を取っているプライムからは想像できないが、よくよく考えてみれば、彼はリーフムーンの監視官としてステーシア女王に仕えている身だ。女王など、立場が上の者に対する立ち振る舞いがきちんとしていなければ務まらないだろう。プライムはなおも、丁寧な口調で続ける。
「〈アルネトーゼ〉には謎が多いのです。最初こそリーフムーンの中央図書館などで調べていたのですが、思いの外資料が少なくてですね。ここは地続きですし、あなた様なら何かご存知かもしれないとクリムさんに教えていただいたので。国外に出てこそ見えるものもあるでしょう」
 それが上手い切り出し方かどうかは判断しかねるが、ともかくユイは軽く納得したようである。
「なるほど、そういうことでしたら、モシャルオンの北部にあるトレアナ村に行けば分かるかもしれません。トレアナ村の場所はクリムが知っているはずです。クリム、その〈アルネトーゼ〉とメーレに何の関係が?」
「はい、多少長い話になります」
 眉毛を八の時にしているユイは、全てを受け入れる覚悟を決めていた。クリムはその目をしっかりと見据え、逸らすことなく息を吸い、話し始めた。オルディタウンで起きたこと、その原因がメーレだったこと、メーレにそれを与えた存在のことを、全て。ユイは最後まで表情を変えることなく、クリムの話に耳を傾けた。
「これが、私の知り得る事実です」
「そう、ありがとう」
 ふぅ、とユイは息を吐いた。メーレの件で落胆しているのだろうか。そう思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
「メーレはとても真面目で純粋で、人々のことを第一に思う人でした。私たち医師の鑑でした」
 それはクリムも知っている。彼という喪失がどれほど大きなものなのかも。彼はクリムにとって本当の兄のようであり、医師としての憧れの存在であった。
「メーレはこう言っていました。ずっと疑問に思っていたし、許せなかったと。ホワイトクロスが小さな村々に医師を派遣することはなかったと言っていました。私にはそんなこととても信じられないのですが、もしも本当なのであれば、私にとっても許し難いことだと思います」
「そうね、あなたもメーレと同じ、とても純粋で良い子だもの。これから私が言うことは、やっぱりあなたたちにとって許せないことだと思うわ。それを分かってくれと言うことはできない」
 ユイはその表情に悲しみを湛えていた。
「人を救うということを信条として掲げているこのホワイトクロスが、今となっては経済的に力のある富豪たちの思うままにしか動けないというこの状態になってしまっているのは、誠に嘆かわしいこと。でも人を救うには、彼らの後ろ盾が必要なの。誇りと志だけでは何もできない。それだけで人を救うことはできないの。組織として運営し、より多くの生命を助けるためには、たくさんのお金が必要なのよ」
 それしかなかったのだと語るユイは、苦しそうでもあり、仕方のないことだと諦めているようでもあった。それが腹立たしい。
 きっとユイの言っていることもまた、正しいのだ。メーレやクリムが抱いているのは理想論に過ぎない。でも、クリムが憧れたのは、クリムが惹かれたのは、「人を助けたい」という、誰であっても助けるのだというその理念だった。幼い自分のことが思い出される。滅びゆく村を前に、逃げることしかできなかったこと、そこにメーレが現れたこと。結局村滅びてしまったけれど、もしそこにホワイトクロスの人が来てくれていたらと思っていた。そうやって待っている人たちは色々な場所にいるのだ。でも、メーレが行かなければ誰も来てくれない。理念はただの理想だったからだ。メーレ一人では助けられる範囲も限られてしまう。だから後継者を育てようとした。自分と同じ方向を向いている人間を増やそうとしていた。そうやって何もかも背負い込んで、縋り付いたのが〈アルネトーゼ〉だったのだ。クリムの成長は間に合わなかった。――間に合わなかったのだ。
 組織としての限界や、自分の無力さ――それらが悔しくてたまらなくて、身体が震えた。メーレが何に対して復讐しようとしていたのかを知る術はもはや失われてしまったけれど、きっと、金があったからと助かった人たちを憎んでいたのだ。メーレにとって、生命に重いも軽いもなかった。そのためらいがクリムを生かした。そしてその想いは、クリムも同じだ。自分もまた裏切られていたのだ、ホワイトクロスに。何が、人を救うだ。これまで一体何を信じてきたというのだろう。そう思い込んで、そんな張りぼてを掲げた虚像を信じきっていたというのか。なんと愚かなことだ。クリムは唇を震わせ、声を絞り出した。
「私はかつて、メーレに生命を助けられました。メーレに憧れて、私もメーレのようになりたいと思って、ホワイトクロスに入団しました。一人でも多くの人を救いたかった。ホワイトクロスは誰にも汚されない、綺麗な組織なんだと思っていました。でも――」
 メーレを裏切り、クリムを裏切り続けていた。メーレに助けられたあの頃は、まだ綺麗だったのかもしれない。確認する手立てはない。
「私が勝手にそのような理想を作り上げていたようです。ホワイトクロスが組織のための組織なのであれば、私がホワイトクロスである理由はありません。今すぐここを去りましょう。私の想いは、ここでは遂げられないのだから」
 クリムはシエルたちを見回して、ソファを立った。ユイの話を聞いた直後だからか、このソファに座っているのも胸糞悪かった。
「手間をかけさせました。もうここでの用事は終わったわ。早くトレアナ村へ向かいましょう」「あ、ああ」
 シエルがためらいがちにうなずいた。彼女なりに思うところでもあるのだろうか。だが今のクリムは、自分ではっきりと決めたことに自信を持っている。十年以上身を寄せていたホワイトクロスに、もはや何の未練も後悔もなかった。全員を追い出し、自分も部屋を出ようとしたとき、クリムの背中にユイが声をかけた。
「クリム。これは私の、団長ではなく一人のユイという人間の言葉です。そのつもりで聞いてくれる?」
 クリムは立ち止まる代わりに、ユイを振り返ることはしなかった。
「私の想いは変わっていないわ。あの理想は、メーレと共に掲げたものだった。でも私は、メーレのようには生きられなかった。流れには逆らえなかったの。でもあなたは、しっかりとメーレの想いを受け継いでいる。私に為せないことを為すことができる。自分が見て、自分が聞いて、自分で決めたことを信じる強さを持っている。だから、ここではないどこかで、あなたの理想を為して。私やメーレが遂げられなかったことを。私は、理想を遂げるには年を取りすぎてしまった。でもあなたはまだ若いわ。分かるわね?」
「はい」
 短く返事をして、クリムは応接室を後にした。


 青い空に、質量のありそうな雲がぷかぷかと浮かんでいる。間の抜けた顔をしてそれを眺めていたクリムに、ケンが声をかける。
「良かったのか、クリム?」
 シェリングを出てからずっと、ケンは落ち着かない様子だった。それをプライムが面白そうに見ているのも知っていた。クリムは小さくうなずいた。
「自分の中にあるものを守るためだから」
 クリムの中にある、人を助けたいという気持ち――それは誰にも汚すことなどできないものだ。それだけに不安もある。
「でも、私はやっぱり、メーレと同じことをしたかもしれないと思うの。それは怖いことだわ」
「いや、それはないだろう」
 何を考えているのか分からない表情のプライムに目を向ける。
「クリムは自分で答えにたどり着いたじゃないか、『〈死〉に仕方のないものなどない』と。その気持ちがあるのなら、メーレと同じことはしない」
 そしてクリムの頭に掌を置いた。
「クリムはすごいぞ。信念を貫くと、口で言うのは簡単だが、実行するのは、実はできないことの方が多い。目的や信念がごちゃごちゃになったりするからな。だが、クリムは迷わずホワイトクロスを捨てることができた。それは信念を信念のままに、しっかりと持つことができている証だと俺は思う。誇っていいぞ」
「うん。ありがとう」
 それだけは、プライムに言われずとも誇っている。これで大好きだったメーレにまた一歩近づくことができる――そんな気がするのだ。
「それで、クリムはこれで良かったのか? ああ、ホワイトクロスを出たことじゃなくて、なんか普通に一緒に来てるけど、これから先一緒に行く義理はないだろう?」
 シエルが尋ねた。それは確かにそうだ。
「オルディタウンの事件は、まだ終わってないから。アルネトーゼのこと、復讐者のこと、まだ何も解決してないもの。それを見届けないといけないわ」
最初はアルネトーゼのことを、メーレを貶めた憎い存在の親玉とだけ思っていたが、そう単純な話ではないことも分かった。
 これから先、何が待ち受けているか分からない。オルディタウンを水没させるだけの、理解の範疇を超えた力を持つ者たちと対峙するのだ。恐怖はあるけれど、まず彼らをなんとかしなければ、また犠牲が出るかも知れない。一人でも多くの人を助ける――その想いへの近道のような気がした。
 ――そうよね、メーレ。
 クリムはもう一度、青い空を見上げた。



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