アルネトーゼ

#11.少女


 ケンたちはシェリングを出て、ウェスパッサ連合王国の北方、モシャルオン領にあるトレアナ村へと向かっていた。トレアナ村はシェリングから北にあり、カミァ村やテリト村よりもずっと北の方角に位置している。そのため寒くなることは予想していたし、途中のキャラバンサライで防寒具などを手に入れていたのだが――。
「何なんだ、この寒さは!」
 もう何度目になるか分かららない台詞を口にしたシエルが、鼻っ柱を真っ赤にして身を縮めていた。辺りはすでに、雪というもので白くなっている。リブル島が温暖な島だったから、そのまま薄着でウェスパッサまでやってきて、慌てて防寒具を買ったのだ。たくさん着込んでいるその姿を見る限りでは、持ち前の素早さも何の役にも立たなそうである。
 クリムは鼻や頬や耳を真っ赤にして寒さに耐えている様子だ。温かさよりもデザイン性でマントを選んだアルスは見るからに寒そうだが、「我慢はお洒落の基本だもの」と不満や泣き言を一切口にしないので感心する。その一方で、世界にも類を見ない強さを誇る凄腕の剣士プライムにも、魚を食べること以外に弱点があったことが発覚した。それがこの寒さである。
「仕方がないだろう。若いころは灼熱の沙漠で生きていた。確かに夜は寒かったが、こんな雪なんか降らなかったし、セルナージュだって寒くない」
 これがプライムの言い分だった。何も聞いていないというのに、寒さに弱いということを気にしているのか、いつも余裕たっぷりの年長者は、その貫禄を台無しにしてしまっていた。ケンも暖かい地方の出身だが、初めての寒さ、初めての雪に心躍り、寧ろ元気になっている。最初に積もっているところを見た時は湿り気を含んでいて固くなっていた雪だが、北へ進むにつれ、粉のようにサラサラになっていった。
 その中で深刻なのが、ラスタだった。寒さへの耐性はあるようなのだが、音が雪に吸収されてしまい、音の反響が拾いにくくなっている様子だ。そんなラスタをサポートするのは、専らシエルの役目である。ただ、一々口にしている寒さへの文句が、ラスタの聴覚を妨げているのではないかと思えないでもなかった。
「ケンは本当に嬉しそうだな。羨ましい」
 プライムのいつもは大きな背中が、今は小さくなっている。その姿に、ケンは苦笑した。
「まあ、元気が取り柄だからな。プライムは形無しだ」
 悪気はなかったのだが、ケンの言葉にプライムは苦虫を噛み潰したような顔をした。いつもなら、プライムが弱気になろうものなら、いつもの逆襲と言わんばかりにシエルが食いついてくるものだが、文句を言う気力はあっても、この寒さは堪えるらしい。そうやって談笑していると、不意にラスタが足を止めた。
「誰かいます」
 ラスタが顔を向ける方をじっと見ながら進む。いつもより聞こえないとはいえ、ケンやシエルの聴覚よりもはるかに正確だ。よく目を凝らして見て、ケンは思わず声を上げた。
「女の子?」
 紺色の長い髪を二つに結い、もこもことした暖かそうな服を着た十歳くらいの少女が、たった一人でそこに佇んでいた。ラスタの言っていた誰かとは彼女のことなのだろう。しかしなぜこのような何もないところに、一人で立っているのだろう。ケンたちに気付いたらしい少女と目が合う。整った顔立ちの、可愛らしい印象の少女だ。しかし、その少女に近づく黒い影があった。ふさふさとした灰色の、非常に美しい毛並みを持つその影は、敵意を込めた目でケンたちを見ていた。あれは狼だ。大陸で狼が昔ほどいなったと聞く。だからケンは、狼を見るのは初めてなのだ。けれど、そいつが獰猛な肉食獣であることは知っている。その狼がなぜこんなところにいるのだろう。少女が危険なのではないか。そう直感し、ケンは背中の大剣を抜いた。
「ケン!?」
 何をやっているのだと言いたげなアルスの声が聞こえる。殺気をむき出しにしたケンに対抗するように、灰色の狼も牙をむき出しにして低く唸る。狼と向き合いながら、彼はただ獰猛なのではなく、気高い生き物なのだと分かった。この生き物と対等に向き合おうとしていることは、非常に畏れ多いことなのではないか。ケンのこめかみから汗が伝う。ケンはその生き物と対峙するのが恐ろしくなり、雄叫びを上げて狼に突進した。狼も雪を蹴る。ケンが振り下ろした剣を軽やかに避け、ケンの懐に入り込んだ。
 ――これ、ヤバくね?
 そもそも、狼のような生き物に対して、大ぶりな剣や大げさな鎧は不利だったのではないだろうか。しかしケンの鎧は、彼の牙がいくら鋭くても、砕けはしないはずだ。ケンは飛びずさった。そのケンと狼との間に、少女が割り込む。何かを必死に訴えようとしている様子ではあるが、何も言わない。何も喋らない。
「危ないからあっちへ!」
「ケン!」
 クリムが後ろからケンに抱きついた。クリムもやめろと言っているのだろうか。何故、何のために? 近くに崖もあるから危ないのに。振り返る。その次の瞬間だった。
「は、え、ちょっ」
 崖だと認識していたよりも、実際の崖は近かった。急な坂になっているところに雪がこんもりと積もっていたために見えなかったようだ。そうと分かった時には、すでに遅かった。
「きゃあああ!」
「わあああ!」
 甲高い叫び声と野太い叫び声を伴って、ケンとクリムは一緒に崖から滑り落ちた。崖の上から狼が自分を嘲笑っているようだ。もうだめだ。どこかで諦めているケンの耳に、遠くからシエルの呼ぶ声が聞こえた気がした。


 身体の節々が痛む。痛みを感じていっるということは、どうにか生命は助かったということだ。地面は冷たいものの、ふかふかしている。雪に助けられたようだ。ケンは腕の中の柔らかいものがまだ温かいのを確認すると、ほっと息を吐いた。
「クリム」
 白い髪の少女に呼びかける。真っ白な雪を後ろにしていると、少し黄味がかっていることが分かった。彼女は身じろぎをしながら目を開け、不機嫌な顔をケンに見せた。
「鎧が冷たい」
「え、あっ、悪い!」
 パッと離れて、慌てて身を起こした。
 とりあえず現状では、あまりいい状況とは言えないだろう。上を見上げると、先ほどの崖が思った以上に高いし、辺りを見回しても、人の痕跡などは見当たらない。このままここでじっとしていても凍え死ぬだけだ。ケンは立ちあがり、クリムに顔を向けた。
「ちょっとその辺見てくるけど、一緒に来るか?」
「ええ」
「歩けるか?」
 そう言われて立ち上がったクリムは、少し足を動かして「問題ないわ」と答えた。クリムも怪我がなくて何よりだ。そのことを確認して、ケンはゆっくりと足を踏み出した。
 雪は降っていない。視界もはっきりしている。それが不幸中の幸いだ。ただ、辺りに生えた白い木々と、時折姿を見せる鳥以外には、静寂しかなかった。
 クリムはその間、一言も喋らなかった。シャクシャクと雪を踏む音、布が擦れる音で、ちゃんとついてきていると判断していた。体力の消耗を恐れているのか、それとも普段は大人たちの目を気にして会話しているのかは分からない。
 ケンは何やら洞穴を見つけた。とりあえず火を焚いて身を置くにはちょうどいいかもしれない。風も防げそうだ。ケンはクリムを振り返り、歩き始めて以来初めてクリムに口を利いた。
「クリム、あの穴に入ろう」
 控えめにうなずいたクリムの表情が不安を訴えているような気がしたけれど、今はそれ以上に疲労の方が大きいようだ。二人でその洞穴に入り腰を下ろしたものの、やはりひんやりとして寒かった。
「寒いけど、風が当たらないだけいいな。まき用の枝でも取ってくるよ」
「待って」
 引き留める声と共に、立ち上がろうとするケンのマントが引っ張られる。
「ここに置いて行かないで。私、嫌な感じがするの」
 もちろんケンが、怯えるクリムを一人置いて行くはずもなく、結局一緒に枝を取りに行った。
 充分枝を集めて洞穴に戻り、火を焚いた。火は大丈夫だが、問題は食料だ。寒さの中で何も食べないままででいると、体力が落ちて、いずれは眠るように死んぬという話を聞いたことがあった。それではだめだ。自分はまだ死にたくないし、当然クリムを死なせたくなどない。だが、ケンが持っていたのはたった一切れの干し肉のカケラ。これでは腹の足しにもならないけれど、食べないよりはずっといい。カケラをクリムに渡すことを決意し、雪を溶かしてお湯にして、その中に干し肉を入れてふやかした。空腹を促進するにおいが鼻孔を刺激する。
 その時、何か鋭い殺気のようなものを背中に感じた。クリムの訴えていた「嫌な感じ」とはこのことだったのかもしれない。とにかく逃げたい。今すぐ逃げたい。そんな恐怖をケンは感じていた。恐る恐る振り返ると、二つの光がきらりと光る。目だ。ケンはすぐに大剣に手を伸ばした。
「熊か! クリム、下がれ!」
 叫んだけれど、クリムは動かない。足がすくんでいるのだろうか。ここは熊の住処だったようだ。眠っているところを邪魔されて気が立っているのか、目が血走っているように見受けられる。もしかすると、干し肉のにおいに反応したのかもしれない。抵抗すれば熊の怒りに拍車をかけるだけだろうが、熊の目線の先にはクリムがいる。
「くそっ」
 ケンはわざと音を鳴らして熊を挑発し、クリムから意識を逸らさせた。クリムがいる方向とは反対側へ熊を誘導する。下手に剣が抜けない。ケンの大きな剣は、狭い洞穴内では動きが制限される上、小回りが利かない。どうにか隙を突きたいけれど、野生の動物はそう簡単に隙を見せない。ケンがどうにか熊の足を払おうとしたその時――。
「うぐ……っ!」
 鎧があることで油断したのかもしれない。腕の連結部に熊のとがった爪が刺さっている。だが逆にこれは好機だ。片手で大剣は振るえないけれど、ナイフなら扱える。いつも調理用に持ち歩いているナイフを素早く抜くと、熊の腕を引き裂いた。熊が雄叫びを上げる。熊が怯んでいる隙にナイフを投げ、大剣を手にして、力いっぱい熊の首を切り落とした。首を追うように熊の身体は倒れ、同時にケンも柄から手を離し、その場にひざまずいた。熊にやられた傷口から血が流れる。傷口が熱を持っている。ケンは何ともないというような笑みを張り付けて、怯えるクリムを安心させようとした。
「大丈夫か、クリム? 怪我とかはないか?」
 一瞬遅れて、クリムは首を縦に振った。ケンは目を細めて「良かった」とつぶやいた。すぐにハッとして、クリムがケンに駆け寄る。
「今すぐ鎧を脱いで。手当てする」
 ケンはクリムの指示通り、重く冷たい鎧を脱いだ。
 いざ傷口を見てみると、思った以上に深い。クリムはそれを見ても顔色を変えず、ウエストポーチの中のリキュールやら包帯やらを取り出して、手当てに取り掛かる準備をてきぱきとしている。熊に襲われる恐怖には慣れていなくとも、こういう時の素早さと冷静さは頼もしい限りだ。リキュールを染み込ませた布を手に取り、それを傷口にあてがった。
「いてっ」
「沁みるわよ」
 警告は遅いものの、手当ては迅速だった。傷口を拭い、新しい布で覆うと、慣れた手つきで包帯を巻き始めた。
 その間お互いに口を開かなかった。それがケンには居心地が悪かった。沈黙を心地よいと感じられる間柄ではないのだ。ケンはクリムの気持ちを知っているから、クリムが自分にどのような感情を向けているのかを知っているから。ケンはその沈黙に耐えられず、口を開いた。
「なあクリム、クリムはさ、なんで人を助けたいと思うようになったの?」
 それまで自分がいた場所を捨てて。メーレのことだってきっとものすごく辛いはずだ。それでもメーレを追い続け、真実を追い続け、自分の想いを遂げようとしている。何が、どんな想いがこの少女を駆り立てるのだろう。しかしクリムは答えてくれない。ケンが「なあ」と身体を前のめりにしたところで、ようやく口を開いてくれた、が――。
「それは、答える必要があるの?」
 ぴしゃりと言われた。ケンは困り果てて、口をへの字に曲げた。
「そういうわけじゃないけどさ。ちょっと知りたかったから」
「そう」
 この様子では、話してくれそうにない。ケンは諦めて、クリムが包帯を巻き終わるまでじっと見ていた。
 応急処置が終わると、ケンはすぐに先ほどの熊を捌いた。適当な大きさに切り、明々と燃える焚火にかける。時折枝を足し、焚火をかき回し、肉の焼ける音とにおいを感じる。焼き終えた肉をクリムに手渡すと、クリムは肉を口にした。ケンも豪快にかぶりついた。ケンでさえ肉を喰いちぎるのに一苦労なのだから、クリムにはもっと大変だろう。だがクリムは、文句のひとつも言わずに噛んでいる。
「ごめんな、胡椒とか道具とかあればもっとマシなものになったんだけど。獣の肉は、どうしても硬くて臭いから」
「大丈夫、ちゃんと血肉になるから」
 クリムの言葉に、ケンは目を見開いた。とても嬉しかった。
「そっ、そうか! あ、まだまだたくさんあるからな、じゃんじゃん食っていいからな!」
「そんなに食べられないわよ」
「遠慮すんなって!」
「遠慮なんかじゃない」
 クリムがどういう気持ちで答えているのかは分からないが、ひとつひとつのやりとりが心底嬉しかった。
「本当なら、燻製にしたり干したりすれば日持ちするんだけど、道具もないし、こんな寒いところじゃ難しいかな」
「燻製なら、あなたの鎧を使えばいいのよ」
「そりゃできないことはないけど、俺の鎧が煤まみれになるじゃんか」
「冗談よ」
 クリムが冗談を言った。クリムが、自分に冗談を言った。
「そっか、冗談か」
「そうよ」
 話しているうちに食べ終わったらしいクリムが、小声で「ごちそうさま」と言って、持っていた布で、油でてらてらと光る口と手を拭いた。ケンも食べ終えてのんびりしていると、クリムがケンの傷に触れた。包帯に血がに滲んでいる。この腕で熊を捌いたり、色々しているうちに、閉じきれていなかった傷口が開いてしまったのだろう。クリムはすぐに包帯を解き、新しいガーゼを手て止血を始めた。
「これが終わったら、ケンは休んでて。火の番なら私がするから」
「分かった、じゃあお願いするよ」
 ある程度落ち着かせ、クリムはケンの腕に新しい包帯を巻いた。ケンはやはり、その様を黙って見ていた。今度の沈黙は、先ほどのように居心地悪くは感じなかった。クリムは包帯を巻きながら、ゆっくりと話し始めた。
「私の生まれた村は、疫病で滅びたの」
「え?」
 話してくれるとは思っていなかったので、見開いた目でクリムの黄土色の目を見た。クリムが「聞きたくないの?」と言うので、ケンは慌てて頭を振った。クリムは続けた。
「ワシールにあったの、私の村。私も疫病に罹る前に――そう言って、母は私を連れて村から逃げたわ。でも疫病で滅びた村の生き残りを受け入れてくれる場所なんてなかった。ずっとウェスパッサじゅうを彷徨って、その間に母は体調を崩した。私は何もできなくて、ただ母が弱っていくところを見ていただけだった。そこにメーレが通りがかったの。その時にはもう手遅れで、母はそのまま他界したけれど、私と二人きりでいて死んでしまうより、ずっと楽だったと思う。その時に母がメーレに私を頼むと言ったの。私は、通りすがりに母を看取ってくれたメーレを見て、自分のこの道に進みたいと思った。苦しんでいる人を目の前にして何もできない自分が腹立たしかった。ただ見ているだけの自分じゃなくて、何かできる自分になりたいと思ったの。だからメーレに付いて行って、ホワイトクロスに入団した。けれど――」
 その先は語らなかったけれど、本部でのユイとのやり取りを見ていれば分かることだ。ホワイトクロスは、その理想とはかけ離れていた。メーレとずっと一緒にいたから気が付かなかったのだ。そしてメーレ自身も、そのことをクリムには一言も伝えなかったのだろう。ケンが惹かれたクリムの志は、クリムの想いは、ホワイトクロスにいるままでは、貫くことなどできなかったのだ。
 気が付けば、包帯は巻き終わっていた。
「本当は早く気付くべきだったんだわ。ホワイトクロスは三十年も前にできた医療組織で、私もその存在は知っていたけれど、ただの噂なんだってずっと思ってた。だってたくさんの人が苦しんでいたのに、私の村にはただの一度も来なかったんだもの。いいえ、大陸は広いのだから、全ての村を渡り歩くのには限度があることも知ってる。その中で私たちがメーレと出会ったのは、本当に幸運だったんだわ」
 メーレを失った悲しみは深いはずだ。それはケンへの憎しみが物語っている。その上、信じてきたものは全て虚像だった。けれど、クリムは強く生きている。悲しみや憎しみを必死に乗り越えようとしている。変わらない想いを胸に、前へ前へと歩いている。
「クリム、俺はクリムに会えてよかったよ。本当によかった。クリムはそう思わないかもしれないけど」
 心から守りたいと思える人に出会えてよかった。普段だと照れくさくて伝えづらい言葉ではあるが、今この瞬間に伝えたいと思った。怒られるかもしれない、こんな時に何を言うのだと呆れられるかもしれない、それでもクリムに伝えたかった。クリムは、やはり怪訝そうな目をしている。
「何を言っているのよ」
 ケンはクリムにずっとにこやかな笑顔を向けていた。
「ケン、助けてくれてありがとう」
「気にすんなって! 俺の方こそ、手当てしてくれてありがとな。明日にはきっとラスタたちとも合流できるから、それまではしっかり寝て、しっかり体力付けとこうぜ」
「ええ」
 クリムが目を閉じる。ケンはクリムにマントを掛けると、日に枝や残った肉をくべ、結局明け方までずっと火の番をしていた。


 洞穴に光が射し込む。朝が来たようだ。朝食なら、昨日の熊の肉が余っているからそれを食べればいい。そう思いながら、やはり焚火を枝でかき回していた。そんなケンの耳に、聞き覚えのある女性のハスキーな声が飛び込んできた。
「ケン!」
 顔を上げると、シエルが立っていた。シエルだけではない、ラスタもプライムもアルスも、そして昨日の少女に、灰色の狼も一緒だった。どういうことだろう。ケンは立ち上がり、シエルに歩み寄った。その後ろでクリムも起きたようだ。
「なんだ、そっちから来てくれるなんて思ってなかった。どうやってここが分かったんだ?」
「彼に案内してもらったんです」
 相変わらず温厚な笑顔を浮かべてラスタが言う。彼とは一体誰のことだろう。もしかすると〈彼〉に当たる人物を見落としているのだろうか。そう思いながらきょろきょろと〈彼〉を捜すケンの前に、あの狼がゆっくりと近づいてきた。昨日の今日なので、ケンはわずかに身構えた。しかし狼からは、敵意や殺意などが微塵も感じられない。狼はその双眸にケンを映し、大きな口を開いた。
『昨日はすまなかった』
「へ?」
 ケンは目を剥いた。なんということだ。信じられない。目の前の獣が、ケンにも理解できる言葉を喋っているではないか。これは一体どういうことなのだろう。
『いきなり襲い掛かってしまったことを詫びる。そなたから敵意を感じたために、私を捕え殺そうとしたのだと勘違いしていたのだ。許してくれ。無事で何よりだ』
「お、おう、俺の方こそ、狼っていったら人を襲うものだとばかり思っていたから、何も知らないで剣を向けて悪かったな。いや、そんなことより、なんでお前、普通に喋れるんだ?」
 戸惑いを隠さずに尋ねると、ラスタが答えた。
「彼女は耳が聞こえないのです。それゆえ言葉も喋れません。私も未だに信じられないのですが、その狼――シンは、彼女の代弁者なのです」
「え、だからって、狼が喋れるのか?」
「実際に目の前で喋っているのですから、信じるよりほかはないでしょう」
 確かにそうなのだが、反論のしようもないのだが、ケンはその事実に唖然とした。ケンにとっても受け入れがたいことだ。
「え、じゃあこの女の子は?」
『ルティ。ルティシア=スレイル――トレアナ村の巫女である』
「トレアナ村!?」
 ケンは思わず声を上げた。自分たちが目指している村ではないか。しかもここにいるのが巫女ときた。それはつまり、彼女がアルネトーゼのことを知っている可能性が高いと言うことではないだろうか。アルスが「ね、凄いでしょう」と嬉しそうに、春のような笑顔を浮かべた。
「こちらの事情も話したら、ケンとクリムを落っことしたお詫びに、トレアナ村まで案内してくれるって、シンが言ってたの。元々、私たちが来るのを分かった上であそこへ来たみたいよ」
 願ってもいない幸運だと思ったけれど、そういう事情もあったのかと納得できた。シンと対峙し崖から落ちた時は、なんと運が悪いのかと嘆いたものも、谷底ではクリムとの距離が縮んだし、次の目的地としている村へもすんなりと入れそうだ。何がどう転ぶかは、まったくもって予想ができない。
「で、もう早速連れて行ってもらうけど、かまわないか?」
「ああ。シン、早く連れて行ってくれ」
 シエルが尋ねた相手はケンとクリムだっただろうに、間髪入れずに答えたのは、寒さに耐えかねたプライムだった。
「トレアナ村にはうまい酒もあるらしい。そいつで身体を温めないと、俺は死にそうだ」
「なに、大の大人がそんなに情けない声出しちゃって!」
 アルスがプライムの背中を一発叩いた。それについて何も言わないのは、寒さにやられているからなのか、アルスに対してはモノを言えないのか、それは分からない。
『了解した。付いてくるがいい』
「しかし妙に偉そうだぞ」
 不満を漏らすシエルを、「早く着けそうだから、いいじゃないですか」と宥めるラスタといういつもの光景に、心が落ち着く。
「って、俺とクリム、まだ朝飯食ってないぞ!?」
「村まではそう遠くないみたいだから、それくらい我慢しろ。俺はもう、寒いのを我慢できん」
 ケンの訴えは、プライムに流されてしまった。しかし、ここまでとんとん拍子に事が進んでいるためか、先行きが明るく感じられた。
 ――まあ、確かに、すぐに着くなら、朝飯くらいいいか。
 前を歩き始めたシンとルティを、ケンはにこやかに追いかけた。



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