アルネトーゼ

#12.大神


 シエルは杯の酒を呷った。ルティとシンの案内でトレアナ村に入り、ルティの祖父でありトレアナ村の村長でもあるアリの家に上がった。アリは大柄で雪のように肌が白く、髪をはじめとする体毛は黒く、立派なひげを蓄えている。最初はそのような印象を受けたものの、彼だけが特別なわけではなく、この村の住人はその土地柄ゆえ、皆大柄で肌が白いのだ。だからルティの髪が紺色であることが不思議だったが、諸々の話は酒を飲みながら、ということで、シエルたちは酒を飲んでいる。その酒が、なんとも強く喉が焼けるようではあるのだが、身体も温まる。
「いやぁ、生き返る」
 プライムは本当に嬉しそうだった。寒いことに散々文句を言っていたので、温めた部屋で強い酒を飲むのがさぞかし待ち遠しかっただろう。
 年齢的に酒が飲めないクリムとケンは、温かいスープをすすっている。
「遠慮はなさらずに、たくさん飲んでくださいね。寒いままでいるのは身体に毒ですから」
 フェリオはそう言って、酒やスープや温かい食べ物をたくさん振る舞った。大丈夫なのかと心配になるけれど、ルティが連れてきたからいいのだそうだ。
「ルティはよほど、大切にされているのですね」
 マイペースに酒を飲みながら、ラスタが感心した。シエルもラスタにうなずいた。
「ルティは特別なのです。この村の巫女ですから」
 アリは目尻の皺を深くした。
 トレアナ村の巫女は代々、変わった髪の色をしているのだそうだ。だから生まれたその時から、ルティが巫女であることが分かるのだという。両手で杯を持ったままアルスが尋ねる。
「シンが言うには、私たちの来訪は分かっていたってことだけど、それもルティの〈巫女の力〉ってやつなの?」
「そういうことになります。巫女が予言し迎えた客人は、手厚くもてなすのがこの地のならわしなのです」
「じゃあ、私たちがここへ来るのはあらかじめ決まってたようなものなのね。運命みたいなものなのかしら」
「そうですね。そういうめぐりあわせなのでしょう」
 アルスは面白くなさそうな顔をしていた。あらかじめ定められていたということが気に入らないのかもしれない。アルスの話が終わったことを察知したケンが身を乗り出す。
「じゃあ俺からも質問! 普通に馴染んでるけど、シンはなんで人の言葉が喋れるんだ? ルティが喋れないからその代弁をしてるっていったって、普通ならできることとできないことがあるはずだ。なんでなんだ?」
 ケンの質問に、アリは苦笑いを浮かべた。
「それに関しては、私たちにも分かることは多くありません。ただ、ルティは一種の精神感応の力の持ち主で、シンが人語を喋れるのは、ルティのその力が及んでいるためだと考えています」
 ケンもアリの言うことには首を傾げていた。確かに理解に苦しむ話ではある。どういう原理であれ、シンが人語を喋っているという事実は受け入れるより他ないだろう。
「ただ、ルティの力が及ぶからといって、人語を話させるまでに精神感応ができる生き物は稀なのです。なので、シンもまた特別な存在です。もともと我々の間では、狼は〈おおいなるカミ〉という意味を込めて読んでおるのですが、それこそシンに当てはまる呼び名でしょうな」
 シエルには〈カミ〉が何であるかさっぱり分からないが、それが彼らにとって大切なものなのだということは分かった。
 クリムがスープの器を置いて、口を開いた。
「ルティは、私たちがここへ来るのを知っていたのよね。そしたら、私たちがここへ来る目的も知っていたのかしら」
『いや、目的まで知ることはできない』
 ルティの側で伏せているシンがクリムの問いに唸るように答えた。
「それじゃあ、危険ではないの? もしルティが、ここに悪意を持ってやってくる人間を予言して、それをあなたたちが受け入れたら、この村は大変なことになるのでは?」
『細かな目的こそ分からなくても、その者が善意を持っているのか、悪意を持っているのかくらいなら、ルティにも分かる。だから問題ない』
 ルティの力は期待するほど強力でも、心配するほどポンコツでもないらしい。そうでなければとっくにトレアナ村は滅びていることだろう。
「さて、では本題に入りましょうか。あなたがたはこの村に、どのような用件でいらしたのですか?」
「ここに来れば、アルネトーゼのことが分かるかもしれないと言われた」
 シエルは単刀直入に答えた。アリはとても興味深そうに「ほう」と声を出した。
「アルネトーゼはリーフムーンで〈悪魔〉と呼ばれていて、三百年前に封印された。そこまでは分かってるけど、なぜ封印されたのか、そもそもアルネトーゼは何なのか、本当に悪魔なのか、さっぱり分からないんだ」
「なぜそのようなことを知りたいのですか? それこそ、リーフムーンで探せばよかったのでは?」
 ユイにも同じことを言われた。正論だ。だがしつけの一環としてアルネトーゼを〈悪魔〉と子どもに教える国で、果たして本当のことなど分かるのだろうか。それを伝えようとしたけれど、アリは「いえ、いいのです」とシエルの言葉を制した。
「同じものでも、伝承は土地によって変わるものです。リーフムーンでは〈悪魔〉と呼ばれるアルネトーゼも、先住民にとっては悪魔ではなかったのかもしれません。しかしリーフムーンが力を持つようになって三百年、表だってその真偽を知る者はいなくなりました。王家ですらアルネトーゼの本当の意味を知らないのかもしれません」
 アリは酒を呷って息を吐いた。
「三百年は、我々にとってあまりに長い。その間に真実が歪められたとしても、多くの者は気づきますまい。さて、込み入った話は明日にいたしましょう。今日はもうお疲れでしょう。ルティが白樺の森のご神木の前であなたたちをお迎えいたします。明日はそこへ向かわれて下さい。きっと私たちの巫女が、あなたたちを導きます」
「ご神木?」
 白樺の森の中にあるというご神木が、実際にどの木を指しているのか、シエルたちに判別がつくのだろうか。恭しく奉られているとか、そういう分かりやすい特徴があればいいのだが。
「心配には及びません、行けば分かりますから。ルティがいるし、なにより、特別な木なのです」
 この村には、ルティといいシンといいご神木といい、〈特別〉というものが多く存在するようだ。とにかく明日にならなければ分からないので、シエルは杯の酒を飲みほしてから床に就いた。

 夜が明け、朝食を終えると、シエルたちは村の外の白い木々の間を歩いた。やはり雪に足が取られて、いつもよりも疲れる。本当に城の世界だった。一面に広がる雪、白樺の木、そして真っ白な曇り空。木はもはや、元の色なのか、降り積もった雪の色なのか分からない。
 歩いているうち、白樺の木々の中に異質な大樹を認めた。風になびく紺色の長い髪もそこにあった。あの木はおそらく、途方もない長い時を生き、人々を見守ってきたのだろう。幹は家が一軒すっぽりと収まりそうなほどに太かった。シエルは大樹を見上げ、息を呑んだ。特別だから行けば分かると言われたけれど、本当にその通りだった。この木を見て、畏怖しない者はいないだろう。
 シエルたちの足音を早くから拾っていた狼は、すでにその目をシエルに向けていた。ルティはしばらく大樹を見上げていたが、シエルとの距離が狼一匹文になったところでシエルたちの方を向いた。
『これがご神木と呼ばれるのは、白樺が群生するこの森で、たった一本だけのモミの木だからなのだ。そしてそのたった一本が、この森で一番長い時を生きているからなのだ』
 シンの言う通り、ここに来るまでに白樺以外の木は認められなかった。おそらく、この先に進んでも白樺だけなのだろう。『それだけではない』とシンは続ける。
『この地では、異質なものや突出したものが神聖視される。だから私も〈おおいなるカミ〉として崇められ、ルティは〈巫女〉と呼ばれる。思うことが先か、できることが先かは定かではないが、結果として、ルティの力を得て、私はこのように人の子の言葉を操ることができるのだ。さて、前置きが長くなった。本題に入ろうか』
 シエルは背筋をピンと伸ばした。自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。
『アルネトーゼはかつて、救世主として崇められていた』
「救世主?」
 シンはうなずく変わりに、ゆっくりと瞬きをした。
『リーフムーン王国が成立する以前まではそう呼ばれていた。もう三百年も前のことだが、それが事実だ』
「ちょっと待て。なんでそんな前のことが分かる? 国も場所も全然違うのに。それに、なぜここに来る必要があるんだ?」
『人の軌跡は残る。何らかの形でな。お前の軌跡もだ。どこかの誰かが言葉にして、風に運ばれ、また誰かが書き記したものが残る。そうしてこの村にも伝わったということは、それは強い祈りだったのだろう。ここにその記憶があるということなのだから。三百年前、大陸は戦乱に満ちていた。戦乱は本来の生き物の在り方を狂わせ、歪ませる。歪んでしまったアルネトーゼの意味が元来の意味を封じ込め今日まで伝わっているということは、それだけ影響力があったということだ』
 三百年とは、決して短い時間ではない。百年も生きられない人間にしてみれば、なおさらである。
「アルネトーゼの意味は分かったわ。でも、それだったらアルネトーゼとリーフムーン王国の成立に、一体何の関係があるというの?」
 アルスが、考えるように口許に手を当てている。
『これ以上の答えを求めるのであれば、南へ向かえ。アルネトーゼの始まりの地へ。そこで全て分かるだろう。モミの木はそう言っている』
「南……」
 アルネトーゼの始まりの地とは、リブル島のことなのだろうか。あの遺跡こそが始まりの地なのだろうか。それは分からないけれど、南に行けば分かるのであれば、そうするだけだ。
「モミの木がそう言っている、か。今の言葉は、全てモミの木の記憶なのだな。わざわざここを指定したのは、このためだったのか」
『そういうことだ』
 それで納得がいった。ルティはただ動物たちと心通わせる精神感応ができるから巫女なのではなく、英知を司るご神木と人間とを繋ぐために存在しており、そのために〈巫女〉であるのだと。そしてそれこそが、巫女として生きるルティの義務なのだ。
 用件だけ伝えると、シンとルティはさっさと村へ帰っていった。
「ここは寒いから、俺たちも戻ろう」
 寒さにたまりかねたプライムががちがちに震えている。シエルもその意見にうなずいた。
 歩きながら、シエルはこれまでのことを整理した。アルネトーゼが救世主である。そうなると、色々なことが変わってきそうなことだが、ここで一つの疑問が生まれる。
「最初に乗っ取られたとき、アルネトーゼは自ら〈復讐者〉と名乗っていたんだ。どういうことだと思う?」
「救世主ではなかったのね。おかしいわね」
 思案顔のアルスがうんうん唸っている。その隣で、ラスタも一連の出来事を思い出しているようだった。
「そういえば、アルネトーゼはシエルの身体を使って、ステーシア女王に襲い掛かりましたよね。初代女王の名を口にして」
「あなた、よくそれで打ち首にならなかったわね」
「でも、それって変だわ」
 クリムが口をはさむ。
「崇められる対象であるはずのアルネトーゼが、まるで本当の人間みたいに、個人的な憎しみを抱くものなのかしら。女王陛下を見て襲い掛かったというのは、まさしくそういうことではないかしら。それとも、個人的な恨みではなくて、アルネトーゼやその土地の人たちにとって王家が敵だから? それならアルネトーゼを信じている人たちにとって救世主だとしても、リーフムーン側から見ると悪魔になり得るとは思うけど、じゃあアルネトーゼを信じている人たちは? 復讐者と名乗っている人たちがそれらしいけど、少なくともメーレは、アルネトーゼを救世主だと認識してはいなかったわ」
 シンの述べる〈救世主〉はどこかひっかかる。かつて本当にそう信じられていたのだとしても、今は復讐者だ。もしかするとアルネトーゼに救いを求めた人の想いが変わったのかもしれない。それは分からない。プライムが勢いよく鼻から息を吐いた。
「なんにせよ、俺たちがここで議論しても、アルネトーゼが本当は何者で、俺たちが一体何に巻き込まれているのかは分からんのだろう。それよりも、アルネトーゼがかつて救世主として崇められていたことや、行先は南だと分かっただけでも、大きな進歩だ。分からないことも増えたが、今まで謎どころかサッパリ分からなかったことが分かったんだからな、何ごとも悪い方向に考えないことだ」
「それもそうですね。では、明日には村を発ちましょう」
 ラスタの提案に、誰一人として文句は言わなかった。
「こんな寒いところとは、さっさとオサラバだ」
 プライムが苦虫を噛み潰したような顔をするころには、村に帰り着いていた。

★☆★☆

 神聖な白樺の森に〈奴〉が入るのが気に入らなかった。けれど、ルティはシンに待つことを命じた。敵意は感じられないから、今はまだそれを指摘する時ではないと。だから黙っていた。
 最初にシエルたち一行と対面した時、彼らこそがルティの予言した客人なのだということはすぐに分かった。その中の一人から不穏なにおいがした。だから敵意の目を向けていた。そのことをケンが勘違いして、シンに剣を向けたのだ。他の者たちは様子がおかしいことに気が付いて、ケンを止めようとしてくれてはいたものの、ケンは強く、シンも応戦しないわけにはいかなかった。
 村じゅうが寝静まり、月が空高く登っている今、〈奴〉はなぜここにいるのだろうか。シエルたちは気づいていない。アリも知らないだろう。〈奴〉のことを知っているのは、シンとルティと〈奴〉本人だけだ。あんなに危険な人物を、なぜ指摘しないのか。ルティ自身から伝えようとしなければ、彼女の真意は分からないのだ。
 シンは犬歯をむき出しにして低く唸った。その殺気に満ちた視線の先には、シンが敵対視する〈奴〉がいる。〈奴〉はとても柔らかい笑顔を整った顔に貼りつけている。
「何、どうしてそんなに怖い顔をするの?」
 貴様こそなぜここにいる。そう問いたかったが、ここに一人で来ているのだから、喉笛を?み千切る絶好の機会だと思った。ルティの命令さえなければ。
『お前は何者だ。なぜ彼らと行動を共にしている?』
「何者って言われてもねぇ。元酒場のウエイトレスとしか答えられないわ。一緒に旅をしているのは、アルネトーゼに興味があるからよ」
『嘘は通用しない。ルティはお前に忠告している。お前は〈力〉に魅入られていると。このままではその〈力〉に取り殺されると』
「嘘なんか言ってないわ。〈力〉ってのも何なのかさっぱり。心配してくれてるのは嬉しいけど」
 唇を尖らせながら、〈奴〉――アルスは顔を近づけてきた。シンは敵意をむき出しにして、再び低く唸った。アルスが眉間に皺を寄せる。
「どうしてそんなに私が嫌いなの?」
『不穏な気配を纏いながら、本当のことを言わないからだ。信用に値しない者に対し、なぜ好意を持つことができようか』
「随分な言われようね」
『もう一度聞く。お前は何者だ』
 温厚だったアルスの笑顔が、殺気を孕んだものに変わる。シンは全身の毛を逆立てた。
「本当は確信しているんでしょう? 私が答えるまでもなく」
 流石〈おおいなるカミ〉と言ったところかしら、とアルスは満足そうに目を細めた。次の瞬間、アルスの唇が何か呪文のようなものを唱え、風がシンを切り裂いた。その毛皮を、その四肢を、その喉を。喉をやられたせいで叫び声は出なかったものの、出たとしても風にかき消されたのだろう。風が収まり、ドサッという音と共に、白い雪の上にシンは倒れた。これがルティの忠告した、アルスの魅入られている〈力〉なのか。頭上からアルスの声が降ってくる。
「悪いな。今はまだ、あいつらにバレるワケにはいかねぇんだ」
 それは今まで耳にしていたものとは違う、完全な男の声であった。白い雪が己の血で赤く染まっていく。自分の喉が呼吸をするたびにヒュー、ヒューと音を立てるのが聞こえた。ぼやけた視界にアルスの足を辛うじて捉える。
「恨むなら、〈俺〉の正体に気付いちまった自分と、お前を〈おおいなるカミ〉なんて称えた村の連中を恨むんだな」
 なんということだ。これは大事だ。このことをルティに知らせなければ。ルティ。
「大丈夫、心配はいらない。この村ではお前以外を殺すつもりはないからな。無駄な殺生で気付かれるのも困るんだ。それにあの小娘も、お前がいなければただの子どもだ」
 アルスは左手で髪を掻き上げ、そのまま踵を返した。
「じゃあな、シン。赤く染まったお前には、白い雪がお似合いだ」
 頭上から「おやすみ」と、ひどく甘ったるい声がシンにかけられる。腹立たしかった。今すぐ飛び起きて、アルスの頸動脈を喰いちぎってやりたかったが、身体はすでに言うことを聞かない。自分のものではないかのようだ。雪と同化しているのではないかと錯覚するほどに冷え切っていた。こんなことは、今までなかった。
 シャクシャクと鳴る足音が、血の臭いに交じったアルスの忌々しいにおいと共に遠のいていく。ルティに知らせなければ。ルティは自分がいなければ、他の人間と意思の疎通を図るのが難しいのに。どうやって伝えるというのだろう、ルティ――。

★☆★☆

 夜が明け、トレアナ村を発つ朝がやってきた。朝食をごちそうになり、荷物をまとめていざ出発しようとするシエルたち一行を、アリが村の入り口まで見送りしてくれた。
「短い間だったが世話になったな」
 最年長のプライムが挨拶をする。アリは髭を動かした。
「知りたいことは分かりましたか?」
「ああ、そうだな。とりあえず行き先は分かった」
 プライムの答えに満足したのか、アリは「それは良かった」と笑った。
「それはそうと、シンを見かけたりはしてませんよね?」
「シン? 見かけていませんが、どうかしたのですか?」
 ラスタが尋ねると、アリは「いえ」などと口ごもりながらも説明した。
「朝からルティがそわそわしておりましてな。何か伝えたがっているのですが、シンが側にいないために伝えられないのです。いつもなら家の側にいるのですが……」
 ルティが巫女であり、ご神木の言葉を伝えることができるのも、全てはシンの存在があってこそだ。そのシンがいないとなれば、ルティにとっても、村にとっても深刻だろう。
「よかったら、私たちも捜すわ」
 心配そうにアルスが提案したけれど、村長はゆっくりと首を横に振った。
「それには及びませぬ。そのうちひょっこり帰ってくるでしょう。それよりも、私はルティが伝えたがっていることの方が気になっているのです。シンがいなくてもルティがいれば、断片だけでもお伝えできるかとは思いますが――あ、いたいた。ルティ、こちらへ」
 アリが張り上げた声にルティが反応し、苦しげな表情のまま駆け寄った。それこそ巫女の力でシンを捜せないのかとも思ったが、万能の力でないことはシエルたちも知っている。
「さあルティ、何を伝えたいのですか?」
 アリが優しく声をかける。ルティはシエルに歩み寄り、シエルの右手を取ると、ギュッと力を込めた。真一文字にきつく結ばれたその唇が声を紡ぐことはない。ただ、彼女の真摯な目が真剣にシエルの目を捉えるだけだった。感じることができれば、ルティの言いたいことが分かるのだろうか。シエルは目を閉じた。すると、頭に少女のものと思われる声が直接響いた。
『聞こえますか? ルティです。あなたの目の前にいる、ルティです』
 とても幽かな声だ。もしかしたら、シンはルティの声をはっきりと聞きとることができたのかもしれない。それが〈波長が合う〉ということだったのかもしれない。
 ――辛うじて聞こえている。なんだ?
『詳しくは伝えられません。全てをここで伝えることはできません。ただ――』
 少しずつルティの声が小さくなっていく。シエルは神経をルティに集中させた。
『何があっても、あなたはあなたのままでいてください。何があっても』
 それ以降、ルティの声は聞こえなかった。やはり彼女が普通の人間に、シンを介さずに言葉を伝えるのには限界があるのだろう。シエルは目を開け、ルティの目をまっすぐに見た。
「ああ、分かったよ」
 ルティはしっかりとうなずいた。その言葉が何を意味しているのかは分からない。だがルティがわざわざ伝えようとしたのだから、意味があるはずだ。今は考えても分からないから、言葉だけは覚えておくことにした。



<< 前ページ戻る次ページ >>

.copyright © 2011-2023 Uppa All Rights Reserved.
アトリエ写葉