アルネトーゼ

#13.憐者


 シンからの警告を無視した。だからこれはその報いで、ルティの招いた自業自得なのだ。白い雪を赤く染めたシンを見つけて、ルティはそう思った。物言わぬシンに手を触れる。もし昨夜雪が降っていたならば、シンは見つけられなかったかもしれない。
 昨夜何が起きたか、シンを通じて知ることができた。そしてアルスの真意も。ずっとルティの側にいるためにルティの力の名残りがあったのだろう。シンの身体から記憶が、想いが流れ込んでくる。
 ――アルネトーゼ、復讐、破壊、死、滅亡。
 ルティは後ずさり、しりもちをついた。知らせなければ。誰に。シエルたちに。すぐに立ち上がり駆け出す。これは自分の判断ミスなのだから、自分が知らせなければ。シエルは南へ向かった。追いつけるだろうか。追いつくのだ。シエル。

★☆★☆

 むかしむかし、それは遠いむかし、この村はひどい飢饉に見舞われました。数百年に一度、山の〈かみさま〉が癇癪を起こし、村の作物を全て枯らし、家畜たちを死に至らしめてしまうのです。村人たちはどうにか〈かみさま〉に機嫌をよくしてもらおうと、なけなしの食料でごちそうをつくり、あるだけの酒を振る舞いました。けれど〈かみさま〉の怒りは収まりません。そこで村人たちは、村で一番うつくしい娘を〈かみさま〉に差し出しました。すると気分をよくした〈かみさま〉は、娘を大きな木へと変えました。大きな木は瞬く間に、その枝にたくさんの実をつけました。村人たちはたわわになった実を食べることで、飢えから逃れることができました。


 トレアナ村からずっと南へ下り、プライムが「寒い」と文句を垂れなくなったころのこと。ラスタはなぜか、故郷の村に伝わる昔話を思い出した。位置的に故郷が近いからだろうか。薄気味悪い森の中で、開けたところに出たことに気が付く。
「廃村にでもなったのか?」
 プライムが呟いた。ラスタにも建物らしきものは認められる。だが生き物の気配はほとんど感じられない。村か集落か何かだったのだろうか。
「とりあえず、今日はここにキャンプを張ろう。何かがいるわけでもなさそうだ」
 まだ明るいが、とプライムは荷物を降ろした。
「ええ、そうですね」
 ラスタもプライムに同意した。しかし、何もいないわけではない。かすかな気配を察知し、ラスタはすぐに自分の同意を打ち消した。
「待ってください、人がいます」
 どこに、とアルスが口にしたけれど、確かに人の気配がした。一行の中で最も感覚の鋭いラスタの言葉は誰も無視できないので、ラスタが足を向けた方向に他の者も付いてきた。ラスタは崩れかけた家の中に入り、そこで横たわる人の前で膝を折った。
「こんにちは。ここにいるのは、あなただけなのですか?」
「おお、どなた……お前は、ラスタか?」
 横たわった人は、寝ているわけではなく、倒れていたようだ。掠れた声に聞き覚えはないが、ラスタに対して後ろめたさを感じているようでもある。そんな感情を抱く人物には、心当たりがあった。
「もしかして、村長ですか?」
「ああ、そうだ。ラスタなのだな。そんな目になっても、わたしを分かってくれるのだな」
 しわがれた声は震えている。泣いているのかもしれない。
「ではここは、ニーレルなのですね。村長、何があったのでしょうか? ――いえ、何も喋らないでください。消耗してしまいます。ちょうど医者がいるので、診ていただきましょう。頼めますか、クリム?」
 ラスタが尋ねるよりも早くクリムは動いていた。さすがクリムだ。しかし村長は、ラスタの忠告を聞かずに喋り始めた。
「ラスタ、この村はもう、おしまいだ。お前の妹が、セリィが女神にならなかったからだ。セリィがいなくなり、お前がいなくなった後、村は絶望的な不作に見舞われた。ほとんどの食べ物がなくなってしまって、食べ物をめぐって殺し合い、人を喰い合う……伝承の通りだったよ。ただ違ったのは、村を救う女神がいないということだけだ」
 止めることなどできないのだと悟って話を聞いているラスタの側で、クリムが村長の苦しみを和らげようと呪術を施している。
「申し訳ありません、私と妹のために……」
 本当ならば謝罪などしたくない。妹のことや、自分の目のことを考えると。だがこの惨状を知った今、言わずにはいられなかった。その言葉を、「違う、違うのだよ」と村長が否定する。
「誰にもお前たち兄妹を責めることはできないのだ。だが罰と称して、わたしはお前から目を奪った。村長としてそれが必要だと思っていたのだ。そのことが却ってセリィを闇へ追いやったのやも知れぬ。結局村はこの有様だ。本当に謝らなければならないのは、わたしの方なのだ。幼い子どもに頼るしかなかったわたしたちを、どうか許してほしい。その結果として、村を存続できなかったわたしを。せめてこれ以上人間らしさを失わぬようにと、村人たちを手に掛けたのは他でもない、わたしなのだ。それでもわたしは、自分を殺すことはできなかった」
 村長はそこで深呼吸をした。
「ラスタ、セリィは女神にはならなかったのだ。どこかで生きているかもしれない。もしどこかで再び会えたなら、伝えてほしい。すまなかったと。ラスタ、本当に――」
 村長は物言わぬ死体となった。どこかでラスタの来訪を知っていて、ただそれだけのことを伝えるためだけに生きていたのかもしれない。ラスタがここへ来たのは偶然だというのに、なんという巡り合わせだろう。
「皆さん、私はここがどこだか分かりました。ここはニーレル村……私の故郷です。タジルという夜光虫が群生する清浄な川があり、自然に溢れていて、豊穣の女神を信じた村。そしてたった今、最後の村人がいなくなりました」
 ここが村長の家だとしたら、家を出て道を右に曲がれば自分の生家がある。庭にはセリィの大好きな色とりどりの花が咲いていて、小鳥たちのさえずりと共にラスタは歌う。隣の家から脱走した鶏を追いかけ駈け回った懐かしい日々がありありと蘇る。今はもう滅びてしまって、生命の気配も感じられなくなってしまったけれど、昨日のことのように思い出すことができた。


 ニーレル村の最期の村人は丁重に弔った。その周りに落ちていたたくさんの骸骨も一緒に。ケンが薪に使う枝拾いに行き、クリムは薬草の調達を始めた。アルスは水を汲みに行くと告げ、ラスタの言っていた川へ向かった。プライムとシエルでキャンプ用のテントを組み立て、シエルたちは雑談をしていた。
「夜光虫って、虫が光るんだよな? 世の中は不思議なことが本当に多いよな。虫が光るなんて」
「何を言っている。お嬢さんにアルネトーゼが憑いていることも、不可解なことのひとつだろう」
「返す言葉もない」
「タジルは――」
 ラスタはアルスが向かった方向に顔を向けた。
「今が丁度その時期かと。タジルは川へ行けば、運がよければ見られるかもしれません。ひとつひとつの光は淡いものですが、その光は、亡くなった人の魂だと伝えられています」
 ラスタは、かつて自分の目を奪った人間の死をどう思っているのだろう。特にいつもと変わった様子もなく、淡々と穏やかに話すラスタからは、何も読み取れない。ラスタの中で昇華できているのかもしれない。それとも、セリィが生きているからだろうか。
 考えていると、気が滅入ってしまいそうだった。シエルは意識を逸らそうと、ラスタと同じ方向に目を向けた。
「それにしても遅いね、アルスのヤツ」
 その側で、丁度戻ってきたケンが、腕一杯に拾ってきた枝をカラカラと地面に落とす。アルスが水を汲みに行くと言ってから、かなり時間が経っている。
「なんだ、アルスのヤツ、まだ戻ってなかったのか」
 困ったように、ケンは一緒に戻ってきたクリムの顔を見る。クリムはケンの視線を受け、森の方に顔を向けた。どうにも胸騒ぎがする。アルネトーゼに関わる者に襲われる前に感じたような胸騒ぎと同じなのだ。もしやアルスは、復讐者の誰かと接触しているのではないだろうか。そうだとすれば、いくら体術に優れているアルスであっても危険だ。
「ちょっと様子を見てくるよ」
「その必要はないよ」
 足を踏み出そうとしたシエルの頭上から、突如として少年の声が降ってきた。聞き覚えのあるこの声は――。
「サミエル!」
 シエルが鋭い声を飛ばすと同時に、廃屋の屋根にいたらしいサミエルが飛び降り、にやりと口許を歪めた。サミエルとシエルを交互に見比べながら、プライムが素っ頓狂な声を出す。
「なんだ、知り合いか? それにしては、穏やかじゃないな」
「呑気なことを言ってんじゃないぞ、オッサン。こいつはカミァ村の化け物だ。復讐者なんだよ」
「そうさ。覚えていてくれて嬉しいよ、アルネトーゼ」
 不敵に微笑むサミエルの右手は、ラスタが切り落としたはずなのに、元通りになっていた。一体何をしたというのだろう。切り落とされた手は、確かに砂となって消えたのだ。
 サミエルの背後から影が飛び出し、プライムに襲い掛かる。虚を突かれながらも、プライムはその攻撃を半身で避け、剣の柄に手を掛けた。影は、カミァ村でサミエルと一緒にいた女、ラファだ。
「なんだなんだ、わざわざ俺をご指名とは」
「今日はこの前のようにはいかないわ。覚悟するのよ」
 ドスを利かせた声で、黒い髪を揺らしながら、眼光を鋭く光らせ、ラファは体格に見合わぬ大鎌で何度もプライムに斬りかかった。
「シエル、こいつもお嬢さんのオトモダチか!?」
「んなわけないだろ! 冗談言ってる場合かよ!?」
 そもそもプライムはラファを見ていなかったのか。そういえば、プライムが来る直前にサミエルとラファは姿を消したのだった。だからプライムはラファと初対面のはずなのだ。しかしそれは、ラファのこの行動により打ち消される。もしかすると、カミァ村でラファが撤退したのはプライムの声が原因だったのかもしれない。
「シエル、こいつは俺に任せておけ」
 プライムとラファは刃を交えながら、森の中へと消えていった。
「これで心置きなく戦えるな。盲神ラスタ、おれの手の落とし前、ここでつけてもらうよ。もっともそのおかげで、前よりもずっと強い手がおれのものになったんだけどな」
 サミエルはみるみる大きく、どす黒い身体に変身した。肌は見るからに硬質そうで、可愛らしかった犬歯は凶器のように鋭く伸び、まだ愛くるしかった目も獣のそれになった。
 カミァ村で対峙した時よりもはっきり見える。双眸でしっかりと捉える異形のサミエルは、以前とは比べ物にならないほど、凶悪で洗練された殺気を放っていた。
 クリムは初めて見る化け物に対し、物怖じすることも、取り乱すこともなく、ウエストポーチから薬草を取り出し、呪文を唱えながらサミエルに投げつけた。ほとんとの呪術に即効性があるため、すぐに効くはずだ。しかし、サミエルには何の変化も生じなかった。
「えっ?」
 クリムは驚きを隠せない様子だった。サミエルの注意を引いただけに終わったどころか、クリムはサミエルに薙ぎ払われた。
「きゃあ!」
「クリム!」
 ケンがクリムに駆け寄る。クリムは苦しそうにうめき声を上げている。そこにサミエルが容赦なく罵声を浴びせる。
「臭い! 臭い、臭い臭い臭い! 変なものを掛けやがって、クソアマが!」
 そしてもう一度サミエルが拳を振りかぶったその時、ケンはクリムの前に出た。思いきり頭に直撃を受けていたが、頭から血を流す程度で済んでいる。
「いってぇな。流石のクソ力も、俺を倒すことはできないみたいだな。か弱い女の子をいたぶっるよりは、俺みたいな大男を倒した方がよほど胸を張れるんじゃないか?」
「チッ、粋がりやがって。ガキは引っ込んでいろ」
 サミエルは心底苛立った様子だ。ケンがそれに食いつく。
「お前だってガキじゃないか! ガキが他人のことをガキとか――」
「仲良く痴話喧嘩なんかしてる場合かよ」
 思わずシエルも口を出してしまった。サミエルがこちらに目を光らせる。
「この女が! どいつもこいつも、おれの邪魔をするな!」
 サミエルが目にも留まらぬ速さでシエルとの間合いを詰める。
「シエル!」
 クリムとケンの声。次の瞬間、シエルは投げ飛ばされた。天と地がひっくり返る。そのまま地面に叩きつけられた。痛い。上手く着地できず、ぶつけた節々が悲鳴を上げる。その時、心臓が大きく脈打った。衝撃に対する動悸ではなかった。アルネトーゼに関する者が側にいるときの悪い予感だ。
 ――何もこんな時に来ることないだろ。
 サミエルの力は、カミァ村で戦った時の比ではなかった。ケンはこの一撃に耐え、地に足をつけたまま立っていたのだ。なんという打たれ強さだ。
「クソッたれ、話が全然違うじゃないか」
 やっとの思いで身体を起き上がらせた時には、ラスタとケンがサミエルに応戦していた。二人で戦ってようやく互角のようだった。これじゃあとんだお荷物じゃないか。あまりに歯が立たないことが悔しく、シエルは奥歯を噛みしめた。だが打ちのめされているだけで終わるシエルではない。シエルは腰のダガーを一本抜き、素早くサミエルに投げつけた。ダガーはサミエルの右目に命中した。
「うわあああ!」
 サミエルの雄叫びが静かな廃村に響き渡る。
「貴様、この女ぁ! 殺す、殺してやる!」
「おいおい、頭に血が上るのが早すぎやしないか? その調子であたしらが使う湯も沸かしてほしいものだ。だからガキなんだよ」
 サミエルの怒りに油を注ぐようなことをわざと口にして、サミエルを挑発した。おそらく、この中で一番身軽で、集中してさえいれば相手の攻撃をほとんど受けることのないシエルが囮になるのが最善だと考えたのだ。先ほどは避けきれなかったが、もう二度と当たらなければいいだけの話だ。ラスタとケンならば、その間にサミエルをどうにかしてくれるだろう。他力本願なのは腹立たしいが、確実に相手に手傷を負わせることのできる剣士に託すより他はない。悔しいけれど、シエルは腕力を持たないのだ。
 ラスタが剣に炎を纏わせる。その剣がサミエルを後ろから貫いた。一瞬。胸のあたりだ。サミエルはカッと目を見開いた。そして次の瞬間、傷口から砂のように崩れ落ちた。シエルはただ茫然とその光景を眺めていた。他人事のように、そうするしかなかった。
「気配が、消えた……?」
 ラスタが顎を伝う汗を拳で拭う。シエルは砂になってしまったサミエルをじっと見ていた。
「ああ。文字通り、跡形もなく消えたよ」
 紋章剣で止めを刺されたからこのような最期を迎えたのだろうか。人が砂になって消えたなどと、聞いたことがなかった。シエルと同じように砂を見ていたクリムが、ひどく冷静な声で「死者よ」とつぶやく。
「いつ、どうやって死んだのか――どんな方法で生き返ったのかは分からないけど、サミエルは初めから死んでいたのだと思う。土から肉体をつくっていたから、砂に還ったのよ」
「ちょっと待って、なんで分かるの?」
 もっともな質問をケンが投げかける。クリムはケンに目だけを向けた。
「まじないが効かなかったから。あれは生きているものにしか効かない」
 クリムは忌々しげに吐き捨てた。冷静に見えるけれど、心は怒りでいっぱいだろう。
「その話は後にしましょう。アルスとプライムが心配です」
 ラスタの提案に、シエルたちは揃ってうなずいた。



 プライムは、大鎌を携えた黒髪の美女を追っていた。大荷物を抱えている割には、身軽で素早い。彼女を見ていると、何やら胸騒ぎがする。初めて見るはずの後姿に、どこか見覚えがある気がするのだ。確かにこれまで生きてきて、たくさんの女性に出会った。その中の誰かに似ているとしてもなんら不思議はない。しかし、この女性だけは違うような気がした。
「待て!」
「しつこい!」
 美女が振り向きざまに大鎌を振り回す。
 ――この太刀筋は。
 知っている。過去にどこかで目にしたはずだ。
「あんた、こいつは――」
 プライムは言いかけて、息を呑んだ。初めて女性の顔を見た。既視感を覚えた。その挑発的な目も、強気な赤い唇も、全て。けれど当たりをつけることを頭が拒む。どこだ。いつどこで彼女を見た。
 大鎌と剣の刃がかち合う。不快な音を立てながら擦り合わせ、離れたかと思ったら再び鋭い音を立てて衝突する。女のものとは思えない気迫と力に、あろうことか圧倒されそうになる。ほんの少しでも気を抜けば殺される。プライムはそう直感した。間合いは確実に女の方が長い。実力が同じならプライムの方が不利だ。勝負が互角なのは、どういう事情かは知らないが、女の心が乱れていたからに他ならない。
「なんなのよ、お前は一体なんなの!」
 女は見るからに苛立っていた。よほどプライムが気に入らないらしい。刃越しにプライムも口を開いた。
「俺は見ての通り、ただの剣士だが。お前こそ何者だ?」
「私は復讐者よ。アルネトーゼと共にいるお前と戦う理由は、それで充分でしょう」
 それはプライムにも分かりきっていることだ。しかしどうにも、女が自分に言い聞かせているように思えてならなかった。
 女が踏み込んだ。身体をのけぞらせるものの一瞬遅れ、鎖骨に痛みが奔る。急所は外したようなので、怯むくとなく女の懐に飛び込んだが、女は宙に舞い、プライムが突きだした剣を華麗に避けた。
 女を見据えつつ、剣を握り直す。じりじりとすり足で近づく。息をしているのかどうかも分からないほど静かに呼吸をする。木々を揺らす風の音さえうるさく感じる静寂の中で向き合っていた。不思議なことに、そこに不快感はなかった。
 鳥が飛び立つ。それを合図に、両者ともほとんど同時に踏み出した。鎌が左脇腹をめがけて奔る。しゃがんで避け、下から斬り上げる。このままいけば、女の右腕を取れる。だが女に隙はない。大鎌の柄でプライムの右脇腹を突こうとしていた、その時――。
「プライム!」
 シエルの声が聞こえた。それに反応して、双方とも動きが止まる。互いに的確に急所を狙った攻撃だったのだと思い知った。目を向けると、シエルとケンがプライムの方へは走ってきた。ラスタとクリムは置いてきたようだ。
「お前たち、なぜ! サミエルは? サミエルはどうしたの!」
「サミエルなら俺たちが倒したぜ。死体も残ってない。なあ、どういうことか説明しろよ。復讐者ってのは、死んだ人間を生き返らせて動かしているのか? そんなことができるのか?」
 ケンの畳みかけるような問いかけに、プライムの方が「何?」と眉根を寄せた。女も同じように怪訝に思っている様子で、「嘘」と小さく口にした。
「サミエルが消えた? ここは退いた方がよさそうね」
「逃がすか!」
 シエルが素早くダガーを投げつけたものの、女が跳び上がったためにダガーは当たらず、草に落ちた。女の気配は一瞬のうちに消えた。
「助かった、礼を言う」
「あんた程のヤツが苦労したとはね」
 そう、確かに女にもプライムにも揺らぎはあったけれど、それを差し引いても彼女は強かった。「とりあえず、詳しい話が聞きたい。死んだ人間を生き返らせるってのは、どういうことだ?」
 シエルはああ、とうなずいた。そこに間の抜けた声が響く。
「ちょっと、何の騒ぎ? 一体何があったの?」
 それはずっと姿をくらましていた、アルスのものだった。

★☆★☆

「サミエルが消滅しました」
「そうか」
 ラファがわざわざ〈死〉と言う言葉を使わずに報告したというのに、年老いた男は全く意に介していない様子だった。
 無機質で殺風景な部屋の中に、大きな椅子に腰かけている老父と、背筋をピンとさせて経つ女がいる。目の前の男は、それはそれは老いていた。しかし立派に復讐者たちを纏め上げているのもこの男――マグスなのだ。柔和な笑みを浮かべる老父だが、激しい憎しみの炎をその目に宿している。そして、とても冷酷な男だ。
 ラファは、マグスがなぜ復讐者を集めているのかを知らない。アルネトーゼが何なのかも知らない。そもそも、自分が何に対して憎しみを抱いていたのかすら知らない。これまで行動を共にしていたサミエルが死者だということさえ知らなかった。ここまで知らないことが多いと、流石に怒りを覚えるというものだ。
「サミエルは初めから死んでいたのですか?」
「そうだ。そなたは知らなんだが、彼は三百年前、リーフムーンの軍勢が起こした戦役の中で憎しみを抱いたまま死んだ、憐れな少年兵だったのだよ」
 あまりに憎しみが渦巻いていたから蘇らせた。マグスはそう語った。
 死者を蘇らせるなど、とラファは思った。半ば信じられないことではあるが、アルネトーゼが実際に存在し、三百年前の眠りから目覚めようとしているのだから、そのような不可思議なことが起きても不自然ではない。
「アルスはどうした? ミイラ取りがミイラになってはいないか?」
「それに関しては問題ありません。彼はただ、無機質に任務を実行しておりますゆえ」
「そうか」
「もうすぐその時が来ると言っておりました」
「そうか」
 くく、と老父はしわがれた笑い声を漏らした。
「我が望みが叶う時も近いか」
 アルス――彼はマグスと血の繋がりがあると聞いたことがある。少し前からアルネトーゼの様子を彼女の側で観察し、「その時」が来るのを待っている。そして、そのことをシエルたちは気づいていない。誰もアルスが男だと思ってなどいない。
「下がってよいぞ、ラファ。少し休むがよい」
「はっ。ところでマグス様、セリィの様子は」
「実の兄と対面した後は錯乱状態にあったが、今は落ち着いておる。これからは〈器〉として働いてもらわねばならないからな」
「かしこまりました」
 ラファは深々と頭を下げた。
 よくよく考えてみれば、セリィも謎の多い人物である。彼女が話そうとしないことを無理に聞くほど、ラファは特に興味を持っていない。おそらくその全てを知っているのはマグスのみ。
「しっかりと休むのだな。何があったかは聞かぬが、そなたの波動にも乱れが生じておる」
 思い当たる節はいくつかあった。サミエルのことや、刃を交えた中年男のことだ。カミァ村でも襲われた、不思議な感覚。それが実際に対面し向き合うことで、より一層強くなった。ラファはあの男をどこかで知っている。それともう一つ、拭い去ることのできない不安にラファは包まれていた。それを面に出すまいとしても、マグスにはお見通しなのだろう。
「……御意」
 抑揚のない声で言うと、無機質な部屋から出て、ラファは長い溜息を吐いた。
 胸を不快感が襲う。正確に表現するならば、サミエルが消えたこと、そしてあの中年男への違和感が靄となって胸にくすぶり、その靄が肥大していったような感覚だ。
「まさか……私も?」
 天井を見上げながらつぶやいた。しかし、すぐに頭を振り、嘲笑を漏らして悪い予感を打ち消した。
「まさかね」
 ラファはそのままいづこかへと消えた。



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