アルネトーゼ

#14.覚醒


 サミエルとの闘いを終えてかなりの時間が経ったはずなのだが、シエルの心臓は相変わらず強く脈打っていた。やはりまだ、何も終わっていないのだろう。他の者たちが、復讐者と名乗る者たちが死者を蘇らせていたことに関してなにやらいろいろ言っているが、シエルはそれどころではなかった。喉はカラカラに渇いて、心なしか呼吸もしづらい。
「ラスタ、大丈夫か?」
「え? ええ……」
 ラスタも放心状態だった。サミエルが死者だったことは、ラスタにも影を落としていた。妹ももしかしたら、死んでしまったのを生き返らせられたのではないかという危惧があるだろう。村長の言葉が事実であったとしても、村を去った後のことは分からないのだから。
 吐き気に耐えられなくなったシエルは、立ち上がり、踵を返した。プライムが「どうした」と引き留める。シエルは若干プライムを振り返り、「いや」と答えようか迷った。
「ちょっと顔洗ってくるよ。どうにもボーっとして駄目だ」
 確か、ラスタが森の中に小川が流れていると言っていた。アルスもそこに水を汲みに行ったはずだ。村からそう遠い場所ではないということも聞いている。シエルはそこへ足を運んだ。
 辺りはすでに暗い。暗闇の森の中のいたるところに、頼りなく光りながら浮いているものがあった。ラスタの言っていたタジルという夜光虫だろうか。川が近づくにつれ、光が増えていっている。小川のところに群生していると聞いたので、タジルで間違いないのだろう。この美しい光は、誰の魂を運んでいるのだろうか。シエルたちが弔った村人のもの? それは分からない。ただ、その光景は美しく、幻想的であり、あえて言葉にするのであれば、星のなかにいるようだ。
 小川のほとりにたどり着き、シエルは膝をついて両手で水をすくって、乱暴に顔を洗った。水は冷たくて気持ちがいい。寝起きにここで顔を洗えば、たちまち目が覚めるだろう。しかし動悸も呼吸も落ち着く気配がない。
 ひとしきり顔を洗って頭を素早く振って、落ち着けるよう息を吐く。その時、シエルは身に覚えのないものを目にした。
「なんなんだ、これは」
 タジルに照らされて水面に映るシエルの顔には、血のように赤黒い紋様が刻まれていた。


 立ち去るシエルの足音を聞き届けたあと、プライムはあの美女のことを考えていた。記憶の奥底に見え隠れするあの女の仕草、太刀筋、なによりあの顔。あの女は何者なのだろうか。なぜ自分をここまで悩ませるのか。考えることを拒むかのように、軽くではあるが頭痛がした。
「考えれば考えるほどよくわかんないな、復讐者とアルネトーゼってヤツ」
 ケンが頭を抱えながら誰にともなくつぶやいた。そのことも頭痛の一因だろう。
 シエルの旅に加わることになったのは、他でもないアルネトーゼが原因だ。船で彼女に舞いこまれたその時から覚悟はしていた。仮に船の上で出会わずとも、監視官という立場上どこかでシエルと出会い、ここまで共に旅歩くことになっただろう。
 火を見つめるプライムの側で、ケンがせっせと食事の準備をし始めた。彼は料理が得意で好きなようなので、自然と料理係になっていた。
「遅いですね、シエル」
 ふとラスタがひとりごちた。少し顔を洗ってくるにしては、確かに遅い。
「もしかしたら、大便でもしてるんじゃないか?」
 もちろん冗談だが、アルスがプライムを「やめてよ」と小突いた。その側でラスタが深刻な顔をしている。何か悪い予感か、あるいは気配でもするのだろうか。ラスタは立ち上がり、「少し様子を見てきます」と告げて森の中へと消えていった。
「そういえば、あの鎌を持ったおっかない姉ちゃんはプライムをご指名だったみたいだけど、何か恨まれるようなことでもしたのか?」
 ケンの質問に、プライムは唸った。誰かに恨まれるような記憶はあった。プライムも長く生きているし、その間に犯してはならない罪を犯したこともある。それに関してプライムを強く恨む者がいても、何の不思議もない。プライムは目を伏せて、その事件のことに思いを馳せた。かつていつも一緒にいる存在があったこと、その女性に心底惚れていながら、最後まで想いを告げることができなかったこと、憎しみの炎に駆られてとんでもないことをしでかしたこと――そこまで思い起こして、プライムはあることに気が付いた。先ほど刃を交えた美女は、どことなくその時心を寄せていた女性に似ているような気がするのだ。雰囲気や表情などは全くの別人だが、声や仕草、太刀筋を見て既視感を覚えたのは、そのためだったのかもしれない。世の中には四、五人はそっくりな人がいると聞くが、本当に彼女に似ている人物がいたものだと、プライムは数奇な世の中に感心した。
「本当に遅いわね。ちょっと私も行ってくるわ」
 立ち上がるアルスを見送ることをせずに、プライムは「ああ」と返事をした。その心には、消えたというサミエルのことが染みのように残っていた。


 シエルは激しく頭を振った。そうして水面をもう一度見ても、先ほどの紋様は消えていない。それどころか、水面にはシエルではない女の顔が映っているではないか。真っ白な髪、真っ赤な目の美女だった。
「なんなんだ、これは!」
 すぐに目をそらそうとしたけれど、何か大きな力に押さえつけられているかのように、身体が全く動かない。それだけではなく、何かを言おうとした口も動かず、瞬きさえできずに、シエルは水面の女に釘づけにされていた。水面の女がゆっくりと口を開く。それにつられるかのようにシエルの口も動き、勝手に声を紡ぎだした。
「大義であった。これで私は、己が肉体を自在に操ることができる」
 そこでようやく、水面に映る女がアルネトーゼだということに気が付いた。シエルはゆっくりと頭を振った。
「何を言っている……? 一体何の話だ?」
 自由意思で言葉を発することができたことに驚いたが、すぐにアルネトーゼに言葉を奪われる。
「そのままの意味だ。私が私の肉体を操るために、お前は不要、邪魔でしかないのだ。お前には眠ってもらおう」
「ふざけるな。誰の肉体だって? そもそも、あんた最初に復讐者とか名乗ってただろう。あんたの恨みにあたしは関係ないはずだ。勝手なことばっかりして、あたしを振り回すのもいい加減にしろよ」
「ふざけてなどおらぬ。我が恨みなど、口にするのさえはばかられる。ただ、私が復讐を望むのは、リーフムーン王国の女王ジェラノールだ。あの者は私の全てを奪った。だから私も、あの者のすべてを奪うのだ」
 ジェラノール。その名には聞き覚えがあった。そのはずだ。シエルがセルナージュで投獄された原因となった名だ。シエル自ら口にしたではないか。
「だが、気づけばこんなにも遠くに来てしまった。ここからリーフムーンに戻るのは、多少なりとも骨が折れるというものだ。まあ、目覚めることができただけでもよしとするか」
「馬鹿な。誰がいつあんたに身体を明け渡すだなんて言ったんだ。もう一度言う、あんたの個人的な恨みなんかに、あたしを巻き込むのは今すぐやめろ。こんなくだらないことで、あたしの人生をめちゃくちゃにしやがって」
「くだないこと? くだらないだと? お前に我が苦しみが分かるか! 我が絶望が分かるというのか! アルネトーゼの力を手に入れてより三百年、ようやく思うままに動ける時が来たのだ。お前のような小娘に邪魔などさせるものか!」
「ああ、分からないね。三百年なんて、普通に人間が生きられる時間じゃないのを知らないわけじゃないよな。あんたの憎んでるジェラノールって女王も、三百年前に死んでるよ。恨みを晴らしたければ、あんたもさっさと死んじまえばいいんだ」
「それは真理だ。だがその血を受け継ぐ者が生きている。我が子たちは死んだのに、奴らはのうのうと生きている! それに、我が復讐によって救われる者がいる。お前もよく知っているだろう。私と同じ、復讐者を名乗る者たちのことを」
「その復讐で迷惑してるようなヤツの身体を、あんたは苗床にしてるんだよ!」
 アルネトーゼがシエルに憑きさえしなければ、それまで通りリブル島でユーノたちと馬鹿騒ぎしながら過ごせたのだ。
「なんであたしなんだ! 誰でもいいなら、あたしじゃなくたってよかったじゃないか!」
「それはたまたま、お前が我が呼び声に応えただけのこと。お前も内面に闇を抱えたまま生きてきたのではないか? だから我が声が聞こえたのだ」
「あたしの闇、だと……?」
 自分の声が震えているのが分かった。本当は自分でも気づいているのかのしれない、目を逸らし続けていた部分に。
「いつも居場所を守るのに必死だった。自らの存在意義を見出すことにな。だから私はお前に存在意義を与えてやったのだ。寧ろ私に感謝すべきであろう」
「ち、違う!」
 否定しながら、否定しきれない自分が認識できた。でも、言葉を止めることはできない。本心とは違っても、それを否定することは、これまでの全てを否定することになる。それだけはなんとしても避けたかった。
「そんなものがあたしの闇なら、こんな旅なんかしなかった! 勝手なことを言うな!」
「では問おう。なぜお前はそのように取り乱す? お前の中に不安があり、我が言葉が的を射ているからではないのか?」
「違う! あたしは一瞬でも早くあんたとオサラバして、あいつらのところへ帰りたいだけだ!」
「偽りと真実と捉えるか。そう思うのが、お前の望みなのか。すでに本当のことを知っているというのに」
 アルネトーゼが浸食する。考えまいとしていたことを、否が応にも考えさせる。それが苦痛でたまらない。吐き気がする。
「やめろ、あたしの心を侵すな。こんな身体ならお望みどおりくれてやる、だから、これ以上入ってくるな!」
「シエル!」
 ラスタに呼ばれた気がした。同時に、シエルの意識は闇に呑まれていった。


 シエルの声がした。ひとりで何かを言っている、いや叫んでいるようだった。シエルが叫ぶような独り言を話すような人物ではないということをラスタは知っている。
 シエル、と呼んで振り返ったのは、シエルと同じ匂いの、シエルと同じ声の女。しかし、気配や雰囲気は、シエルと全く違うものだった。ラスタは悪い予感から逸る気持ちを抑え、血作深呼吸をして女に尋ねた。
「シエル――いえ、あなたは誰ですか?」
 女の視線を感じる。殺気を含んではいないけれど、とても冷たい視線だ。ラスタの本能が逃げろと命じる。足が動かないわけではない。ただ、鼻先にいるのはシエルだから、逃げるわけにはいかなかった。女がゆっくりと口を開く。
「我が名は、アルネトーゼ」
 厳かに紡ぎだされた声は、シエルのものではなかった。その気配にも覚えがある。彼女がアルネトーゼと名乗ったことをすんなり受け入れることができた。
「なぜ今さら、あなたが現れたのですか?」
「時が満ちたからだ。我が憎しみに、今さらなどという時効は存在しない。今こそ奴らに我が苦しみを知らしめ、三百年前の罪を償わせるのだ!」
 確かに、そこには憎しみしか感じ取れない。彼女の言う〈奴ら〉がリーフムーン王家のことであることは、セルナージュでの一件で容易に想像できた。これほどまでの憎悪を抱き続けた三百年とは、一体どういうものであったのか、ラスタには知る由もない。だが――。
「それがシエルの身体を乗っ取る正当な理由にはなり得ません。シエルは無二の存在です。シエルを返しなさい」
「今この娘自ら私に身体を預けたのに? この娘が述べたのだ、私に身体を渡すと」
「シエルの意志は関係ありません。あなたが三百年前の亡霊だと言うのであれば、ここにいるのは場違いです。シエルに何をして追いつめたのかは知りませんが、今生きている人間を蹂躙する権利など、あなたにはないはずです。三度は言いません。シエルを返しなさい」
 恐怖に負けず毅然と述べるラスタを、アルネトーゼは鼻で嗤った。
「お前には何もできぬ。意識こそ私だが、この身体は正真正銘、お前がシエルと呼ぶ娘の物。私に危害を加えれば、それはそのままこの娘への危害へと繋がる。お前が私を手に掛ければ、この娘も共に死ぬ」
「悔しいですがあなたの言う通りです。が、私はあなただけを苦しめる方法を知っています」
 ラスタは大きく息を吸い、その口から旋律を奏でた。リブル島でシエルがアルネトーゼに憑かれた時、この歌を歌うとアルネトーゼは眠った。だからクリムの説を信じたかった。アルネトーゼは人だったのだと、そう信じたかった。そうでなければ今のラスタに、アルネトーゼに抗う術など存在しないのだ。
「なっ、貴様あの時の――っ!」
 アルネトーゼがいかなる力を持とうとも、ラスタの歌には抗えない。アルネトーゼはラスタの歌を聞くまいと、必死に頭を振った。
「やめろ!」
 叫んで、アルネトーゼはラスタに襲い掛かった。流石のラスタも、アルネトーゼに対応しながら歌い続けることはできなかった。
「歌さえ封じてしまえば、お前など恐れるに足りぬ」
「こうなったら止むを得ないようですね」
 アルネトーゼの言う通り、荒っぽい手などは使いたくなかったが、ラスタはケンを抜いた。アルネトーゼの殺気が和らぐ。お前にできるのかと言いたげである。しかしラスタが本気だと分かり、アルネトーゼは一歩後ずさった。
 その時、何者かが木を揺らしてアルネトーゼの背後に飛び降りた。次の瞬間、衝撃音と彼女のうめき声とともに、アルネトーゼが気絶した。何者かの気配はアルスに似ているようだ。しかし確信には至らなかった。雰囲気がアルスとは異なっていたのだ。
「アルス?」
 そこにいたのであれば、手を貸してくれればよかったのに。その言葉をラスタは呑み込んだ。今目の前に現れるまで、アルスの気配は全く感じなかった。それはアルスが気配を意図的に消していたことに他ならない。ではなぜ、アルスはここまで徹底して気配を消す必要があったのか。
「どういうことですか、アルス?」
「もう潮時だ。この女はいただいていく」
 ラスタは怪訝な表情を浮かべた。それは、アルスの口から発せられた言葉が今までの彼女からは考えられないものだということ、そしてアルスの声がいつもよりずっと低くなっていたことだ。
「なんだ、まだ分からないのか。他のヤツらも気づいてないもんな、おめでたい連中だよ。いいさ、〈俺〉は優しいから教えてやるよ。〈俺〉は復讐者だ」
 ラスタは息を呑んだ。
「女装してたのは、か弱い女になりきってりゃ、付け入りやすいと思ったからさ。しかしこのシエルって女、思いの外強情だったな。アルネトーゼが安定して表に出るのに随分と時間がかかったもんだ」
「どういうことですか。あなたは、復讐者は、こうなることが分かっていたのですか?」
「こうなるように仕向けていた。この女を揺るがすことが、俺の役目だったからな」
 アルスは笑っていた。馬鹿にしているようだ。
「メーレと言ったかな。あいつだよ、あの医師団連盟の、くそ真面目でつまらない男。あいつをそそのかしたのは、この俺さ」
「なんですって?」
 衝撃だった。鼻先にいるこの人物が復讐者だと分かっただけでも驚きだというのに、対面していないと思っていたメーレと、オルディタウンの事件と関わっていたというのだ。
「ちょっと背中を押してやっただけで、あいつはいとも簡単にやってのけたよ。もともと揺らいでいたからな。人間、そこに付け込まれちまえば弱いもんさ」
「それで、ずっとクリムの側にいたのですか。あなたのせいでメーレを手に掛けたケンを心から憎む、クリムの側に!」
「そうさ。楽しかったよ、あの犬っころを睨みつけるクリムを見てるのは」
 アルスは低い声で嗤った。
「ついでに言うと、あんたの大事な大事な妹を連れて行ったのも俺だよ。大丈夫、あの子は生きてる。生きていてくれないと困るからな」
 アルスは全てを知った上で、白々しくもあのようなことを言っていたのだ。ラスタはそれが許せなかった。怒りのあまり、言葉が何も出てこない。
「可愛かったよ、あんたの妹。泣きながら何度も謝るんだ」
「なぜセリィを連れて行ったのですか」
「なんだよ、生かしてやってんだから、感謝されてもいいはずだぜ?」
「セリィは私のところへは戻れないと言いました。そんなになるまで、何をしたのですか!」
「まあ、そうカッカしなさんなって。ただ力を与えただけだよ。力があれば、自分の兄貴が失明することなんかなかったんだって、いつまでも自分を責めていたからな」
「なんてことを……」
 ラスタは自分の怒りを抑えることに必死だった。気を抜けば、いつでも剣を手に、アルスをシエルごと斬ってしまいそうだった。
「こいつは土産だ」
 アルスが右の手の平をラスタに向ける。何やら殺気を感じ、ラスタはケンに手を伸ばした。瞬間、アルスの手から熱が放たれた。炎か。腹部に直撃する。熱い。あまりの熱に、ラスタはその場にうずくまった。
「ア、ルス……!」
「お前たちとの旅は、まあまあ楽しかったよ。今回は目的を果たしたから、これで勘弁してやる」
 その言葉と狂気を含んだ笑い声を残し、アルスの気配は虚空へと消えていった。それまで張りつめていた空気が一気に冷め、同時にラスタは意識を手放した。



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