アルネトーゼ

#15.追憶


「何ですって!?」
 クリムは驚きよりも先に怒りを露わにした。
 二人もの人間がシエルの様子を見に行って、なかなか帰ってこなかったものだから、最終的にプライムも様子を見に行った。するとどうしたことか、大きな傷を負ったラスタを背負って帰ってきたではないか。しかも刃傷や打撲痕などではなく、紋章術によるものであると、すぐさま治療に取り掛かったクリムは判断した。純粋な紋章術による傷は珍しいが、基本的なことは同じなため、いつも通り冷静に対処できた。
 そこまではよかったのだが、目を覚ましたラスタが意識を失う前に見たこと、聞いたこと、経験したことを全てクリムたちに話した。そこでアルスの正体を知ったクリムの心には、メーレの本当の仇が側にいたことに気付かなかった自分と、そのような人間が素知らぬ姿で旅路を共にしていたという事実に対して、底知れぬ憤りと苛立ちを覚えていたのだ。
 メーレを貫いたのは、紛れもなくケンが携えていた大剣だ。ケン自身もそのことをずっと悔やんでいる。それがあの時点では仕方のないことだったとはいえ、やはりクリムはケンを許せないままでいた。だがそれ以上に、今はその原因をつくったアルスが憎らしかった。今すぐアルスを追って、この手で八つ裂きにしてやりたいとさえ思った。けれどアルスどころか、シエルがどこにいるかを知る手立てすら、現時点では思い当たらない。クリムは歯がゆさで下唇を?んだ。
「どうせ今はアルスを追うことはできんだろう。行き先が分からないだけじゃなく、ケンやラスタまで負傷してこのざまだ。シエルが心配なのは勿論だが、むやみやたらに動けばいいってもんじゃあない」
 プライムは嫌に冷静だった。見るからに苛ついているクリムに言い聞かせるように、ゆっくりと、一言ずつ言葉を紡いだ。だがそのプライムの拳が震えているのに気が付いて、プライムも腹を立てているのだと分かった。皆が冷静さを失っている今、自分だけでも落ち着かなければならないと、年長者の立場がそうさせたのかもしれない。
 そう、プライムの言葉に間違いは何もない。だが、この激情はどうすればいいのだ。
 ケンが心配そうにクリムの顔を覗き込む。あまりにも強く噛みしめていたので、クリムの唇から血が滲んでいるようだ。舐めると、確かに血の味がした。クリムは早口で「大丈夫」とだけ答えた。歯がゆい。負傷者がいることも、どちらにしろアルスを追えないことも、シエルの行方すら分からないことも、全てが歯がゆかった。
「アルスのヤツ、本当にうまく化けたものだな」
 プライムの言う通りだ。アルスが男だと、復讐者であると、誰一人として見抜けなかった。あの色気も、仕草も、声色ですら本物だった。それよりも、とラスタが口を開く。
「私はシエルが心配です。アルネトーゼに心への干渉を許したように思えたのです。そうでなければ、素直に肉体を明け渡すような人ではないので」
「それは確かにお嬢さんらしくない。こんなところであっさりとアルネトーゼに負けるとは」
 アルスの目的は、シエルの心を揺るがすことだと聞いた。それならば、全ての出来事は、メーレの事件でさえ、シエルの心を揺さぶるためだけに引き起こされていたのだ。シエルには意志の強さだけを感じていたように思っていたが、それはもしかすると彼女の思い込みで、アルスはそこに付け込んでいたのではないかと思った。
「シエル、どうしちまったんだろう」
 ケンが誰にともなくつぶやいた。おそらくここにいる人間には分からないだろう。シエルではないから想像するしかない。ただでさえアルスの一件で混乱しているのだ。もしかすると、シエル自身にも分かっていないのかもしれない。その結果が、今回アルネトーゼに身体を明け渡したことに繋がるのかもしれない。クリムは自分の中でそのように結論付けた。

★☆★☆

 気絶したシエルを抱えたアルスは、マグスのいる殺風景な部屋に入った。
「連れてきたぞ、じいさん」
「おお、アルスか。遅かったな。待ちわびておったぞ」
 マグスはシエルを受け取り、近くの石の台に寝かせた。この老体にまだそんな力があるのかと、アルスは苦笑した。
「失敗はできないからな」
「そりゃそうだ。さあ、疲れただろう、ゆっくり休むがよい。儀式は明日執り行う」
「了解。じいさんも無理すんなよ」
「私を年寄り扱いするか。失礼な奴よ」
 マグスの含み笑いを背に受け、アルスはマグスの部屋を出た。
 マグスは転々と拠点を移動する。あの老体のどこにそんな体力があるのだろうと疑問に思うことは多々あるが、彼の執念がそうさせているのだと考えれば納得がいった。おかげでシエルを抱えたまま長い距離を彷徨うようなこともせずに済んでいる。
 アルスは腰のナイフを抜き、軽く掴んだ髪の束を勢いよく切り落とした。金色の髪が床に散らばる。アルスは切った髪を振り落とすように、頭を左右に振った。
「あー、すっきりした。女のフリすんの、楽しかったけど、楽じゃねぇな」
「それ、ちゃんと掃除しなさいよ」
 アルスはぎょっとした。今までそこに人の気配はなかった。そう思って大きな独り言を言ったのに。聞かれて困るようなものでもないが、罰が悪い。アルスは嘆息した。
「分かってるって。うるさいな、ラファは。大体さあ、お前らは襲ってくるし、何でも喋る狼には出くわすし、大変だったんだぜ」
「お前のことはちゃんと避けたわよ。お前が勝手に出てきたんでしょう?」
「あいつらを信用させるためだ」
 アルスはシンの言葉を思い出した。シンはアルスを嫌っていたようだったから、ルティの言葉だと考えるのが自然だろうが、そういうことを伝えるということは、勘のいい巫女様でさえ欺くことができたということだ。
「ところで、サミエルが死者だったって聞いたけど、それ本当か?」
「お前も知らなかったの?」
「ああ、知らなかったよ。あのじいさんが何考えてるか、てんで分かりゃしない」
「ひ孫のお前でも分からないのね」
 ラファの言葉でアルスが思い出したことといえば、優しく笑うマグスの顔だった。自分が幼かった頃は、彼が深い闇と燃えたぎる復讐心を抱いているとはつゆも思わなかった。ただ、どこかで言われ続けていたのだ。リーフムーンは憎むべき敵であると。だからアルスにとっても、リーフムーンは敵でしかなかった。だが、マグスがなぜそこまでリーフムーンを目の仇にしているのかは知らない。
「そいつは関係ねぇよ。ずっと側にいたって、分からないものは分からないんだから」
「正論ね」
 セリィを連れてきた時、彼女は普通の少女だった。それを、マグスが何かを施して、人ならざる身体にしたのだ。サミエルも同じだろう。サミエルが死者である事実どころか、化け物に姿を変えるということさえ知らなかったのだ。アルスを信用していないというわけではないだろうけれど、マグスは不必要だと判断すれば何も喋らないだろう。だが、それでいい。余計なことを知れば、アルスが動けなくなる可能性も否定できない。それを考えれば、マグスの判断も当然のものである。
「そういえばさ、こっちの方がいいだろ?」
 突然笑顔で尋ねたアルスに、ラファは不快感を隠そうとはしなかった。
「何が?」
「だからさ、俺は髪が短い方が男らしいだろ?」
 言いながら、ラファの方に腕を回す。ラファは冷静にその手を払いのけた。
「どうでもいいわ。馴れ馴れしくしないで」
「つれないなぁ。心に決めた相手でもいるのか?」
「いないわよ、そんな人」
 間髪入れずに返ってきた冷たい返事は早口で、どちらかいえば、そのことに触れないでほしいと言っているようだった。だがそれこそ、アルスには関係のない話だ。
「まあ、なんいせよ、ついにアルネトーゼが俺たちのものになるってわけだ」
 これからのことを考えると、アルスの胸は高鳴った。

★☆★☆

 見たことのない風景の中にいた。どこか懐かしく、知っているような気がする。そんな不思議な感覚だ。
 新緑が目に眩しい。耳に入るのは水車の回る音。確かに足は、石造りの水車小屋へと向かっていた。自分で歩いているような感じはしない。
「アリアーヌ!」
 男の声が耳に飛び込む。するとシエルは、自分で動こうとしたわけでもないのに、声の主を振り返った。
「あら、お帰りなさい、あなた」
 言おうとしたわけではない。けれど自分の発した声や、風が吹く度に視界に入る髪が自分のものではないことに気付いた時、この身体はシエルではなく、今しがたアリアーヌと呼ばれた女性のものなのだと理解した。この温厚そうな面差しの男は、アリアーヌの伴侶なのだろう。アリアーヌは男の許へ足を向けた。
 夢を見ているのだろうか。夢にしては、妙な現実感を伴っている。どちらにせよ、シエルの意思ではどうにもならないので、傍観を決め込むことにした。
「あら、大漁ね」
「そうだろう? 今夜はごちそうだ」
 夫が自分の腕の中に視線を落とす。抱えている篭には、山のように新鮮な魚が入っていた。
「今日はたくさん獲れたからって、市場のお兄さんが安くしてくれたんだよ。そのうえたくさんおまけをしてくれてね」
 夫はとても嬉しそうに笑っていた。アリアーヌも同じように笑う。
「子どもたちも喜ぶわ。お魚、大好きですものね」
「ああ。今から魚捌くから、水を汲んできてくれるか?」
「はい、その後は任せてくれるかしら?」
「勿論さ。君の魚料理は絶品だからね」
「ふふ、分かりました。楽しみにしていてね」
 シエル自身がアリアーヌである今、アリアーヌがどのような表情をしているか目視できるわけではないが、花のように笑う女性なのだということは感じた。そのアリアーヌの隣に小さな男の子が駆け寄り、アリアーヌのワンピースの裾を掴む。
「お母さん」
 どうやらその十歳前後の少年は、アリアーヌの息子の様だ。目のあたりは夫によく似ている。アリアーヌは屈んで、身に着けている白いエプロンで息子の顔を拭いた。
「まあまあ、こんなに泥んこになっちゃって。ほら、そこの川で顔を洗っていらっしゃい」
「はーい」
「さてと」
 息子を見送ったアリアーヌは、水車小屋の側に置いてあった木の桶を手にして、水を汲みあげた。女性らしさとは裏腹に、しっかりとした力強さがあるのは、日々の暮らしによるものだろうか。桶の水面にアリアーヌの顔が映り込む。黒い髪の、温厚そうな雰囲気の女性である。適度に外に出る肌は浅黒く、切れ長の目は優しさを湛えていている。シエルはその顔に見覚えがある気がしたけれど、どうにも思い出せない。妙なモヤモヤを抱えながらも、シエルはひとまず考えないことにした。
「さて、今夜はどうしようかしら。せっかく新鮮なお魚を買ってきてくれたのだから、塩焼きにしてもおいしいわね。お刺身もいいわ。どう料理しても、おいしくできるわね」
 アリアーヌはそんなことを呟きながら、軽い足取りで、重い桶を抱え、石造りの建物へと入っていった。きっとアリアーヌも魚が好きなのだろうと思った。
 夕食を済ませ、二人の子どもを寝かしつけたころ、夫は古い本と向き合っていた。いつものことのようである。燭台を携えたアリアーヌが夫の側へ歩み寄る。
「あなた、明日はお祈りの日でしょう? そろそろお休みになった方がいいと思うわ」
 アリアーヌの声でようやく今の時間帯を認識したらしく、夫は驚いたように目を剥き、片手で顔を拭った。
「ああ、もうそんな時間か。そうだな、アリアーヌの言う通りだが、説教を頭に叩き込まないと」
「どうしたの? いつもはそんなに熱心に本を読まないのに。」
「いや、な。大陸の方がなんだかキナ臭くなっているみたいだ」
 アリアーヌは眉根を寄せた。
「リーフムーンの軍勢が爆発的に勢力を伸ばして、あちこちを制圧しているらしい」
 リーフムーンの軍勢。リーフムーン王国の軍ということだろうか。だがシエルの知る限り、リーフムーンは大陸内でことを構えようとしたことなどなかったはずだ。
「噂だけなら私も聞いているわ。リーダーはなんでも、とっても綺麗な女の人らしいわね」
「ああ。こんな何もない場所なんかに来ないとは思うが、念のためにな。村の人も心配しているから、こんな時こそ、司祭である僕が皆を安心させてあげないといけない」
「そうね。私もなんだか、怖いわ……」
 不安で瞳を揺らすアリアーヌを、夫は安心させるようにそっと抱き寄せた。
「大丈夫だ。僕たちにはアルネトーゼ様がついているじゃないか」
 アルネトーゼ。シエルたちがうんざりするほど口にした言葉だ。それをここでは、敬意と愛情を持って口にしていることに驚いた。シン、もといルティが言っていたことは、嘘ではなかったらしい。夫が顔を向ける方向に視線を向ける。そこには、等身大の女性の石像が立っていた。
「ええ、そうね」
 石像の顔は美しく、聖母のように穏やかだった。光の具合かもしれない。蝋燭の柔らかな光に照らされた顔には、確かに慈愛があった。何かの紋様が刻まれているのも確認できた。ちょうど顔面に向かって右半分だ。これにはしっかりと覚えがあった。そう、水面に映ったシエルの顔に刻まれていた紋様と同じものだ。
「大丈夫、杞憂さ。何も起きないよ」
「ええ」
「さあ、寝よう。きっと疲れているから、そんな風に悪いことばかりを考えてしまうんだ」
 アリアーヌは夫と共に、二人の子どもが眠る寝室へと向かった。

 翌朝、アリアーヌの家には多くの人が集まっていた。この石造りの家はアリアーヌの家であると同時に、アルネトーゼを祀る神殿だったようだ。ほとんどの人は、昨夜夫の目に映っていたアリアーヌと同じように、不安に満ちた表情をしていた。
 石造りの神殿は、夫の声がよく響く。その上、声質や声の出し方にもよるだろうが、腹から元気と勇気を与えてくれるような、とても力強い声なのだ。そんな夫の説教に、集まった人たちからも、少しずつではあるが、不安が薄れていっているような気がした。
「アルネトーゼ様を信じている私たちには、必ずやアルネトーゼ様の救いがある。救世主であるアルネトーゼ様ならば、我々にとって最善の道を示してくださろう」
「ですが、もしアルネトーゼ様の力が及ばず、私たちが死んでしまったらどうなるのですか?」
「その時は、それこそがアルネトーゼ様の示してくださった、私たちの最善の道として受け入れるのです。生きていれば、より苦しいことに直面した可能性があるとして」
 アルネトーゼ信仰は、楽観主義のようなものであるらしい。全ての判断をアルネトーゼという存在に委ね、悪いことが起きても、いいように捉えることができる。その象徴であるならば、アルネトーゼが悪いものである必要などないのではないか。
 ここが一体どこなのか、自分は今どうなっているのか、シエルには分からないことばかりだけれど、この土地は恐らく現実に存在し、アルネトーゼが救世主として崇められているということもまた事実なのだ。そして、この神殿にあるアルネトーゼの石像が力を持っているようには、到底思えなかった。
「大丈夫です、恐れることはありません。そもそも、リーフムーンの軍勢がこのような辺境に来るはずがありませんから。これも、アルネトーゼ様のお導きでしょう」
 夫の言う通りだとアリアーヌは思っていた。しかしこの言葉をあざ笑うかのように、リーフムーンの軍勢がこの地を襲うのだ。根拠はないが、シエルにはそう思えた。そしてその考えは現実のものとなる。
 凄まじい音がした。かすかな地響きも感じた。なにやら不穏な空気が村全体を包んでいるようである。
「何かしら」
 アリアーヌが様子を見ようとして立ち上がったところに、小さなヘラが飛びついてきた。アリアーヌの服を強く握りしめている。何かに怯えているようだった。
「お母さん!」
 どうしたの。訪ねようとした。しかし声を出すことができなかった。気がつけば、窓の外は真っ赤に燃えていた。神殿の中にまで聞こえてくる無数の叫び声が、六つになったばかりの娘のヘラを怯えさせている。
「怖いよ、お母さん」
 アリアーヌはヘラをしっかりと抱きしめた。
「大丈夫、何も心配することはないわ。ここは由緒正しき、アルネトーゼ様の神殿だもの、アルネトーゼ様がきっと守って下さるわ。それに、お母さんが付いていますからね」
 正直なところ、アリアーヌの心は恐怖で埋め尽くされている。ヘラがいなければ取り乱していただろう。それくらいアリアーヌも慄いているのだ。
 その時、勢いよく扉が開いた。咄嗟にヘラを抱く腕に力を込めたが、家に入ってきた人間が夫であることを確認すると、すぐにヘラを抱く力を緩めた。
「あなた!」
「アリアーヌ、無事か! ヘラもいるな」
 夫はアリアーヌとヘラに駆け寄り、その腕に二人を抱擁した。
「外は例の、リーフムーン軍でいっぱいだ。なぜここを襲っているのかは分からない。とにかくお前たちが無事でよかった」
「ええ、私たちは心配ないわ。それよりも、リンが戻ってないの。山に木の実を取りに行ってくるって言って出て行ったきり。でも外はこの有様だし、どうしているのか……」
 アリアーヌは不安を訴えた。お兄ちゃんとはいえ、まだ小さなリンがリーフムーンの軍勢に遭遇してしまったら――そのことを考えると、アリアーヌは血が凍る想いがした。
「大丈夫、リンはきっと無事だ。まだどこかで生きている。僕が捜して連れ戻す。だからアリアーヌ、気を強く持ちなさい。お前がそんな状態では、ヘラが不安になる。いいか、ヘラとここに隠れているんだ。アルネトーゼ様がきっと守って下さる」
「ええ、お願いよ、あなた。さあ、ヘラ」
 素直に夫を見送ったものの、アリアーヌには悪い予感しかしなかった。これが夫と交わす最後の言葉になってしまうのでは。話にはよく聞くけれど、これが虫の報せというやつなのかもしれない。杞憂ならばいいけれど。アリアーヌは不安に揺れる瞳で、外の騒乱にかかわらず穏やかに微笑むアルネトーゼの像を見上げたそして膝を折り、両手を組んだ。
「アルネトーゼ様。どうか私たちをお守りください。あなた様が救世主だと言うのであれば、どうか私たちをお救いください」
 この村のどこかにいる、小さな息子をお守りください。最愛の家族をお守りください。アリアーヌは何度も何度も、アルネトーゼに心から祈りを捧げた。何度も祈りを口にした。その隣でアリアーヌに倣って、ヘラも祈りを捧げていた。アルネトーゼに祈るしかできない自分の無力さが歯がゆくて仕方がない。
 隠れるようにして、アリアーヌは窓から外の様子を伺った。夫は、息子はどこにいるのか。見つけた。夫。息子と一緒だ。息子は気が動転しているのだろうか、夫の言うことを聞いていない様子だった。息子を目で追うと、行く先に騎乗した金髪の女性の後ろ姿があった。リン、そっちへ行っては駄目。危ないわよ。そう声を掛けようとした。
 その時、息子の気配を察知した金髪の女性が、振り向きざまに息子を斬りつけた。聞こえてこないはずの息子の叫び声が耳を貫く。アリアーヌの心臓を鈍器のようなもので殴ったような感覚が襲う。すぐに息子が事切れたのが、アリアーヌには分かってしまった。
 ――そんな、そんなことが。
 息を呑むほどの美貌を持つ金髪の女性が、いとも簡単に息子の生命を奪った。あれが噂の、リーフムーン軍総指揮を務める、ジェラノール=リーフムーンか。あの女が、アリアーヌの愛する息子の生命を虫けらのように奪ったというのか。
 その顔には見覚えがあった。アリアーヌではなく、シエルの記憶だ。忘れるはずもない。シェルは「ジェラノール」と叫びながら、ステーシア女王に襲い掛かったことがある。ジェラノールの顔はステーシア女王と瓜二つなのだ。そこで理解した。これはアルネトーゼの言っていた、三百年前の出来事なのだと。
 悲劇はそれだけにとどまらなかった。目の前で息子を殺された夫が震えながらジェラノールに襲い掛かる。そして返り討ちにあい、そのまま事切れた。最愛の家族が、一瞬にして二人も奪われた。何もなかったけれど、だからこそ幸せだったのに、それが崩されてしまった。美しき鬼女によって。
「お母さん!」
「ヘラ、お前は地下に隠れていなさい。いいわね」
 アリアーヌは娘を行かせるると、アルネトーゼ像の前に立った。普段は優しい顔をしたゾウだが、今だけは明々と燃える炎に照らされて無気味に見える。アリアーヌは左手をアルネトーゼの像の脚に添え、右手親指の先を噛みちぎり、その血でアルネトーゼ像の顔にある紋様と同じものを、自分の顔面左側に描いた。
「アルネトーゼ様、我らが救世主よ。あなたが本当に救世主だと言うのなら、今こそ私たちを助けてください。私と私の娘をお助け下さい。なにとぞ!」
 アリアーヌは何度も何度もアルネトーゼ像に乞うた。
 ――そなたの力になりましょう。
 女性の声が聞こえた気がした。次の瞬間、何か大きな力が自分の中に入ってきた。
 アルネトーゼ。
 自分の奥深くから、憎しみが、力が湧き上がる。止まらない。爆発する。
 ――なぜ、すべて消えた。伴侶と決めた男も、住んでいた村も、愛した子どもたちも……幻のように消えてしまった。
 気づけば、アリアーヌは家の外にいた。辺りを見渡してみても、何もない。
 いや、あった。それは魂の抜け殻や、燃え尽きた瓦礫たち。そこには自分以外、誰もいなかった。
 誰もいない。何もない。誰一人として救えなかったのだ。アルネトーゼの力を借りたのに、誰も救えなかった。全てが遅すぎたのだ。
「ああああああ!」
 絶望の叫び声を上げたけれど、虚しくこだまするだけだった。視界に入る髪が白いのは、人ならざる者の力を使った代償だろうか。しかし救世主として崇めていたアルネトーゼは、誰も救ってくれなかった。誰も。いや、これまでのことをかんがみれば、死こそ救いだったのかもしれない。
 ――私は独りになってしまったのか。
 すべて奪われた。何も残らなかった。アルネトーゼの力を手に入れたのに。アリアーヌの心を、言いようのない絶望が支配する。
 ――私は、独りだ。
 理解した。クリムの推測は正しかった。シエルたちがアルネトーゼと思っていたものは、アルネトーゼと一体化したアリアーヌだったのだ。この後どうなったのか定かではないが、何者かがアリアーヌをあの遺跡に封じたのだろう。封じられていた三百年間、アリアーヌは憎む事しかできなかった。その中で己をアルネトーゼであると思い込むようになったのかもしれない。気がつけば救世主アルネトーゼは、自ら復讐者とまで名乗るようになってしまったのだろう。



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