アルネトーゼ

#17.誘惑


 パチパチと音を立てて燃える焚火は、ゆらゆらと頼りなくシエルたちの顔を照らす。シエルたちは焚火を囲むように座っていた。落ち着いて晩飯を終えたところなのだ。シエルは、ラスタたちと離れている間にアルネトーゼがどうなったかだけを伝えた。ラスタは火に顔を向けたまま、シエルに確認するように尋ねた。
「シエルの旅の目的は、ここで達せられたとういことですね」
 シエルはゆっくりとうなずいた。だが心は晴れない。
「じゃあ、シエルは帰るのか? リブル島へ帰っちゃうのか?」
 不安な表情のケンを見上げ、シエルは頭を左右に振った。
「帰れないよ。……いや、帰らない」
 ずっとリブル島の仲間たちの許へ帰りたかった。そのためにアルネトーゼを自分の中から追い出す方法を捜していたのだ。確かに幻で見たユーノへの不安もあるけれど、それが理由ではなかった。シエルは、どうしてと言いたげなクリムとケンの顔を交互に見て、続けた。
「アルネトーゼの過去を見た。三百年前の事件のことだ」
 クリムが息を呑み、ラスタから穏やかさが薄れ、ケンは目を見開き、プライムが鋭い視線をシエルに向ける。それらを受け止めながら、シエルの見た夢の話をした。シエルが話し終えるまでの間、誰も口を挟まなかった。
「あたしが見たのが、アルネトーゼの記憶だという確証はない。そうでなくても、なぜあたしがそれを見たのかも分からない。けど、あれがアルネトーゼの記憶だと、アルネトーゼと同化したアリアーヌの記憶なのだと分かるんだ」
 信じてもらえないかもしれない。確証がないのは事実なのだ。だがシエルは確信している。一呼吸おいて、ラスタが口を開いた。
「シエル、覚えていますか? 私と初めて会った夜のことです。あの時、アルネトーゼに主導権を奪われたあなたを呼び起こすために、私は歌を歌いました。それであなたが目覚めたのか、アルネトーゼが眠ったのかは分かりません。でも、なぜあの歌であなたが戻ってこられたのでしょう? あの歌は、子を想う母親のことを歌ったものなのです。それを聞いてあなたではなくアルネトーゼが心を動かしたのであれば、やはりアルネトーゼは、かつて母親だったのでしょう。だから私は、あなたが見たというその夢が真実であると信じます」
「ありがとう、ラスタ」
「俺も信じよう、お嬢さん。で、そのアリアーヌとやらの過去と、お嬢さんが島に帰れない理由には、どういう関係がある?」
 プライムの問いはもっともだ。シエルが帰れない理由が、女王の命を受けたプライムの監視のせいだというのなら、多少は話が通る。しかしシエルは敢えてそのことには触れなかった。自分でもなぜだろう、と考えた。きっとクリムと似たような理由だ。この目で見届けなければならない。
「きっとアルネトーゼってのは、思った以上に影響の大きい存在なのだろう。あたしの中から消えたとしても、何も終わってなんかいないんだ。解決してないことだって、分からないことだってたくさん残ってる。今帰ったら、きっと後悔すると思うんだ。それに――」
 優しかった女性の身を焦がし、変容させた感情――それを放っておきたくないと思った。アリアーヌはきっと、三百年経った今でも、本当の意味で死んだのではない。アルネトーゼの力が彼女を歪んだ形で生かしている。
「――アリアーヌを助けたい」
 そうしてこそ、アルネトーゼがシエルに憑いたことに意味ができるのではないだろうか。本当は意味なんかないのかもしれない。ただの偶然だったのかもしれない。だが、生きた女がシエルだけではない中でシエルが選ばれたということに意味が欲しかった。
「自分も守れないようなお嬢さんに、その女が救えると?」
 シエルが自分の身を自分で守れるのであれば、むざむざアルスに連れ去られることなどなかったはずである。そもそもアルネトーゼだって憑かなかったかもしれない。助けたいなどと口にしても、助けることなどできないかもしれない。だが――。
「あたしにできることは、多くはない。だからといって、何も知らない自分には戻れない。ここまで知った上で何もしないのは、罪だ。何ができるかは分からないが、これから考えるさ。帰るにしたって、先は長いんだから」
 プライムの目をじっと見据える。プライムも目を逸らしはしなかった。やがてプライムは目を伏せ、ふぅ、と息を吐いた。
「どうやらあんたのことは、もう〈お嬢さん〉とは呼べないようだな」
 プライムは穏やかな微笑を湛えていた。

 他の者たちが寝静まったのを見計らい、シエルは火の番をするラスタの側へ行った。
「いいか?」
「どうぞ」
 腰かけたシエルに、ラスタがハーブティの入った器を手渡す。夜の静けさに、この温かさが沁みる。
「ありがとう。あのさ、ラスタ」
 シエルは小さく深呼吸をし、唾を呑んでからラスタの横顔を見て言葉を紡いだ。
「あたしはさ、ラスタ、あんたに感謝してるんだよ」
「どうしたのですか? 改まって……」
「なんていうか、その……」
 的確な言葉が見つからず捜しているシエルを、ラスタは急かすことなく待った。
「ああ。何度も助けてくれたろ、今までさ。一番助けられたなって思ったのは、あたしがここへ戻ってこれた時だ。あんたがどうしてあの言葉を選んだのかは知らないけど、あたしはあれで戻ってこられたんだ。自分が認められた気がした。あたしはここにいていいんだって、そう言われた気がしたんだ」
 ユーノの幻を見せられたあの時から、シエルは自分の無力さに打ちひしがれていた。いや、その前からも、帰りたいと再三口にしながら、目の前の脅威に対抗することができず、なすがままだった自分に意味があるのかと思っていた。だが、ラスタはシエルをあるがままに受け入れてくれた。存在を認めることこそが、彼の口にした〈愛〉なのだと知った。
「シエルは、自分で思っている以上に私を助けてくれていますよ。無人島では身を挺してかばってくれたし、何度も私の手を引いてくれた。あなたがあなたのままでできることは、たくさんあるのです」
 ルティの言葉を思い出す。ルティが精いっぱいの力でシエルに伝えたことと同じことを、ラスタは言ってくれた。そのことが不思議で、けれど嬉しくて、そしてやっと意味が分かった気がして、シエルは曖昧に微笑んだ。
「どうかな」
「もっと自分を信じてあげてください」
「ああ」
 シエルは月のない空を見上げた。
 ――ユーノ、イル、サリ。すまないが、もう少しだけ待っててくれ。必ず帰るから。
 いつもより暗い空には、いつもよりも多くの星が瞬いていた。

★☆★☆

 どれだけの書物に目を通したのか、数えていないので分からなくなっていた。それほど膨大な量の資料を見たにもかかわらず、手がかりになるようなものが、とっかかり程度にも見つからない。その上、どれも年季の入った古い書物である。読むのも一筋縄ではいかない。古い文字の教養があって助かったものの、それでもこの文字に慣れるのには時間がかかった。
 今のユーノは、これまでにないくらい読書に没頭していた。天井まである本棚の本を片っ端から読み漁り、リブル島やアルネトーゼに関する記述が少しでもないか探し続けた。分厚くかぶっている埃を手で軽く払ったような本もたくさんあった。使い切った蝋燭の数も分からない。
 そんなユーノをサポートしてくれているのは、クリムゾンテイルが事実上解体した後もユーノの側にい続けている、飲兵衛のイルと覆面のサリである。彼らが本を整え、読み終わった資料を片付け、短くなった蝋燭を替えてくれた。寝食を忘れて本を読み続けるユーノに食事を届けてくれることもあった。彼らは文字こそ読めないが、本を読む以外のことでユーノを支え続けた。
「お前たちも、好きなところへ行って、好きなことをしていいんだぞ。俺に義理立てする必要はないだろう」
 ユーノは一度だけそう言ったことがある。するとイルとサリは、二人で顔を見合わせてから、ユーノに笑顔を向けた。
「だからやってるじゃないさ、好きなところで、好きなことをさ」
「俺は難しいことはよく分かんないけど、ユーノさんのためになることなら、なんだってするに決まってる! まあ、正直な話、ウェルダー家の屋敷もこの書庫も好きじゃねぇけど、ユーノさんのいるところは好きだからな。俺のできる範囲だから、限られてくるけどよ」
「当たり前だろ! できないことはできないんだよ!」
「まあ、だからさ、ユーノさんは、心行くまでじっくり腰を据えて、その、あるねとーぜ? とかいうのを調べたらいいんだ。シエルのこと、ただ待ってるだけじゃないんだろ?」
 サリとイルはそう言いながら、埃っぽい書庫をせっせと掃除し始めた。
「まったく、こんな大馬鹿者に付いてくるなんて、お前たちもとんだ大馬鹿者だ。だがそんなお前たちが俺は好きだ。感謝しているよ」
「水臭いことは言いっこなしだよ!」
「そうそう! 雑用くらいにしか役に立たねぇけど、どんどんこき使ってくれよな、昔みたいに」
「ああ、そうだな。覚悟しておけよ、二人とも」
「とっくにできてるよ」
 こんなに嬉しいことがあるだろうか。今まで自分一人の世界に入り込んでいたユーノには、まだ慕ってくれる仲間がいたのだ。それも、ユーノの側に。だからユーノは調べものに没頭することができる。まだシエルの戻ってくる場所を守ることができる。この〈クリムゾンテイル〉という居場所を。
 そのようないきさつもあって、調べ物は当初ユーノが想像していたよりもずっとスムーズに進むようになった。その過程で、リブル島の歴史についても少しだけ分かった。かつてここは大陸と地続きの半島で、リブル半島と呼ばれていたらしい。二百年ほど前に大地震が起き、それによる地殻変動で、リブル島とジンガー大陸を繋ぐ陸地が完全に海に沈んだ。それが現在のリブル島に繋がっているようだ。
 アルネトーゼに関しても、興味深い記述が見つかった。現在ではリーフムーン王国全土で悪魔として伝えらえているアルネトーゼは、土着の人間にとっては悪魔ではなく、善い信仰の対象であったと記されていた。
 来る日も来る日も、ユーノは変わらず書庫に籠っていたが、そんなユーノにサリがある提案をした。
「こんな埃っぽいところに閉じこもってないで、たまには気分転換に外に出よう。息抜きは大事だ」
 確かに、もう何日も太陽を見ていない。このまま身体を壊しては元も子もないだろう。たまに身体を動かすのも悪くない。
「そうだな、サリの言う通りだ。たまには陽の光にでも当たるか」
「そうそう」
 サリの口許は覆面で隠れているが、目だけで豊かに表情を見せる。サリの気遣いも分かるけれど、ユーノに息抜きをするつもりは毛頭なく、二人を伴ってあの遺跡へと向かった。
 灯りを持って中に入ると、以前には気づかなかったことや、気にならなかったものが目に付いた。ウェルダー家に入り浸っているのは、ある意味いい気分転換だったのかもしれない。遺跡の中をずんずん歩く。足音が一か所だけ違うところがあった。
「ユーノさん、ここ何かあるぜ?」
 イルに言われ、そこを叩いたりさすったりしてみた。そこは地下へ通じる扉になっているようだ。厳かに開いた扉の先には階段が伸びていた。なぜあんなにも足しげく通っていたときに見落としたのだろう。冷静さを欠いていたのだろうか。
「降りてみる」
 ユーノは階段を下った。すぐに広い空間に出る。
「これは……」
 そこには確かに生活の痕跡があった。随分と風化しているが、人がいたのだ。この遺跡は神殿のようにも見えるが、もともと聖職者か誰かが住んでいたのかもしれない。
『そうよ、憎んで。私から全てを奪い去った、あいつらを――』
 突然、女性の声が聞こえた気がした。しかし辺りを見回しても、今しがた階段を降りてきたイルとサリの姿しか見えない。
「ユーノ、どうした?」
「サリ、今何か言ったか?」
「いや」
「そうか、ならいいんだ」
 幻聴だろうか。だとしたら、ずっと書庫に籠りきりで、気を張ったままで、自覚もないうちに気が滅入っていたのかもしれない。だがほとんど何も分かっていないのだ、疲れている暇などない。クリムゾンテイルも、取り巻き同然の仲間も失ってしまったけれど、シエルだけは失いたくなかった。
「イル、サリ、ここを出よう。少し疲れた」
「ああ、そうだな。なんだか薄気味悪いし」
 そそくさと遺跡を出てすぐ、ユーノは異様な気配を感じた。イルとサリにこれ以上無用な心配はかけさせたくない。ユーノは気取られないよう、気づいていない様子の二人に笑顔を向けた。
「先に戻っていてくれ。俺は少し休んでから行く」
「ああ、分かったよ」
 素直にユーノの指示を聞いたイルとサリの背中を見送り、二人の姿が見えなくなったころ、その気配に鋭い視線を向けた。
「そこにいるのは誰だ。こそこそと見られるのは不愉快だ」
 すると、くさむらをかき分けながら、十歳くらいの少年がたどたどしい足取りで現れた。少年は薄い唇に滑らかな弧を描いている。さながら無邪気な子どもである。だがその目には、年齢に似つかわしくない、激しい焔が宿っていた。
「そんな怖い顔をしないでよ。おれはリン。もしかすると、おにいちゃんには〈復讐者〉って言った方が伝わるかな」
 一瞬何を言っているのかさっぱり分からなかったが、きちんと記憶を辿れば、全ての始まりと繋がった。アルネトーゼに取りつかれたシエルがそう言っていた。
「アルネトーゼか」
「うん。それよりさ」
 リンと名乗った少年は、音もなくユーノに詰め寄り、満面の笑みでユーノを見上げた。ユーノは咄嗟に身体をのけぞらせた。
「おにいちゃん、おれと来ない? マグスが呼んでるんだ」
「マグス? 聞き覚えのない名だ。俺の知らない人間が、なぜ?」
「マグスはおれの親戚だよ。ほら、おれと来たら、きっとおにいちゃんの知りたいことが分かるよ。だから一緒においでよ」
「俺が知りたいことだと? 俺が何を知りたがっているのか分かるのか?」
「知ってるよ。アルネトーゼ様のことを調べてるんでしょ? おれはアルネトーゼ様に毎日お祈りしてるんだもん、おにいちゃんよりは知ってると思うよ」
 少し心が揺れた。確かにこの少年は、アルネトーゼのことを知っているのだろう。少年についていけば、アルネトーゼのことが本当に分かるかもしれない。それはシエルの手助けになり得るし、これまでほとんど分からなかったことが分かるというだけでも、ユーノにとっては充分魅力的だ。だが、シエルを苦しめているのもまたアルネトーゼだ。その力を借りることを、シエルは良しとしないだろう。
「少し考えさせてくれるか?」
「うん、いいよ。でもおれ、あんまり待つのって得意じゃないんだ。だから、なるべく早く決めてね。待ってるからね、おにいちゃん」
 少年は無邪気に笑って、本当の子どものように茂みの中へ駆けこんだ。ユーノがハッとして慌てて追いかけたときには、リンの姿は跡形もなく消えていた。


 サンティスは、ユーノがなぜここまでして〈アルネトーゼ〉のことを知りたがっているのか不思議に思っていた。
 クリムゾンテイルが解散したことはサンティスの耳にも入っている。原因も把握している。クリムゾンテイルのリーダーだった男が、たった一人の仲間のためになぜそこまでできたのだろうか。下世話な愛憎劇のようなものしかサンティスには想像できなかった。
 サンティスは、普段読むべきだと思っている本は、自分の部屋に置いている。だから書庫に足を踏み入れることはほとんどなかった。だがその日、いつも書庫に籠っていたユーノが他の2人を連れて屋敷から出たので、どのような書物があるのやらと、興味本位で覗いてみた。
 実際、入ってから咳やくしゃみが止まらなくなった。どれだけ埃がたまっているというのだろう。ユーノはなぜこのような劣悪な環境に留まっていて無事なのか。サンティスは側に合った本を一冊手に取ってみた。古本特有のにおいが鼻を刺激する。
「こんなものを、あの男は片っ端から読んでいるのか」
 ユーノは元盗賊団クリムゾンのまとめ役ではあったが、それなりの教養はあったようだ。でなければ、共通文字ならばともかく、古い言葉で書かれた文献など読めるはずもない。もしかすると、古い遺跡などを荒らす際にこういった文字と触れる機会が多いために読めるようになったのかもしれない。サンティスは手に取った本を元あった場所に戻し、狭い書庫を歩いた。会売りていると、中途半端に積まれた本に足を引っかけ、大きくよろけた。咄嗟に何かに捕まる。その衝撃で上から何かが降ってきた。
「うわっ、なんだ」
 サンティスは咳き込みながら、落ちてきたものを拾った。それは見るからにボロボロになった冊子だった。
「ん、これは――」
 その古びた冊子を開く。古い文字だが、読めないことはない。
「『今日、私はリブル半島にやってきた。女王はあえてここに私をやったのだろう。真意は測りかねるが、私の罪が眠る地だ』――これは!」
 サンティスは冊子を読み進めた。読み進めていくうちに、それがウェルダー家初代当主の日記であると分かってきた。
 それには遺跡に関するレポートのようなものが書いてあった。ページをめくるごとに、サンティスから血の気が引いていく。
 サンティスは日記を読み終えると、パタンと閉じた。そこから埃が煙る。本当に、気が遠くなるほど長い間、よく分からない場所に置き去りにされていたのだろう。その存在を忘れられたまま。
 ――なんとういことだ……。こんなものがありながら、私はこの事実を知らなかったのだ。いや、ずっと前からひた隠しにされていたのだろう。
 そしてこの冊子の内容こそ、ユーノが知りたがっていたことに相違なさそうだ。しかし――。
 ――私はこれをユーノに見せるべきなのだろうか。
 このような事実は、いつかは表に出るだろう。いや、サンティスがこれを見つけてしまった以上、サンティス自身がそうせざるを得ないのかもしれない。永遠に隠し通すことなど不可能なのだから。だが、それを女王でも誰でもなく、薄汚い盗賊に見せるのか。
 しかしユーノはサンティスとの誓いを守っている。屋敷を荒らすことはせず、何も盗まず、騒ぎも起こさない。本当に二度と、この屋敷を襲うことはしないのだろう。サンティスは冊子を抱きしめ、決心した。
 サンティスはユーノが屋敷に戻ったことを確認して、再び書庫に籠ろうとしたユーノに声をかけた。
「戻りましたか、ユーノ。待っていました」
「なんだ、俺の顔なんか見たくないんじゃなかったのか?」
 ユーノ本人すら、サンティスの顔など見たくないだろう。そのことは今は無視して、サンティスは先ほど目を通したボロボロの冊子をユーノに差し出した。
「何の真似だ?」
「このようなものを見つけました。これはリブル島初代当主の日記です。役に立つと思います」
「何? いや、これは俺が読んでいいものなのか?」
「そうでなければ、こうしてわざわざお渡ししません」
「そうか。それもそうだな、すまない」
「いえ」
 ユーノは人当たりのいい笑顔で冊子を受け取ると、書庫に入っていった。それを見届け、サンティスは軽く溜息を吐いた。

 ユーノはサンティスが去った後、初代当主の日記と言われたボロボロの冊子を開いた。
 ――今日、私はリブル半島にやってきた。女王はあえてここに私をやったのだろう。真意は測りかねるが、私の罪が眠る地だ。私が戦況を見誤ったことで、失わなくてもよい生命を多く散らせた。だが忠誠を誓った女王だ、命には従わねばなるまい。
 ――王室からここでのリゾート開発の命が下された。確かに、先の統一戦争の傷跡が生々しく残っている。口にするのもはばかられる。しかし先住民を皆殺しにしたために、後処理をする人間はいない。リゾート開発はいい口実だ。気候もいい。
 ――神殿を見つけた。先住民が篤く信仰していた場所だ。このような痕跡は消さなければならない。だがこれによって我が身に災いが降らなければいいが。
 ――神殿の取り壊し作業に取り掛からせたが、すぐに落盤事故が起きた。取り壊しは延期せねばなるまい。被災者遺族には金を渡した。他に方法があるだろうか?
 ――二度目の取り壊しにかかる。今度は作業員が高所から転落して死亡。取り壊し作業には特に支障はないだろう。明日からまた続行する。それにしても、あの遺跡で事故が続くとは、不吉である。
 ――三度目の取り壊し作業にかかる。発狂した男が壁に突進し、激突して死んだ。原因は不明だ。この遺跡は呪われているらしい。ここまで事故が続くのであれば、取り壊しは断念するよりほかなさそうだ。
 ――遺跡の前に木を植えた。このように次から次へと死者の出る遺跡など、気味が悪い。取り壊しも不可能とみられる。どうにかして存在を隠すしかない。隠し通すことができればいいのだが。
 そこから先は、取るに足らない日常のことがつらつらと書いてあった。パラパラとページをめくっていると、〈アルネトーゼ〉という単語が目に付いた。そこで手を止める。
 ――アルネトーゼは滅びていなかった。女の姿をした悪魔が、多くの使者を引き連れ、リブル半島を襲った。私は恐ろしい。すぐにも女王に遣いを送ったが、来てくださるのだろうか。
 ――女王がいらっしゃった。思った以上に早い。女王にとっても因縁の地だからか。しかしそれにより何かが解決するのだろうか。
 ――女王のご尽力のおかげで、被害はそこまで大きくならずに済んだ。しかし、女王は光の剣であのアルネトーゼを封印し、亡くなってしまった。アルネトーゼの封印は、生命を捧げなければ為し得なかったのか。だが、本国にどう報告すべきか。女王の死を、反乱軍の鎮圧の最中に致命傷を負い、そのまま息絶えたことにしよう。なぜ女王をお呼び申し上げたかは、公にはなっていないはず。女王もそれを恐れていた。
 ユーノにはその光景が想像できた。見たことがあるかもしれない。それはすぐに思い出すことができた。
「光の剣――シエルの抜いた剣だな」
 ――私がしたことは大変な罪である。冷静になって考えてみると、なんということをしてしまったのか。あの悪魔は滅したわけではないのだ。このことが明るみに出れば一大事だ。この日記は焼却処分しよう。そうでなければ、私や私の子どもたちの立場が危うくなる。
 そこから先は白紙だった。恐らく何らかの原因で初代当主は死亡し、日記は焼却処分されずに残ったのだ。三百年の時を経て、サンティスやユーノが知ってしまった。
 それならば、復讐者と名乗る悪魔がこの島で復活しても、何ひとつおかしなことはない。このことをシエルが知れば、それ以上のことが何か分かるかもしれない。
 伝えなければ。一刻も早く、このことをシエルに伝えなければ。そうはいっても、シエルが今どこにいるのか、今のユーノに知る術はない。
「復讐者」
 復讐者と名乗っていたあの少年は、アルネトーゼのことを知っているようだった。そしてアルネトーゼはシエルを憑代としている。復讐者と接触すれば、シエルに繋がるかもしれない。
「そのことを、お前が望んでいないとしても」
 クリムゾンテイルを壊滅させたユーノには、他に何も残っていなかった。



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