アルネトーゼ

#21.紅尾


 母が死んだ。
 シエルが十二歳になろうとしていたころである。通りすがりのホワイトクロスに看取られながら死んだ。今思えば、その人がメーレに似ていたような気がする。
 母は決して姿を見せない盗人インビジブル・ネイとして有名であった。そんな母親が女手一つでシエルを育てたものだから、シエルも自分が盗賊になることを疑っていなかった。父親の顔は知らない。シエルにとって父親の存在はどうでもよかった。それこそ、どこぞの大金持ちであろうと、ゴロツキであろうと、シエルには関係のない話だ。
 母が亡くなると、自分と同年代の盗人たちがこぞってシエルに勝負をふっかけたり、嫌がらせをしたりしてきた。相手をする必要などなかったけれど、ずっと側にいた母親を失ったことが淋しかったのだろう、シエルはそれらの相手を全て引き受けていた。それでも淋しさは埋めることができず、一番近くを通りがかったクリムゾンテイルという、当時弱小の盗賊団に入団したのである。
 当初、赤い髪のユーノ率いるギョロ目のイル、釣目のサリの三人だけで形成されていたクリムゾンテイルの面々には、あまりいい目で見られていなかった。ユーノはともかく、イルとサリにいたっては口も利いてくれなかったし、シエルを見ようとさえしなかった。ユーノだけはなんとか話してくれたが、信用されていない視線は常に感じていた。
 そんなシエルがクリムゾンテイルに入ることができた所以は、死んだ母の名声と、シエルの脚力にあった。当時から島でも随一の脚力の持ち主だったのである。
 シエルが彼らに名実共に認められるようになったのは、アジトとして使っていた古い小屋が燃えた時のことであった。事故だったのか放火だったのかは分からないが、その時は必死で、考える間もなかった。
「イルとサリは?」
 呆然と炎を見つめるユーノに尋ねると、まだ中にいるのだと言う。だが火の勢いが強すぎて助けに入れない。それを聞くや否や、シエルは何か考える前に炎の中に飛び込んでいた。
 あまりの熱さに汗が噴き出る。目に入る汗を拭いながら、シエルは力の限り二人の名前を呼んだ。そして見つけた。炎に包まれた二人の姿を。
「歩けるか?」
「ああ」
「こっちだ」
 やっとの思いで連れ出した二人は、大きな火傷を負っていた。イルあ右目を抑えてのた打ち回っていたし、サリは鼻から下の皮膚がただれていた。だがサリは、痛みに涙を滲ませながらも気丈に振る舞っていた。
「あたしよりもイルを先に!」
「ああ」
 言われるがままにユーノとシエルは二人を手当てした。ようやく一段落したところで、ユーノが何を考えているのか分からない表情で、煤にまみれたシエルの顔を覗き込んだ。
「シエル、お前は――」
「なんだ、何か文句でもあるのか?」
「なんでお前はそこまでできるんだ? 俺たちは、イルもサリも、お前に対していい扱いをしてこなかった。それなのに、なぜ」
「今のあたしには、ここ以外に居場所はないんだ。だからここを守りたかった。いつか無理やりにでも認めさせるしかないだろ」
 シエルの答えに満足したのか、ユーノは挑発的な笑みを浮かべた。
「ふっ、できるものならやってみるんだな。そんなに甘くはないぞ。少なくとも、イルとサリは味方につけられただろうがな」
「やってやるさ」
 そんな言葉を交わした数日後、ユーノはシエルを試すかのごとく、二人きりで仕事に行くことを決めた。イルとサリは参加できないことを不服に思っていたようだが、そこはユーノに言いくるめられたのだろう、何ひとつ文句を言わなかった。
 その仕事の最中、シエルはへまをやらかした。忍び込んだ屋敷の警備兵に見つかり、追いかけられる羽目になってしまった。二十歳のシエルであれば巻くこともできたが、十二のシエルにはまだそのような技量は備わっていなかった。警備兵が持っている剣を振り上げる。終わりだ。自分はここで捕まるか殺される。そう思った瞬間。
「シエル!」
 光芒が奔る。視界に赤いものが飛ぶ。痛くない。自分ではない。ユーノ。
「ユーノ!」
 シエルはその瞬間を利用し兵の腹部に蹴りを一発喰らわせると、ユーノを引っ張ってどうにか屋敷から脱出した。その時の傷が、後のユーノの頬に残る大きな刃傷なのである。シエルの手当てを大人しく受けるユーノに、サリは何度も「馬鹿野郎」と罵った。
「この馬鹿野郎ユーノ! あんたこんなことして、死んじまったらどうするんだ!」
「悪い悪い」
「ここで死んじまったら、クリムゾンテイルはどうするつもりだったんだ」
 サリと同じように怒っているイルに、ユーノは苦笑いを向けた。
「はは。だが無事だったんだからいいじゃないか」
「まったく、ただでさえガラが良いとは言えない集団なのに、リーダーの顔がこんなんじゃ」
 呆れたように呟くシエルに、ユーノは気にも留めていない様子でこんなことを言ってのけた。
「いいじゃないか、舐められない顔だろ。それに」
 シエルを捉えるユーノの目は、優しい光を湛えている。
「仲間を守ってできた傷だ、名誉の傷さ」
 傷の手当てを終え、シエルはユーノの背中を一発、思い切り叩いた。ユーノは反動で「イテッ」などと漏らしていたが、大して痛そうには見えなかった。
「本当に馬鹿だよ」
 ユーノは、本当はどこかでシエルを認めようとしていたのかもしれない。でも妙にプライドが高いから、こんなことでもなければ素直に認めることができなかったのだろう。そうと分かったのは後になってからのことだった。
 その日からだ、皆で仲良く仕事をするようになったのは。それが楽しくてたまらなかった。

★☆★☆

 シエルたちは何人かに分かれてユーノを捜すことにした。
 ユーノの顔を知っている人たちには別行動を取らせ、知らない人と組ませた。イルとケン、サリとクリムといった具合だ。ケンはクリムと一緒に行けないことが不服な様子だったが、「顔も知らずに人捜しはできない」という天啓にも似たクリムの一言であっさりと納得した。そして残るはラスタとプライムである。シエルはというと、単独行動を選んだ。
 シエルは青物屋の女主人を掴まえてユーノのことを尋ねた。
「なあ、赤い髪で、ここにでっかい傷がある男、見なかったか?」
「さてねぇ、覚えてないねぇ」
「そうか」
 こんな調子で、なかなかユーノの目撃情報が得られない。燃えるような赤い髪に、頬の大きな刃傷は、人々の印象に強く残るだろう。ユーノ本人は穏やかな気性だが、初対面の人間はそのことを想像もできず、ユーノの顔を見て震え上がるのである。
「赤い髪で、ここにでっかい傷がある男、見なかったか?」
 何度目か分からず、今回もダメだろうと期待せずに、干物屋の主人に尋ねると、「その人なら見たよ」と返ってきた。シエルは思わず身を乗り出した。
「本当か! いつ、どこで? どんな様子だった?」
「ちょっとお客さん、そいつはタダじゃあ教えてあげられないよ。せめて何か買ってくれなくちゃ、こっちも商売なんだから」
 こういったことに慣れているのか、主人には軽くあしらわれた。シエルは逸る気を抑え、屋台を見回した。
「そりゃそうだ、悪かった。そっちの干し肉をくれ」
「千ベリルね」
「なんだよ、ぼったくりめ」
「情報料と思えば安いもんでしょう」
「ちっ、人の足下見やがって」
 シエルは悪態を突きながら、言われた金額を乱暴に手渡した。
「毎度ありぃ! で、お前さんが捜しているお人なんだが、見たのはついさっきだ。誰かを捜してたみたいでさぁ」
「誰を?」
「金髪で青い目の姉ちゃんだと。小柄で目つきが悪いって言ってたなぁ……って、お客さんのことかい!」
 店主は白々しく驚いてみせた。確かにシエルの容姿とは一致している。
「そういう大事なことは先に言え先に!」
 店頭で怒鳴り散らしながら、すれ違いになってしまったことに落胆しつつ、まだユーノが近くにいることに安堵した。
「悪かったって! 俺だって今思い出したんだよ、本当さね! ほら、お詫びに八百まで負けとくからさ、そう怒らないで」
「仕方がないね。さっさと二百よこしな」
「おっかないお姉さんだね」
「うるさい! こっちは急いでるんだ、早くしろ早く!」
「そうせっつくなって。ほらよ」
 店主は実に嫌そうに、シエルに二百ベリルを投げ渡した。シエルはそれを片手で受け取った。
「で、そいつはどっちに向かった?」
「あっちだよ」
「サンキュ、大将」
「今の情報料、二百」
「ふざけんな、後出し野郎!」
 再び大きく舌打ちをして、シエルは思い切り厭味を込め強く店主に金を投げつけたが、忌々しくも店主はしっかりと飛んできた金を手に収めていた。
「毎度ありぃ! またよろしく!」
 厭らしく聞こえる店主の声を右から左へと聞き流し、シエルは店主が指差した方へと駆けていった。
 行きかう人ごみをすり抜ける。これくらいであれば、シエルのお家芸である。疾風のように駆け抜けていくと、赤い髪の男の後姿が見えた。
「ユーノ!」
「久しぶりだな、シエル」
 シエルを振り返った赤い髪の男の左頬には、彼の最大の特徴である大きな刃傷がしっかりと刻まれていた。

 人ごみの中にいては話しづらいと考え、人通りが少ないところへ場所を移し、シエルはようやくユーノに笑顔を向けた。
「本当に久しぶりだね。元気そうで安心したよ」
「それはお互い様だな」
「なんでここにいるんだって聞きたいところだが、大方の経緯はイルとサリから聞いてる」
「そうか、あの二人に会ったのか。あいつらも、こんなところにまで俺に付き合うなんてな」
 聞きたいことはたくさんある。だがいざ向き合うと頭が真っ白になって、どうでもいいことばかりが口をついて出る。そんなシエルの胸の内を知ってか知らずか、ユーノはシエルに「何から話したらいいかな?」などと尋ねた。
「そうだね。まずはウェルダー家で分かったことを聞きたいね」
「そうだな」
 ユーノは手に持っていた、古く汚れた粗末な冊子をシエルに投げ渡した。シエルは表紙を開きパラパラとめくったが、シエルには読めない字で記されていた。
「これは?」
「そいつはウェルダー家初代当主――リブル島統治を任された最初の人間が書いたという日記だ」
「ウェルダー家から持ち出したのか?」
「ああ。サンティスは渋い顔をしていたがな。ただ、俺に目をつけられた時点で、何かが持ちだされる覚悟はあったと笑われたよ」
 ウェルダー家の当主サンティスと手を結んだ――信じたくなったけれど、その話は本当だったらしい。そのことについて、シエルはそれ以上追及しなかった。きっとイルやサリが嫌というほど追及しているであろうことが予想できた。
「それにはリブル島の事件のことも書いてあった。神話やおとぎ話みたいな内容だが、事実だろう」
「で、何だって?」
「なんでも、初代女王ジェラノールが、アルネトーゼを自らの生命と引き換えに封印したんだそうだ。光の剣でな。そしてウェルダー家の初代当主は、そのことを隠ぺいしようとしていた」
 シエルはアルネトーゼに憑かれたときのことを思いだした。シエルが抜いた光る剣は、ジェラノールの紋章剣だったのだ。ウィッセルベでラスタが使っていた紋章剣もほとんど同じものだろう。
「そうか」
「ああ。そしてあの神殿にはさらに地下があった。生活の痕跡があったよ」
「あそこが……」
 あの遺跡こそがアルネトーゼを祀る神殿であり、アリアーヌの生家だったのだ。シエルにとってもアリアーヌにとっても、そこが全ての始まりの場所だった。
「そこでリンとかいうガキとも出会った」
「それでそのガキは?」
「途中で別れた。その代りにラファという女と接触して、この街に来た。シエルに会いたければ言う通りにしろと言われた。俺はラファの指示に従った」
 シエルは息を呑んだ。やはりシエルの想像通りだった。シエルは声を荒げた。
「なんでだ、なんでそんなことをした!? 下手したらお前、ウェスパッサじゅうから追われる身になるところだぞ!」
「お前に伝えなければならないと思ったんだ、その日記のことを。だから俺は、そのためにリンの口車に乗り、リブル島を出て、奴らに協力した。そうすればお前に会えると思ったんだ。アルネトーゼと同じ、復讐者を名乗るあいつらと一緒にいれば」
 ユーノは真剣だった。そんな馬鹿な。彼の言葉を打ち消したい。けれどユーノが今ここにいるということが、何よりの証拠だ。
「嘘だろ、なんでそんなことができるんだよ」
「お前、あのクリムゾンテイルに戻りたかったのか? あんな張りぼてのまやかしに? 俺はそんなもの、いらなかった。四人だけいればよかったんだ」
 シエルはなおも穏やかなユーノの目をじっと見つめた。彼が何を考えているのかはよく分からない。
「最初は俺とイルとサリだったろ? そこにお前は入ってきた。俺たち四人でやってたころ、体面なんか考える必要もなかったし、何より楽しかった。だが俺たちの成果を聞きつけてゴロツキどもまで入ってきたじゃないか。仕事しなきゃやってられなかった。だから心底、クリムゾンテイルが解散してホッとしたんだ」
 確かに楽しかった。リブル島を出る前のシエルは乗り気ではなかったけれど、四人だけだっころは自分から進んで仕事をしていた。いつからかズレを感じていたが、それは気のせいだと、四人だったころの幻想を思い浮かべては自分を誤魔化していた。ユーノの言葉ひとつひとつが、自分のそんな内面に気付かせる。
「お前の帰る場所は、俺とイルとサリだけで守ればいいと思っていた。お前たちは大切な仲間だから。俺のクリムゾンテイルには、お前たちしかいらなかった。でもお前は、別の生き方を見つけたみたいだ」
 ユーノの声に、不思議と悲壮感はなかった。だが字面だけを追えば、シエルを狼狽させるには充分である。
「何を、何を言ってやがる。あたしは今まで、クリムゾンテイルのために、クリムゾンテイルに戻るために、ここまでやってきたんじゃないか」
「じゃあシエル、お前に訊こう。その言葉は、意地や見栄じゃないと言えるか? その言葉が心からの真実であると言えるか? 体面を気にしたり、意地や見栄を張るのは、俺のようなつまらない男だけで充分だ。だからシエル、お前の本当の声を聞かせてくれ」
 いつからなのだろう。クリムゾンテイルはシエルの全てではなくなっていた。そしてシエル自身がそのことを信じなかった。頑なに、リブル島のクリムゾンテイルが自分の帰る場所なのだと思い込もうとしていた。それを認めたくないのは、今この瞬間も同じだ。だからシエルは、決して首を縦には振らなかった。
「意地を張るんじゃない。お前には似合いの生き方があるはずだ。そしてそれは、いつまでも人の物を奪うことじゃない。自分でも気づいているだろう?」
 成り行きとはいえ、ラスタらと共に隊商の護衛をしたり、柄にもなくディーナの手助けをしたり――それらが以前のシエルであれば考えられない行動だったのは事実だ。その変化にシエルは戸惑いこそすれ、不愉快ではなかった。
「違う、違う!」
「シエル、人は変わるんだよ。リブル島を出る前のお前が盗賊じゃなくなるなんて、俺だって思わなかったさ。だが、今なら分かる。お前はここに来るまでに多くのものを見て、経験してきたんだろう。このまま、いつまでもクリムゾンテイルのシエルのままじゃいられないんだ。お前だけじゃない、俺も、イルやサリも」
「お前なんか嫌いだ、ユーノ! 最後までそうやって笑って、いつも兄貴ヅラしやがって」
「一番歳が上だからな」
 きっと自分は今、ユーノからは駄々をこねる子どものように見えているのだろう。強がりで意地っ張りで見栄っ張りで、年相応に大人になれず、自分のモノだと思っていたものを取り上げられた子どものようだと、自分でも思った。
「シエル」
 ユーノがシエルに歩み寄る。とても穏やかな目だ。その時に分かった。彼は後悔など全くしていない。クリムゾンテイルが解散したことも、ウェルダー家を頼ったことも、そして復讐者と名乗ったことさえも、何ひとつ後悔していないのだと。
「ユーノ、あんたは……」
 それでよかったんだな。本当に、本心から――そう言おうとしたとき、ユーノが一瞬うめき声を上げ、そのままシエルに覆いかぶさるように倒れた。突然のことで何が起きたのか理解が追いつかず、シエルは「ユーノ?」と声をかけることしかできなかった。そしてシエルには大の男一人を支える力などなく、ユーノは地面に崩れ落ちた。
 恐る恐るユーノを見下ろすと、背中にナイフが突き刺さっていた。シエルはすぐさましゃがみ込み必死に声をかけたが、返事はない。血は流れ、息もなく、鼓動も感じられない。
「そんな、おい、嘘だろ? おい、ユーノ!」
 そんな最中、人の気配を感じ、シエルは顔を上げた。
 子どもがいた。罪のない顔で笑っていた。
「人って簡単に死んじゃうよね」
 罪を知らない声でそう言い放った十歳くらいの少年を見て、シエルは呆然とした。
「お前は……」
「はじめまして、シエルお姉ちゃん」
「そうか。お前がリンか」
 聞いたことのある名前だと思っていたのは、間違いではなかったようだ。リンは記憶の中にしっかりと存在していた。凄惨なまでのその死に様が、泣き叫ぶ母親の引き裂かれんばかりの心とともに蘇る。リンはアリアーヌの息子だ。その彼が今ここにいるのは不自然だった。
 シエルは必死に怒りを抑え込みながら立ち上がり、口を開いた。
「なぜユーノを殺した」
 思いのほか低い声が出た。だがそれに反するように、リンは人懐こい笑顔を浮かべている。
「だってお兄ちゃん、おれたちのこと裏切ろうとしたんだもん」
「お前がユーノを復讐者に引き入れたんだろ」
「おにいちゃんがそれを望んだんだよ。そんなおっかない顔でおれを見ないで」
 望んだ。ユーノの口ぶりから察するに、それは真実だ。
「そうだな、返す言葉もないよ。でも、殺すことはなかったじゃないか。あいつは無関係だった」
「無関係じゃないよ。おねえちゃんのために、アルネトーゼ様のことを知りたがってた。だから教えてあげるって言ったんだ」
「ジェラノールが憎いか?」
「憎いよ! おかあさんはあいつらに殺された。だからおれは仇を打つんだ!」
 やはりリンも知らない。自分がどんな身体であるかを知らない。サミエルやラファのように誰にも何も知らされずに今日まで過ごしてきたのだろう。リンにそのことを教えるのは残酷だとは分かっているけれど、シエルは教えることにした
「馬鹿なガキだ。そのジェラノールとやらは、三百年も前に死んでいるぞ」
 少年は目を真ん丸と開いて、「え?」とシエルを見上げた。
「可哀想に、何も知らないんだな。確かにあんたの母親も死んだが、そいつはあんたよりもずっと後の話だ。どこですり替わったんだ」
「お姉ちゃん、何を言っているの?」
「あんたが恨みを晴らす相手はいないし、なによりあんたはとっくの昔に死んでるんだよ。そしてあんたの死ぬ瞬間は、あんたの母親がしっかり見てる。……もう分からないふりをするのはやめた方がいい」
「う、嘘だ!」
 リンは激しくかぶりを振って叫んだものの、声が虚しくこだまするだけだった。そんな少年を見ながら、シエルは右手でダガーを一本抜き、切っ先を彼に向けた。
「じゃあこいつでその身体を斬りつけてやろうか。出てくるのは人の血なんかじゃない。今のお前を形作る砂だ」
「嘘だ嘘だ! おれを騙そうったって、そうはいかないぞ!」
「だったら街のヤツにでも聞いてみろよ、ジェラノールのこと。三百年も昔にそんな人がいました、その人がリーフムーン王国を建国しましたって話が聞けるから」
「嘘だー!」
 リンは喚きながらシエルに襲い掛かった。我を失った人間の攻撃を避けるのは造作もないことだ。シエルはリンの攻撃を半身で躱すと、手にしていたダガーをリンの背に力いっぱい突き刺した。リンは短い断末魔を上げ、地に伏した。振り向けばすでに少年の姿はなく、少年一人分の泥人形を作れるだけの砂の山が築かれていた。シエルは砂の中で寝ているダガーをゆっくり拾い上げた。
「じゃあな、アリアーヌの息子」
 そうつぶやいたシエルの頬を、涙が一粒伝った。

 やりきれない想いのままプンダーラに戻ると、他の者たちは既に集まっていた。暗い表情のシエルを見て、イルが落胆する。
「シエル、そっちも駄目だったのか」
「いや、ユーノには会えたよ」
「えっ、じゃなんで連れてこなかったんだよ!」
 シエルにも説得できなかったのか、とその隣でサリも肩を落とした。シエルは答えたくなかった。その手でユーノを埋葬して冥福を祈ってきたというのに、シエル自身がその現実を受け止められなかった。ユーノから受け取った初代当主の日記は、一番教養があると思しきクリムに渡した。
「こいつを頼む。あんたなら読めるだろ」
 古びた冊子を受け取ったクリムは、表紙をめくると「少し時間をちょうだい」と答えた。内容は粗方知っているが、実際何が書いてあるかは知りたい。
「おいシエル、どういうことだ。なんでそれを持ってるのに……そいつはユーノさんがウェルダー家から持ち出した初代の日記だろ? なんで……」
「おい、なんとか言えよ、シエル!」
 シエルに詰め寄る二人から顔を逸らし、シエルは「ユーノは」と告げた。
「ユーノは、死んだよ」
 それはそれはゆっくりと、自分にも言い聞かせるように告げた。
「え……」
「そんなまさか」
 信じられない様子の二人の手を乱暴に振り払い、「何度も言わせるな」と腹の底から怒鳴り声を上げた。
「あいつは死んだんだ! あたしの目の前で!」
 そう、ユーノは死んだ。もうどこにもいないのだ。全身が震えた。悔しいのか悲しいのか、泣きたいのか怒りたいのか、それすら分からなくなった。シエルは心を落ち着けようと一度深呼吸をして、クリムの手の中にある日記を指さした。
「クリム、だからそいつをきっちり読んで、中身教えてくれよ。あいつは命がけで、どんな手を使っても、あたしにそれを伝えようとしていたんだ」
「ええ、分かったわ」
 クリムは日記を大切そうに抱きしめ、厳かにうなずいた。シエルもうなずき返した。その隣でサリが「ハハ」と乾いた笑い声を発した。
「なんだよユーノ、勝手に行って、勝手に死んじまうなんてさ」
「全くだよな。俺らに何も言ってくれねえんだもん」
 イルやサリにかける言葉はなかった。その代わりに、ここまでシエルに付き合ってくれた仲間たちに顔を向けた。
「リブル島の遺跡が、アリアーヌの生家だったらしい。たぶんあいつらはあそこにいると思うんだ。だからあたしは、リブル島に行こうと思う」
 戻る、とは言えなかった。戻るべき場所がなくなってしまったのだから。
 ラスタたちがうなずくのを確認して、シエルはイルとサリに向き直った。
「あたしらは行く。お前らはどうするんだ?」
 イルとサリはシエルの言葉を受け、互いに顔を見合わせた。



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