アルネトーゼ

#22.黄昏


 ウィッセルベの王宮の私室で、ディーナは約一年をかけウェスパッサ連合王国じゅうを歩いた旅の報告書を作成していた。
 ウェスパッサ連合王国の代表を代々務めるウィッセルベ家は、ウェスパッサの代弁者として過不足なきよう、成人を迎えるとウェスパッサを旅歩くことが義務付けられていた。多聞に漏れずディーナも、十五歳になったその日にウィッセルベを旅立ったのである。ウィッセルベ家の人間は、旅立ちの時に初めて人々の前に姿を現す。そうと民衆に知らせることもせず、こっそりと旅立つ。王族だからといって、民たちのありのままの暮らしぶりを見ることができなくなってしまっては、旅の意味は失われてしまうのだ。
 このようにして様々な経験を重ねながらウィッセルベに戻ってきたディーナだが、彼女に王位継承権はない。代表は力の象徴たる男性であるという伝統のためだ。そんなディーナが旅立ったのは、次期代表であり無二の弟であるシードを支えるためだった。シードももう二年もすれば成人を迎える。そのときにはシードも旅に出ることになる。まだ心許ない弟の力に少しでもなれるよう、ディーナは丁寧に丁寧に報告書を書いていた。
 黙々と作業をしているディーナの私室にノックの音が響く。
「失礼いたします!」
「どうぞ」
 ディーナが答え、ノックした衛兵が部屋の扉を開けた。ディーナは入口のところまで歩き、自分より頭一つ分も二つ分も大きな衛兵の顔を見上げた。
「ご苦労様です。いかがなさいました?」
「はっ。姫様に面会を求めている者がおります」
「わたくしと? どなたかしら」
「モシャルオン領にあるトレアナ村の巫女、ルティシア=スレイルと名乗っております。なにやら口が利けぬ様子」
 ディーナにはルティシアという知り合いはいない。
「それでは、お会いすることはできませんわ」
「シエリオル=スタンフローに関する、とても重要な話があると申しておりました。それを伝えれば分かると」
「シエル様の? まあ、それでしたら話は別ですわ。その方を早急に応接間にお通しなさい、粗相のないように。筆談の道具も忘れないでくださいね」
「はっ!」
 衛兵に指示を出し、ディーナは慌てて身なりを整え、応接間に向かった。
 なぜシエルの名を出せばディーナが会わざるを得ないと分かるのだろう。その人物はディーナとシエルが面識があるとなぜ分かったのだろう。分からないことばかりだが、その客人が巫女であるということと何か関係があるのかもしれない。
 とにかく、その真意を探るべく、ディーナは気持ちを切り替え、応接間の扉を開けた。長い紺色の髪をまとめた十歳ほどの少女が座っていた。ディーナの入室に気付いた少女はさっと立ち上がり、深くお辞儀をした。ディーナは顔を上げたルティシアに小さくうなずいてみせた。
 ――わたくしはウィッセルベの第一公女、ウッディーナ=ウィッセルベです。
 それだけをさらさらと書いてルティシアに見せると、彼女はハッとして、同じようにさらさらと書いた。
 ――トレアナ村のルティシアです。唇が読めるので、そのままお話し下さい。
「まあ!」
 驚いたディーナにルティシアは微笑みかける。こういったやりとりは慣れているのだろう。
「では、お言葉に甘えますわね。まずは、お待たせしたことをお詫びいたします。ルティシア様はシエル様のことをご存知だと伺ったのですが、どういったご用件ですの? シエル様はすでに発たれましたわ」
 ルティシアは三度うなずき、おおよそ十歳の少女が書くには達筆な文字を走らせた。紙面に増えていく文字列を見ながら、ディーナの目が少しずつ見開かれる。
「――それは、本当なんですの?」
 真っ直ぐにディーナを見つめるその顔から、すでに笑顔は消えていた。

★☆★☆

 ウェスパッサを発ち、シエルたちがリブル島行の船に乗ってから、実に三日が経とうとしていた。穏やかな船の中で、それぞれ自分の時間を過ごしている。ケンは相変わらずクリムのところにいるようだが、クリムは相手をせず、薬草の整理をしているようだ。プライムはシエルからダガーを一振りひったくり、何やら企んでいる様子だった。
 船の正面甲板に出て、海を眺める。正確には、海の向こうにあるリブル島を眺めていた。あそこでイルとサリとは別れた。もう二度と会うこともないのだろう。それでも、どこかで生きていて、それなりに楽しく暮らしてくれていれば、それでいい。シエルは目を閉じ、別れ際の会話を思い出した。
『あたしらも行くよ。クリムゾンテイルのないリブル島なんて、戻っても仕方ないからね』
『すまないな、イル、サリ』
『シエルのせいじゃねぇんだ、謝んなって。ただ、俺たちに学がなかったから、ユーノさんの手伝いができなかったのは心残りだ』
 本気で残念がっているイルを見ていると、その時のことがありありと想像でき、シエルは思わず苦笑を漏らした。
『でも、ユーノはお前たちに感謝してるんだと思うよ。他のヤツらが皆いなくなっても、お前たちはずっとユーノの側にいたじゃないか』
『当たり前だろ? シエルが大事だったのはユーノだけじゃないんだ。あたしだって、自分の場所も、シエルの場所も、本当は守りたかったんだ』
 胸を張ったサリの、一体どこから湧いてくるのか分からない、根拠のない自信には、何度も何度も助けられた。
『ありがとう。あたしじゃなくてイルやサリがアルネトーゼに憑かれちまったとしても、あたしも同じことをしたと思うよ、多分だけど』
『そうだね。それにさ、いつまで仲良しこよしでつるむのが仲間ってもんじゃないだろ? あたしらもうガキじゃないんだ。シエルやユーノが何かやりたいってんなら、黙って応援するよ』
『ユーノさんだって同じ気持ちだったと思うよ。まあでも、意地っ張りで見栄っ張りだったからなぁ、分かりにくいよな』
 おちゃらけているようで人のことをよく見ているこの連中には、本当に敵わない。シエルはつくづくそう思った。
『ホント、呆れちまうよね。でも、だからって頼ってなんて言えなかったんだよ。頼らないのはさ、ユーノが意地っ張りなだけじゃなくて、あたしらが頼りないからだし。それ本気で痛感しちまってねぇ。頑張ってみたけど、間に合わなかった。だからシエルだけのせいなんかじゃないんだ』
『ほら、そんな顔してると、ユーノさんあの世に行ってもシエルのことが気がかりで、おちおち眠れやしないだろ?』
『そうだよ。あたしらは自分の道を見つけた。シエルが特に理由なんかないのに、アルネトーゼのこと追い続けてるのと同じことだ』
 まさに言い当てられ、シエルは面食らった。
『バレバレだったんだな』
『あったりまえだろ! 何年一緒にいたと思ってんだ』
『あとさ、あたし思うんだけど、ユーノはあんたたちを頼ってたと思うよ。素直になれなかっただけで』
『それもそうだな! ユーノさんは面倒くさいリーダーだったんだ!』
 ユーノが聞けば、笑顔のまま怒るだろう。その台詞はサリが目だけで微笑み受け流した。それが、かつての仲間たちとの別れだった。
 淋しくないと言えば嘘になる。ずっと側にいた人たち、ずっとシエルの帰る場所だったところだ。でも、人は変わる。今なら自分の変化を受け入れられる。あの二人を見ていると、いつまでもクリムゾンテイルのままではいられないとユーノが言ったことも。
「ここにいたのか」
 プライムの声に振り返る。プライムはマントをなびかせながら、シエルの隣にやってきた。
「なんだ、暇なのか?」
「本当に失礼なヤツだな。完成したから持ってきてやったんだ。ほれ」
「ん?」
 プライムに手渡されたものは、彼がふんだくったダガーだった。
「なんだよ」
「抜いてみな」
 言われるがままに鞘から抜く。その刃には、表と裏それぞれに二種類ずつ紋様が刻まれていた。
「紋章剣?」
「急ごしらえだが、力はしっかり出せるだろう。必ずあんたの力になる。ちなみに発案者は俺だが、ラスタの剣を参考に図案を書いたのはクリムで、彫ったのはケンだ。非力で素早さだけが取り柄な疾風のシエル様にはおあつらえ向きさ」
 紋章剣の威力は折り紙つきだ。これならば、シエルも足手まといにはならないだろう。
「なるほど、サンキュ。そいつは褒め言葉として受け取っておくよ」
「呪文もしっかり覚えておけよ。紋章が使えなきゃ、こいつはただのダガーだ」
「分かった」
 姿をけたダガーをひとしきり眺め、シエルはそれを鞘に納めた。
「こいつはますますもって、負けられないな」
「なんだ、負けるつもりだったのか?」
「そんなわけあるか」
「そりゃそうだ。とにかく、ゆっくり休んでおけよ」
「言われなくても」
 シエルはもう一度ダガーを抜いた。プライム、ラスタ、クリム、ケン――彼らの手でつくられた紋章剣を受け取ったからには、無様な戦いなどしないと、ダガーに誓った。


 水平線に沈みかけた太陽が、海を、空を赤く照らす。船室から後部甲板に出たケンは、真っ赤に染まった空を見て声を上げた。
「すっごい綺麗な夕日だな!」
「そうね」
 横からクリムの声が聞こえ、ケンは驚きを隠せなかった。
「クリム、ずっとそこにいたのか?」
「ええ。空の色が変わっていくのを見ていたの」
「そっか」
 夕陽を見ていると、ケンには故郷の父親の顔が思い出された。元気だろうか。ケンがこのような旅をしているなどとは思いつかないだろう。変わらず母親と食堂をやっているのだろうか。この戦いが終わったら、両親に会いに一度故郷へ戻るのも悪くない。
「俺の地元さ、港町って言ったろ? そこから見る夕陽がまた格別なんだ。小さいころ、よくおやっさんに連れられて海に出てたんだけど、はしゃぎすぎて海に落ちちまってなぁ。気づいたら港にいたんだけど、その時見た夕陽がやけに綺麗に見えてさぁ、なんていうのか、生きてて良かったな、って思えたんだ」
 その時の気持ちをはっきりと思い出すことはできないけれど、涙が沁みるような思いをしたことだけは確かだ。ケンは同じように夕陽を見ているクリムに顔を向けた。
「クリムは? 何か夕陽にまつわる思い出とかあるか?」
「思い出……」
 クリムは遠い目をした。過去に思いを馳せているのだろう。風になびく白い髪が夕陽のオレンジを映して、とても綺麗に見える。
「綺麗な風景は、人の心を映すのだと聞いたわ。だからいつか『綺麗だった』と思い出せるような風景を見た時は、きっとそんな気持ちだったのね」
「え?」
「思い出ならたくさんあるけれど、夕陽は関係ないの。でも、きっと――」
 そこまで行ってクリムは素早くかぶりを振り、ケンを見上げた。
「ケンはここまで来たことを後悔してないの? 他の人たちみたいな、分かりやすい理由はないのに」
「後悔なんてしないよ。俺だって充分分かりやすい理由だ。クリムがいるから」
 ケンをじっと見つめるクリムが、この上なく愛おしく思える。後悔などするはずがない。
「うん、やっぱりクリムだ。俺はクリムを守りたいんだ。借りがあるしな。生命を助けてもらった借り、メーレのこと……」
 そう、クリムだけなのだ。何を言ってみても、全ては建前に過ぎない。ケンはクリムが大好きで、大好きなクリムを守りたいから一緒に行く、ただそれだけだ。実に単純である。
「だったら、もう借りは充分に返してもらったわ。だって何度も生命を助けられたもの」
「でも、俺のことはまだ憎んでいるだろ?」
「それは――」
 ケンはすっかり夕陽の沈んだ地平線を目に映した。
「いいんだ、無理しなくても。俺はこうして側に置いてもらってるだけでいいんだ、憎まれていても。クリムを守れるだけで充分だ。だから俺は後悔しない。クリムが大好きだからな」
 とても穏やかな気持ちだった。クリムと出会ったこと、クリムに憎まれたこと、クリムが歩み寄ろうとしてくれたこと――その全てが遠い日の思い出のようで、大切な宝物のように愛おしかった。クリムのためであれば、自分の生命を、自分の全てを投げ出しても構わないとさえ思っている。そんなケンに、クリムは声を震わせてつぶやく。
「馬鹿だわ。本当に馬鹿よ、あなたは」
 クリムを見下ろしたが、彼女は下を向いていて、その表情を伺うことはできなかった。ケンは再び顔を上げた。
「ああ、馬鹿だよ」
 そう言って、いよいよ暗くなってきた空に背を向け、船室へ入っていったケンは知らない。クリムが同じ空を見上げて、このように囁いたことを。
「――きっとこの夕陽が、忘れられない景色になるのよ」
 クリムの囁きは、風に吹かれて海の向こうへと流された。


 シエルはくつろいでいるラスタの側に腰かけ、声をかけた。
「ラスタ、一曲歌ってくれないか?」
「いいですよ」
 ラスタは何のためらいもなく歌い始めた。彼の歌には不思議な力がある。純粋に人の心を揺さぶるような何かだ。リブル島を出る前、アルネトーゼがラスタの歌に揺らいだのも、きっとその力のせいだ。そしてそれこそが、ラスタの言った通り、アルネトーゼがかつて人間であったことの証なのだろう。
 ラスタの歌が終わり、シエルは手を叩いた。
「何の歌?」
「望郷の歌です」
「お前、ホントに嫌な奴」
 吐き捨てる隣で、ラスタは笑っていた。
「縁とは不思議なものですね。あの時は、ここに妹の手がかりがあるという希望なんて抱いていなかったのですが、最終的に戻ることになるのですから」
「本当だ。あの時から、ラスタには終始世話になりっぱなしだな」
「どうしたんですか?」
「なんでかねぇ。船だとか海ってのは、どうもよくない。色々なことを思い出しちまって、感傷に浸っちまう」
 シエルにとって、海は思い出深い。海の上はいい思い出が少ないけれど、アジトからよく見えた。そして船上で生き別れた妹との再会を果たしたラスタにとっても、思うところがあるだろう。
「シエルはこの旅が終わったら、どうするんですか?」
 ラスタに問われ、シエルは「えー、あー」と色々考え始めた。
「うーん、何も考えてなかった。そうだな、クリムゾンテイルはなくなっちまったしな」
 クリムの旅はここで終わりではない。彼女の助けを求める人がいる限り、彼女の旅は終わらない。その隣には、クリムの同意があろうがなかろうがケンの姿があるのだろう。プライムはまた監視官の役割を果たすべく通常業務に戻るだろうし、妹を取り戻したラスタは、ひっそりと妹と一緒に暮らすかもしれない。だが、クリムゾンテイルを失ったシエルには何もなかった。
「そうだな。その先のことは、全部終わってからゆっくり考えるとするよ」
 時間ならきっといくらでもある。アルネトーゼのことを解決することができれば、何もないとしても、何かできるという自信が得られるかもしれない。だから今はそれでいいのだと、至極楽観的に考えた。
「もしいつまでも決まらないようでしたら、私も一緒に考えますね」
「なんだいあんた、本当にオヒトヨシな奴だな」
「最初にあなたをリブル島から連れ出したあの時から、ずっとあなたの側にいましたから。こうなってはもう、一蓮托生ということです」
「腹立つ。お前嫌い」
 本当はラスタの言葉が嬉しくてたまらないのに、認めるのが癪で、シエルは悪態をついてみせた。ラスタは「はいはい」とシエルの悪態を軽く受け流していた。



 シエルは目を覚ました。夢を見たような感覚はない。深く深く眠ることができたのだろう。窓の外からはすでに光が射し込んでいた。首を回せば大きく関節が鳴った。両腕を高く伸ばし、背伸びをして立ち上がる。顔を洗い髪を整えたころ、ケンの元気のよい声が聞こえた。
「よし」
 両頬を思い切りたたいて気合を入れ、シエルは甲板へと出た。甲板にはすでに上陸の準備を済ませたラスタたちがいた。
「シエル、おはようございます」
「おはよう」
「大物だな、シエル」
 一番遅かったシエルに厭味を垂れながらプライムが親指で指示した方には、リブル島がはっきりと見えていた。いよいよなのだ。
「帰ってきちまったか」
 起きた時にはまだ黄色かった空が青くなっている。その隣で、クリムがケンにまじないをかけていた。
「なんだ? 戦意高揚のまじないでもしてるのか?」
「そうだといいのだけど、ケンってば昨日、興奮して眠れなかったって言うのよ。寝不足が戦いに響いては困るから、疲れがとれるまじないよ」
 確かにケンの両目の下は黒くなっている。これでは先が思いやられる。だが、そうも言っていられない。眼前には、シエルの故郷がすでに待っているのだから。
 リブル島でのこと、クリムゾンテイルのこと、ここまで共に来たラスタたちのこと、復讐者のこと、そしてアリアーヌのこと、たくさんのことがシエルの脳裏を駆け巡る。
 ここで全てを終わらせる。その決意を胸に、シエルは思い切り声を出した。
「さて、行きますか!」
 リブル島に着いた船を降り、シエルたちは例の遺跡へと足を向けた。



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