アルネトーゼ

#23.剣舞


 シエルは記憶を頼りに、アルネトーゼを背負うこととなった遺跡へと向かった。雑木林に囲まれて、ずっとこの島に生きてきたシエルさえ、あの神殿の存在はラスタと出会ったあの時まで知らなかったのだから、リブル島初代当主の試みは成功していたと言える。もしかしたら、木で隠していただけにとどまらず、なにがしかのまじないを施していたのかもしれない。今となっては迷宮入りだ。草をかき分け、遺跡の前に出て、いざ中へ入ろうと足を踏み出したとき、シエルたちを洗礼する者たちが現れた。
 それは次から次へと土から湧いて出る、亡者の群れだった。数はウィッセルベに出た者たちよりも少ない様子だが、それこそ巣穴から出入りするアリのようである。恐らく、以前この村に住み、三百年前のあの日リーフムーン軍に生命を奪われた者たちの怨念なのだろう。それを知ったところで、引き返すことはできない。シエルたちはそれぞれに武器を手に、亡者たちへと向かった。襲い掛かってきた亡者の右手を切り落とし、心臓があった場所を貫く。これまでの亡者と同じならば、これで砂に戻るはずだ。もくろみ通り、その亡者は土に還った、はずだった。
「何っ!」
 土に還ったと思われた亡者は再び形を成し、シエルに襲い掛かった。
「なんだこれは、どういうことだ!?」
「誰かが力を与え続けているのだろう。どこからかは知らんが、俺たちを見ているらしい。悪趣味な」
 プライムが剣を振りながら吐き捨てる。ラスタやケンはともかく、クリムまでもがナイフで奮闘しているのが見えた。
 どうにか前に進み遺跡に入ろうと試みてはいたけれど、際限なく蘇る死者に遮られ、思うように前に進めない。疲れ知らず、生命知らずの亡者たちは、何度でもシエルたちを襲ってくる。このままでは遺跡に入る前に、自分たちが先に消耗し、死ぬだろう。一度退いて態勢を立て直した方がいい。そう思った時だった。矢の雨が一斉に死人を貫いた。
 何事だ。矢の飛んできた方向を振り返ると、そこにウェスパッサ公国の兵二、三十人と、彼らを束ねるディーナとゼリドの姿があった。
「あんたたち、どうやってここへ!」
「またお会いしましたわね、シエル様。この方が教えてくださったの。特別便を出して、慌てて追いかけてきたんですのよ」
 ディーナが手招きをするのを凝視する。体つきのよい兵たちの間から現れたのは、戦場には似つかわしくない少女――白樺の森にいた音のない少女、ルティだった。
「ルティじゃないか! なんでこんなところまで……」
「この方がわたくしたちをここへ導いてくださったのよ」
 思いもよらない助っ人の登場に、シエルは口許に弧を描いた。
「サンキュ、ルティ、ディーナ!」
「困った時はお互い様ですわ!」
 ディーナが上から手を振り下ろすのを合図に、兵たちから一斉に矢が放たれ、亡者たちが倒れた。シエルたちの前に道ができる。
「道は確保する、だから早く行くんだ!」
 頼もしい助っ人たちの声を後押しに、シエルたちは遺跡の中へと飛び込んだ。

 遺跡の中は暗く無気味だ。ただ足音が反響する。ここでシエルがアルネトーゼに憑かれたと言っていたが、このようなところに一体何の用事があったのだろうかとプライムは疑問に思った。
 入って少し進んだ通路に人間の影があった。歴戦の達人のような、鋭い気配である。
「ここは通さないわよ」
 女の声だ。声は殺気を含んでいる。肌に刺さるような、鋭利な殺気だ。その女の前に、プライムは得物を抜きながら足を踏み出した。
「ここは任せろ。お前たちは先に行け。何、すぐに追うさ。こいつには絶対追わせないから安心して行くんだ」
 シエルが珍しく素直に「分かった」と即答した。いや、このようなところで意地を張っているわけにもいかないということは、シエルにも分かることだ。プライムは小さくなっていくシエルたちの足音を聞き、女に目を向けた。
「久しぶりだな、ラファ」
 女――ラファは不機嫌そうに顔を歪めた。
「俺との決着を望んでいるのだろう?」
「そういうのを自意識過剰と言うのよ。でも、そうね。見ていると不愉快になる顔だもの、この手で消したいのかもしれない」
「不愉快になる、か。随分と嫌われたものだな」
「お前は私を知っているの?」
「ああ、知っている。お前はラファ=シルビナス。生涯でただ一人、俺の全てを捧げようと思った女の名だ」
「ふざけたことを――」
「ふざけてなどいない」
 プライムはじっとラファを見つめた。
 愛していたのは本当だ。全てを捧げようと思ったのは真実だ。ラファからプライムの記憶が失われようと、彼女がラファであるならば、その気持ちは有効なのだとプライムは勝手に思っていた。だからこそ、プライムは剣先をラファに向けた。
「ふざけてなどいないさ。お前から〈あの約束〉さえ消えているのは惜しいが、ここで果たさせてもらおうじゃないか」
「約束?」
「お前に勝ったら俺のものになるという約束だ」
 プライムはラファに斬りかかった。それをラファは、大鎌の柄の部分ではじき、そのままみぞおちを突く。プライムは半身でかわし、足を押し出した。ラファは態勢を崩しつつも、大鎌の柄を軸に、プライムに回し蹴りを繰り出した。プライムはすぐに跳び上がり蹴りをやり過ごし、着地と同時にラファを斬りつけようとした。ラファは上半身をそらすことでそれをかわし、プライムの脇腹に鎌を喰い込ませようとするも、寸前に気付いたプライムがすぐに剣をひっこめ、鎌にぶつけ身を守った。
 やはり、強い。ラファの動きは、本当に見惚れるほど美しい。昔と何も変わらない。
 想いを伝えることができなかった。足踏みしている間にラファは死んでしまったのだ。これはもしかすると、絶好の機会なのかもしれない。たとえ、二度も最愛の女性の消滅に立ち会うのだとしても。そう思ったからこそ、プライムはラファに例の約束を取り付けたのだ。記憶のないラファには意味のないものかもしれないけれど。
 完全に不意を突いたと思っていたのか、ラファは一瞬うろたえた。プライムはその瞬間を見逃しはしなかった。手にしている剣を小さく動かし、ラファの脇腹を切り裂いた。
「ぐっ!」
 土から生まれた今のラファは痛みを感じることもなければ、血を流すこともない。その傷からは、砂が流れ出た。
「その目は何? 自分を生者だと疑っていなかった私を憐れんでいるの?」
「そうだ。お前には忘れられてしまったがな」
 ラファに一歩ずつ歩み寄りながらプライムは続けた。
「お前が死んだのは、もう二十年以上も前のことだ。俺の腕の中で死んだ」
「私は、そんな昔に……」
 プライムに合わせて、ラファも一歩ずつ後ずさった。
「ああ、そうか」
 ラファは微笑んだ。復讐者のものではなく、プライムのよく知る、懐かしい笑顔だった。それを見て、プライムは歩みを止めた。
「思い出したか?」
「ええ。時間がかかったけれど、自分が何に復讐したがっていたのかも分かった」
「聞かせてくれるか?」
「私を殺した盗賊たちよ。でも彼らは皆、あなたに殺されたのよね」
「そうだ」
 ラファは鎌の切っ先をプライムに向けた。
「あの約束は覚えているわ――いえ、思い出した。あなたは一度として私に挑まなかった。でも私は、あなたがすでに私よりも強いことを知っていた。分かっていたの」
 プライムは心底嬉しくなった。彼女が同じ気持ちだった。それが分かっただけでも、彼女が蘇ったことを心から喜ぶことができる。
「これが最初で最後の、俺たちの戦いだ」
 刃と刃がぶつかり合う。ギリギリと不快な音を立てながら震える剣は、一度離れ、またぶつかった。剣越しに見えるラファの赤い唇がかすかに動く。
「私が勝ったら」
「なんだ?」
「あなただけっていうのはずるいから。だから、私が勝ったら連れて行って。地底に沈んだ太陽の王国や、まだ誰も見たことがないという聖なる大陸に」
「ああ、どこへでも連れて行こう」
 何度も離れ、何度もぶつかり合った。ラファは笑顔だった。その言葉、その表情で、プライムはラファの気持ちが手に取るように分かった。憎しみと共に、プライムへの心残りがあったからこそ、復讐者としてもう一度プライムの前に姿を現したのだ。
 ラファを美しいと思った。ぶつかり、擦れる剣も美しいと思った。かつてとあまり変わらなラファを前に、自分も二十年前に戻ったような錯覚さえ抱いた。殺し合うためではなく、互いの想いを伝え合い、知ろうとする剣の舞は、今までで最も美しいと思うことができた。
 貫いた。抱きしめた。刹那の温もり。ほどなくして、ラファは砂となって消えた。貫いたのはプライムの剣だった。プライムは剣を地に突き刺し、少しの間だけ目を伏せた。
「今度こそ安らかに眠れ、ラファ」
 そして突き刺した剣を再び手に取ると、鞘に納め、奔って遺跡の奥へと向かった。


 奥へ奥へと走っている最中、ケンの耳が微かな声を拾った。聞き覚えのある――いや、忘れようのない声だった。ケンはすぐに大剣を抜いた。その剣に炎がぶつかる。
「わっ!」
「ケン!」
 今度は頭上から氷が落ちてきた。でたらめだ。そう思いながらも、ケンはそれを受け止めた。
「畜生、シエル、早く行けぇっ!!」
 シエルから返事はなかった。ただ、走っていく音はしたから、行ったのだと分かった。ケンの目には、妖しく笑うアルスが映る。先ほどの微かな声も、突然出現した炎や氷も、彼によるものだった。
「しんがりを務めるとは殊勝なことだ。だがこれで、お前は確実に死ぬ」
「はっ、そう簡単に死ぬかよ」
「威勢がいいのもここまでだ」
 アルスから突風が吹き荒れる。思わずケンは目を瞑った。自分の体重と鎧の重みで、どうにか吹き飛ばされることがなかったのが幸いだった。風が止み目を開けたケンの耳に、「ケン!」と叫ぶクリムの声が聞こえた。シエルたちと一緒には行かなかったのか。これでますます、ケンが死ねない理由ができた。自分が死んでしまったら、だれがクリムを守るというのだ。
「大丈夫、安心しろ、クリム。クリムは俺が守る」
「泣かせるね。嫌いじゃねぇよ、そういうの。だが、あんたに他人を守る余裕があるかな?」
「守ってみせる!」
 アルスに斬りかかる。アルスはそれを軽々と避けてみせ、ケンにかまいたちを見舞った。鎧から出ている肌に無数の切り傷ができる。鎧もボロボロになっていく。鎧がなければ、生命はなかったかもしれない。かまいたちが止み、ケンは身体を地面に打ち付けた。痛い。だが何ともないかのように立ち上がる。
「よく耐えたな」
「そう簡単に死なないっつったろ?」
「そうだったな」
 鼻先で不敵に微笑むアルスの強さは知っているつもりだったけれど、今は勝てるようなイメージが湧かなかった。だが負けられない。負けるわけにはいかない。シエルの決意は無駄にできない。クリムを守らなくてはならない。だからここで倒れるわけにはいかない。何度でも、死んだって何度でも立ち上がってみせる! ケンはその一心だった。
「じゃあ、こいつはどうかな?」
 アルスが矢継ぎ早に呪文を唱える。カマイタチは身を小さくして防ぎ、火は剣を盾にした。その次に来たのは雷だった。
「やべっ!」
 ケンは咄嗟に剣を正面に放った。アルスから放たれた雷が大きな鉄の剣に吸い込まれる。あれをもったままならば、ケンは確実に感電していただろう。
「あぶねぇ」
 しかし安堵した次の瞬間には、アルスがケンとの距離を詰めていた。今の紋章術は目くらましか。アルスの手がケンの腕を絡める。不覚。彼は紋章術のみならず、体術も得意としていた。しかも、可憐な女性を抜かりなく演じていたアルスの技は力押しではなく、相手の力を利用するものだ。力押しのケンには相性が悪すぎる。同時にアルスは呪文を唱えていた。何が来るかは知らないが、何かが来る。アルスの手からどうにか逃れ、ケンはすぐに左腕で防御態勢を取ったものの、アルスの放った紋章術は、ケンを防御もろとも吹き飛ばした。
「わあああ!」
 巨大な拳に殴られたような感覚だ。吹き飛ばされたケンは壁にぶつかった。鎧が砕け、何かが左目に刺さる。砕けた鎧の欠片だろうか。最初に受けたかまいたちで、鎧はすでに意味を為さなくなっていたのかもしれない。身を守るはずのものがこのような形で仇を為すとは、不覚であった。ただひたすらに、負傷した左目が熱を帯びている。
 クリムの叫び声が聞こえる。守ると言ったのに。守ると決めたのに。今の直撃で、ケンは身体を動かすことができない。今まで重いと感じなかった鎧が重たい。紋章術をもろに喰らった左腕に感覚がない。無事な右目でちらりと腕を確認したけれど、血で真っ赤に染まっている様子しか見えなかった。もうだめなのか。死なないとまで誓ったのに、死んでしまうのか。
「まだ死なないとはね、さすがに頑丈さだけは折り紙つきだ。おっとクリム、死にぞこないの心配なんかしてる場合か? 次はあれがお前を襲うんだぜ」
 状況が確認できない。アルスの口ぶりや、小さな足音で、クリムがケンの許へ駆け寄ろうとしていたらしいということは理解できた。心底嬉しいけれど、早く逃げてほしい。
「ク、リム」
 逃げろ。そう言いたかった。だが言葉にできない。変な声が出て、人に伝わる言葉が出てこない。
「アルス、私はあなたを許さない」
「許さない、か。それで、その細腕で何ができる? お前は何もできない、憐れな小娘。そこの大男が無様にやられる様を見ているしかできなかったじゃないか」
 アルスはフッと笑って言葉を継いだ。
「それともアレか。直接メーレを手に掛けた憎い男が弱るところを見て、止めはお前の手で刺すのか。それはそれで面白い見世物だ」
 カラカラと笑うアルスに、クリムは淡々と語る。
「私はもう、ケンを憎んでなどいないわ」
 その言葉に、ケンは右目を見開いてクリムを見た。クリムと目が合う。それは確かに、最初の頃のような、怒りに満ちた目ではなかった。
「一緒に旅をしている間に情でも生まれたか」
「違うわ」
「違うならなんなんだ?」
「彼は誠実に、真摯に私と接してくれたわ。だから私は、彼を信じる」
 ケンは頬が紅潮するのを感じた。アルスにとってクリムの言葉は、それはそれは面白くないようであった。
「仕方がない、せっかく面白いものが見られると思ったんだが。それなら二人仲良くあの世に送ってやるよ!」
 アルスは風のように素早くクリムに突進し、持っていたらしいナイフで切り付けた。クリムはすんででそれをしゃがんでかわした。
「へぇ、よくよけたね」
 クリムもナイフを抜いた。駄目だ。あれは人を傷つけるためのものではない。クリムが人を傷つけるために刃物を持ってはならないのだ。
「クリム、よせ」
 だが声は届かない。復讐の激しい焔をその目に宿したクリムに、ケンの声は届かなかった。駄目だ。そんなことをしては駄目だ。クリムではアルスに敵わない。返り討ちに遭うだけだ。それ以上に、その手を汚してしまう。それではだめなのだ。立ち上がれたら。せめて立ち上がることさえできれば。だが今のケンは、もう立ち上がるどころか、目も霞む。鎧が重い。鎧。
 ――そうだ、鎧。脱げるか?
 分からない。腕をわずかに動かすのにさえ激痛が奔る。だが身に着けたままでいるよりは、まだ動けるような気がした。激痛を耐え、ケンはどうにか鎧を脱ごうと奮闘した。そうしている間にも、クリムが傷を一つずつ増やしていく。アルスはクリムをいたぶって楽しんでいる。そうでなければ、クリムはとうに死んでしまっているだろう。
 死なせたくない。もう憎んでいないと言ったクリムを。信じると言ったクリムを。こんなに嬉しいことはない。メーレの願いを叶えさせるまで、死なせはしない。
 鎧が脱げた。壊したようなものだ。一気に軽くなったような気がした。ケンは軋む身体を無理に動かし、立ち上がり、地を蹴った。
「クリムー!」
 アルスは一瞬顔色を変えたが、すぐに呪文を唱える。間に合うか。火が放たれる。顔にぶつかる。熱い。だがそれ以上に全身が熱い。血の熱さだろうか。そんなことはどうでもいい。ケンは全身でアルスに力の限りぶつかった。

 ケンの渾身の一撃。今度こそ、いかに頑丈なケンといえど、もう立ち上がることはできないだろう。クリムはそう思った。だが勝負はついた。大男の下敷きになっているアルスとて、もう戦えはしないだろう。だが、アルスが戦えないのはそれだけではない。
「俺の負けだ、殺せ」
 意識はあるようだ。ケンの下で歯を食いしばりながら、アルスはかすれた声で告げた。彼が生きていようがいまいが、彼の願いなどなくても四肢を引き裂いて叩き潰してやりたい気持ちだった。だが、そのようなことをしなくとも、アルスの寿命が近いことを知ってしまった。
「身体に直接紋章を刻んだ代償ね。際限なく力を吸われたのでしょう」
 普段は紋章剣という形で、別の物を媒体に紋章術を使用している。そのため、紋章剣は塗った血の分だけ力を発揮することができる。だが身体を直接の媒体にする紋章術は、紋章剣よりも凄まじい威力を発揮できるけれど、その代わりに使用者の生命力を大きく消耗する。だから最後にケンに放った炎が小さかったのだ。
「そこまで分かってるなら、さっさと殺しちまえばいいだろ」
 クリムはナイフを握る手に力を込めた。殺してしまいたい。本当に、今は心底彼が憎い。彼さえいなければメーレは死なずに済んだのだ。いや、彼がいたところで、メーレは死んだかもしれない。それは分からない。けれど、彼との出会いがメーレを変えてしまったことは事実なのだから。クリムは唇を震わせた。
「甘ったれたことを言わないで。私、あなたを死なせてなんかあげないから。死んで楽になるなんて、絶対に許さない」
 ゆっくりと言葉を紡ぐごとに、先ほどまであった激情が凪いでいった。ただ、目の前にいるかつての仲間が、とても小さく、とても憐れに映った。
「はっ。あの時のお嬢ちゃんが、随分と良い顔になったもんだよ。こんな出会い方じゃなかったら、俺のモノにしたんだけどな」
「そんな日は、たとえ出会い方が違ったとしても、きっと来なかったわ」
「言ってくれるねぇ」
 アルスの軽口を聞き流しながら、クリムはケンを仰向けにし、手当てを始めた。ひどい傷で動くこともままならないようだが、止血さえしてしまえば生命に別状はない様子で、クリムはホッとした。
「クリム」
 ケンは何か言いたそうだった。不思議と彼が何を言おうとしているのか分かった気がした。
「ごめんなさい、ケン。ちゃんと言えなかった。本当はもう、とっくに憎むのなんてやめてたのよ。あなたは何度も私を助けてくれた。今回だって。ありがとう、ケン」
 クリムはとっくに気づいていた。メーレの仇として憎しみを向けていたケンを、本当はすでに憎んでいないことを知っていた。受け入れることこそ時間がかかったものの、今では自然と受け入れることができる。
 クリムがどんなにひどいことをしても、ケンはめげるということを知らなかった。どんな時でも笑顔を向けてくれた。どんな時でも守ってくれた。そして何度でも言ってくれた。憎まれても大好きだと。
 いつしか、ケンの笑顔に支えられている自分に気が付いた。ずっと、傷だらけで戻ってくるケンを支えているのは自分だと思っていた。それが、今のクリムにとって、ケンはかけがえのない存在になっていたのだ。きっと人は許し合い、支えながら生きていくのだと、今のクリムにはそう思えた。
 クリムは血まみれになったケンの左目に包帯を巻き終えると、残った右目を見て微笑んだ。それを見て、ケンも微笑み返してくれた。
「俺の方こそ、ありがとな。ここから先はやっぱ、シエルたちに任せるしかなさそうだ」
「そうね。先に脱出しましょう」
 ケンはもう戦える身体ではない。動くことさえままならないだろう。だからこの先へ向かうことはできない。だからクリムはそう告げて立ち上った。
「ああ。――っ」
 しかし、ケンは立ちあがることもできない様子だった。クリムは自分にまじないを掛け、すぐにしゃがみ込み、ケンの腕を自分の肩にかけた。
「クリム、大丈夫か?」
「その言葉、そっくり返すわ」
「はは、そりゃそうか」
 無事にこの遺跡から出ることができたら、この戦いが終わったならば、その時はケンの想いに応えよう。自分の想いをきちんと伝えよう。クリムはそう心に決め、まじないの力を借りて、ケンと大剣を背負い、足を踏み出した。



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