アルネトーゼ

#24.救済


 クリムも残ったのか。極端に少なくなった足音を聞きながら、シエルは思った。あそこで紋章術をあのように使える人間は一人だけだ。だとすれば、クリムが残ったのもうなずける。今はシエルとラスタ、二人だけしかいない。だが何の不安もなかった。自分に迷いがないからなのか、盲神ラスタと呼ばれる凄腕剣士が側にいるからなのか、自分の武器が片方だけではあるが紋章剣になったからなのか、それは分からない。その全てが当てはまるのかもしれない。とにかく今は心がとても静かだった。
 もうすぐ祭壇にたどり着く――そう思った時、ラスタがシエルを引き留めた。何かがいる。シエルは目を凝らした。そこには老人がいた。
「待っていたぞ、かつてアルネトーゼを宿した者よ」
「マグスか」
 彼と対面するのは、これで二度目だ。初めて対面した時、シエルは自分のことでいっぱいいっぱいだった。けれどやはり、今の彼からも何も感じられない。澄ました顔のその下で、ずっとくすぶらせていたのかもしれない。マグスは祭壇への道を自らの身体を持って塞いでいた。
「あんたがあたしを待つ理由は? もうあたしには用なんかないはずだ」
「そうだな。強いて言うならば、あなたの連れの盲神ラスタに用がある。ラスタよ、お前の妹ならばこの奥にいる。お前が因子となり、アルネトーゼの力をより強く引き出すよう作用するだろう」
「あなたの憎しみがリーフムーンに向けられていることは分かりました。ではなぜ、無関係であるはずのウィッセルベを襲ったのですか?」
「あれは私の与り知るところではない。我が祖先と、シエリオルに会いたがっていた人間のやったことだ」
 シエルは唇をかみしめた。ユーノはただ、シエルに会いたかっただけだ。その気持ちをリンが利用した。
 そう、リンだ。彼はなぜ蘇らせられたのだろう。彼だけではない。カミァ村を襲ったサミエルや、プライムの恋人だったラファ――なぜ彼らを蘇らせたのか。
「あんたは何のために死んだ人間を蘇らせた?」
「復讐のためだ。そして彼らなら、我が同志になってくれると信じていた」
 確かに同志であったのだろう。サミエルの事情こそ分からずじまいだったが、情報こそ制限すれ、操られているような不自然な印象は受けなかった。
「リーフムーンに復讐したいんだっていたって、ジェラノールは三百年も前に死んだぞ」
「そうだな、その通りだ。だが依然としてその罪を知らないまま、何も明かされないまま、リーフムーン王国は地上に存在している。我らが祖先が彼らの滅びを望んでいる。アルネトーゼとなった、アリアーヌが」
 アリアーヌはそんなことを望んでいただろうか。シエルの中には違和感が湧きおこる。記憶の中にいるアリアーヌの夫や子供たちの笑顔を思い出しながら、激しくかぶりを振った。
「違うよ。アリアーヌは確かに憎んでいたかもしれない。三百年の間に憎しみだけが膨張したのかもしれない。だがアリアーヌが何を願っていたのか、あたしは知ってる。あの人は、ただ救いたかったんだ。お前たち子孫に生きていて欲しかったんだよ」
「だがアリアーヌには救えなかった。残されたヘラは煮えたぎるような憎しみだけを抱いたまま結婚し、子を儲けた。そして生まれた子どもに語るのだ、リーフムーンがどれほどまでに憎くおぞましい存在であるかを。それは血と共に脈々と続いた。私やアルスまで。そう、憎しみは血なのだよ」
「何? アルスはあんたの何なんだ」
 ここでアルスの名前を聞くとは思いもよらず、シエルは目を細めた。鏡のようにマグスも目を細くした。
「ひ孫だよ。私の言うことをよく聞く、良い子だ」
「何だと?」
「シエリオル、お前はアリアーヌが助けたがっていたと言ったな。だがアルネトーゼは復讐者と名乗り、復讐者として現世に蘇った。それこそが答えだ。アリアーヌこそ復讐を望んでいた。何でも知っているように言わぬことだ」
 そう、確かにアルネトーゼはシエルに憑いたとき、復讐者であると名乗った。
「そうだね、あたしは何もかも知ってるわけじゃない。アリアーヌがアルネトーゼにすがってやったことといえば、ここにやってきたリーフムーンの兵たちを根絶やしにした、それに変わりはない。それは事実だ。けど、アリアーヌが子どもたちを助けたがっていたことだって真実のはずだ。そうじゃなきゃ、救世主と思っているものにすがったりはしない」
「復讐こそが救いなのだ。根絶やしにしなければ助けられなかった。ならばアルネトーゼが救世主でも不思議ではないはずだ」
 言い返されるたびに、シエルはかぶりを振って否定した。
「だったら、復讐された人たちは? もう三百年前の話だ、お前たちが復讐したがっている人間は、誰一人としてここにはいないはずだ。それなのに巻き込まれた人間は?」
 クリムゾンテイルは、ユーノは……。そのことを思うと、熱いものが込み上げてきた。
「それも私たちと同じだ。我々の憎むジェラノールの血を継ぐ者がいる。私たちと共に受け継がれるものだ」
「そんなものは屁理屈です」
 マグスとシエルのやりとりを落ち着いた声で遮ったのはラスタだった。ラスタは無表情でマグスに歩み寄った。
「私は、アリアーヌという方のことは知りません。彼女の想いなど知る由もありません。でも仮にアリアーヌが心からジェラノールを憎んでいたとしても……アリアーヌ自身が復讐を望んでいたとしても、それはあなたの復讐の理由にはならないはずです。いつまでもどこまでも、あなたの言うように血と共に受け継がせていいものではないはずです。それでもなお、あなたはその憎しみを後世にまで伝え続けようというのですか? ここで終わらせては駄目なのですか?」
「もしもここで終わらせるとするならば、リーフムーンを滅ぼした時しか考えられない。血を絶やそうと考える者がいないのと同じことだ。この血が、そしてリーフムーンが続く限り、途絶えはしない」
「私は、誰かの考えを否定したりしたくはありません。それでもなお、未来を託すべき子どもたちを、見たこともない過去に囚われた亡者にして、得るべき幸せを奪うことは、間違っています」
 ラスタが強い言葉を吐き出すのは初めてだった。彼は今言ったように、人のことを否定したりはしなかった。彼が今どんなどんな想いでこのように告げたのか――確定はできないけれど、想像に難くない。
「だが、それこそが我々にとって正しいことだ」
 いつか誰かが言っていた。歳を重ねると、これまで積み重ねてきたものを守ろうとしてしまうと。そして彼は、シエルがこれまで出会った人物の中で最も老いている。彼の復讐を否定することは、彼がこれまで生きてきたことを、彼の先祖が三百年伝えてきたものを否定することと同じなのだ。その上で、シエルもラスタと同じ想いだった。
 少しの沈黙の後、マグスは表情を変えないまま、口を開いた。
「行くがいい、若者よ。そのためにここに来たのだろう。だが私とて、己の考えを正そうとは思わぬ。この先に行くのなら、私を否定するのであれば、私を倒すことだ。このような老体、倒すのに造作もなかろう」
「そうですね、そうしましょう」
 ラスタは無言で剣の柄に手を掛け、鞘から抜いた。次の瞬間、目にも留まらぬ速さでマグスに詰め寄り、柄でマグスの腹を突いた。マグスはうめき声を漏らす間もなく倒れた。何のために抜いたのかは分からないけれど、この老人を殺すつもりはなかったのだと思った。
「さあ、行きましょう」
「ああ」
 この先にセリィがいる。シエルたちは足を進めた。

 広い空間に出た。反響する足音や見覚えのある祭壇で、ここが最初にアルネトーゼに憑かれた場所なのだと認識した。祭壇の前に人が立っている。後ろを向いていて誰だか見分けは付かないが、彼女こそがラスタの妹なのだろう。
「セリィ」
 ラスタが声をかけると、その人物はゆっくりと振り返った。いつか、乗っていた船を沈められたときには着用していた覆面が、今はない。無気味に感じた目が、今は少しだけ優しく見える。
「来たのね、兄さん」
 セリィは微笑んでいた。本来であれば、美しく魅力的な笑顔なのかもしれない。だが今のセリィは、鎧のようにも見える異形の右手を露わにし、全身に紋章を施していた。
「ラスタ。あんたの妹は死者なんかじゃないぞ」
 セリィの顔に刻まれたアルネトーゼの紋章をじっと見つめ、シエルは告げた。アリアーヌの記憶だ。アルネトーゼは生きた女にしか憑かない。
「そうなのですね、シエル。セリィ、私はやっとここまで来ました。あなたに会うために、ここまで……」
「ええ、兄さん。また会えて嬉しいわ、今度こそ嬉しいの。でも、もう遅い。私はアルネトーゼをこの身に宿した。シエル、あなたは散々嫌がっていたみたいだけど、あの時の私には必要だったの」
 眉間の皺を深くするシエルやラスタとは対蹠的に、セリィは自虐的な笑みを浮かべている。
「今の私にはもう、必要なくなってしまったのよ。あの村は滅んでしまったんですって。滅びを恐れて、生贄を選んで捧げてきたけれど、私があそこで死を拒んだから。恨みを晴らす相手がいなくなってしまったわ」
 セリィはアクアマリンの目にラスタを映しながら続けた。
「滑稽よね。自分たちが生きたいから誰かを犠牲にしてでも生きてきたのに、私が生き延びてしまった、ただそれだけのことで、昔話みたいに滅びてしまうのよ」
 それは必死に同意を求めているようにも見えた。ただ一人の肉親であり、村の最後の生き残りでもあるラスタに。
「面白いのよ。食べ物がなくなって、ヒトを食べるまでの極限状態だったんだって。お話と違ったのは、女神さまという名の生贄が現れなかったこと。あの人たち、私を憎んだかしら。私の憎んだあの人たちは……」
「謝っていましたよ」
 沈黙が続くと思っていた。しかしラスタは、優しい声音でそう告げた。
「謝っていました。小さな女の子に頼ることしかできなかった自分たちを許してほしいと。すまなかったと伝えてほしいと」
「今さら……そんな今さら、今さらそんなことを言われたって、遅すぎるわ。ここまで来てしまったの。たくさんの人たちを殺して、こんなところまで来てしまったのよ!」
「村の人たちはともかく、あなたに殺された人たちは、あなたのことを恨んでいるでしょう。でも、遅いなんてことはないはずです。セリィ、私と共に行きましょう」
 手を差し出すラスタに、セリィはゆっくりとかぶりを振った。今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「無理よ、そんなのできっこない。だって私は復讐者で、あんな馬鹿げた神話を繰り返させたくなかったから、だからこんな……だからその願いを叶えてやろうと言うのだ」
 突如、セリィの口調が変わった。この感覚には覚えがある。
「アルネトーゼか!」
 シエルはあの嫌な感覚を思い出した。きっとセリィも見えている。
「アルネトーゼ、あなたに用はありません。今すぐセリィと代わって下さい」
「何を言う。お前がこの娘を惑わすから、私に助けを求めたのだ」
「あんた、救世主なんだろ? だったらもっと他の方法で救えないのかよ。そんなんじゃ、いつまで経っても同じことの繰り返しじゃないか」
「お前は何か勘違いをしているようだ」
 セリィの姿をしたアルネトーゼは、両手を拡げ、遺跡に遮られた天を仰いだ。
「確かに私は救世主として崇められた。だが人間が私に縋り付くときは、決まって憎しみをぶら下げていたではないか。知らぬとは言わせぬぞ、シエリオル。アリアーヌにひとかけらの憎しみもなかったと言えるか? リーフムーンの民たちは私のことを何と呼んできた?」
 アルネトーゼは表情を変えぬまま、シエルを射抜く。
「信仰は力だ。曖昧な世界では、信じることが力となる。そしてこの者たちは、復讐者としての私を信じた。リーフムーンの民たちは、私を悪魔と信じている。お前とてその一人だ。ならばお前たちが今口にしたような善き力が私にある道理がない」
 確かに、彼女の言葉には説得力があった。そうであると確信しているし、そう信じさせる力がある。
「倒しましょう」
 その瞬間、ラスタの声だけがシエルの耳に入った。シエルは目を剥いた。何か言いたかったけれど、言葉が出てこない。ラスタは苦しみをかみ殺すような表情で、アルネトーゼに顔を向けていた。
「あれは、復讐者に成り果てたアルネトーゼの姿です。あれをあのままにしておけば、マグスのような悲劇を繰り返してしまうかもしれません。それは避けなくてはなりません」
 ――駄目なのか。あたしには駄目だったのか。
 シエルは下唇をギュッと噛んだ。なぜ、こんなことになったのだろう。何もできなかった。何一つなすことができなかった。ラスタが苦しみと悲しみを、奥歯を?んで必死に耐える姿を見ているしかできなかった。
「私を殺すか、それもよい。だがお前にはできない。実の妹をその手に掛けることはできない」
「できます。セリィにこれ以上悲しい思いをさせないために、私がやります」
 ラスタは剣を抜いた。その剣で自分の手を切り、滲み出る血を紋章に塗り付け、呪文を唱える。そうして風を纏った剣の先をアルネトーゼに向けた。
「良いだろう、相手になろう」
「ラスタ!」
 出遅れたシエルを差し置いて、ラスタはアルネトーゼに斬りかかった。アルネトーゼは呪文を唱え、風を纏った手で剣をねじ伏せ、土を伴ったもう片方の拳をラスタの腹部に見舞った。ラスタは呆気なく飛ばされたが、壁にぶつかる寸前に態勢を立て直し、壁を蹴って地面に着地した。
 その間にシエルもアルネトーゼに飛び掛かったものの、アルネトーゼの右手の一振りで飛ばされる。地に叩きつけられ、そのままうつ伏せに倒れた。
 身体じゅうに刻まれた紋章は、ただアルネトーゼを憑依させるものではなかった。あれはアルネトーゼが使える力であり、喉をつぶしでもしない限り、アルネトーゼはあの力を使い続けるだろう。
 アルネトーゼは倒れたシエルを気にも留めず、また呪文を唱えた。すると天井の一部が崩れ落ちてきた。その下にはラスタがいる。
「ラスタ!」
「ああああ!」
 ラスタは叫び声を上げた。崩れる音に呑み込まれる。ラスタは脚が瓦礫の下敷きになっていた。上半身は難を逃れており、幸いなことに一命は取り留めていた。
「ちっ、クソッたれが」
 今の衝撃で痛む身体を叩き起こし、シエルは腰のダガーを抜いた。紋章を施したダガーだ。こんなヤツとラスタ抜きに戦わなければならないのか。そう思うと肌が粟立ったが、戦わなくては生きてこの遺跡から出ることもできそうにない。シエルは内心怯みながらも、それを面に出さぬよう、キッとアルネトーゼを睨みつけた。
「まだそのような力が残っていたか」
「はっ、伊達に疾風のシエルなんて名乗ってないさ」
 シエルはダガーで自分の手を切った。痛いけれど、今しがたアルネトーゼにやられた痛みに比べればなんということはない。これならば無人島で負った傷の方が何倍も痛かった。滲む血を彫った刀に塗り付ける。見よう見まねだから、うまくいくかは分からない。そもそも、その紋章がどの呪文なのか思い出せない。ただ、ダガーには紋章が彫ってあり、そのどれかに該当する呪文は全て覚えている。それが今のシエルの真実だった。
「アッギ、ハヴァ、セート、ジヴィ」
 ダガーを唱えたものが包む。刃は火を纏い、風を伴い、土を巻き上げ、雷を宿した。ラスタやクリム、ケン、プライムの想いを込めた紋章剣が力を宿す。シエルは床を蹴って、雄叫びを上げながら、その名に恥じぬ速さでアルネトーゼとの間合いを詰める。アルネトーゼからも様々な紋章術が飛び出した。土が足を取る。火が皮膚を焼く。風が切り裂く。痛い。逃げ出したい。けれどシエルは止まらなかった。そして――。
「あっ」
 シエルのダガーがアルネトーゼの、いやセリィの腹部に突き刺さった。
 傷口から熱い血が流れる。血はダガーの柄を伝い、シエルの手を伝い、シエルの衣服を濡らした。シエルはダガーを握る手に力を込めた。ダガーはより深くセリィの腹部に呑み込まれていく。
「ごほっ」
 セリィの口から血があふれ出る。態勢を低くしていシエルの頭にかかった。シエルには、自分に付着した血が自分ののなのかセリィのものなのか、判別がつかない。ダガーから手を離し、背筋を伸ばす。反対にセリィは、腹部を押さえながらうずくまり、地に手をついた。
「私の弱さが、敗因ね」
 その言葉はもはや、アルネトーゼのものではなかった。痛みがセリィを目覚めさせたのかもしれない。
「シエル、止めをお願いします。アルネトーゼは私が一緒に連れて行きます。アルネトーゼの悲劇を、憎しみの連鎖を、ここで終わらせるために」
「ああ、そのつもりだ」
 シエルに託したことで安心したのか、セリィはラスタに微笑みを向けた。
「私ね、兄さんがずっと捜してくれてたと知って、嬉しかった。こんなに兄さんに想われて、私は幸せな妹よ。だからお願い、これからは自分のために生きて」
 セリィは笑顔だった。醜い姿になってしまったけれど、とても美しい笑顔だった。シエルは笑っているセリィの心臓を、もう一振りのダガーで貫いた。セリィの顔から生命の色が消えた。彼女の身体には、二本のダガーが突き刺さっている。それを抜く力は、すでにシエルには残っていなかった。
「見えました。私には、セリィの笑顔が見えました」
 ラスタは今、泣きたいだろう。シエルはそんなラスタの代わりに、涙を流した。
「そうか、見えてたか」
「はい。シエル、妹を、セリィを救ってくれて、ありがとうございます」
 シエルはかぶりを振った。お礼なんかもらうようなことは、何もできなかった。救ってなんかあげられなかった。それでもラスタがそう言うのであれば、救えたのだろうか。
「礼を言うのはこっちの方だ。ラスタ、今瓦礫をのけるから待ってろ」
 ラスタの側にしゃがみ、瓦礫をのけようと力を込めたけれど、ピクリともしない。今の戦闘で相当消耗したようだ。そもそもシエルは、お世辞にも力持ちとは言えない。腹が立って、瓦礫を蹴った。
「何かテコになりそうなものでも捜すよ」
「はい、待っています」
 その時だった。遺跡がガタガタと揺れ始めた。上から遺跡が風化したものと思われる砂や埃が落ちてくる。
「何だっ!?」
「崩れようとしているのかもしれません。アルネトーゼという主を失い、戦いの衝撃もあって今の状態を状態を維持するのが困難になっているのでしょう。シエル、私を置いて早く脱出してください」
「何を――」
 何を言うのだ。たった今セリィが残した願いを違えるつもりなのか。
「セリィの言葉は分かっています。けれど、ここで二人とも死んでしまうのは、もっとよくないことです。だからせめて、あなただけでも」
「馬鹿なことを言うな!」
 シエルは必死にラスタの足下の瓦礫を持ち上げようとした。だがやはり、一向に持ちあがる気配がない。火事場の馬鹿力なんて大嘘だ。
「あたしだけ助かったって意味ないだろ! これからのこと一緒に考えるって言ってたのは、あれは嘘だったのかよ!」
「シエル、早く」
「あたしは!」
 走馬灯のように浮かぶ、クリムゾンテイルの仲間たち――ユーノ、イル、サリの顔。メーレの死に直面したクリムの悲しみと憎しみ、最愛の夫と息子を失ったアリアーヌ、最後に微笑みを残して死んだセリィ、泣くことのできないラスタ。シエルはそれらを振り払うように激しくかぶりを振った。
「あたしはもう、誰も失いたくない」
「シエル――」
 その時、凄まじい音を立てて天井の石が剥がれ落ちてきた。それはシエルの頭上へと降りかかろうとしている。シエルは咄嗟に、ラスタに覆いかぶさった。



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