アルネトーゼ

#01.邂逅


 月明かりの映る美しい海に囲まれたリゾート小島、リブル島。手つかずの自然も少なからず残っており、鳥や虫たちの声が遠くに聞こえる。そんな静かで幻想的な夜を、複数のけたたましい足音と、野太い声が一変させた。

「侵入者だー!」

 遠くから確実に近づいてくる警備兵たちの声。自分の足音と心音、そして荒い息遣いが大きく聞こえる。いつもなら見つかるなどという失敗はしないはずなのに、その日は運が悪かったのか――侵入した屋敷で不覚にも見つかってしまった。隠れられそうなところを見つけ、ひとまず身を隠す。息を殺し、足音に気を付けつつ様子をうかがい飛び出すと、警備兵の一人にしっかりと姿を捉えられた。

「いたぞ、こっちだ!」

 空色の目を不機嫌そうに歪め小さく舌打ちをした二十歳前後の女は、硬質のくすんだ金髪を揺らしながら、勢いよく追いかけてくる警備兵を嘲笑うかのように、軽やかに駆けていた。しかしそんな彼女の身軽さも、狭い廊下では意味をなさなかった。
「もう逃げ場はないぞ。観念しろ、このドロボウめ!」
 もう駄目だ、捕まる。諦めが脳裏をよぎったその時、「こっちだ」という微かな男の声をキャッチした。女は一瞬天井を見上げ、赤い髪の男を認めると、警備兵の手が届く寸前に、天井に向かって跳躍した。そのまま男と合流して天井の上を素早く移動し、屋敷から脱出した。
「陽動ご苦労。おかげで大成功だ」
 二十四、五歳ほどのその男は、右の頬に大きな刃傷のために目立つ顔を女に向け、白い歯を見せた。その一方で女はというと、呆れたように笑った。
「何が陽動だよ。あたしのヘマを逆に利用するなんて、よく咄嗟に思いつくもんだ」
「状況は常に変わるからな。いいじゃないか、失敗で終わらなかったんだから」
「言えてる」
 男の手には、本日の戦利品ともいえる大きな袋が提がっている。中にはあの豪邸に保管されていた貴金属類が詰め込まれているのだろう。とりあえずの成功を喜び、二人は拳を突き合わせた。

 二十人ほどがねぐらにしている山のアジトへ戻ると、アジト内ではすでに宴会が開かれていた。まだ成功の報せを出したわけではないのに気の早い奴らだと、金髪の女シエルは苦笑いを浮かべた。
「おっ、お帰りリーダー! 成果は?」
 戻ってきたシエルたちを真っ先に出迎えたのは、覆面で口許を隠し、糸のように細い目だけを出した、シエルと同年代の女、サリである。サリの問いに、シエルと刃傷のある男ユーノは目を合わせ、戦利品を床の上に無造作に置いた。袋の口から輝く貴金属類が漏れ出る。
「おおー!」
 アジト内に歓声が響く。二人の成果に早速サリは手を触れ、キラキラ光る宝石を手にしてシエルを見上げた。
「やっぱりすごいや! 策士ユーノと疾風のシエルのゴールデンコンビは格が違うね!」
 嬉しそうに言われるたび、シエルはむず痒い気持ちになって、苦笑いを浮かべる。ゴールデンコンビとは大げさだ。今回の手柄は、ほとんどユーノのものなのだから。そんなサリの横から、細い体躯にギョロリとした隻眼が特徴的な男イルがひょっこりと現れ、ユーノに盃を勧めた。
「まあまあ、今夜は祝杯といきましょうや、ユーノさん」
「イル、あんたは祝杯じゃなくても、いつもいつもいっつも飲んでるじゃないか」
 すでにほろ酔い加減のイルの腹部に、呆れ果てたサリの容赦なく鋭い肘鉄が入り、イルは腹を抱えてうずくまった。ユーノもシエルも、その様を見て豪快に笑った。
「はっはっは、全く、サリの言うとおりだ。だが悪くはないね、一杯もらおうか」
 イルはうずくまったままではあるが、緩んだ顔だけを上げた。
「さっすがユーノさん、話が分かる! それに比べてサリといえば、俺が酒を持ちだせば説教ばかりだ。ささ、俺がお酌をしますよ」
「こらイル、抜け駆けは許さないよ!」
 サリの怒声などなんのその、イルはつい今しがた腹を抱えていたのが嘘のように元気に起き上がり、満面の笑みでユーノに盃を渡した。イルとユーノがよろしくやっているのを眺めながら、サリはサリで対抗心を燃やしているのか、シエルに杯を押し付けた。
「シエル、こっちも始めようよ。ほら、あたしが注いでやるからさ」
「なんだ、偉そうだな。まあ折角だからもらうとするよ」
「そうそう、そうこなくっちゃ」
 サリは細い目をさらに細め、シエルの杯になみなみと酒を注いだ。シエルは決して酒に弱いわけではないものの、疲れていたのか、はたまた安心感からか、飲み始めてから酔いつぶれるまで、そう時間はかからなかった。


 一つの部屋で色々な人が雑魚寝をすれば、寝相の悪い者に蹴られもするし、いびきや歯ぎしりにうなされることもあるだろう。床には酒樽が散乱し、それに寄りかかるようにして寝ている者もいる。宴会後の闇の中には、酒のにおいが充満していた。
 そこに例外なく紛れ込んでいるシエルの夢の中もまた、暗闇だった。それは本当に夢なのだろうか――女の姿をした光が現れた時、確信へと変わった。
『見つけた』
 光は少しずつ近づいてきているのか、徐々に肥大化していく。
『三百年の封印を解け。我を解き放て。時は満ちた。今こそ我を――』
 暗闇が光に呑み込まれそうになった時、夢ではなく現実でシエルは覚醒し、素早く起き上がり、激しく首を振った。辺りを見回しても夜の闇が広がるだけで、耳には心地の良い鈴虫の鳴き声が聞えるだけだった。ただの夢だとしても、暗闇の冷たさや女の声が妙な現実感を伴っていて、思い出すだけでも首筋が粟立つ。前髪を掻き上げると、生え際が汗で濡れていた。
 ――夢、なのか?
 きっと夢だ。夢に違いない。なぜならば、今見ている暗闇こそが現実だからだ。夜の静けさも、この肌寒ささえも。シエルはもう一度頭を振って、再び床に就いた。


 夜が明け、日が天高く上った頃、ようやく雑魚寝をしていた連中が目を覚まし始めた。夢のこともあり真っ先に起きたというより、もう一度寝付くことのできなかったシエルは、外に出て井戸の水を汲み、だらしのない奴らだと胸の内でぼやきながら顔を洗った。変な夢で酔いも醒めたものと思っていたが、冷たい水が気持ちよかったのは、昨夜の酒がまだ残っているからなのかもしれない。
「シエル、早いね……」
「サリか」
 サリは糸目をこすりながらシエルの隣に来て、冷たい水で顔を洗い始めた。何が早いものかと苦笑しながら、シエルは自分の髪を乱暴に結んだ。
「どうせ二日酔いだろう?」
「うるさいね」
「それよりも、ユーノがまだ起きてきてない。珍しいこともあるもんだな」
 シエルは幾許かの皮肉を込めた。サリが大きく溜息を吐く。
「イルの野郎だよ。世界中の酒豪を集めても、あいつに勝てるヤツはいないんじゃないか? その上飲み癖が悪いときた。だからいっつも止めてるっていうのに」
「そう言ってやるな。あいつから酒を奪ったら、発狂して使い物にならなくなる」
「違いない」
 二人で高笑いをしているところに、ユーノがのっそりとした動きでやってきた。
「おはよう、二人とも。朝から元気だな」
「そういうあんたは、もう起きて大丈夫なのか?」
 シエルはからかうように尋ねた。どうせシエルやサリの高笑いが頭に響いたのだろう。ユーノはムッとして、「まだ心配されるような歳じゃない」と反論した。サリがおかしそうにカラカラ笑う。
「今は歳の話はしてないけど、実際クリムゾンテイルじゃ最年長だ。そのユーノ様がしっかりしてくれなきゃ、あいつらは纏められないね」
「そうは言っても、お前たちとは四つも変わらないぞ」
「そうムキになるなって。それよりさ、そろそろ他のヤツらも起きてくるんじゃない? 次の作戦会議がしたいよ」
 サリの申し出に、シエルは思わず頭を振った。
「おいおいサリ、でかい仕事が終わったばかりじゃないか。まだいいよ」
 そのでかい仕事というのも、ほとんどがシエルとユーノの働きによるものだったし、アジトの連中は何もしなかったではないか。だからどれだけ大変だったかも考えずに、呑気にそんな話ができるのだ。口にはしなかったが、シエルはそう思っている。それに、昨夜の夢のこともあって、今は乗り気ではない。逆にサリは、なんとかシエルを乗せようと必死だ。
「それじゃあ駄目だよ、シエル。あたしら盗賊団クリムゾンテイルは、生活のために盗みをやってるチンケな盗賊じゃないだろ。いつか世界じゅうに名前を轟かすすごい盗賊団にならなきゃいけないんだ!」
「分かった分かった」
 このままではシエルが納得するまで熱っぽく語りそうで、シエルはうんざりした。
「それで? サリは次の標的をどう考えているんだ?」
 サリは待ってましたと言わんばかりに目をキラキラと輝かせた。
「ウェルダー家だよ!」
 その一言に、シエルとユーノは互いに顔を見合わせ、「ウェルダー家だって!?」とオウム返しをした。
「お前、まさか本気じゃないよな?」
 怪訝そうに尋ねるシエルに、サリは本気も本気と全力でうなずいた。
「本気に決まってるじゃないか。あたしが冗談を言っているように見えるの?」
「いや、見えないけど。だってウェルダー家だろ? あのウェルダー家だよな?」
「あのも何も、ウェルダー家っつったらひとつしか知らないよ」
 サリは清々しいまでに言い切った。なんということだ。シエルは頭を抱えた。ウェルダー家といえば、リブル島に三百年の歴史を持つ、由緒正しい貴族の家だ。警備の堅さだってこれまでの非ではない。昨日襲った家だって、リブル島の中でも五本の指に入るほどの大富豪の家ではあったものの、それが成功したとはいえ、警戒を強めていると予想される屋敷をすぐに襲うのは無謀というものである。
 そこまで考えて、不意にシエルは夢のことを思いだした。
 ――三百年? これは偶然なのか?
 夢には知っているものしか出ないと、どこかで聞いたことがある。だからその三百年というのも、ウェルダー家のことを覚えていたというだけのことだろう。もしかすると、サリがとんでもないことを言いだすことを予知したのかもしれない。馬鹿馬鹿しいけれど、夢のことはそう考えることにした。
「まあ、いいじゃないか。とりあえず、まずは偵察だけすればいい。実際に決行するかしないかは、その結果で考えればいいことだ」
 ユーノまでもが無責任にそんな発言をするので、シエルはいよいよ頭が痛くなってきた。
「その偵察をするのは、どうせ今回もあたしなんだろう? もう分かってるんだよ」
「そんなことを言いながら、シエルはいつも真面目に正確にこなしてくれるからね、非常に助かるよ」
「うるさい、黙れ」
「じゃあ、そのことは他のヤツらに伝えておくね」
 サリが二日酔いなど吹き飛ばしたかのように勇み足で駆け出したのを、ユーノが「いや」と引き留めた。
「伝える必要はない。その時になってからで充分さ」
「そうかい? まあ、リーダーがそう言うのなら……」
「じゃあシエル、頼んだよ」
 シエルは返事の代わりに、フンと鼻を鳴らした。
 ユーノは、シエルやイルとサリ以外の仲間たちを信じていない。仲間とすら見做していないだろう。サリは面倒見がいいから、他の仲間たちとも打ち解けようと努力しているし、イルはあの面で恐れられても、気さくだからどんどん輪に入っていく。しかしユーノはいつまでたっても鉄仮面を外そうとしない。
 シエルはといえばいつも孤独だった。ユーノやイルやサリといる時以外は、他の仲間たちと楽しく喋っても、飲んでも、笑っても、孤独感を拭うことはできなかった。共に過ごした時間だけが仲間意識を持たせるわけではないのだと、シエルは知っている。ユーノやイルやサリがシエルを認めてくれたのも、決して過ごした時間の長さではなかったからだ。



 結局サリの提案通り、シエルの持ち帰った情報を基に作戦を組み、その日のうちにウェルダー家に侵入することになった。まずユーノが南の壁から屋敷に侵入する。その際に警備を攪乱するのがシエルとイルとサリだ。他の者たちは待機、合図を待って金庫を襲うという手筈である。
「では皆、幸運を祈る」
 ユーノのその言葉を号令に、皆一斉にそれぞれの持ち場へ散った。シエルが腰にはいた一対のダガーに触れている隣で、サリが両こぶしを握って気合を入れている。
「シエル、思い切って目立ってやろう! こっちにはゴールデンコンビが揃ってるしね、百人力だ!」
「おいおい、目立つのはいいが、そいつは過大評価ってもんだよ。おっと、合図だ」
 異変に気付いた警備員たちが騒ぎ始める。同時にシエルは息をひそめ、所定の位置まで忍び寄り、一気に飛び出した。
 シエルたちは持ち前のすばしっこさで警備員たちを攪乱した。殴って気絶させたりもした。
「なんだよこいつら、まるで手ごたえがない」
「油断するなよ、サリ」
 そもそもウェルダー家の警備がこの程度であるということに、シエルは胡散臭さを拭い去れずにいた。思ったよりも手薄で幸運だ、などとは到底思えない。そしてその予感は的中することとなる。
 突如目の前に、これまでの雑魚とは違う空気を持つ男が現れた。夜なので分かりづらいけれど、身体はそんなに大きくはない。旅の剣士なのか、皮のマントを纏い、腰には剣を提げている。偵察の時このような男は確認できなかった。ウェルダー家の当主が雇ったのだろうか。なんにせよ確実なのは、この男は決して只者などではなく、強いということである。空色の目で男を睨みつけるも、男は目を閉じていた。
「あなたは何者ですか?」
 敵意をむき出しにしているシエルに、男は警戒の色を見せなかった。口調も穏やかだ。
「そんなことを聞いている場合かい、用心棒さんよ。戦うつもりがないんなら、さっさとそこをどきな」
「戦うつもりがないのは確かなのですが、あなたの気配が他の方と違うのが気になって……」
「意味が分からないね。なんでもいいから、早くそこをどきな」
 このままでは、よく分からないこの男にペースを乱されてしまう。いや、すでに乱されている。シエルはダガーを二本とも抜き、刃先を盲目の剣士に向けた。剣士はというと、両の手の平を胸の前に出した。
「ま、待ってください。私はあなたとは戦いたくないのです」
「あんたの気持ちなんか関係ないんでね」
 シエルは男がなおも何かを言おうとするのも構わず斬りかかった。男はすぐに反応して、何やら古い文字の書いてある剣を抜き、ダガーをはじく。キン、と金属のぶつかる音がする。骨のある男だ。シエルは嬉しくなり、上唇を舐めた。
「そうでなくちゃな」
「待ってください、話を――」
「待つかよ!」
 地面を蹴り、今度は足を払う。男はそれを軽々と後ろに跳んで避けた。シエルはすかさず次の手を繰り出す。しかしシエルの攻撃は、全て難なく避けられた。
 この男、やはり只者ではない。そう思った時、今度はシエルが足を払われ、男に後ろから羽交い絞めにされた。それを目撃したらしいサリの叫び声が耳を貫く。
「シエル!」
「かまうなサリ!」
 サリはシエルの気迫に圧され、その場を逃げ出した。そこに神経質そうな男――ウェルダー家の主人であるサンティスが現れた。近くで傍観していたのだろうか。
「ラスタ様、すばらしい。この者は悪名高い盗賊団クリムゾンテイルの有力人物である、疾風のシエルです」
「そうなのですか」
 ラスタ――その名にシエルは慄いた。ラスタといえば、盲目でありながら、道中襲ってきた野盗集団をたった一人で返り討ちにしたという伝説から「盲神ラスタ」と呼ばれる、大陸の剣豪の名ではないか。リブル島から出たことのないシエルでさえも、その名を知っているほどに有名な人物だ。そのような男がなぜ、このようなリゾート小島で、こんな屋敷の用心棒などをしているというのか。
「くそっ、離せ!」
「大人しくしてください。いえ、騒いでくださった方が、他の者たちに聞こえていい牽制になるのでしょうか。ラスタ様、あとはお願いします」
「分かりました」
 それだけを告げて、サンティスは去っていった。シエルはどうにかラスタの手から逃れようと、必死にもがく。
「離せこの野郎!」
「あなたに聞きたいことがあります。答えていただけないと離せません。あなたは何者なのですか? セリィという名に心当たりはありませんか?」
「あたしが何者かは、さっきあのいけ好かない野郎が言ってた通りだ。セリィとかいうのは知らないね。答えたんだからさっさと離しやがれ!」
 もがくシエルの肘がラスタの腹部に入った。ラスタが怯みシエルを捉える手が緩んだその一瞬を逃すはずもなく、シエルは素早くラスタの腕から逃れた。
 風のように逃げるシエルに、ラスタが手を伸ばす。
「待ってください!」
 待つわけないだろ、と心の中で悪態をつきながらシエルは屋敷を飛び出し、茂みへと飛び込んだ。すると茂みの向こうは崖か坂だったらしく、シエルは転がり落ちた。
 ――くそっ、なんでこんなところに崖なんかあるんだよ。
 ようやく止まって起き上がると同時に辺りが明るくなった。空を見上げると、満月が雲から顔を出している。これでは盗みが成功するはずもない。初歩的なミスをしたものだ。慢心があったのだろう。だがユーノが果たしてこれに気付かなかったのだろうか。もしや、ユーノは失敗するよう仕組んだのではないか。そんな疑念が一瞬よぎった。目の前には大きな石造りの遺跡が建っている。このようなところにこのような建造物があったことを初めて知った。
 ゆっくりと立ち上がったシエルは、何者かに背後を取られたことに気が付いた。ラスタがここまで追ってきたのか。咄嗟にダガーに触れたシエルの耳を、「俺だ」と聞き慣れた声が揺らす。
「ユーノか、びっくりさせやがって」
 一瞬とはいえユーノへの疑念があったためか、若干居心地が悪い。
「無事みたいでよかった。サリに聞いて、助けに来た」
「心配ならお無用さ。ひとりで逃げ切ったんだ」
「危険だったのは事実だ。お前はクリムゾンテイルに必要な人間なんだから、それを自覚して行動してくれ」
「ったく」
 それでも、彼の言葉は心底嬉しかった。シエルのことを全く認めてくれなかった日が遠く懐かしい。
「サンティスのヤツ、凄いヤツを雇ってたよ。聞いて驚け、なんと、あの盲神ラスタだ」
「何? あの盲神ラスタか? どうしてまた」
「私から申し出ました」
 突如二人の会話に割って入ってきたのは、あのラスタだった。
「ユーノ、こいつだ」
「何っ、逃げるぞ!」
「あ、そっちは!」
 ユーノがシエルの手首を掴み、遺跡に駆けこむ。その先は行き止まりではないかと思ったけれど、付いて行くより他はなかった。
 遺跡は見た目よりも広く入り組んでいた。何かの神殿のようにも見える。真っ暗なのにそう思えたのは、来たことのないはずのこの遺跡を、不思議と知っていたからだ。あるいは、何か特別なものに呼び寄せられているのかもしれない。もしかすると、それは昨夜の夢に現れた人型の光。根拠はないが、半ば確信していた。気が付くと逆にシエルがユーノの手を引いていたし、シエルはその感覚が強くなる方へと走っていた。
 そうして辿り着いたのは、光が夜の星のように点在する広い空間だった。星空の中に立っているような気分になる。その中央に、淡く光る剣が突き刺さっていた。
「ここは……」
 ユーノの唸り声が鼓膜を揺らす。シエルの目には、光る剣がただ映っていた。謎の声の主はここなのだろうか。直感的にそう思い、シエルは剣に近づいた。地に突き刺さっているように見えていた剣は、女性の形をした石像を祭壇に縫い付けているようにも見える。なんとも恐ろしい形相の女性である。
 シエルは光る剣に手を伸ばした。その柄に触れた瞬間、剣はその光を強くした。
「シエル!」
 側にいるはずのユーノの声が遠く聞こえる。代わりに、男のものなのか女のものなのか判別のつかない声が頭に響いた。
『ようやくこの時が来た』
『我が望みし時』
『三百年の忌むべき封印から逃れる時』
 最後の言葉と同時に、シエルの意識は遠ざかっていった。


 突然剣が強い光を放ったかと思えば、光が消えるとともに剣も砕け散った。シエルは虚空を見つめ動かない。しかし呼吸はしているようだ。その様を見て、ユーノは言いようのない不安に襲われた。
「シエル?」
 ユーノが声をかけると、シエルはゆっくりとユーノに顔を向けた。その左顔面には、血のように真っ赤で不気味な文様が刻まれていた。いつの間に現れたのだろう。遺跡に入る前にはなかったはずだ。シエルが口を開く。
「私はそのような名ではない。我が名はアルネトーゼ。三百年の眠りより目覚めし復讐者である」
 それはシエルから発せられた、紛うことなきシエルの声であった。ユーノは目を細めた。
「何だそれは、気に入らないな。悪ふざけも大概にしないと怒るぞ、シエル。いや、あんたは何だ。俺はあんたの復讐になど興味もなければ関係もなはずだ。分かったらさっさとシエルを返せ、亡者め」
「ふっ、若造が言ってくれる。お前に我が悲しみの深さなど分かるはずもないだろうが……まあよかろう。我が邪魔をする者は、この手で葬ってくれる」
 同時に、アルネトーゼと名乗ったシエルがダガーを一本抜き、ユーノに斬りかかった。ユーノはすんででそれを避けた。この鋭い剣筋はシエルのものだ。よく分からない何かに身体を乗っ取られているが、相手がシエルである以上、下手に手出しできない。
 突き出された右手を掴み、捻ってシエルの手からダガーを離させる。しかし彼女の左手がもう一本のダガーを抜き、ユーノの左頬に傷をつけた。大きな刃傷が十字傷になった。頬を伝う血を手の平で乱暴に拭う。すぐさま殺気を捉え、再び繰り出された突きを半身で避けると、足をすくわれ、地面に組み敷かれた。ダガーの剣先がユーノの喉元できらりと光る。
 万事休すか――そう思い目を伏せると、どこからか歌声が聞こえた。男だ。その声が空間を支配し、不思議なことにアルネトーゼの様子が変化した。
「や、やめろ……」
 些か震えているようにも見える。そして次の瞬間、ダガーを地に落とし、頭を抱えて絶叫した。それでも歌声は止まなかった。
 そうしてアルネトーゼもといシエルは、意識を失い、ユーノの上に倒れた。響いていた足音は、彼らを追っていた盲目の剣士のものだった。

 ユーノがシエルを背負い遺跡を出た頃には、空が白んでいた。アジトに戻り、シエルを別室のベッドに寝かせる。シエルが目覚めてから少しだけ言葉を交わし、部屋から出る頃にはすっかり日が高くなっていた。そしてそこには、当然のようにラスタがいる。遺跡の中では彼に助けられた。あの状況では、ラスタの歌がシエルを呼び覚ましたとしか言いようがない。だから何も言わずについてきた彼のことは特に気にしなかった。
「良かったのか、ラスタ? ウェルダー家の心強い用心棒が姿を消して、今頃サンティスのヤツ、大目玉だぜ」
 ユーノの皮肉に、ラスタは苦笑を浮かべた。
「いいのです。本当の目的は、シエルと接触することでしたので」
「シエルと? 確かにあいつは、島の中じゃ有名だ。だが大陸の風剣士がなぜシエルを知っている?」
「いえ、知っていたわけではありません。ただ、たまたますれ違った時に、彼女の気配が妙だと思ったので気になっていました。思えば、あれはアルネトーゼとやらに関係があったのかもしれませんね。しかし逆効果だったようです。私が彼女と話そうとしたがために、あの遺跡に逃げ込んで、結果的にアルネトーゼを目覚めさせてしまったようですから」
「いや。状況如何にかかわらず、あいつは何らかの形であの遺跡に向かうようになっていたのかもしれないな。そもそも、あそこに逃げ込んだのは俺だ」
「ところで、シエルの様子は?」
「ああ、遺跡は取り戻した。ただ――」
 ユーノは目を伏せた。
「全部覚えているらしい」
「そうですか」
「あんたには礼を言う。シエルを正気に戻してくれてありがとう。あと、もう一つだけ頼みたい。俺はこの通りあいつに殺されかけた身だから、あいつは俺に会いたがらないだろう。代わりにシエルに会ってきてほしい」
 ユーノの頼みは、ラスタにとっては取るに足らないもののはずだ。ラスタはうなずいた。

 シエルは部屋で呆然と窓の外を眺めていた。誰かが扉を叩く音がその耳に飛び込む。今は正直誰とも顔を合わせたくないが、ノックの主がラスタだと名乗ったので、入るよう促した。
「失礼します」
 ラスタは音を立てないように扉を閉め、シエルに歩み寄った。シエルはラスタの顔を見ようとはしなかった。
「酷い顔ですね」
「分かるのかよ」
「声で分かりますよ」
「そうかい」
 シエルは両手で頭を押さえた。
「覚えてるんだよ、全部」
 絞り出した声は、我ながら情けないくらいに震えている。
「復讐者だって? この手がユーノを殺そうとした。本気だった。復讐なんて、思い当たることないのに」
「それはあなたの意思では――」
「ああ、そうだ。分かってる。でも、あいつは今もあたしの中にいるよ。なんであたしに憑いたのかはさっぱりだけど、いずれまたあたしの意識を押しのけて現れて、ユーノに手を出すかもしれない。ユーノだけじゃない、イルやサリや、他のヤツらにだって……。そんな状態でここにいられるわけがないってのは、自分が一番分かってるさ。けど、どこに行けばいいのか分かんないんだ」
 ずっと一人だった。そんなシエルの唯一の居場所がクリムゾンテイルなのだ。少なくとも仕事さえこなしていれば、居場所は保障されていた。だがシエルがどう思おうと、大切なものも居場所も、両方守ることなどできはしないのだ。そんなシエルに、ラスタが一つの提案をした。
「それならば、私と来ますか?」
「え?」
 シエルは大きく見開いた目をラスタに向けた。


 ラスタと話してすっかり覚悟を決めたシエルは、自分の荷物を整理し始めた。あまり大荷物になってはいけないが、あまりに荷物が少なすぎて必要なものがないのもよくないと、道具を取捨選択していく。そんなシエルの背中に、ユーノが声をかけた。
「行くのか」
 その声には淋しさや悲しさが入り混じっており、シエルは胸が締め付けられるようだった。
「ああ」
 シエルはユーノの方を向くことなく続けた。
「ラスタが、どうにかできるかもしれないってね。あたしもさ、どうにかしたいんだよ。ここにいたいからさ。ここがあたしの居場所だって思ってるから。そのために、あたしは行くよ」
 シエルは立ち上がり、ユーノの方を向き口許に小さく弧を描いた。
「大丈夫、必ず戻ってくるよ。だって家族みたいなもんじゃないか、あたしたち。それに、あたしはあんたと仕事をするのは、意外と嫌いじゃないんだ。ゴールデンコンビって呼ばれるのも、照れるけど悪くはない。だから、あたしが帰ってくるまで待ってな。心配いらないさ。何せ、あの盲神ラスタが付いてるんだから」
 シエルの言葉を聞き、ユーノはフッと微笑んだ。
「全く、普段はこれっぽっちも乗り気じゃないくせに、よく言う。ああ、待ってるよ。お前の場所は空けておくからな」
「ありがとう。すまなかったな、十字傷にしちまって」
「気にするなよ」
「シエル!」
 飛び込んできたのはサリだった。サリはつかつかとシエルに歩み寄ると、喧嘩を売るかのごとき勢いでシエルを怒鳴りつけた。
「いいか、あたしらの盗賊団にあんたたちゴールデンコンビは必要不可欠! だから絶対早く帰ってきやがれ、いいな!」
 サリの勢いに気圧されながらも、シエルは微笑みを浮かべた。
「ああ、必ず」
「じゃあ――」
 イルの妙にご機嫌な声に、シエルは嫌な予感がした。
「船出の杯だ、飲み明かそうぜ!」
「ふざけんなイル、あんたはシエルをダシに、ただ飲みたいだけだろ!」
 飲みたがるイルをサリが怒り、その様子をシエルとユーノが呆れながら笑いながら眺める――そんな光景ともしばらくお別れかと思うと、シエルは淋しくなった。



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