アルネトーゼ

#02.船旅


 東西に長く広大なジンガー大陸の東部を統治するリーフムーン王国――その王都へ向かう大きな船にシエルとラスタは乗っている。島で聞き慣れた船笛がいつもより大きく聞こえるのは船に乗っているためだけではないだろう。頭痛に耐えつつ手を振るシエルの視線の先では、リブル島の波止場から同じようにユーノたちが手を振っていた。
 王都セルナージュといえば、水の都としてシエルの耳にも入っている。街はずれに大規模な港を擁し、交易船なども数多く停泊するため、国内外を問わずあらゆる物品と情報とが集まる街だ。そんな王都は、同じくリーフムーン王国領に属しているリブル島の抑圧された若者にとっては、一度は行ってみたい憧れの、魅惑の街である。こんな形でなければ、単純にこの出発を喜ぶことができたのに。シエルは溜息を吐いた。
 船に乗る直前のことを思い出した。ユーノとラスタが二人だけでこそこそと話しているのを見たのだ。シエルはというと、ユーノが最後に言葉を交わす相手に、ずっと側にいたシエルよりも、会ったばかりの風剣士を選んだことが面白くなかった。そりゃ、毎日あれこれ話しているのだから、わざわざ話すようなことだってないと分かっている。やがてリブル島が見えなくなった頃、すっきりしない気持ちのシエルは、早速ラスタに問いかけた。
「なあ、さっきはユーノと何を話してたんだよ?」
「ああ。シエルをよろしく頼むと言われました。世間知らずだから、足を引っ張らないか心配だと」
「ちっ、ユーノのヤツ、余計なこと言いやがって」
 様々な要因が重なり、頭がガンガンする。溜息を吐くと共に、うんざりしたように頭を抱えていると、ラスタがシエルの背中にそっと触れた。
「大丈夫ですか? 辛いですか?」
 シエルの様子を目視で確認できないラスタが言うのであれば、足音がおかしいか、息遣いが違うかなのだろう。彼に誤魔化しは通用しない。シエルは力なく笑った。
「正直なところ、全く大丈夫じゃないよ。ゆっくり休める場所がほしいもんだ。できれば、揺れないところ」
「揺れないところは、しばらく我慢するしかありません。船室に入れば横たわることもできるでしょう。行ってきてはいかがですか? それとも風に当たっている方が楽でしょうか?」
「どうだろうね。とりあえず行ってみる。ここにいても何も変わりそうにないからね」
 シエルは覚束ない足取りで船室へと歩いた。
 頭痛の原因は明確である。昨夜の宴で、しばらく会えなくなるからとユーノがぐいぐい酒を勧めたのだ。ユーノだけならまだしも、生粋の酒豪イルに、場の雰囲気に流されたサリまでもが次から次へと杯を満たしてきた。シエル自身も淋しくないといえば嘘になるから、三人からの杯は断れなかった。その結果が二日酔いである。それに加え、初めての船旅で早くも酔うという、まさに酔いのダブルパンチを喰らっているのだ。流石の疾風のシエルといえど、海では持ち前の素早さを発揮できそうもない。そのままふらふら歩いているうちに、何かにぶつかった。
「おっと、すまない」
「いや、こちらこそ……」
 口許を押さえながらゆっくりと顔を上げる。シエルに向けて白い歯を出していたのは、五十代前半くらいの、背はそんなに高くはないが、体格のいい男であった。日に焼けたのか肌は浅黒く、妙な存在感がある。
「なんだ、気分でも悪いのか。一人か? 船室まで連れて行こうか?」
「いや、結構だ」
 普通に考えて、軟派にしても少し頭が悪いのではないか。そう思って適当にあしらった。
「そうツレないことを言いなさんな。それじゃあ船室にたどり着く前に倒れるぞ。あんたの面倒を見てくれる人間は? 人の親切は受け取っておいた方がいい」
 なぜか出会ったばかりの男に説教をされ、面倒くさくて諦めたシエルは「じゃあ頼む」と答えた。シエルを支える腕ががっしりと鍛えられているのは、服越しにも分かった。
「あんた、風剣士か?」
「そんなところだ」
「そうか。風剣士ってのは、オヒトヨシが多いみたいだな」
 彼からの意味深長な返答には突っ込まなかった。深く考えるほどの余裕を持ち合わせてなどいなかったし、出会ったばかりのおせっかいな男に興味を持っているわけでもない。
 船室に入り、麻布の上に横になる。視界は相変わらずぐらんぐらんと揺れているものの、無理をしてい立っていたときよりは随分よかった。男に目を向けると、腰に添えてある麻袋から何かを取り出し、シエルに差し出した。
「これは酔い止めだ。酔ってから効くかは分からんが、何もしないよりはマシだろう。思い込みというのも効果のある薬だしな。ああそうだ、冷たい布でも持って来よう」
「すまない、恩に着る」
「そんな大層なモンは着なくていいぞ。ほら、休めるうちにゆっくり休んでおけ」
 セルナージュまではまだまだ遠いからな。男は豪快に笑い、船室から出ていった。心遣いはありがたいものの、男の笑い声は二日酔いの頭によく響く。男から受け取った薬には手をつけずに後ろ姿を見送り、シエルは目を閉じた。
 昨夜は酒の力もあったためか、すぐに眠りに落ちた。しかし今は、言いようのない不安がシエルの眠りを妨げている。彼女の中にあるあの存在のことだ。それが今もシエルの中で、己が表に出る機会を虎視眈々と狙っているのを、シエルは感じることができた。
 シエルには、アルネトーゼという存在の思惑を捉えることなどできない。しかしあの存在は憎悪そのものだということは分かった。吐き気がするほどの憎悪だ。二日酔いよりも気持ち悪く、底知れない闇を感じさせる。
 ふと、歩み寄る人間の気配を感じた。うっすらと開けた目を向ける先にラスタがいた。
「起こしてしまいましたか?」
「いや、どうせ眠れないからな」
 ラスタがシエルの隣に腰を下ろす。
「あまりにも気分が悪いからですか? それとも、怖いからですか?」
「……そうだね、怖いのかもね。怖がっても仕方がないんだってことは分かってるんだけど」
 シエルは遺跡での出来事を思い出した。意識ははっきりしているというのに、まるで金縛りか夢遊病のように身体が全く言うことを聞かなかった。そして自分の意思とは関係なく、その手でユーノを殺そうとした。とても恐ろしかった。自分の行動も、あの瞬間も、あの時に感じた激しい憎悪も。そこから救い出してくれたのが、ラスタの歌だった。なぜあそこで彼が歌ったのは分からないけれど、あれに呼び起こされたのは紛れもない事実なのだ。
 ――もしあの時ラスタがいなかったら、もしあの時ラスタが歌わなかったら、あたしはこの手でユーノを殺していたのだろうか。
 大切に思う仲間をその手に掛けようとしたことは、シエルの意思でなかったにせよ、紛うことなき事実である。シエルは横たわったまま、ラスタの名を口にした。ラスタは顔をシエルに近づけ、耳を傾けた。
「ユーノを助けてくれて、ありがとう。あんたが呼び起こしてくれたから」
「私は歌っただけです。それにあの復讐者や、あなたが応えてくれたのです。戻ったのは、あなた自身の力。私はその手助けをしたに過ぎません」
 さあ、おやすみなさい。ラスタはシエルの瞼に手を載せた。どうせ眠れやしないのに、とシエルは内心苦笑しつつ、目を瞑った。
 それからしばらくすると、聞き覚えのある声が聞こえた。先ほどの親切な男だ。シエルは再び瞼を上げ、空色の目を男に向けた。
「あっと、起こしちまったか?」
 男は何の悪びれもない様子で、冷やした布を持ってきたと、シエルの額に載せた。その冷たさが、今のシエルには心地よかった。
「すまない」
「気にするな。困った時はお互い様だ。それはそうと、あんたはあの有名な盲神ラスタじゃないのか?」
 男の興味津々な態度に、ラスタは困りつつも答えた。
「有名なのですか。それは知りませんでしたが、喜ばしいことですね。私がラスタ=スターフィールドです。そういうあなたは?」
「おっとすまんな。俺はプライム=ヒルズウェイ、しがない風剣士だ。そういえばお嬢さんの名前を聞いてなかったな」
「シエル。シエリオル=スタンフロー」
「なるほど、リブル島のはねっ返りだな? その様子じゃあ、見る影もないが」
 くつくつと笑うプライムを横目で見ながら、シエルは眉根を寄せた。
「なんだよ、こっちは深刻だってのに」
「悪い悪い。リブル島に行くと必ずあんたの名前を聞くもんでね。確か、疾風のシエルと言っていたな。その姿を捉えることができないほどの速さだと。眉唾かな。なんにせよ、リブル島を代表する盗賊団の幹部が、こんなところで船酔いとはね」
 相変わらず肩を震わせているプライムに、ラスタは困った表情を浮かべ、シエルはあからさまに顔を歪ませた。
「クリムゾンテイルがそんなに有名だったとはね。ラスタみたいに喜んでいいのやら。それでプライム、あんたはあたしを警備隊にでも突き出すのか?」
 シエルは酔いのダブルパンチを一旦忘れて腹の底から殺気を出した。当のプライムは、苦笑しつつ両手を左右に振った。
「いや悪かった。少しからかうくらいのつもりだったんだが、思いのほか気分を害したようだな。心配無用だ、この船にはもうリブル島の法権は及ばない。俺はそんな無駄なことなどせんよ」
「ならいいんだけどね。信用したところを背後から一突き、なんてことになったら、シャレにならないからね」
「はは、嫌われたなぁ。この様子じゃ、さっきの薬も呑んでなさそうだ」
 プライムは後頭部をガシガシ掻いてラスタに顔を向けた。
「雰囲気を悪くしてしまったようだ。ラスタ、あんたの歌で何とかしてくれないか? 実はあんたのファンでな」
「困った方ですね。まあ、私にそれを断る理由はありませんし、シエルもお世話になりましたし、一曲歌わせていただきましょう」
 ラスタはマントの中から両手程の弦楽器を出して、音合わせを始めた。
「あんたがラスタのファン?」
「知らないのか。まあ、確かに剣の腕の方が有名にはなっているが、あいつの本職は風歌人だよ」
 盲神ラスタという二つ名が有名でなければウェルダー家に雇われるようなことはなかっただろうし、風歌人でなければシエルを救うこともできなかっただろう。偶然のような必然のような、不思議な感覚をシエルは抱いた。
「そういえば、ラスタに連れがいるというのは初耳だが、どういう経緯で同行しているんだ?」
「あいつとは、まあ、いろいろあったんだよ。昨日会ったばかりだけどね」
 そこまで口にして、シエルは考えた。それまで一人で旅をしていた者が、出会って間もない相手と旅をするのか――少なくとも、ラスタにとって有益であるとは考えにくい。シエルにとっては至極自然な流れだったからこれまで全く気にしていなかったけれど、そう言われるとラスタに関しては分からないことが多い。
「あいつはただの、本物のオヒトヨシなんだろうさ」
「なるほどな。確かに、盲神ラスタなんて名前が嘘みたいな、人のよさそうな顔をしている」
 プライムが声を上げてケタケタと笑っているうちに、ラスタの準備は整ったらしい。船室にいる他の乗客にも届くように、良く通る声を響かせた。
「さてさて皆さん、旅は道連れとは申しますが、ここで同じ船に乗ったのも何かの縁。これから安らかなる旅路を祈って一曲歌い申し上げますので、どうか船旅の疲れを束の間ではございますが、私の歌で癒していただけると幸いです」
 口上を終え、ラスタは弦楽器を鳴らした。とても細く、しかし多彩な音を奏でる。異国情緒を漂わせる音だ。何度か同じメロディを繰り返し、ラスタの声が入る。弦楽器の音とよくかみ合って、絶妙なハーモニーを醸し出す。
 シエルが初めてラスタの歌を聞いたときは、状況が許さなかったのでゆっくりと楽しむということは以ての外であったが、こうしてゆっくり聞いていると、心癒される優しい歌声だ。プライムの顔をちらりと伺うと、目を閉じて気持ちよさそうに聞いている。プライムだけでなく、同じ船室にいる人たちが皆うっとりとした表情で耳を傾けていた。
 ラスタの声がフェードアウトして演奏が終わると、船内から控えめな拍手が起きた。シエルも弱弱しくではあるが、ラスタに拍手を送った。
「ありがとうございます。粗末様でした」
 ラスタが一礼して、弦楽器をマントの中にしまおうとするのを、少年のように目を光らせたプライムがじっと見ている。
「いかがなさいましたか?」
「その楽器、なんて言うんだ? 初めて見る」
「アゴラです。この金属の棒を調整して音を出すのです。バンディ大陸の楽器ですよ」
 そんなやりとりを聞き流しながらシエルは目を閉じた。そして今度こそ眠りに就くことができた。それはラスタの歌を聞いたおかげかもしれない。

 シエルが目を覚ました頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。凄まじい鼾が聞えると思ったら、隣で片膝を立てプライムが眠っていた。この男はそんなにもシエルの船酔いが心配だったのだろうか。シエルは立ち上がり、船室から出た。
 昨夜が満月だったため、それよりはかけた月が高く上っている。真夜中なのだろう。冷たい風が肌寒いと思えるあたり、気分はだいぶ良くなったらしい。
 シエルは船べりにラスタの姿を認めた。ゆっくりと歩み寄るシエルにラスタはすぐに気が付き、顔を上げた。
「おや、もう大丈夫なのですか? 確かに今は海も穏やかですけれど」
「完全にとはいかないが、まあまあだ」
 ラスタは月を見上げる仕草でシエルに尋ねた。
「今日は、どんな月ですか?」
「満月の次の日だから、少しだけ欠けてるよ」
「そうなのですね、ありがとうございます」
 沈黙――しかし、シエルはこの沈黙を苦痛には感じなかった。穏やかな風や潮の香りに包まれて、寧ろ心地よささえ覚える。その沈黙を破ったのは、ラスタだった。
「私の目は、かつては見えていました」
 突然の告白に、シエルは弾かれたようにラスタを見た。ラスタは微笑んでいる。
「あの時、私は全てを憎みました。肉親も、視界も奪われ、私は何もか失ったのですから。けれど今は、憎むよりも、未来を見ることにしたのです。憎むということは、過去に縛られることだと思ったから」
 シエルは眉間に皺を寄せた。シエルはアルネトーゼを憎んでいる。ユーノを殺そうとし、クリムゾンテイルからシエルを引き離した、アルネトーゼを。
 憎悪は過去の出来事がなければ生まれやしない。それならば、アルネトーゼと名乗った復讐者も、過去にそれほどまでの憎悪を生みだす何らかのきっかけがあったはずだ。
「未来を見るために旅をしているのか?」
 シエルは月明かりを反射する夜の水面に視線を映した。ラスタは「はい」と答えた。
「未来を見るため、そして妹を捜すためです」
「妹……あの時言っていた、セリィという名前が?」
「そうです。十五年前に離れ離れになり、それきりです。行方不明という噂を聞きました。だから私は妹の行方を知りません。元々私は歌うのが好きだったし、妹も私の歌を好きだと言ってくれていたので、私は風歌人として旅を始めました」
 もっとも皮肉なことに、有名になったのは剣の腕の方ですけれど、と息を漏らす。シエルはククッと肩を揺らした。
「確かにな。風歌人ってのはプライムが言うまで知らなかったが、あんたのその名前ならあたしの島まで轟いてた」
「サリも食いついてきましたしね。どちらにせよ私の名前が有名になれば、どこかでセリィに会えるかもしれない、セリィから会いに来てくれるかもしれないと、そう思っているのです」
 彼にとってシエルのことはついででしかないのだ。だがそれでも良かった。その途中でラスタが妹に会えるのであれば、それほどいいことはないだろう。シエルは緩やかに口角を上げた。

 夜が明け、シエルは喧騒で目を覚ました。不機嫌そうに外に出ると、何やらたくさんの人が活発に何かを行っている。なんだなんだと首を傾げるシエルに、側にいたらしいプライムが「商売だよ」と答えた。
「昨日は本調子じゃなかったから分からなかったのかもしれないが、商人たちはどこにても商売をする。海の上でだってな」
 辺りを見渡すと、確かに物品を目の前に、値下げだ買っただの、景気のいい声があちこちから聞こえる。こんな賑やかさに気が付かなかったとは、余程苦しんでいたらしい。
「それであんた、なんでわざわざあたしの横に来るんだよ」
 シエルが半眼になって尋ねると、プライムは「嫌われたなぁ」とつぶやいた。非常に落ち込んでいるように見えたので、流石に良心が痛んだ。
「会ったばかりのヤツを嫌いにはならないさ。酔い止めをくれた相手なら尚更ね」
 すぐにこちらの事情を知りたがるのはどうにかしてほしいところだが、という文句は、心の中に押し留めた。プライムが「そうだろう」と何の悪びれもなく豪華に笑ったので、シエルは一瞬でも申し訳なく思ったことを後悔した。
「昨日は見ていられないくらいにフラフラだったからな、余計なお世話かもしれないが、多少は心配にもなるさ」
 背中をバシッと叩かれ、シエルは大きくふらついた。他人からそんなにも不安定に見えていたことが情けなく、恥ずかしい思いでいっぱいになり、苦笑いを浮かべた。
「それについては礼を言う。風剣士ってのは、オヒトヨシの職業なのかね」
「はは、いい人間なら、世の中たくさんいるさ」
 そのように告げたプライムの声が、今までとは違って聞こえて、シエルはプライムの茶色の目をじっと見た。しかし初めて会った時のようなお調子者の表情しか伺うことができない。シエルは口許に弧を描き、瞼を伏せた。


「そちらの〈あんこもち〉を五つ下さい。あと、卵を一つ」
 ラスタは五感を頼りに、商人たちが売っている異国の品を買いあさっていた。主に食料品だが、あんこもちがここで買えるとは思っていなかった。ラスタの好物なのである。極東の島国の特産物だが、外はカチカチに固く、中の「あんこ」を言われる黒い豆を擂った練り物は、とても柔らかく甘い。焼くとカチカチだった外がパリパリになり、あんことパリパリになった皮の間がもちもちと伸びる。この外側を「もち」と呼ぶのだが、中の「あんこ」との相性が絶妙で、初めて食べた時は本当に頬が落ちるとさえ思ったものだ。
「はい、全部で百五十ベリルねー」
 ラスタは言われた通りの金額を支払い、カチカチのあんこもちと卵を腰の皮袋に入れた。このようなところで手に入るとは、幸運だ。
「毎度ありー」
 背中に商人の声を受け、ラスタは他に何かないかを捜しに、人ごみの中に入っていった。
 船上には様々な人がいる。男の方が多いが、若い女性や、王都へ出稼ぎに行く者、旅人も多くいる。音で場所の判別をしているラスタにとって、人ごみは不得意だが、人々のざわめきは嫌いではない。そうしてたくさんの人々とすれ違う中、違和感を伴ったその人とすれ違った。
 ラスタは振り向いた。今すれ違った、彼に違和感を抱かせる、息を殺した女性を知っている気がした。いや、確実に知っている。彼女は――。
「セリィ?」
 妹と一緒にいた時間は短いし、会うことのできなかった時間はとても長い。だから多少雰囲気が違っても致し方ないのだが、彼女の気配は、ラスタの知る妹とはほとんど別人だった。それでも彼女を妹だと思ったのは、ほとんど直感だった。そんなラスタの問いかけに反応するように、女性はくぐもった声を発した。
「兄さん?」
 その女性こそ、ラスタの妹その人だった。


 シエルは人ごみの中にラスタの後姿を認め、声をかけようとしたが、ラスタは別の人と何かを話していた。何か取引をしているのかもしれない。シエルはラスタに近づいた。彼ならそれだけでもシエルが分かるだろう。その相手は、頭部を白い覆面で覆っていて、同じように身体もマントで隠していた。黒い睫毛の下から綺麗なアクアマリンの目だけが覗いている。その相手は女性のようだ。シエルの目には、彼女が商人には見えない。
「セリィ、探しました。十五年前のあの日から、ずっと」
 意識を集中しているせいだろう、ラスタの言葉がシエルの耳にもしっかり届いた。あの覆面の女性はラスタの妹らしい。昨晩ラスタ本人から話を聞いていたので、通常であればシエルも「良かったじゃないか」と彼の肩を叩くところである。が、ラスタの声色はどこか思わしくない。対する妹は顔どころか全身を覆い隠しているけれど、なぜ隠す必要があるのだろう。シエルは不審に思い顔をしかめた。セリィと呼ばれた覆面の女がくぐもった声でラスタに答えた。
「私は会いたくなかった」
「え?」
「会いたくなかったの。兄さんに、会いたくなかった」
「セリィ、確かにあの時はまだ、私はとても弱く、愛するたった一人の妹を守ることのできない、不甲斐ない兄でした。あなたにも非常に怖くて心細い思いをさせてしまったかもしれません。けれど、私がこうなったのは、あなたのせいでは――」
「違うの!」
 セリィが鋭くラスタの言葉を遮った。
「怖かった。あの時は確かに怖くて、現実を受け止められなくて泣き叫んで、私の為に兄さんの目が――でもそうじゃないの。会いたくなかったのは、そういうことじゃない。兄さんお願い、あの人から離れて。金髪の女の人から」
「なぜあなたが、彼女を知っているのですか?」
 ラスタが警戒の色を強める。
「私は今、復讐者なの。そこに身を置いてる。あの人の側にいるのなら、兄さんにもこの言葉の意味が分かるよね。アルネトーゼは私たちの悲願を達成するために必要なの。だから、そのためとはいっても兄さんと戦いたくなんかないから、お願い、今すぐ手を引いて!」
 セリィから窺えるのは、覆面から覗くアクアマリンの目だけだ。その目から彼女の必死の覚悟が伝わってくるようで、シエルは戦慄した。同時にセリィの発言を見過ごすことができなかった。シエルは二人の間に割って入った。
「ちょっと。二人の事情は知らないが、あんたの悲願ってやつを教えてほしいものだね。アルネトーゼってのは、一体なんなんだ?」
「シエル、下がっていてください」
 温厚なラスタが、低い声でシエルに警告するが、シエルも退くわけにはいかない。
「ここで引き下がれるか」
「そちらから来てくれてありがたいわ。シエリオル=スタンフロー、マスターがお待ちよ。私と一緒に来なさい」
 なぜ名乗っていない自分の名前を知っているのかを尋ねようとしたが、金縛りにでも遭ったかのように口が動かなかった。セリィが近づいてくる。セリィの身体を覆う布が動いた。そこから白い左腕が伸びる。
「シエル!!」
 ラスタの声が鋭く空を切る。しかしセリィの手がシエルを捉えたかと思うと、セリィがシエルを抱きかかえて飛びあがった。その腕力は、女性のものとは思えなかった。それに、バサバサと音が聞こえるあたり、彼女の背中に何か羽根でも生えているかのようだ。
「アルネトーゼさえ手に入れば、もうこの船に用はないわ」
 セリィの右の手の平が船体に向けられる。それは異形の手だった。羽根といい手といい、ラスタの妹が一体なぜそうなってしまったのだろう。ラスタの叫び声が小さく聞こえる。異形の手に光が集まる。シエルはその光に恐怖を覚えた。
 ラスタが剣を抜き、親指の先を噛みちぎって血を剣に塗りつけた。彼の口が動き、剣から風が発生しているように見える。
 紋章剣――血の契約により、自然界に存在する力を纏う剣だ。剣が自然の力を纏うことにより、常人より何倍もの威力を発揮することができるのである。シエルも話に聞いたことはあったものの、実際に見るのは初めてだった。紋章剣は高値で取引されているのだ。
 ラスタは風を纏った剣を、飛んでいるセリィに向けて投げた。剣はセリィの左肩を掠めて海に落ちた。その一瞬で充分だったらしく、セリィと共に浮いていたシエルは海へ落下した。その反動か、異形の手から光が放たれ、船を破壊した瞬間を目にした。ラスタは、人の好い風剣士は死んだのか。シエルは罪の意識に苛まれながら、海の闇へ沈んだ。



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