古のフェリクシア

#03.旅の決意


 昨日の今日だ、何もないとは思えない。ディオは黙って、家路につくフィラの後ろを追った。
 そして、やはり奴は現れた。この小さな村に堂々と立っていた。
「あなたは一体、なぜ私を連れて行こうとなさるのですか?」
 男を見上げるフィラが、震えながらも男と会話することを選んだ。もしかしたら重要な話が聞けるかもしれない。それに男から殺気を認められなかったので、ディオは息を潜めることにした。
「お分かりになりませんか? あなたは私の女王なのです、ノア様。それとも私のことさえ分からない?」
「分かりません」
 息を呑んだ。不可解なことに、青い男がフィラの前で膝を折り頭を垂れているのだ。
「私はあなたの騎士。名をキリウと申します。あなたに戻ってきていただきたいのです、ノア様」
「人違いです。そもそも名前が違います。私の名前はフィラです」
 キリウと名乗った男が顔を上げる。
「人違いなどではありません。私には分かるのです。あなたのそのお姿は、紛れもなく王の証。それに、遠くにいても、私にはあなたを感じることができる。私と一緒にフェリクシアへ戻りましょう。あなたにはフェリクシアの王座こそふさわしい」
 フェリクシア――それはかつて、ここからは遠い、聖ユリヤ大陸にあり、世界を支配したと言われる伝説の王国だ。今は地底に沈んだ国の、一体どこに戻るというのだ。
「フェリクシア? 王座ですって?」
「さあ、ノア様。私たちの強い王国へ」
 キリウが立ち上がる。そこでようやくディオはフィラの前へ飛び出した。
「そこまでだ」
「やはり来たか、ケモノよ。そこで聞き耳を立てていたのは知っていたよ」
「なんだよテメェ、さっきから好き勝手ほざきやがって、気に入らねぇ。俺の雇い主に手ぇ出してんじゃねぇ」
「貴様こそ、所詮雇われの身でしゃしゃり出るのは遠慮してもらおうか。ノア様は私とともに行くのだ。貴様の出る幕はない」
「テメェ、いい加減に――」
 殺気が走った。咄嗟に後ろに飛び跳ねる。ディオの顎を冷や汗と熱い血が伝う。遅れてじわりと痛みが頬に染みた。しかしキリウはほとんど動いていないようだ。
 ――こいつ、できる。
 ディオはサッと大剣の柄に手をかけた。昼間に請け負った事故の対処などより、よほど骨が折れる戦いだ。このような男に狙われるとは、フィラは一体何をしたのか。彼女は何者なのだろうか。そんなことよりも、今は彼女を守るのが先決である。
 動けない。隙がない。比較的線の細い男が、直立不動でこちらをただ見ているだけだというのに、自分の鼓動と呼吸がうるさいほどに緊張していた。
 冷や汗がこめかみからにじみ出て、頬を伝い、顎で止まる。滴が地面に落ちる。それを合図に、同時に動いた。右下から剣を振り上げる。キリウの手に光るものが見えた。切っ先にはディオの鳩尾がある。上半身をよじる。
「ぐっ!」
 脇腹に鋭い痛みが走る。ディオは片膝をついた。熱い何かが流れている。見るまでもない。
 ディオは歯を食いしばり、剣を杖に立ち上がった。
 ――何やってんだ、早く逃げろ。
 フィラにそう怒鳴りつけたかったが、久方ぶりに味わった痛みのせいか、言葉が声にならない。仕方がない。フィラを守るのが自分の役目だ。死者の言葉は守るなどと豪語したのは自分なのだから。
「ほう、立てるのか」
 キリウが、身体を震わせながら立ち上がる大男を冷たい目で見下ろしている。
「決して浅くはない傷だ。さすがはケモノ、女王を守るために、健気な男」
「黙りやがれ、キザが」
 掠れた罵るのが精一杯だったようだ。ダメージは大きいが、戦えないわけではない。二本足で立ち上がったディオは、大剣を捨てた。キリウの口角が上がる。
 もう一度すれ違う。寸分違わずディオの急所を狙うキリウのナイフをはじく。太股に帯いているナイフを使った。僅かに急所ははずしたが、深く腹に突き刺さる。唇を強く噛む。ディオはナイフをキリウに投げた。ナイフはキリウの左太股に刺ささる。互いに膝をついた。
「くっ、やるな。やはり侮れん。今回は手を引こう。だが、ノア様を手に入れるまでは形を変え、やり方を変えて、何度でも貴様に挑もう」
 ノア――そういえば最初にフィラを助けたときも、この男はフィラのことをノアと呼んでいた。今のディオは、ナイフを抜き捨てる青い男を見上げ、立ち去る背中に捨てぜりふを投げつけることが精一杯だった。
「はっ、願い下げだクソ野郎」
 なけなしの力で起きあがっていたディオは、そのまま地に伏せた。
 そこに、野次馬をしていた人たちが駆け寄る。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
「こら、野次馬やら心配やらしてる暇があったら、早くディオさんを運んで手当てせんか!」
「男は手を貸せ! 女は水を用意しろ!」
 シオと、冷静な村の男の怒声で、呆然と二人の戦いを見ていた他の者たちは動き始めた。

 ディオはシオの家のベッドで、ディオは力なく横たわっていた。
「すまんな、村長。この様子じゃあ、今日は働けそうにねぇ」
 一日寝たら大丈夫だろうがとディオは続けたが、シオは首を縦には振らなかった。
「いいのです。もう宿代以上のことをしてくれたではありませんか。この期に及んで、畑仕事を手伝えなどとは申し上げられません。ただ」
「ただ?」
「新たに頼みたいことが増えてしまいました。聞いていただけますかな?」
 悲しそうな村長の表情を見なくても、村長が何を頼もうとしているのかは、なんとなく想像がついた。
「とりあえず、話だけは聞こう。先のことはそれから決める」
「ありがとうございます。今後、フィラのことをお願いしたいのです」
「なぜ俺に?」
「フィラは、もうこの村にはいられないでしょう。悪いのはあの子ではない。それは私たちも重々承知しております。きっとあの子がここに残って今後とも暮らしていっても、誰も文句は言わないでしょう。でも、この村を守るのも私の役目です。それに、あの子がそれに耐えられるとは思えない。あの子は、責任感はあるし、虫も殺せない優しい子なんです」
 村長が皺だらけの大きな手でディオの大きな手を握った。その手はひんやりとしている。
「だからどうか、あの子を連れて行って下さい。一晩の宿と治療の代償が、世間知らずの何もできない女の子というのは、本当に心苦しいことですが、もし必要なものがあれば、できる限り用意いたします。ですから――」
「もういい。どうせそのつもりだったんだ。これからは責任を持って、安全な場所まで連れて行く。だから安心しろ」
「ありがとうございます、ありがとうございます! どうお礼申し上げればよいか……」
 ディオは口の端を上げた。
「馬、逃がしちまったのはチャラでいいだろ?」
「そうですね、そのように言っておきます」
 はは、と笑いながら、シオは部屋を出た。
 ノアとは一体なんなのだろう。二度、青い男の口から二度、その名を聞いた。そして、ディオはその名前を知っている。懐かしくて、心地の良い響きだった。

 どうしてこんなことになったのだろう。
 ディオの手当も終わって出血が止まり、決して安らかとはいえないディオを、会ったばかりの自分の生命を二度も救ってくれたディオの寝顔を見届けたあと、フィラはぐちゃぐちゃに散らかっている家の中を整理し始めた。ずっと昔に亡くなった父や、三日前の朝まで笑っていた母の思い出がよみがえる。しかし涙は出なかった。ユーリの母の前で泣かないことを選んだ瞬間から、泣こうと思っても、涙が流れなくなってしまった。
 両親の形見となってしまった、ラピスラズリをあしらったループタイを手に取る。
 こんなにも早く死に別れるなんて――本当はやるせなくて、心にぽっかりと穴が開いたようだ。だがどこかで、最初から二人ともいなかったのではないかと思う自分がいる。父も、母も、ユーリも。まるで現実のことのように感じられないのだ。
 そう、あの青い青年は自分を狙っていた。おそらくセレストでは人目を気にしていたから、街中でぶつかったときにフィラを連れて行かなかったのだろう。だがこの村はせいぜい三十人くらいの人口だし、セレストからは少し離れている。もしかすると、今ここにディオがいなければ、ディオがあの男を追い返してくれなければ、今ごろ村は地上から消え去っていたかもしれない。あの冷徹な目をする青い青年ならばやりかねない。そしてフィラがここにいる限り、何度でもこの村を襲いにくるのだろう。
 フィラは全身の血が凍るような思いがした。また誰かが死ぬのだろうか。殺されることのなかったはずの人が殺されてしまうのだろうか。フィラの親だったために殺された母のように。フィラをかばったがために死んでしまったユーリのように。フィラがいる限り、あの悲劇は繰り返されてしまうのだろうか。
 だとすれば、自分が選ぶべき道はひとつしかない。
「お母さん、ごめんなさい。こんな風にまた会うことを、お母さんは喜ばないよね。でも、こうするしかないの」
 フィラは母の形見となってしまった、大振りのアメジストをあしらったループタイを手に取った。生前、母がフィラの目をアジーナや、このアメジストに喩えていたものだ。

 フィラはもう一度ディオの顔を見に、シオの家に向かった。まだ助けてもらった礼を言っていなかった。
「フィラか」
「ディオさん」
 フィラはディオに水を差しだした。ディオは起き上がり、その水を受け取った。
「すまねぇな」
「いえ、その、こちらこそ、また助けていただいて、なんとお礼を申し上げたらよいか……」
「それは嬢ちゃんの気にすることじゃねぇよ。それより、あんたにゃ怪我はないな?」
「はい、ディオさんのおかげで。それより、お怪我の具合は」
「こんなの、大したことねぇよ」
 包帯と服で見えないけれど、屈強な男の顔色の悪さが、傷の深さを物語っている。フィラはディオの腹部をちらりと見て、目をそらした。
 ディオもまた、フィラのために負わなくてもよい、深い傷を負ってしまった。
「ディオさん、ごめんなさい」
「お前」
 ディオの鋭い眼光がフィラを射抜く。フィラは怯みながらも、目をそらすことはしなかった。
「何を考えてやがる。もし俺の想像通りなら、許さねぇぞ」
 答えることはできなかった。きっと彼の想像に寸分の違いすらないのだ。答える代わりに、曖昧に微笑んで見せた。

 フィラの胸元に、形見のループタイが光を反射する。その両手には、アメジストや虹彩と同じ色のアジーナを十輪程度抱えている。庭にたくさん咲いていた、母の好きだった花を五輪、そっと両親の眠る墓に供えた。もう半分は、アジーナを綺麗で好きだと言っていた親友の墓に供えた。
 ――死のうとしてるのに墓参りなんて、少し変かな。
 フィラは村の裏手にあるこの場所が好きだった。きっとここが好きな人は少なくない。小高い丘からの見晴らしはそれなりによくて、風が気持ちがいい。父が死んだときは本当に悲しかったけれど、父の墓参りのたびにこの広大な草原を見下ろすと、風となって側にいてくれているような気がした。
 不思議と微笑みがこぼれる。
「お父さん、お母さん、ユーリ、私も風になるね」
 そう呟いて目を閉じ、全身の力を抜く。身体が穏やかな風にあおられ、前に傾く。
 その時だった。強い力で後ろに引っ張られた。
「きゃっ」
「こらてめぇ、何考えてやがる!」
 ディオがなぜここにいるのだ。深い傷を負っているはずなのに、なぜ私の邪魔をするの。フィラは捕まれた右腕をふりほどこうと、必死にもがいた。
「離して! 私がいなければ、こんなことにはならなかったのよ!」
 ディオがフィラの腕を捻り上げる。その力は、大怪我を負っていることなど微塵も感じさせないほどだ。涙が出そうなほど痛い。痛いのだ。そのままディオに、地面に投げられた。
「安易に死なんか選んでんじゃねぇ。俺の言葉、忘れたのか?」
 ディオの表情は怒りに歪み、ただでさえ悪い人相が更に悪くなっているが、反対に声は落ち着き払っていた。
「俺はあんたの母親に頼まれてあんたを助けた。その意味が分かるかって聞いてんだ」
 フィラはディオの、驚くほど落ち着いた声を聞きながら、ゆっくりと立ち上がった。
「死人に引きずられる必要なんかねぇ。死んだ奴の思うとおりに生きる必要もねぇ。周りがなんと言おうが、てめぇの生命をどうするかはてめぇ次第だ。だが、俺は死者の言葉は守る。誰がなんと言おうと、だ。だからあんたが自分を害そうとするんなら、あんたからあんたを守るだけだ。ここで死を選ぼうってんなら、そいつは安易な結論だ。今生きているあんたの責任を果たせ。生きることでしか、何もできやしない今のあんたにゃ果たせねぇぜ」
「だったら――」
 ディオの静かな声が、フィラが押さえ込んでいた激情を、深い悲しみを呼び起こす。フィラは心のままに、銀の髪を振り乱しながら声を荒げた。
「だったら、私はどうしたらいいの? どうしたら良かったの!? ユーリのおばさんが泣いたのを見て、ユーリの死に顔を見て、死んだのが私だったら良かったって、そう思ったわ。お母さんはもういなくて、たった一人の親友も死んでしまって、私は独りよ。ユーリのおばさんはきっと、私を見るたびにつらい思いをするわ。それに、私がいる限り、またこんな風に誰かが死んでしまうかもしれない。だから、私なんていない方がいいのよ。あの人だって、いつまた私を狙ってくるか……」
 いろいろと御託を並べながら、自分が何を思っているのか、なぜ死を選びたがったか、よく分かった。独りが嫌なのだ。ユーリの母に憎まれながら、シオ夫婦に哀れまれながら、孤独を抱えながら、そして、誰かの死を背負って生き続けることが、今のフィラには耐えられそうもないのだ。ディオの言葉はもっともだが、それで納得して生きられるなら、もっと簡単なのだ。
「あいつの狙いが分かってんなら、話は早いじゃねぇか。ここから出て行けばいい」
「簡単に言わないでよ! 私が行った先で、またこんなことが起きるかもしれないじゃない。ここで死なずに、私はどこへ行くというの!?」
「俺がいる。どこだと明言することはできないが、どこへでも俺が連れて行くさ。あんたの身の安全が保障される場所へなら、な。信じていい」
 本当なのだろうか。本当に、この人は自分を助けてくれるのだろうか。道中にたまたま出会っただけの、何もできない見知らぬ少女を。それに、フィラはもう一つ気にかかっていた。自分は本当に、この男にのこのこついて行ってもいいのだろうか。
 けれど、他に選択肢はない。母の言葉も聞いている。フィラは気持ちを落ち着かせて、ディオに尋ねた。
「私が首を縦に振ったら、すぐに出発なのでしょうか」
「発つならなるべく早い方がいい。あんたがそうしたいってんなら、今すぐにでも発てる」
 ディオの目がフィラに問いかける。ただ静かな、淀みのない、金にも見える黄土色の目に釘付けにされる。
「私は――」
 決意を告げるフィラの声を、ディオは急かすこともなく、黙って聞いていた。

 ディオと話した後、フィラはユーリの家のドアをノックした。
「おばさん」
 けれど返事はない。やはり顔も見たくないのだろうか。せめて一言――その一言さえも叶わないのだろうか。諦めて立ち去ろうとした時だった。
「フィラちゃん」
 家のドアが開いた。どんな罵声を浴びせられるだろうか。僅かに身構えたものの、寂しそうな表情のまま、落ち着いたトーンの声で、優しく尋ねられた。
「行ってしまうのかしら?」
「そのつもりです。あの、旅の邪魔になるかもしれないから、髪を切ってもらおうと思って」
「そっか。久しぶりね、フィラちゃんの髪を切るの。さ、お上がりなさい」
 ユーリの母はかすかではあるが笑みを浮かべていた。それに少しだけ救われたような気がする。
「ありがとう、おばさん」
 日に焼けてすっかり黒くなった立派な木の椅子に座り、長くまっすぐな髪を後ろに垂らす。肩には大きめの布をかけ、母やユーリが綺麗だと言ってくれた髪がばっさりと切られる音を背後に聞く。
「ごめんね、フィラちゃん。お母さんも死んでしまって一番つらいのはあなただというのに、私もユーリが死んで、気が動転してたの。いいえ、少しはやっぱり思ったわ。どうしてあなたは帰ってきて、ユーリは帰ってこなかったのかって」
 毛先を器用に整えながら、おばさんは囁いた。おばさんは本当に器用で、なんでも上手だった。フィラはそんなおばさんが大好きだ。
「本当にそう思う。私もそう思うよ、おばさん。だって、私を助けなければユーリは死なずに済んだかもしれない。あの時、真っ先に逃げていれば……」
「そうかもしれないわね。でも、そうしたら私はユーリのことが一生許せないかもしれないわ。大切な友だちを置いて逃げるなんて。そうなったら、あの子だってきっと一生傷つく。私との関係もぎくしゃくとしてしまったかもしれない。ねえ、ノアのコンサートだったんでしょう? どうだったの?」
「ノアとお話できたよ。ユーリも感激してた。やっぱり素敵ね、ノア。同い年だなんて、本当に信じられない。大人だな」
「二人とも、本当にノアの歌が好きだものね。ユーリなんて、掃除しながらでも、料理しながらでも、洗濯しながらでも、いつでもどこでも口ずさんでたのよ。それこそ、呆れることもあったわ」
 ここに来て、村に戻ってから初めて、おばさんの笑い声を聞いた気がする。フィラもそれに合わせ、声を出して笑った。
「だから、信じられないねって。ノアが隣村の出身だなんて。しかもね、私の目がノアとお揃いなのもすごく嫉妬してたの」
 フィラは自分の胸にあるアメジストのループタイを手に取った。ノアの虹彩は本当に美しかった。自分も同じ色の目であることが、あのとき初めて誇らしく思えたのだ。
「ノアの目もアジーナの色なのね」
「うん。私、ユーリに憧れてたな。歌もダンスも、とっても上手だったから」
「大好きだものね」
「たくさん教えてもらったわ。私、覚えが悪くてなかなか上手く踊れなかったけど、ユーリは気長に教えてくれたのよ」
「あの子、人に教えるの大好きだし、上手だったから」
 はさみの音が聞こえなくなったと思ったら、布が肩から離れた。細い手がパッパとフィラの肩を払う。
「はい、できた」
 おばさんは、セレストで買った木枠の大きな手鏡をフィラに持たせた。フィラは顔を左右に動かしながら、髪型を確認した。
「ありがとう、おばさん。すごくサッパリした」
「フィラちゃん。また、ユーリのことお話ししましょう。私の知らないユーリのこと、もっとたくさん聞かせてほしいの」
「分かったわ、おばさん。また」
 手鏡をおばさんに返す。その直前に映った、今にも泣き出しそうな少女と、似たような表情をした妙齢の女性の顔は、しばらく忘れられないだろう。

 すっきりして大分軽くなった頭で家を出ると、軒下でディオが待っていた。微笑みを浮かべて声をかける。
「ディオさん、お待たせいたしました」
「お前……」
 ディオは目を見開いた。元々小さな虹彩が、一層小さく見える。
「すっきりしたでしょう? 旅をするなら、少しでも身軽な方がいいと思って」
「髪を切ったことはともかく、覚悟は見上げたもんだ。じゃあ、行くとするか」
「はい。よろしくお願いします」
 歩き始めるディオに、フィラも駆け足でついて行く。セレストとは反対方向だ。
 もうすぐ村を出る。そんな村の入り口に、村長夫婦が待っていた。
「もう行ってしまうというのに、私たちには挨拶してくれないのかい?」
 村長の目尻には、皺が刻まれている。
「これを持って行きなさい」
 シオがフィラに、少し大振りのショルダーバッグを手渡した。
「これは?」
「肉と果物の乾物、油、薬草だよ。旅の役には立つだろう。手ぶらでは旅はできないからね」
「本当にそうですね。村長さん、ありがとう」
「ディオさん、過不足はありませんかな?」
「充分だ。礼を言う」
「フィラのこと、よろしくお願いいたします」
 村長が深々と頭を下げる。ディオも会釈して、再び歩き出した。
 少しずつ遠く、小さくなっていく村を時々振り返りながら、フィラはディオについて歩いた。
「なんだ、もう家が恋しいのか?」
 意地悪い声色で、フィラを振り返ることなく尋ねるディオに、フィラは後ろから答えた。
「いえ。きっと、あそこへはもう、二度と帰らないんだろうなぁと思って」
「帰ると思い出すからか? 辛いからか? 迷惑をかけるからか?」
 フィラは頭を振った。
「理由はありません。ただなんとなく、そんな気がするんです」
 フィラは前を向いた。風がフィラの短くなった髪と、紺色のキュロットスカートを揺らす。もう振り返ることをしなかった。



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