古のフェリクシア

#04.赤の覚醒


 少女を連れた初めての道中は、ありがたいことに天気に恵まれた。おかげで土がぬかるみ滑るようなこともなく、比較的順調に進むことができる。
「きゃっ」
 村を出て何度目になるか分からない甲高い小さな叫び声をが、背後から聞こえる。ディオは全身で溜息をついた。草原を北に越え、山岳地帯に入ってからというもの、いかほども歩いたわけではないのに、フィラは少し大きな段差や、足場の悪い場所で、何度も何度も足を引っかけていた。
 これまで旅などしたことのない少女にとって、険しい道を歩いているのかもしれない。だが港まではこの道しかない。だから腹を立ててはいけないのだと分かってはいるのだが、イライラは募る一方である。
 それは分かった上で引き受けたはずだ。引き受けたからには捨ておくわけにはいかない。
「ほら」
 ディオは自分より一回りも二回りも小柄な少女に手を差し出した。少女は口元に微かな弧を描き、その大きな手を掴んで前へ進んだ。ほとんど汗をかいていないディオに比べ、その手は汗でベタベタだし、息も上がっている。
「ここらで休憩するか。町に着かなきゃ補給もできねぇから、水は一口にしとけよ」
 尻餅をつくようにして座り込んだフィラは、息を整えながら大きくうなずいた。山とはいえ、水源からは少し離れている。水辺は水が得られるという意味ではいいところだが、天気の変わりやすい山では安心できる場所ではないし、そうでなくてもこんなところには獣が出る。
 日の光が橙を帯びた頃、二人は山中の比較的開けた場所へ出た。そこには人がキャンプをしたような跡がある。ディオもそれに倣い、荷物を置いた。
「今日はここで寝る。野宿は初めてか?」
「はい」
「じゃあ、お前は火でも焚いてろ。俺はメシでも採ってくる」
 周辺でヒトではない何かの足跡のようなものがあった。もしその何かに出会えなくても、木の実など食料になるものは豊富だ。
「え、あ、はい、あの」
「あ?」
 ただでさえ目つきが悪いディオに睨まれ、フィラは縮れあがった。
「あ、その、すみませんっ。あの、火、焚いたことなくて……」
「ああ? なんだって!?」
 縮れ上がっている少女に怒鳴りつけてしまったこをディオは若干反省し、短く謝った。あの村では、火を熾したり絶やさないようにするのは男たちの役目だったのかもしれない。フィラの体つきを見ていれば想像に難くはなかったはずだ。大して重たいものを持ったことのなさそうな腕は、おおよそ旅には向いていないだろう。裾から見えるふくらはぎが、彼女の身体でも唯一鍛えられている筋肉なのだ。現状として、何かがいた形跡も見かけたので、食料よりも火の確保が優先される。食事ならば村で分けてもらったものがあるし、最悪一日抜いたところで生命の危険は野獣に襲われるよりは確率が低いだろう。
 ディオはその辺りにある枯れ草を集め、持っていた木の道具を使いパッパと火を熾した。
「火の種はつくったから、あとは絶やすなよ、絶対にな。あと、誰かが来たら必ず呼べ。すぐに駆けつける」
「はい」
 威勢良く返事をしたフィラを置いて、ディオは狩りに出かけた。火があるから、悪漢でも来ない限りは心配いらないだろう。
 ディオは「それ」を見た場所へと向かった。やはり何かを掘ったような跡がある。何かがいた形跡に他ならない。この近くのどこかにいるはずである。ディオは息を潜め、足跡を探し、気配を辿った。
 そして見つけた。微かな気配と呼吸の音。それがディオを認める。
 ――やっぱりいやがったな。
 足手まといの少女を連れたままでは退治したくはないが、一人で遭遇すると嬉しいものだ。目の前にはイノシシがいた。じっくりとにらみ合う。そいつはシューシューと息を荒げているようである。走る。突進してくる。ディオはまず鞘のまま大剣を盾代わりに前へ出し、イノシシの突進をいなした。イノシシがもう一度ディオに向かって突進したとき、ディオは大剣を頭部に思い切り振った。もろに衝撃を受けたイノシシはそのまま気絶した。これを受けても気絶で済むとは……呆れ感心しながら、ディオはナイフをイノシシの胸部に突き立て、絶命させた。

 肉の焼けるいい匂いがする。それに応えるかのように腹の虫がうるさく騒ぐが、もう少しの我慢だ。年頃の少女からも似たような音が聞こえてくる。彼女は年相応に少し恥ずかしがって、腹部を押さえている。それをほほえましく思いながら、ディオはイノシシのモモにナイフを入れ、両手で持てるくらいの大きさにちぎってフィラに手渡した。
「ほら、熱いから気をつけろよ」
「はい、ありがとうございます、いただきます。あつっ」
 この様子だと、口の中の皮はベロベロに破れているだろう。ディオは紋章術も呪いも分からないので、どうしようもない。だが、町に着く頃には治っているだろう。
「しっかり食っとけ。こんなごちそう、道中でそうそうありつけねぇからな」
「はい」
 ディオもシシ肉に食いつき噛みちぎった。筋張っているし、胡椒でごまかしてはいるが臭みが残っている。道具や時間の余裕があれば、もっと柔らかくして臭みを取り除くこともできたが、それも叶わない。硬いシシ肉に悪戦苦闘するフィラを見ながら、ディオは肉を呑み込んだ。
 食事がある程度落ち着いた頃、ディオはふとこんなことばを口にしてみた。
「ノア」
 肉を頬張るフィラがはじかれたように顔を上げる。唇が油でテラテラと艶を帯びている。髪と同じ銀の睫から覗くアジーナの目が軽く見開かれていた。
「心当たりがあるのか?」
 アジーナの目に炎を映すフィラは、木の棒で焚き火をかき混ぜながら答えた。
「分かりません。今でもあの人は勘違いしているのだと思っています。私はノアだなんて名前ではないし。でも、勘違いなんかでお母さんやユーリが死んだのだとしたら、あんまりな話ですね」
 その目いっぱいにたまった涙が炎を更に煌めかせたが、雫れることはなかった。
「コンサートに行くときは、こんなことになるなんて思ってもみなかった」
「コンサート?」
「ディオさんに最初に助けていただいた日、私、ユーリと一緒にノアのコンサートに行ってたんです」
「ノア……あのアイドルか」
 それでディオは合点がいった。ノアという名前を聞いたことがあるのは、世界的に有名なアイドル歌手の名前だからだ。
「もういい、食い終わったら、今夜はもう寝ろ。眠れなくても、目は閉じとけ。先はまだ長い」
「はい」
 やはりフィラは、シシ肉を食べるのに苦戦していた。そうして落ち着いて、ディオの言うとおりに横になり目を閉じていたが、本当に眠れたのかは分からない。ディオは座ったまま目を閉じた。

 次の日も黙々と歩いた。前日よりも小さな叫び声を聞く回数は減ったように思う。ディオの後ろを必死に付いてくる少女をちらと見て、よくもまあ不満も弱音も吐かずに歩けるものだと感心した。
 ようやく山頂に着き、ディオは麓を指さした。
「あっちに町が見えるか?」
 まだポツンと、影くらいにしか見えないが、フィラは目を細めてディオの指先を確認した。
「あ、はい」
「明日にはあの町に着くだろう。だが、下りこそ気をつけなきゃならねぇ。調子に乗って下っていったら、怪我なんかじゃ済まねぇからな」
「はい」
「おい、余計な気は使うなよ。町に着いたところで旅は終わんねぇんだ、そんなちんけなところで神経使うんじゃねぇ」
 フィラが小首を傾げた。確かに何を宣うのかと聞きたくもなる言い方だったかもしれない。ディオは一呼吸おいて、言い直した。
「俺は尊敬されるような人間じゃねぇんだから、もっとフランクでいい。すぐには無理かもしれねぇがな」
「分かりました。努力する」
 麓に町を見たおかげか、フィラの足取りは心なしか軽やかになっているように見える。地形的にも登りほど険しくはないし、彼女自身足の運び方を掴んできているようにも見える。これは彼女のことを見くびっていたかもしれないと、ディオは口内でつぶやいた。

 しかしその時、ディオはかすかな殺気が自分たちに向けられているのを逃しはしなかった。
「フィラ」
 町の影を見て以来、足元に集中してほとんど話さなかったフィラがようやく振り返る。同時に、呼んでもいないのに、ディオに負けじと人相の悪い男が四人、卑下た笑みを張り付け、手には物騒なものをちらつかせながら現れ、ディオたちを取り囲んだ。
「下がっていろ」
 この男たちはフィラをも殺すだろう。おそらくキリウと名乗った青い男の仲間ではない、ただの夜盗だ。フィラがどう思っているにせよ、キリウはフィラの生命を奪おうとはしなかった。あの冷酷にして冷静な男なら、このような頭の悪そうな手は打たないはずだ。

 分かってはいたが、傷が堪える。このままでは、フィラを守れないかもしれない。守れたとしても、好ましくないものを見せてしまうことになるかもしれない。
「行け」
 フィラは慄いているのか、動かなかった。ディオは声を張り上げた。
「行けぇ!!」
 ディオの怒声に弾かれて、フィラはその場を走り去った。これでいい。そのフィラを一人が追いかけようとするのを、ディオはナイフを投げて止めた。
「この俺を前にして、まさかあいつを追えるなんてこたぁ、考えてねぇよなぁ?」
「き、貴様っ!!」

 やはり腹部の傷口が開いたようだ。焼けるように熱い。
 ――畜生、こんな傷さえなけりゃ。
 噛みしめた下唇から血が滲む。それと同時に、己の内側で何かが目覚めるのを感じた。いいものなのか、悪いものなのかは分からない。だがそれがディオに取って代わろうとしているのは確かだ。
 ――なんでもいい、ここで倒れるわけにゃいかねぇんだ。あいつを襲わせるわけにゃいかねぇんだ!
 今使えそうな唯一の武器は投げてしまった。足手まといの相棒は捨て去り、彼の武器は肉体のみだ。それでも夜盗どもには負けはしないだろう。
 傷口から血が噴き出すのもかまわず、ディオは彼らと戦った。拳を振るう度、意識が遠のいている気がする。何か、ディオの奥底に目覚めっかけている何かが染みのように広がっているのを感じる。
 ただ、フィラが無事に逃げ延びていればいい。

 走る。走る。足音、木の葉が揺れる音、自分の呼吸が嫌に大きく聞こえる。下り道だから勢いが付いて、止まれない。何度も足がもつれて転びそうになったけれど、ぐっとこらえた。もしここで転んでしまったら、もしここで足が止まってしまったら、きっともう起きあがれない。前へ進めない。唾を呑む。その一瞬がびっくりするほど苦しい。
 視界が開けた。遠くから見た人の気配が今、フィラの目の前にある。その安心感から微かに笑ったその瞬間――。
「わっ」
 足がもつれて転んだ。石で舗装された道で、服の膝の部分が破れ、擦りむいた。そんなことより、恐れていたように立ち上がれない。力が入らない。下り坂で無理をさせてしまった膝が、傷とともに痛む。だが伝えなければ。ディオのところへ戻らなければ。腕で上半身を力の限り起こし、精一杯息を吸って、フィラは叫んだ。
「た、助けて! 助けてください! お願い、誰か!」
 人の姿は見えないし、誰も出てこない。真夜中だし、変な人が騒いでいるという程度にしか思われていないのかもしれない。
 そんなフィラの耳に、男女の話し声が飛び込んだ。
「助けてあげないのかい、メリア?」
「だって田舎の子どもよ。どこの誰かも分からない女の子を助けてあげる程、お人よしじゃないよ」
 女性は呆れたように笑っている。
「かわいそうに」
「誇り高きアスカルの戦士の名はどうしたんだい」
 男は二人いるのだろうか。比較的太くて低い声と、比較的細くて高い声が、それぞれ聞こえた。フィラはすがる思いで顔を上げた。
「そんなもの、ずっと昔の話――」
 メリアと呼ばれた女性が、その黒い瞳にフィラを映したかと思えば、フィラの許へ歩み寄ってひざまづき、黒く力強い手で優しくフィラの頬に触れた。
「あなた、名前は?」
 声をかけられたことを意外に思った。口を開くより遅れて声が出る。
「フィラです」
「そうか、分かった。助けよう」
 あまりにもあっさりと言ってのけたメリアに、二人の男が素っ頓狂な声を上げた。
「おいメリア!」
「ええ、正気か!?」
「あんたたちがたった今、助けないのかって茶化したんじゃないか。フィラ、あなた立てる? って、無理だね。ちょっとあんたたちも手ぇ貸しな。報酬はあたしが払う。いいだろ?」
「いや、いいけどさ」
「まさかタダで助けるつもりかい?」
 口々に不満を述べる男たちなど無視して、メリアはフィラを抱き起こした。
「で、何をどう助けたらいいんだい?」
「ディオが、一緒に旅をしてくれている人が危ないんです。まだ怪我が治ってないのに、盗賊に襲われてしまって……」
「その人を助けたらいいんだね。案内できる?」
「でも、もう立てません……」
「道案内さえできればかまわないよ。ほらあんた、フィラを負ぶさりな」
「分かったよメリア」
 太い声の不満と共にフィラを抱き抱えたのは、ディオほどではないが、力強い男の身体だった。
「あ、ありがとうございます」
「いいさ。そいつの生命が危ないんだったら、急いだ方がいいな」
「はい。あっちです。あの森でディオとは別れました」
「急ぐよ」
 メリアの声を合図に、三人が走り出す。激しく揺れるし決して楽ではないけれど、ディオのことを考えればそうも言っていられない。
「あれだね」
 メリアの低い声がさらに低くなった。メリアの視線の先には、動いている陰が一つだけ見える。うろ覚えだが、景色もこの辺りだったような気がする。フィラは「はい」とできるだけ大きな声で答えた。
 フィラが倒れそうになりながら走っていたよりも、随分と短い時間だったように思う。思った以上に早く戻れたことに、若干の安堵を覚えた。
 この距離から見る分には、大柄な人のように思われる。襲ってきた夜盗の中にディオより大きな人はいなかったはずだ。では、動いているのはディオだろうか。ただ動いているというようには見えない。まだ戦いは終わっていないのだろうか。様子がどうもおかしいということに気が付いたのは、暗がりでもそれがディオであると判別が付いた頃だった。
「なっ、なんだいっ!?」
 ディオは相手を殴り続けていた。ぐったりとうなだれ、もはや息をしているのかどうかも分からない相手を、無表情に殴りつけていた。フィラを守るだけであれば、そこまでする必要はないのだろうか。あれでは、無意味に相手を痛めつけているだけではないだろうか。
「ディオっ!!」
 フィラの知る彼ではない。そう直感した。眼光が鋭い面差しの青年ではあったが、あそこまでの殺気に満ちてはいなかった。彼の眼差しには、優しさと悲しさが同居しているはずだった。
 これは何か、まずい状況なのではないか。フィラは足が立たないのも忘れて、男の背中から降りた。
「お嬢ちゃん!」
 もちろんその場で倒れ込んだ。男がフィラを起こそうとする。フィラはかまわず、這ってディオの許へ行こうとした。
 ――だって、その人たちはもう、戦えないよ。立てないよ。きっともう死んでるよ。なのにどうしてその拳を止めないの。
 今まで彼に恐怖を抱いたことはなかった。だが殺意に満ちたその目を向けられ。フィラは戦慄すら覚えた。
「ディオとかいったね、やめな、あんたの連れまで殺す気か!?」
 メリアがすぐそばで叫ぶのが聞こえていないようだ。フィラの声も届くかどうか分からない。だがこのままでは、ディオの生命も危ないだろう。それは動くたびに激しく噴き出る夥しい血が物語っている。
「や、やめて、ディオ、もうやめて!!」
 ディオの動きがぴたりとやみ、殺気が瞬時に消える。小さな虹彩には、不安げなフィラの姿が映っていた。ディオは一瞬、微かではあるが笑みを浮かべ、そして轟音を伴い倒れた。
「ディオ!」
「大丈夫、生きてる! だがすぐにでも手当が必要だ。血を流しすぎた」
 細い声の男が素早くディオを手当てする。
「くっそ、こんな大男、どうやって町まで運ぶんだよ?」
「ほんっと、骨が折れるね。やっかいなこと引き受けたもんだ。そこの男は頼んだよ。もちろん、報酬ははずむからね」
「ちっ、今回は仕方がないが、次はカネなんかにゃ惑わされねぇぞ」
「それが賢い選択だね」
 メリアたちの声が遠く、彼方に聞こえる。安心感からか、フィラの記憶はそこで途絶えた。



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