古のフェリクシア

#06.道中の友


 白銀の少女のことを忘れがたく思っていた。
 通りすがりの逃亡者だ。ただの世間知らずが、屈強な戦士を連れている。だからメリアの心配など無用だということは分かっている。だがふとした瞬間、メリアはあの白銀の髪とアジーナの瞳を思い出す。
 メリアがフェリクシアのことを口にしてからは、少女ながらにぴりっとした空気を醸し出した。彼女はフェリクシアのことで追われているのかもしれない。アスカルの戦士としてたたき込まれた聖なるフェリクシアのことでそのようなことが起きているのは、メリアにとって衝撃的で、他人事ではなかった。
 衝撃――そう、衝撃と思えるほど、ただの昔話で迷信だと思っていたフェリクシアの偉大さを骨身に刷り込まれていたのだと実感した。
 彼女たちはメリアの故郷アスカルへ向かうと言っていた。確かに、アスカルにいる〈太陽の護り手〉であれば、フェリクシアのことを知っているだろう。フィラも自分のことをもっとよく知ることができる。そのために、メリアも力になれるはずだ。
 だが、そんなメリアを足踏みさせるものがある。それはこの小さな町フォリアだ。
 フォリアは湿気や雨が少なく、本の保管には最適な場所にある。しかも港町アデーネが近い。そのように好環境ということもあり、フォリアには研究や勉強をする環境が整っている。そう、メリアは遥かな聖ネストリア大陸のアスカルから、勉学に励むべくフォリアに下宿しているのだ。
 紋章技術が普及しつつあり、情勢は刻一刻と変わっていく。その中で、古の教えを護り伝えるネストリア大陸だけが世界から取り残されていく。外の世界と断絶しているからだ。いかにネストリア大陸が大いなる太陽を信仰していても、いかにアスカルを始めとする各村の戦士たちが強かろうと、凄まじい技術力と兵力の前に手も足もでないだろう。初めて大陸から出たとき、メリアは素直にそう思った。
 勿論、外の大陸の先進技術は便利で魅力的だ。しかし同時に、メリアには故郷も大切だった。だからアスカルが他の勢力に淘汰されないように、踏みにじられないように、外の世界のことを知らなければならない――そう思い、長老をどうにか説得し、今フォリアにいるのだ。
 そう、メリアは迷っていた。どちらも、メリアにとってもアスカルにとっても、とても重要なことだ。そんな大切なことを、このようなアスカルから遠く離れた地で、ひとりで勝手に決めることはできない。だがどちらかを選ばなければならない。それも、まだフィラの足に辛うじて追いつけるであろう、今のあいだに。メリアは思い切り息を吸い、二人の男に声をかけた。
「デル、バン、頼みがあるんだけど」
 改まってどうした、と言いたげな表情のバンと目を合わせ、微笑みを浮かべる。
「あたしにはどうしても決められないよ。だから、あんたたちが決めて。どっちかにあたしの背中を押してくれ。ここに残るか、あの子を追うか」
「なあメリア、どっちかじゃなきゃ駄目なのか? どっちか一つを選ばなけりゃならないのか?」
 メリアの表情を見て、ものすごく悩んでいるというのは察しが付いただろう。だがデルの言い方がメリアの迷いを楽観的に考えているようにも思えた。多少ムッとしたものの、考えなしでもなさそうなので、メリアはぐっと口をつぐんだ。
「落ち着いて考えてみろよ。勉学の門ってのは、ここに来ることさえできればいつだって誰も拒みはしない。でもあのお嬢さんを追えるのは今だけだ。勉強も大切だけど、ここであのお嬢さんを追うことをせずに、メリアは勉強に集中できるのか? もしできるのなら、最初から迷うことなんかないと思うぜ」
 面食らったメリアは、思わずデルの逞しい腕をバシッと一発叩いた。思った以上に力がこもっていたのか、デルがふらつく。
「ふっ、デル、あんたよく分かってるね。そう、その通りだよ。迷っている時点で答えはすでに出てたんじゃないか。ありがとう。あたし、あの子を追いかけるよ」
 なんだ、簡単なことではないか。時間こそ膨大にかかるけれども、こんなにも簡単に望むものが得られるのであれば、ためらう必要はない。
「そういうことなら、あんたの部屋は空けておく。できるだけ早く戻ってくれ。待ちきれなくて、他の学生を迎え入れることだってできるんだからな。だから、たまには頼りをよこせよ」
 バンの言葉に、メリアは思わず両腕を広げて二人を抱きしめた。
「わかってる。ありがとう、デル、バン。愛してるよ」
 言うが早いか、メリアは早速行動に移すべく、最低限の荷物を適当にまとめ、二人の見送りを背中に受け、勢いよく下宿を飛び出した。



 フォリアを離れ、フィラと二人、黙々と歩いていた。ちらりとフィラの様子をうかがうと、帽子のおかげか、要領を得たのか、はたまた体力が付いてきたのか、息こそ上がっているものの、フォリアに滞在する前よりも険しい表情はしていなかった。その様子に複雑な感情を抱きながら、港町アデーネを目指しながら黙々と歩く。
 フィラを安全なところまで連れて行くと約束したが、本当にそんな場所があるのだろうか。フォリアは安全で居心地がよくて、いいところだったように思う。だからディオもゆっくりと傷を癒すことができた。けれど、そのような安息の日々がいつまでも都合よく続くとは思えなかった。
 キリウという青ずくめの冷徹な男は、確かにセレストでもフォリアでも襲いかかっては来なかった。しかし、だからといって人の多いところに留まったところで、彼ならば手段を変えていつかはフィラを手に入れようと画策しただろう。青い冷徹な目を思い出せば、あとは想像に難くない。
 後ろを黙々と付いてくるフィラをもう一度振り返る。フィラはそれに気が付いて、にっこりと笑った。メリアの見立てだと嬉しそうに話していた紺色の帽子は、確かによく似合っている。少しくらいはリラックスさせようと思い、口元を微妙に緩めてみせると、フィラは困ったような表情でうつむいた。やはりディオの顔は怖いらしい。それに少しだけしょぼくれたが、実際には肩を落とすというようなことはせず、前に向き直った。
 フィラは墓前で叫んで以来、ほとんど取り乱すこともないし、文句も言わない。ディオが信じるよう言わなくても、彼女はディオを信じている。それは生命を助けたためで、彼女の母親の存在が二人をつないでいるためだ。それが彼女を追いつめてしまわないか、それが一番の心配であるような気もした。
 考えても仕方がないかもしれないが、対策は練らなければならない。相手のことがよく分かっていない以上、対応は後手後手に回るが、それでキリウの特性が見えてくるのであれば無駄とは言えないだろう。そう思って進行方向に向きなおった時だった。ディオは不安な気配を肌に感じた。木々の葉がさわさわと風に音を立てる。そんな爽やかなものではなく、殺気を孕んでいる。唐突に立ち止まったディオをフィラが不安げに見上げる。ディオの様子からただならぬ気配を感じたのだろうか。次の瞬間――。
「わっ」
 フィラが甲高い声を上げた。手を伸ばす。だがすでに遅かった。フィラを抱え上げた男の黒い影が、すでに小さくなっている。すぐに地を蹴るも、行く手を阻まれる。目の前にはすばしっこそうな男が三人。隙のない構えや気配、眼光から察するに、ただのごろつきではない。
 ――まさか、あの野郎の手下か?
 ディオは腰を低くして、鉄板のような大剣をゆっくりと抜いた。
「死にたい奴からかかってきな」
 相手は五人。パッと見の強さからして一気に相手にするには骨が折れるが、勝てなくはない。ディオはそう判断した。
 ディオの言葉に反して、五人が一斉に素早く動き始める。ナイフが後ろから飛んできたのを避け、右から切りつけてくるのを、大剣を盾代わりに防ぐ。目を狙って飛んできたナイフを指で挟み取り、飛んできた方向に投げ返した。そのナイフが相手に刺さったらしく、うめき声が微かに聞こえた。
 ――とりあえず、一人か。
 ディオの背後で一人が刃物を振りかぶっている。それを察知し、肩ごしに男の顔を殴る。さっと剣を地に突き立て、そのまま地面に組み敷き、腹部に強烈な一撃をお見舞いした。背後に迫ってきた別の男の足を払い、態勢を崩したところを地面に叩きつける。頭を打ちつけた男はそのまま意識を失ったらしい。
 息つく間もなく、残った二人が同時に左右から襲い掛かってくる。
 ――へっ、上等じゃねぇか。
 地に突き立てた大剣を抜き、大きく振り回す。大剣は二人に重い打撃を与え、昏倒させた。
「フィラ!」
 剣を鞘にしまい、走り出そうとしたその時、微かな殺気を感知した。その方向に手を向ける。掌にナイフが刺さった。それを引っこ抜き投げ捨てる。
「いい度胸してやがるな。余程死にたいと見たぜ」
 男に向って歩く。下ろした掌から指を伝って血がしたたり落ちる。ナイフが刺さったところは熱かった。
 気の側で座り込んでいる男を冷酷な目で見下ろす。先ほどディオが投げ返したナイフは足に深く突き刺さっている。なるほど、これではお得意の素早さでディオを翻弄することなど、もはやかなわない。ディオは男の腹部に剣先を向け、下ろそうとした。
 その瞬間、フィラの悲しげな顔が浮かび、手を止めた。ここでは誰も殺していない。罪悪感に駆られるようなことは何もしていない。仮にここで目の前の男を殺してしまったとしても、ディオに落ち度は全くない。にもかかわらず、記憶の中のフィラが声もなくディオに語りかける。本当に殺すのかと。ディオは小さく舌打ちし、剣を投げ捨て男の首を圧迫して気絶させた。

 離して。文句の一つも言ってやりたいが、口を開けば舌を噛みそうだったので、フィラはしっかりと口を真一文字につぐんでいた。どんどんディオから離れていく。流れる景色から、凄まじい速度で男が走っているのは分かった。どこまで連れて行かれるのだろう。もしかして、あのキリウとかいう青い青年のところだろうか。もしかすると、このまま彼の許に行った方が全てが丸く収まるのではないだろうか。そのようなことさえ考え付いたが、親友と母親の仇だ、顔も見たくない。
「いい子だ。このまま大人しくしていろよ」
 男がそんなことを言った瞬間だった。
「ふっ!」
 突然、女の声が聞こえたと思ったら、男に担がれていたはずのフィラは地面に落ちた。誰かが助けてくれたのだろうか。声に聴き覚えがある。次の瞬間には、見覚えのある顔に見覚えのある入れ墨の、黒い肌の女が跳躍しているではないか。女は黒く長い髪を風になびかせ、器用に肢体をしならせ男の両肩を両手で掴んだ。男が気づいた時にはすでに遅かったのか、女は男の上で上体を回転させながら着地し、そのまま体勢を低くして男の足を己の脚で払い、転倒させる。あまりに美しく無駄のない動きで、すべてがスローモーションに見えたが、一瞬の出来事だった。
「行きな!」
 怒鳴られ、フィラはほぼ反射的に地を蹴り、ディオの許へと走った。後ろで打撃の音がする。メリアだ。メリアが来てくれた。なぜ。嬉しさと戸惑いと、安堵と疑問が一瞬のうちによぎったが、それは後だ。今はとにかく逃げなければ。男の足は速かった。思った以上にディオが遠い。それともディオが離れて行ったのだろうか。確かめようがない。いつまで走るのだろう。まさかディオが見つかるまで永久に? そんな考えさえ脳裏をよぎる。
 が、杞憂に終わった。フィラの視界が大男を捉える。
「ディオ!」
「フィラ、よく逃げてきた!」
 ディオは肩で呼吸していた。相手が余程強かったのだろう。彼の足下に、フィラを攫おうとした男と同じ格好をした男が四、五人倒れている。身体が痙攣しているところからすると、死んではいないようだ。
「どうやって助かった?」
 怪我もないようだが、とディオがフィラの泥を払う。そこに、遅れてメリアがやってきた。
「あたしだよ」
「メリア、お前付いてきたのか」
「ああ、放っておけなくてね」
 フィラはそんなメリアに飛びついた。
「メリアさん!」
 メリアはそれをしっかりと受け止め、フィラを抱きしめた。
「またお会いできてよかったです」
「ああ、あたしもお嬢さんの無事な姿が見られて良かったよ」
 メリアの微笑みは、歳こそそう変わらないはずなのに、死んだ母親を彷彿とさせた。

 道中、フィラはメリアから事のいきさつを簡単に聞いた。
「まあ、長老はあたしのひいじいさんだから、あたしが頼めばいろいろなことを教えてくれると思うよ。あたしもまだちょっとは知ってることあるけど、じいさんの知識はあたしなんかの比じゃないからね」
「そのメリアさんがわざわざ付いてきて、俺らにいったい何を教えてくれるんだ?」
「そうさね、フェリクシアの昔話さ」
 その話は、魔王ヴァルフェリオが世界を闇に閉ざしたところから始まる。通史にも記されている、暗黒時代だ。地上から光がなくなるとどうなるかはフィラにも分かるつもりだ。そのヴァルフェリオから光を取り戻すため、太陽の戦士が現れた。太陽の戦士は魔王ヴァルフェリオを倒し、世界に光が蘇った。太陽の戦士を讃え、フェリクシア王国が建国された。
「なるほど、そいつはハッピーエンドのおとぎ話ってやつだな」
「でもそのフェリクシアは滅びた。それはどうしてですか?」
「そうね。建国神話が事実かどうかは分からない。そして同じように、事実かどうか分からない滅びの伝承もある。フェリクシアは全てを包み込み、地の底へ沈んだ、とね。確かに、ネストリアにはそんな、世界を手中に収めるほどの力を持つ強大な国があった形跡はない。けど、フェリクシアとかいう国が存在していたって記された、ものすごく小さな遺跡だけが、島の真ん中に残ってる」
 ますますもって、実感を持つには難しい話だ。たったそれだけのものが、あの青い青年には大きな意味を持っているというのか。その上、今メリアがサラっと言っていたが、キリウの「強い国」の強さが、世界を手中に収めるほどというのは、フィラの想像の範囲を軽く超えている。
「その遺跡だけなのか、フェリクシアが存在してたって証拠は?」
「いや、フォリアで読んだ文献に、いくつかその記述を見つけた。ネストリアは他の国や島と交流が全くない訳じゃないけど盛んでもないから、大量に記録が見つかるものでもないけど、それだけ見たら、フェリクシアが他の大陸に進出していたってのだけは分かった」
 ネストリアには五つの集落があり、アスカルはその一つである。ネストリアの歴史や伝承は全て口伝で、数年に一度、各集落の代表者が集い〈口伝合わせ〉で伝え、確認しあうのだ。メリアを含めた住民たちは、常識のレベルでフェリクシアという国があったということも、フェリクシアの王座にどのような容姿の人間が座っていたかも知っている。しかし代表者である〈太陽の護り手〉たちが〈口伝合わせ〉で正確に代々伝えてきたことに関しては、メリアたちは全くと言っていいほど知らない。〈口伝合わせ〉の内容は門外不出の掟があるために、文字として残すことを禁じられている。アスカルでその内容を知っているのは、メリアの曾祖父しかいないのだそうだ。
「でも、尋ねてきたのがフェリクシアの王位継承者となれば話は別だ。しかも、のっぴきならない事情で知りたがってるっていうのなら尚更ね。だから、じいさんだったら教えてくれるはずだよ」
 一通り聞いて、フィラは細く溜息を吐いた。もしかすると、自分はとんでもない事態に巻き込まれているのかもしれない。友人を殺され、母親を殺され、故郷で襲われ、そして道中でも襲われた。全てフィラを、地底に沈んだというフェリクシアに連れて行くためだ。
「ほら、女の子にそんな顔は似合わないよ。これでも食べて、元気だしな」
「へ?」
 メリアが木に成っている手のひら大の青い実をいくつか千切った。
「あたし、これ好きなんだ。ペンズだよ。こうやって皮を剥いて……って、剥けないね、これ」
 ほら、とナイフで皮をそぎ落としたペンズを受け取り、フィラは興味津々にかぶりついた。もともと果物はフィラの大好物なのだ。が――。
「きゃっ、すっぱ!」
「あっはっは、ごめんごめん、食べ頃にはまだちょっと早かったね。ちょっとの差なんだけどね、熟れるとものすごく甘くておいしいよ。ほっぺがおちそうになる。あと、皮も剥きやすい。まあ、これくらいのもあたしは好きだよ」
 難なく口の中に小さな実を放り込み、少し目をきつくつむる程度で済んでいるメリアを見て、やっぱり大人って違うんだなぁと、フィラは単純に感心した。
 それを聞いているだけだったディオの口の中にも、メリアが同じものを放り込む。ディオはすぐに呑み込んだものの、「うっ」と不快感を露わにした。
「いきなり何するんだ、こいつ!」
「なんだい、口に合わなかったかい?」
「食えるか、こんな酸っぱいモン!」
 ただでさえ人相の悪い顔が、激しく眉間に寄せられる皺と目深に巻いてあるバンダナのおかげで、より一層おっかないことになっている。その一方で目尻に滲んでいる涙が、なんだか可愛らしく見えた。フィラは口の中に残るペンズの酸味のために溢れんばかりににじみ出て止まらない唾と戦っていたということもあり、メリアが大人などという単純なことではなく、メリアは何でも食べられる鋼鉄の舌と胃袋の持ち主なのだろうと一人納得した。



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